・キリシタン宣教師の野望
キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。
■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■
イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
は日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカ
オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のよう
な手紙を出した。
私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、
神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言す
ることができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能に
して、理性によく従うからである。
尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不
向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中
で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何
もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練
を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思ってい
ることのために、日本は時とともに、非常に益することに
なるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
[1,p83]
「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、ス
ペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、
強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ
征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要があ
る、というのである。
■2.シナ征服の6つの利益■
スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太
平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始
めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。
宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。
1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会
日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584年6月2
7日付けで、スペイン国王あてに、シナ征服には次の6つの利
益があると説いている。
第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主へ
の大きな奉仕であり、第2にそれによって全世界的に陛下の名
誉が高揚される。第3に、シナとの自由な貿易により王国に多
額の利益がもたらされ、第4にその関税により王室への莫大な
収入をあげることができる。第5に、シナの厖大な財宝を手に
入れる事ができ、第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り
短期間で世界の帝王となることができよう、と。
このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、
車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。
■3.日本人キリスト教徒の「ご奉公」■
さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので征
服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人がマカオ
に渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、その囲
みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、その際に
多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も殺されなかった事
件をあげている。
私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃
至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分
であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパード
レ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を
送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍して
いるので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1
エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこ
の征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。
[1,p95]
日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本
人を傭兵の如くに見ていたのである。
■4.人類の救済者■
宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。地
球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう説い
た。これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増
えた。この当時、キリスト教とその信者をキリシタンとい
った。[2,p117]
中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの肖
像画があり、そこに記されたIHSという文字について、「イ
エズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と説明され
る。キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教
え、社会事業を進める「救済者」として描かれている。
数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように描か
れている。
家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していた
が、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるよう
に命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]
さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなど
して、キリシタンを完全になくさせようとした」事を述べ、厳
しいキリシタン取り締まりに島原・天草で約4万人の農民が一
揆を起こして、「全滅」した事を述べている。
この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対するなんと
野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ家康は黙認か
ら禁教へと方針を変えたのか、については一言も説明がない。
秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、
急に宣教師追放令を出している。いずれもキリシタン勢力から
国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策なのである。
■5.日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■
キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパ
ル・コエリョは、最も行動的であった。当時の日本は準管区で
あったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任
者にあたる。
天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であ
った豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、
有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方
させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シ
ナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供し
よう、と申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術は
なかったのである。
秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけ
ながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキ
シコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持ってい
るのではないかと疑い始めた。
■6.コエリョの画策とバテレン追放令■
翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に
下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督
のような格好をして出迎えた。日本にはまったくない軍艦なの
で、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。
その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数
の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。秀吉は軍
事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると
確信し、その日のうちに宣教師追放令を出した。
コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン大
名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は
金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。しかし、
この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。
コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵が
あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリ
ピンに要請したが、その能力がないと断られた。コエリョの集
めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知ら
れずに済んだ。[1,p109-114]
■7.秀吉のキリシタンとの対決■
秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、ス
ペインやポルトガルのシナ征服への対抗策であったという説が
出されている。スペインがメキシコやフィリピンのように明を
征服したら、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇
の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。
そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を
出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。しか
し、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、独
力での大陸征服に乗り出した。その際、シナ海を一気に渡る大
船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。
文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに
手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指
下にある」と脅している。[3,p372]
慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を
行っていたフランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名をわざ
わざ長崎に連れて行って処刑した。これはキリシタン勢力に対
するデモンストレーションであった。一方、イエズス会とマニ
ラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手
段をとった。丁々発止の外交戦である。
■8.天草をスペイン艦隊の基地に■
全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キ
リシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼
るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年か
ら1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クル
スは、1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会
総会長に出している。要点のみを記すと、
日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでも
しも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国
を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてそ
の内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包
囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海
上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の
生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろ
う。・・・
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と
協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るよ
うにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適し
ている。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り
囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好
な位置にある。・・・
(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する
ことの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共
にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多く
の日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイ
ン人の間で育てることになるだろう。・・・
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべ
きシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日
本から調達することが出来る。[1,p147-150]
キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そ
こを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進
めてきた常套手段であった。
また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス
会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルス
の計画は実現する。秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシ
タンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。
■9.国家の独立を守る戦い■
家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリ
シタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの支援を受けて
徳川と戦うという事態であった。当時の大阪城内には、宣教師
までいた。大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放して
いる。
1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに1637
~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌
39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは鎖国と言うより、
朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確には
キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。
キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立て
ることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一
絶対のキリスト教を広めることは、ともに「人類の救済者」
としての疑いのない「善行」であった。その独善性を見破った
秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだっ
た。これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピン
のように、スペインの植民地とならずに済んだのである。
・国際共産主義はグローバル資本が生み育てた
■1.「ロシア革命はユダヤ革命」
世界でおよそ1億人を殺害したと言われる共産主義の幕開けは、今からちょうど100年前、1917年に始まったロシア革命だった。その末裔であるシナや北朝鮮が今もわが国の安全を脅かし、国内でも日本共産党が存在感を示していることを考えると、過ぎ去った過去の1ページと片付けるわけにはいかない。
実は、ヨーロッパでは「ロシア革命はユダヤ革命」と言われている。ロシアで迫害されていたユダヤ人が自らを解放するための革命だった、というのである。
一見、眉唾物の陰謀史観に見えるが、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の著作から共産主義とユダヤ財閥との関連を見ていくと、本誌でも取り上げた、その後の第二次大戦、シナの国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、国際共産主義が絡んだ戦争にまつわる数々の謎が解けていく。
馬渕氏の論説は現代のグローバリズムにまで及んでいるが、本稿ではまずソ連の関わったこれらの戦争の舞台裏を、馬渕氏の著作から見てみたい。
■2.日露戦争で日本を助けたユダヤ資本
事の発端は、ロシアで行われていたユダヤ人弾圧である。18世紀末、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアなどに分割され、ロシアは同国にいた多くのユダヤ人を帝国内に抱えることになった。
ところが、ユダヤ人はロシアに同化せずに独自の生活様式に固執しました。
また、商才を発揮して無知なロシア農民を搾取したことから、ロシア農民の間にユダヤ商人に対する反感が強まり、それが高じて集団でユダヤ人を襲うようになっていったのです。
ロシア帝国はユダヤ人排斥主義をとっており、ポグロムと呼ばれるユダヤ人殺戮を繰り返していました。
ロシア革命前の1904-5年に勃発した日露戦争では、アメリカの国際銀行クーン・ロープ商会のヤコブ・シフが大量に日本の国債を買って支援した。シフはユダヤ人で、同胞の資本を集めて、日本に戦費を供給してくれたのである。
その資金を使って、日本陸軍の明石元二郎大佐はレーニンなどの共産主義勢力に膨大な援助をして革命運動を煽り、ロシアを背後から動揺させた。この工作が日露戦争の勝因の一つとなった。
■3.ユダヤ財閥が支援したマルクスの共産主義研究
ロシア革命を主導したレーニンはユダヤ人の血が四分の一入っている。大学生の時代からカール・マルクスの『資本論』などの著作を読みふけり、共産主義に傾倒するようになった。
そのマルクスもユダヤ人で、研究を支援していたのが、これまたユダヤ財閥ロスチャイルドだった。資本家が共産主義の研究を支援するというのは、一見、矛盾しているが、ロスチャイルドが国際資本家であることを考えれば、共通点が見えてくる。
ロスチャイルドの基礎を築いたマイアー・アムシェル・ロートシルト(この英語読みがロスチャイルド)は18世紀後半、フランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身で、銀行家として成功し、5人の息子をフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリの5箇所に分散させて、銀行業を国際的に拡大させた。
彼らには祖国はなく、ある国家の弾圧を受けても生き延びられるよう各国に事業を分散させたのである。カール・マルクスもプロイセン(現ドイツ)に生まれたが、共産主義活動で各国政府から追放されたり、弾圧から逃れたりしながら、パリ、ブリュッセル、ケルンと放浪した。その後、ロンドンに移り住んで『資本論』を書き上げたのである。
ユダヤ人が世界に離散して住むことを「ディアスポラ」と呼ぶ。国民国家とはある民族の共同体として作られているが、自らの民族国家を持たないユダヤ人はどこに行っても少数民族で、いつ弾圧されるか分からない。そういう状況で生き延びるためには、国際金融で成功して国家を超えた力を持つか、国際共産主義で国家を滅ぼすしかない。
国家を否定し、国家を超えた力を持とうとするところに、ロスチャイルドとマルクスの共通項があった。しかも革命によって実現した共産主義社会は、エリートによる独裁と大衆支配、宗教や道徳を否定する唯物的思考という点で、グローバル資本主義社会と瓜二つだった。
■4.ユダヤ人によるユダヤ人のためのロシア革命
革命が勃発すると、イギリスのロスチャイルドとアメリカのヤコブ・シフはスイスに亡命していたレーニンを支援して、ロシアに戻した。同じくユダヤ人でアメリカにいたトロッキーは、米政府から支給されたパスポートをもってロシアに戻り、革命指導者となった。一緒にニューヨークの金融街ウォール・ストリートなどで働いていたロシア系ユダヤ人を引き連れて行った。
二人以外にも、カーメネフ、ジノヴィェフ、ラデック、スヴェルドルフ、リトヴィノフなど、当時の革命指導者の8割以上がユダヤ人だった。
革命と共に、ニコライ2世とその家族は銃殺され、数百万人から一千万人と言われるロシア民衆の粛清が行われた。ロシア革命はロシア皇帝の圧政に立ち上がったロシア民衆によるものというのが定説だが、それならなぜこんな大規模な粛清が必要だったのか、説明がつかない。ユダヤ革命に反発するロシア民衆を弾圧した、と考えると納得がいく。
トロッキーが政権をとって最初に行ったことは、人民から金(ゴールド)を供出させることだった。共産主義国家では金の私有は禁止される、というのが表向きの理由だったが、ロマノフ王朝から取り上げた財宝と共に、革命に資金援助をしたユダヤ財閥への返済に使われたのだった。
ロシア系ユダヤ人で、アメリカのオクシデンタル石油会長のアマンド・ハマーもロシア革命を支援し、革命成功後にはすぐにレーニンを訪ねてアメリカの穀物やトラクターなどを売りつけ、ビジネスを始めている[2, p35]。革命や戦争はユダヤ資本にとっては、絶好の収益機会なのである。
■5.ルーズベルトの親ソ政策
革命後のソ連とアメリカの奇妙な友好関係は、国際ユダヤ資本という共通項に着目すると謎が解けてくる。アメリカのフランクリン・デラノ・ルーズベルト民主党政権は1933年にソ連を承認した。それまでの4代の大統領は、共産主義がアメリカに浸透することを恐れて承認を拒否していたのだが、それを覆したのである。
ルーズベルトの家系もユダヤ系と言われている。母親の実家デラノ家は19世紀にシナにアヘンを売り込んで世界的な大富豪にのし上がった。また、夫人のエレノアは社会主義者だった。
ルーズベルトは大恐慌に際して、ニューディール政策で経済のてこ入れを図った。この政策自体が政府の大規模公共投資という社会主義的な性格を持っていた。この時も、政府に資金を貸し付けて大儲けしたのは国際資本だった。
ルーズベルト政権に多くの共産主義者が入り込み、その政策を親ソ反日にねじ曲げていった様子が、近年公開されたアメリカの機密資料・ベノナ文書などで明らかにされている。当時、日本はソ連と敵対していた反共国家だった。日露戦争の時に反露親日だった米国は、ロシア革命を機に親ソ反日に転換したのである。
独ソ戦が始まると、ルーズベルト政権はソ連に対して凄まじい軍事支援を行った。航空機1万4千7百機(零戦の全生産量に匹敵)、戦車7千両、装甲車6千3百両、トラック37万5千台、ジープ5万2千台という規模であった。これも単なる親ソ政策というだけでなく、これだけの生産をして儲けたのが誰かを考えれば、十分納得がいく。
ルーズベルト政権は、欧州での対ドイツ戦に絶対に参戦しないという公約で再選されたのだが、その公約を破らずに参戦するために、日本を追いつめ、真珠湾攻撃を仕掛けさせて、米国民を戦争に引きずり込んだのである。
当時の米共和党下院リーダー・ハミルトン・フィッシュ議員は、「ルーズベルトは、われわれをだまし、いわば裏口からわれわれをドイツとの戦争にまきこんだ」と著書で公言している。
■6.シナ大陸をソ連陣営にプレゼントしたトルーマン民主党政権
アメリカの共産主義陣営への奇妙な肩入れは、その後も続く。大東亜戦争の末期に、もうソ連の肩入れなど必要ないのに満洲・樺太・千島列島侵攻を許した。ヤルタ会談ではソ連に満洲での利権を与えるという約束が秘密裏になされ、蒋介石はショックで打ちのめされた。
またシナ大陸で国民党と共産党との国共内戦が始まると、ルーズベルトの後をついだトルーマン民主党政権が送った特使マーシャルは、国民党軍が優勢になる都度、停戦をもちかけて、その勝利を妨害した。蒋介石への軍事支援は止められ、アメリカからソ連への軍事援助が一部シナ共産党軍に流れても見て見ぬふりをしていた。
米議会が国民党軍への軍事支援を求めると、国民党軍が「共産主義に敗れる恐れはない」と制止し、2年後に共産党軍が優勢となった頃には、支援は手遅れだと否定した。
それでも議会が2億75百万ドルの経済支援と1億25百万ドルの軍事支援を行う案を議決すると、8ヶ月も実施を遅らせ、最初の船積みが行われた時にはシナ共産党が大勢を決して、中華人民共和国の建国を宣言していた。[e, 3, p36]
アメリカが本来の国力を使って蒋介石を支援していれば、シナ大陸は蒋介石の国民党が統治し、ソ連に対する防壁となったはずである。ルーズベルトの後をついだトルーマン政権はわざわざシナ大陸をそっくりソ連の陣営にプレゼントしたのである。なぜ、そんな事をしたのかは、その後の歴史を辿ると見えてくる。
■7.仕掛けられた朝鮮戦争
1950年1月12日、マーシャルの後任、アチソン国務長官は「アメリカのアジア地域の防衛線には南朝鮮を含めない」と演説した。いわゆるアチソン・ラインである。これは共産主義勢力に南朝鮮が侵略されてもアメリカは関与しない、というゴー・サインであるととられても仕方のない発言であった。
北朝鮮はこの発言を受けて、半年後の6月25日に三十八度線を越えて韓国侵攻を開始した。朝鮮戦争の始まりである。
国連軍の編成には安全保障理事会の承認が必要だった。ソ連の外相グロムイコは当然、拒否権を発動すべきとスターリンに進言したのだが、スターリンは「私の考えでは、ソ連代表は安保理事会に出席すべきではないな」と述べた。ソ連の意図的な欠席により、国連軍が出動できたのである。
北朝鮮軍は半島南端の釜山まで韓国軍を追いつめていたが、ここでマッカーサー指揮する国連軍が巻き返しを図り、北朝鮮軍を押し返して、シナ国境まで追いつめた。
マッカーサーは中共軍が満洲から北朝鮮に入ってくるのを防ぐために、鴨緑江(おうりょくこう)にかかる橋を爆撃する作戦を立てたが、国防長官になっていたマーシャルに拒否された。積極的攻勢をとろうとするマッカーサーは解任され、後を継いだクラーク将軍も「私には勝利するために必要な権限も武器・兵員も与えられなかった」と自著のなかで書いている。[2, p184]
朝鮮戦争は3年も続いたが、こうした民主党政権の介入で米軍は手足を縛られ、結局、開戦前とほとんど変わらないラインで休戦協定が調印された。戦場となった朝鮮半島と、戦い合った米軍とシナ軍は多大な損害を受けたが、得をしたのはシナの台頭を防いだソ連と、膨大な軍備・軍需物資を売ったグローバル資本だった。
■8.作られたベトナム戦争
1961年5月に、ケネディ民主党政権が「軍事顧問団」という名の特殊作戦部隊600名を送り込んで始まったベトナム戦争も、その裏での奇妙な米ソ結託があったという点で、朝鮮戦争とよく似ている。
1966年10月、ベトナム戦争が最も激しさを増した時、ジョンソン民主党政権はソ連などに総額3百億ドルを融資し、ソ連などはこの資金を使って、アメリカから「非戦略物資」の輸入にあてた。その「非戦略物資」には、石油、航空機部品、レーダー、コンピューター、トラック車両などが含まれていた。ソ連はこれらを北ベトナムへの支援に使った。
このタイミングでのソ連支援は、結局、ベトナム戦争を長引かせる効果しかなかった。ジョンソン政権が本当にベトナム戦争の勝利を欲したなら、こんな支援をするはずがない。結局、ジョンソン政権の狙いは、戦争を長引かせ、軍備・軍需物資を大量に消費させて、グローバル資本が儲け続ける点にあったと考えざるを得ない。
こうしてベトナム戦争は1973年に、ニクソン共和党政権がベトナムから米軍を撤退させるまで10余年に渡って続いた。米国内では反戦運動が激化し、それまでアメリカ社会の主流を握っていたWASP(白人で、かつアングロサクソン、プロテスタント)の権威が一気に凋落した。
カーター政権で国家安全保証を担当していたブレジンスキー大統領補佐官は「WASPの没落のあとに、アメリカ社会で支配的エリートになったのはユダヤ社会である」と述べている。[2, p132]
アメリカ社会を支配したグローバル資本は、東西冷戦の敵役として使ってきたソ連の役割は終えたとして、ソ連を打倒して、その天然資源を手中にした。ソ連の国営・公営企業を民営化して、7つの新興財閥が産まれたが、そのうち6つがユダヤ系だった。一方、天然資源はないが、安価なで豊富な労働力があるシナは共産主義体制を温存させたまま「世界の工場」と化した。
こうして東西冷戦は幕を閉じ、戦後は第二幕を迎えた。その後の混沌とした世界情勢もグローバル資本の動きから見ると、よく理解できる。
・アメリカの貴族階級
※読者は、アメリカには「王族」は存在しないと脳天気に信じてはいないだろうか。悲しいかな、多くのアメリカ人は、アメリカにも独自の「王族」とそれを取り巻く「貴族階級」が確かに存在していることに、まったく気づいていない。
だがどれほど疑い深い人でも、こうしたメンバーの家系図をざっと見ただけで、納得せざるを得なくなる。試しにジョージ・ワシントンの家系が、イギリスのエリザベス女王とどうつながっているかを見てみるがいい。ディラーノ一族やルーズベルト一族の血統もそうだ(ちなみに、ディラーノ一族の方がルーズベルト一族よりもはるかに重要なのだが、それはこれから見ることにする)。
ディラーノ一族には、非常に関心をそそられる。アメリカの他の多くの「貴族」と同様、イギリス東インド会社(BEIC)による中国とのアヘン貿易によって富を築いたこともその理由だが、それ以上に、自分たちの姿を隠し、人目につかない存在でいるのが非常に巧(うま)いからである。
ロンドン大英博物館にあるイギリス系図記録によれば、イギリスの国王および女王は、ウィリアム征服王に始まり、ヘンリー1世、2世、3世と続き、さらにエドワード1世、2世、ヨーク公リチャード、ケンブリッジ伯リチャード、エドワード4世以下へとつながっている。ディラーノ一族は、アメリカにいるイギリス王室の縁者のなかでも、もっとも初期からの家系である。
その姓は「ディラーノ」に落ち着くまでに二度、変わっている。まず1319年のヒューズ・デ・ラノイから始まり、フィリップ・デ・ラノイ(1621年)までこれが続き、そのあと、デ・ランドに変わった(ジョナサン・デ・ランドおよびトマス・デ・ランド)。
つぎに出てきたのが、本章に直接結びつく姓で、マサチューセッツ州ダートマスにおいて、ディラーノと登録されている。これがウォーレン・ディラーノ大尉で、のちに出てくるサラ・ディラーノが、ジェームズ・ルーズベルトと結婚した。このようにディラーノの血筋をたどると、ヘンリー2世に直接つながっていることが、簡単にわかる。
ジョージ・ワシントンはというと、ケント伯エドマンドから系図が始まり、サルグレイブ領のローレンス・ワシントン、1650年にアメリカに向けて船出をしたジョン・ワシントン大佐、ローレンス・ワシントン大佐、オーガスティン・ワシントン大尉、そして初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンへと続いている。
ワシントン家の血筋は、現在のイギリス女王にもつながっている。こちらは、エドワード2世、4世、スコットランド女王メアリ、ジョージ1世、2世、3世、それからヴィクトリア女王、エドワード7世、ジョージ5世、6世、そしてイギリスの現君主エリザベス女王へと続いている。
ルーズベルト家の家系図はあまりに広範囲にわたっているので、ここにすべてを記すわけにはいかないが、ディラーノ一族やアメリカの多くの「王族」との関係を示すために、簡単な説明は必要だろう。調査の過程で、国防長官リチャード・チェイニーが、ウィリアム・H・タフトとエリザベス・チェイニーを通じてルーズベルト家と縁続きだとわかったことも、非常に興味深い。
アメリカでのチェイニー家は、ジョセフ・チェイニーとマーガレット・チェイニーから始まった。わたしは、チェイニーが国防長官に就任したときから、どこかで「王族」とつながりがあるに違いないと考えていたが、膨大な調査の結果、やはりそうだったことがわかった。ブッシュと「王族」との関係は、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの母親を通じてのもので、彼女がディラーノ家の一員だったことによる。
アメリカ合衆国の「王族」は、全部とまでは言わないが、その大半が、アメリカの東および北東の海沿いに住み着いた。これはジョージ・ワシントンにも当てはまる。ワシントンは終生、その傲慢な物腰を崩さなかったが、それは「王家の」血筋の成せる業(わざ)だと言われている。ワシントンにとって、縁者にあたる国王ジョージ3世と戦うのは苦しいことだったに違いない。
ワシントン、ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンがフリーメーソンであったかどうかについては、いまだに議論の的である。たしかに真実かもしれないが、ワシントンの場合は、どうもつながりがはっきりしない。ただ、ここで考慮すべきは、当時の「メーソンリー」は必ずしも、わたしたちが知っているような、アメリカに対して叛逆行為を行なうフリーメーソンリーだったわけではないという点だ。もちろん、すでに「軍隊的メーソンリー」だったとも考えられるが、本章はメーソンリーがテーマではないので、この話はここまでにしておく。
ただ、アメリカの「王族」は、自分たち以外の階級とはめったに婚姻関係を結ばないということだけは言っておこう。これは、イギリスの祖先のやり方を真似たものだが、したがって、すべての人間は平等だとするこの国で、硬直した、厳格な階級制度が存在するということになる。わたしたちは、すべての人間が文字通り平等だという愚かな考えを、さまざまな「平等な」法律を使って浸透させようと努力してきた。この考えがもっとも実行されていないのが、アメリカの「王族」社会なのである。
『秘密結社全論考㊦』(ジョン・コールマン著 太田龍訳)より引用。
・ロシア革命も5ヵ年計画も国際金融資本家たちの提供資金によって実行されていた
※ロシア革命(ボルシェビキ革命)のみならず、ソビエト連邦の5ヵ年計画も、国際金融資本家たちの提供する資金によって実行されていたようです。
引用開始
AIC(アメリカン・インターナショナル・コーポレーション)は1915年、ボルシェビキへの財政援助を調整するために設立された。(資金提供:J・P・モルガン、ロックフェラー一族、ナショナル・シティ・バンク)
★会長 フランク・ヴァンダーリップ
(ナショナル・シティ・バンク前頭取/ロスチャイルドの代理人)
☆理事 ピエール・デュポン(デュポン社/GMにも投資)
オットー・カーン(クーン・ローブ商会)
ジョージ・ハーバード・ウォーカー
(ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領の祖父)
ウィリアム・ウッドワード(ニューヨーク連邦準備銀行理事)
ロバート・S・ロヴェット(ユニオン・パシフィック鉄道)
パーシー・ロックフェラー(一族、51の大企業で重役)
ジョン・D・ライアン(ナショナル・シティ・バンク)
J・A・スティルマン(ナショナル・シティ・バンク設立者の息子)
A・H・ウィッギン(?)
ビークマン・ウィンスロップ(1904~プエルトリコ民政官)
AICと密接な関係を持って共産主義者援助プログラムを進めていたギャランティ・トラスト(現モルガン・ギャランティ・トラスト)にも、G・ベイカー(ファースト・ナショナル・バンク)E・H・ハリマン(ユニオン・パシフィック鉄道)レヴィ・モートン(前合衆国副大統領)H・H・ロジャース(スタンダード石油)など錚々たる米資本家たちが揃っていた。
1916年ウィルソン米大統領は前国務長官エルフ・リート(クーン・ローブ商会の弁護士)をロシアに派遣、特別戦時資金から支出した2000万ドルを持たせた。
(米議会ロシア債権公聴会 HJ8714U5)
こうしてロシア革命が成功した後にも、英米のユダヤ資本は決して共産主義国・ソビエト連邦を見捨てなかった。
ウィルソン大統領の補佐役、ハウス大佐は秘書のケネス・デュラントをソ連に派遣、ソヴィエト政府の高官に就任させる。
後に「反共主義者」として有名になったハーバード・フーヴァーは1921年にウィリアム・N・ハスケル少将(世界戦争救済機関)の協力により、7800万ドルの費用(議会・公募等)をかけ、700万トンの食料など援助物資を共産主義者に供給した。
1935年にスターリンが外国の投下資本を接収した時もスタンダード石油には手をつけず。
有名なソ連の5ヶ年計画(1928-32、33-37、38-42)も、ヴァキューム石油、インターナショナル・ハーヴェスター、ギャランティ・トラスト、ニューヨーク生命など、モルガン-ロックフェラー財閥が支配する会社から融資を受け実行されている。
以降は省略するが、資本家たちのソ連支援は延々と続いた。ロックフェラー一族が訪ソした際には毎度、国賓待遇だったし、N.ロックフェラーが副大統領に指名されたときには、彼の批判者をプラウダが憤然として弾劾した。このロックフェラーの資金運用を指示していたのがロスチャイルドである。
ユダヤ資本の助力なしにロシア革命は成功しなかった。
ソ連という幻の帝国は、資本家たちの情熱的な支援が途絶えた時に崩壊した。
無駄な支出はしないのが資本家。
『東西冷戦』という幻の物語がどんな利益を彼らにもたらしたかは言うまでもない。
「2009年04月14日 日露戦争の真実」<悪の秘密結社 ジャーナル>より
キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。
■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■
イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
は日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカ
オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のよう
な手紙を出した。
私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、
神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言す
ることができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能に
して、理性によく従うからである。
尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不
向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中
で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何
もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練
を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思ってい
ることのために、日本は時とともに、非常に益することに
なるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
[1,p83]
「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、ス
ペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、
強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ
征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要があ
る、というのである。
■2.シナ征服の6つの利益■
スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太
平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始
めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。
宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。
1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会
日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584年6月2
7日付けで、スペイン国王あてに、シナ征服には次の6つの利
益があると説いている。
第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主へ
の大きな奉仕であり、第2にそれによって全世界的に陛下の名
誉が高揚される。第3に、シナとの自由な貿易により王国に多
額の利益がもたらされ、第4にその関税により王室への莫大な
収入をあげることができる。第5に、シナの厖大な財宝を手に
入れる事ができ、第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り
短期間で世界の帝王となることができよう、と。
このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、
車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。
■3.日本人キリスト教徒の「ご奉公」■
さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので征
服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人がマカオ
に渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、その囲
みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、その際に
多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も殺されなかった事
件をあげている。
私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃
至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分
であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパード
レ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を
送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍して
いるので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1
エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこ
の征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。
[1,p95]
日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本
人を傭兵の如くに見ていたのである。
■4.人類の救済者■
宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。地
球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう説い
た。これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増
えた。この当時、キリスト教とその信者をキリシタンとい
った。[2,p117]
中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの肖
像画があり、そこに記されたIHSという文字について、「イ
エズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と説明され
る。キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教
え、社会事業を進める「救済者」として描かれている。
数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように描か
れている。
家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していた
が、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるよう
に命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]
さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなど
して、キリシタンを完全になくさせようとした」事を述べ、厳
しいキリシタン取り締まりに島原・天草で約4万人の農民が一
揆を起こして、「全滅」した事を述べている。
この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対するなんと
野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ家康は黙認か
ら禁教へと方針を変えたのか、については一言も説明がない。
秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、
急に宣教師追放令を出している。いずれもキリシタン勢力から
国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策なのである。
■5.日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■
キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパ
ル・コエリョは、最も行動的であった。当時の日本は準管区で
あったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任
者にあたる。
天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であ
った豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、
有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方
させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シ
ナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供し
よう、と申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術は
なかったのである。
秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけ
ながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキ
シコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持ってい
るのではないかと疑い始めた。
■6.コエリョの画策とバテレン追放令■
翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に
下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督
のような格好をして出迎えた。日本にはまったくない軍艦なの
で、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。
その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数
の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。秀吉は軍
事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると
確信し、その日のうちに宣教師追放令を出した。
コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン大
名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は
金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。しかし、
この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。
コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵が
あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリ
ピンに要請したが、その能力がないと断られた。コエリョの集
めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知ら
れずに済んだ。[1,p109-114]
■7.秀吉のキリシタンとの対決■
秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、ス
ペインやポルトガルのシナ征服への対抗策であったという説が
出されている。スペインがメキシコやフィリピンのように明を
征服したら、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇
の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。
そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を
出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。しか
し、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、独
力での大陸征服に乗り出した。その際、シナ海を一気に渡る大
船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。
文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに
手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指
下にある」と脅している。[3,p372]
慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を
行っていたフランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名をわざ
わざ長崎に連れて行って処刑した。これはキリシタン勢力に対
するデモンストレーションであった。一方、イエズス会とマニ
ラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手
段をとった。丁々発止の外交戦である。
■8.天草をスペイン艦隊の基地に■
全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キ
リシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼
るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年か
ら1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クル
スは、1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会
総会長に出している。要点のみを記すと、
日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでも
しも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国
を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてそ
の内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包
囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海
上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の
生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろ
う。・・・
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と
協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るよ
うにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適し
ている。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り
囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好
な位置にある。・・・
(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する
ことの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共
にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多く
の日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイ
ン人の間で育てることになるだろう。・・・
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべ
きシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日
本から調達することが出来る。[1,p147-150]
キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そ
こを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進
めてきた常套手段であった。
また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス
会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルス
の計画は実現する。秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシ
タンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。
■9.国家の独立を守る戦い■
家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリ
シタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの支援を受けて
徳川と戦うという事態であった。当時の大阪城内には、宣教師
までいた。大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放して
いる。
1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに1637
~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌
39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは鎖国と言うより、
朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確には
キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。
キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立て
ることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一
絶対のキリスト教を広めることは、ともに「人類の救済者」
としての疑いのない「善行」であった。その独善性を見破った
秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだっ
た。これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピン
のように、スペインの植民地とならずに済んだのである。
・国際共産主義はグローバル資本が生み育てた
■1.「ロシア革命はユダヤ革命」
世界でおよそ1億人を殺害したと言われる共産主義の幕開けは、今からちょうど100年前、1917年に始まったロシア革命だった。その末裔であるシナや北朝鮮が今もわが国の安全を脅かし、国内でも日本共産党が存在感を示していることを考えると、過ぎ去った過去の1ページと片付けるわけにはいかない。
実は、ヨーロッパでは「ロシア革命はユダヤ革命」と言われている。ロシアで迫害されていたユダヤ人が自らを解放するための革命だった、というのである。
一見、眉唾物の陰謀史観に見えるが、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の著作から共産主義とユダヤ財閥との関連を見ていくと、本誌でも取り上げた、その後の第二次大戦、シナの国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、国際共産主義が絡んだ戦争にまつわる数々の謎が解けていく。
馬渕氏の論説は現代のグローバリズムにまで及んでいるが、本稿ではまずソ連の関わったこれらの戦争の舞台裏を、馬渕氏の著作から見てみたい。
■2.日露戦争で日本を助けたユダヤ資本
事の発端は、ロシアで行われていたユダヤ人弾圧である。18世紀末、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアなどに分割され、ロシアは同国にいた多くのユダヤ人を帝国内に抱えることになった。
ところが、ユダヤ人はロシアに同化せずに独自の生活様式に固執しました。
また、商才を発揮して無知なロシア農民を搾取したことから、ロシア農民の間にユダヤ商人に対する反感が強まり、それが高じて集団でユダヤ人を襲うようになっていったのです。
ロシア帝国はユダヤ人排斥主義をとっており、ポグロムと呼ばれるユダヤ人殺戮を繰り返していました。
ロシア革命前の1904-5年に勃発した日露戦争では、アメリカの国際銀行クーン・ロープ商会のヤコブ・シフが大量に日本の国債を買って支援した。シフはユダヤ人で、同胞の資本を集めて、日本に戦費を供給してくれたのである。
その資金を使って、日本陸軍の明石元二郎大佐はレーニンなどの共産主義勢力に膨大な援助をして革命運動を煽り、ロシアを背後から動揺させた。この工作が日露戦争の勝因の一つとなった。
■3.ユダヤ財閥が支援したマルクスの共産主義研究
ロシア革命を主導したレーニンはユダヤ人の血が四分の一入っている。大学生の時代からカール・マルクスの『資本論』などの著作を読みふけり、共産主義に傾倒するようになった。
そのマルクスもユダヤ人で、研究を支援していたのが、これまたユダヤ財閥ロスチャイルドだった。資本家が共産主義の研究を支援するというのは、一見、矛盾しているが、ロスチャイルドが国際資本家であることを考えれば、共通点が見えてくる。
ロスチャイルドの基礎を築いたマイアー・アムシェル・ロートシルト(この英語読みがロスチャイルド)は18世紀後半、フランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身で、銀行家として成功し、5人の息子をフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリの5箇所に分散させて、銀行業を国際的に拡大させた。
彼らには祖国はなく、ある国家の弾圧を受けても生き延びられるよう各国に事業を分散させたのである。カール・マルクスもプロイセン(現ドイツ)に生まれたが、共産主義活動で各国政府から追放されたり、弾圧から逃れたりしながら、パリ、ブリュッセル、ケルンと放浪した。その後、ロンドンに移り住んで『資本論』を書き上げたのである。
ユダヤ人が世界に離散して住むことを「ディアスポラ」と呼ぶ。国民国家とはある民族の共同体として作られているが、自らの民族国家を持たないユダヤ人はどこに行っても少数民族で、いつ弾圧されるか分からない。そういう状況で生き延びるためには、国際金融で成功して国家を超えた力を持つか、国際共産主義で国家を滅ぼすしかない。
国家を否定し、国家を超えた力を持とうとするところに、ロスチャイルドとマルクスの共通項があった。しかも革命によって実現した共産主義社会は、エリートによる独裁と大衆支配、宗教や道徳を否定する唯物的思考という点で、グローバル資本主義社会と瓜二つだった。
■4.ユダヤ人によるユダヤ人のためのロシア革命
革命が勃発すると、イギリスのロスチャイルドとアメリカのヤコブ・シフはスイスに亡命していたレーニンを支援して、ロシアに戻した。同じくユダヤ人でアメリカにいたトロッキーは、米政府から支給されたパスポートをもってロシアに戻り、革命指導者となった。一緒にニューヨークの金融街ウォール・ストリートなどで働いていたロシア系ユダヤ人を引き連れて行った。
二人以外にも、カーメネフ、ジノヴィェフ、ラデック、スヴェルドルフ、リトヴィノフなど、当時の革命指導者の8割以上がユダヤ人だった。
革命と共に、ニコライ2世とその家族は銃殺され、数百万人から一千万人と言われるロシア民衆の粛清が行われた。ロシア革命はロシア皇帝の圧政に立ち上がったロシア民衆によるものというのが定説だが、それならなぜこんな大規模な粛清が必要だったのか、説明がつかない。ユダヤ革命に反発するロシア民衆を弾圧した、と考えると納得がいく。
トロッキーが政権をとって最初に行ったことは、人民から金(ゴールド)を供出させることだった。共産主義国家では金の私有は禁止される、というのが表向きの理由だったが、ロマノフ王朝から取り上げた財宝と共に、革命に資金援助をしたユダヤ財閥への返済に使われたのだった。
ロシア系ユダヤ人で、アメリカのオクシデンタル石油会長のアマンド・ハマーもロシア革命を支援し、革命成功後にはすぐにレーニンを訪ねてアメリカの穀物やトラクターなどを売りつけ、ビジネスを始めている[2, p35]。革命や戦争はユダヤ資本にとっては、絶好の収益機会なのである。
■5.ルーズベルトの親ソ政策
革命後のソ連とアメリカの奇妙な友好関係は、国際ユダヤ資本という共通項に着目すると謎が解けてくる。アメリカのフランクリン・デラノ・ルーズベルト民主党政権は1933年にソ連を承認した。それまでの4代の大統領は、共産主義がアメリカに浸透することを恐れて承認を拒否していたのだが、それを覆したのである。
ルーズベルトの家系もユダヤ系と言われている。母親の実家デラノ家は19世紀にシナにアヘンを売り込んで世界的な大富豪にのし上がった。また、夫人のエレノアは社会主義者だった。
ルーズベルトは大恐慌に際して、ニューディール政策で経済のてこ入れを図った。この政策自体が政府の大規模公共投資という社会主義的な性格を持っていた。この時も、政府に資金を貸し付けて大儲けしたのは国際資本だった。
ルーズベルト政権に多くの共産主義者が入り込み、その政策を親ソ反日にねじ曲げていった様子が、近年公開されたアメリカの機密資料・ベノナ文書などで明らかにされている。当時、日本はソ連と敵対していた反共国家だった。日露戦争の時に反露親日だった米国は、ロシア革命を機に親ソ反日に転換したのである。
独ソ戦が始まると、ルーズベルト政権はソ連に対して凄まじい軍事支援を行った。航空機1万4千7百機(零戦の全生産量に匹敵)、戦車7千両、装甲車6千3百両、トラック37万5千台、ジープ5万2千台という規模であった。これも単なる親ソ政策というだけでなく、これだけの生産をして儲けたのが誰かを考えれば、十分納得がいく。
ルーズベルト政権は、欧州での対ドイツ戦に絶対に参戦しないという公約で再選されたのだが、その公約を破らずに参戦するために、日本を追いつめ、真珠湾攻撃を仕掛けさせて、米国民を戦争に引きずり込んだのである。
当時の米共和党下院リーダー・ハミルトン・フィッシュ議員は、「ルーズベルトは、われわれをだまし、いわば裏口からわれわれをドイツとの戦争にまきこんだ」と著書で公言している。
■6.シナ大陸をソ連陣営にプレゼントしたトルーマン民主党政権
アメリカの共産主義陣営への奇妙な肩入れは、その後も続く。大東亜戦争の末期に、もうソ連の肩入れなど必要ないのに満洲・樺太・千島列島侵攻を許した。ヤルタ会談ではソ連に満洲での利権を与えるという約束が秘密裏になされ、蒋介石はショックで打ちのめされた。
またシナ大陸で国民党と共産党との国共内戦が始まると、ルーズベルトの後をついだトルーマン民主党政権が送った特使マーシャルは、国民党軍が優勢になる都度、停戦をもちかけて、その勝利を妨害した。蒋介石への軍事支援は止められ、アメリカからソ連への軍事援助が一部シナ共産党軍に流れても見て見ぬふりをしていた。
米議会が国民党軍への軍事支援を求めると、国民党軍が「共産主義に敗れる恐れはない」と制止し、2年後に共産党軍が優勢となった頃には、支援は手遅れだと否定した。
それでも議会が2億75百万ドルの経済支援と1億25百万ドルの軍事支援を行う案を議決すると、8ヶ月も実施を遅らせ、最初の船積みが行われた時にはシナ共産党が大勢を決して、中華人民共和国の建国を宣言していた。[e, 3, p36]
アメリカが本来の国力を使って蒋介石を支援していれば、シナ大陸は蒋介石の国民党が統治し、ソ連に対する防壁となったはずである。ルーズベルトの後をついだトルーマン政権はわざわざシナ大陸をそっくりソ連の陣営にプレゼントしたのである。なぜ、そんな事をしたのかは、その後の歴史を辿ると見えてくる。
■7.仕掛けられた朝鮮戦争
1950年1月12日、マーシャルの後任、アチソン国務長官は「アメリカのアジア地域の防衛線には南朝鮮を含めない」と演説した。いわゆるアチソン・ラインである。これは共産主義勢力に南朝鮮が侵略されてもアメリカは関与しない、というゴー・サインであるととられても仕方のない発言であった。
北朝鮮はこの発言を受けて、半年後の6月25日に三十八度線を越えて韓国侵攻を開始した。朝鮮戦争の始まりである。
国連軍の編成には安全保障理事会の承認が必要だった。ソ連の外相グロムイコは当然、拒否権を発動すべきとスターリンに進言したのだが、スターリンは「私の考えでは、ソ連代表は安保理事会に出席すべきではないな」と述べた。ソ連の意図的な欠席により、国連軍が出動できたのである。
北朝鮮軍は半島南端の釜山まで韓国軍を追いつめていたが、ここでマッカーサー指揮する国連軍が巻き返しを図り、北朝鮮軍を押し返して、シナ国境まで追いつめた。
マッカーサーは中共軍が満洲から北朝鮮に入ってくるのを防ぐために、鴨緑江(おうりょくこう)にかかる橋を爆撃する作戦を立てたが、国防長官になっていたマーシャルに拒否された。積極的攻勢をとろうとするマッカーサーは解任され、後を継いだクラーク将軍も「私には勝利するために必要な権限も武器・兵員も与えられなかった」と自著のなかで書いている。[2, p184]
朝鮮戦争は3年も続いたが、こうした民主党政権の介入で米軍は手足を縛られ、結局、開戦前とほとんど変わらないラインで休戦協定が調印された。戦場となった朝鮮半島と、戦い合った米軍とシナ軍は多大な損害を受けたが、得をしたのはシナの台頭を防いだソ連と、膨大な軍備・軍需物資を売ったグローバル資本だった。
■8.作られたベトナム戦争
1961年5月に、ケネディ民主党政権が「軍事顧問団」という名の特殊作戦部隊600名を送り込んで始まったベトナム戦争も、その裏での奇妙な米ソ結託があったという点で、朝鮮戦争とよく似ている。
1966年10月、ベトナム戦争が最も激しさを増した時、ジョンソン民主党政権はソ連などに総額3百億ドルを融資し、ソ連などはこの資金を使って、アメリカから「非戦略物資」の輸入にあてた。その「非戦略物資」には、石油、航空機部品、レーダー、コンピューター、トラック車両などが含まれていた。ソ連はこれらを北ベトナムへの支援に使った。
このタイミングでのソ連支援は、結局、ベトナム戦争を長引かせる効果しかなかった。ジョンソン政権が本当にベトナム戦争の勝利を欲したなら、こんな支援をするはずがない。結局、ジョンソン政権の狙いは、戦争を長引かせ、軍備・軍需物資を大量に消費させて、グローバル資本が儲け続ける点にあったと考えざるを得ない。
こうしてベトナム戦争は1973年に、ニクソン共和党政権がベトナムから米軍を撤退させるまで10余年に渡って続いた。米国内では反戦運動が激化し、それまでアメリカ社会の主流を握っていたWASP(白人で、かつアングロサクソン、プロテスタント)の権威が一気に凋落した。
カーター政権で国家安全保証を担当していたブレジンスキー大統領補佐官は「WASPの没落のあとに、アメリカ社会で支配的エリートになったのはユダヤ社会である」と述べている。[2, p132]
アメリカ社会を支配したグローバル資本は、東西冷戦の敵役として使ってきたソ連の役割は終えたとして、ソ連を打倒して、その天然資源を手中にした。ソ連の国営・公営企業を民営化して、7つの新興財閥が産まれたが、そのうち6つがユダヤ系だった。一方、天然資源はないが、安価なで豊富な労働力があるシナは共産主義体制を温存させたまま「世界の工場」と化した。
こうして東西冷戦は幕を閉じ、戦後は第二幕を迎えた。その後の混沌とした世界情勢もグローバル資本の動きから見ると、よく理解できる。
・アメリカの貴族階級
※読者は、アメリカには「王族」は存在しないと脳天気に信じてはいないだろうか。悲しいかな、多くのアメリカ人は、アメリカにも独自の「王族」とそれを取り巻く「貴族階級」が確かに存在していることに、まったく気づいていない。
だがどれほど疑い深い人でも、こうしたメンバーの家系図をざっと見ただけで、納得せざるを得なくなる。試しにジョージ・ワシントンの家系が、イギリスのエリザベス女王とどうつながっているかを見てみるがいい。ディラーノ一族やルーズベルト一族の血統もそうだ(ちなみに、ディラーノ一族の方がルーズベルト一族よりもはるかに重要なのだが、それはこれから見ることにする)。
ディラーノ一族には、非常に関心をそそられる。アメリカの他の多くの「貴族」と同様、イギリス東インド会社(BEIC)による中国とのアヘン貿易によって富を築いたこともその理由だが、それ以上に、自分たちの姿を隠し、人目につかない存在でいるのが非常に巧(うま)いからである。
ロンドン大英博物館にあるイギリス系図記録によれば、イギリスの国王および女王は、ウィリアム征服王に始まり、ヘンリー1世、2世、3世と続き、さらにエドワード1世、2世、ヨーク公リチャード、ケンブリッジ伯リチャード、エドワード4世以下へとつながっている。ディラーノ一族は、アメリカにいるイギリス王室の縁者のなかでも、もっとも初期からの家系である。
その姓は「ディラーノ」に落ち着くまでに二度、変わっている。まず1319年のヒューズ・デ・ラノイから始まり、フィリップ・デ・ラノイ(1621年)までこれが続き、そのあと、デ・ランドに変わった(ジョナサン・デ・ランドおよびトマス・デ・ランド)。
つぎに出てきたのが、本章に直接結びつく姓で、マサチューセッツ州ダートマスにおいて、ディラーノと登録されている。これがウォーレン・ディラーノ大尉で、のちに出てくるサラ・ディラーノが、ジェームズ・ルーズベルトと結婚した。このようにディラーノの血筋をたどると、ヘンリー2世に直接つながっていることが、簡単にわかる。
ジョージ・ワシントンはというと、ケント伯エドマンドから系図が始まり、サルグレイブ領のローレンス・ワシントン、1650年にアメリカに向けて船出をしたジョン・ワシントン大佐、ローレンス・ワシントン大佐、オーガスティン・ワシントン大尉、そして初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンへと続いている。
ワシントン家の血筋は、現在のイギリス女王にもつながっている。こちらは、エドワード2世、4世、スコットランド女王メアリ、ジョージ1世、2世、3世、それからヴィクトリア女王、エドワード7世、ジョージ5世、6世、そしてイギリスの現君主エリザベス女王へと続いている。
ルーズベルト家の家系図はあまりに広範囲にわたっているので、ここにすべてを記すわけにはいかないが、ディラーノ一族やアメリカの多くの「王族」との関係を示すために、簡単な説明は必要だろう。調査の過程で、国防長官リチャード・チェイニーが、ウィリアム・H・タフトとエリザベス・チェイニーを通じてルーズベルト家と縁続きだとわかったことも、非常に興味深い。
アメリカでのチェイニー家は、ジョセフ・チェイニーとマーガレット・チェイニーから始まった。わたしは、チェイニーが国防長官に就任したときから、どこかで「王族」とつながりがあるに違いないと考えていたが、膨大な調査の結果、やはりそうだったことがわかった。ブッシュと「王族」との関係は、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの母親を通じてのもので、彼女がディラーノ家の一員だったことによる。
アメリカ合衆国の「王族」は、全部とまでは言わないが、その大半が、アメリカの東および北東の海沿いに住み着いた。これはジョージ・ワシントンにも当てはまる。ワシントンは終生、その傲慢な物腰を崩さなかったが、それは「王家の」血筋の成せる業(わざ)だと言われている。ワシントンにとって、縁者にあたる国王ジョージ3世と戦うのは苦しいことだったに違いない。
ワシントン、ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンがフリーメーソンであったかどうかについては、いまだに議論の的である。たしかに真実かもしれないが、ワシントンの場合は、どうもつながりがはっきりしない。ただ、ここで考慮すべきは、当時の「メーソンリー」は必ずしも、わたしたちが知っているような、アメリカに対して叛逆行為を行なうフリーメーソンリーだったわけではないという点だ。もちろん、すでに「軍隊的メーソンリー」だったとも考えられるが、本章はメーソンリーがテーマではないので、この話はここまでにしておく。
ただ、アメリカの「王族」は、自分たち以外の階級とはめったに婚姻関係を結ばないということだけは言っておこう。これは、イギリスの祖先のやり方を真似たものだが、したがって、すべての人間は平等だとするこの国で、硬直した、厳格な階級制度が存在するということになる。わたしたちは、すべての人間が文字通り平等だという愚かな考えを、さまざまな「平等な」法律を使って浸透させようと努力してきた。この考えがもっとも実行されていないのが、アメリカの「王族」社会なのである。
『秘密結社全論考㊦』(ジョン・コールマン著 太田龍訳)より引用。
・ロシア革命も5ヵ年計画も国際金融資本家たちの提供資金によって実行されていた
※ロシア革命(ボルシェビキ革命)のみならず、ソビエト連邦の5ヵ年計画も、国際金融資本家たちの提供する資金によって実行されていたようです。
引用開始
AIC(アメリカン・インターナショナル・コーポレーション)は1915年、ボルシェビキへの財政援助を調整するために設立された。(資金提供:J・P・モルガン、ロックフェラー一族、ナショナル・シティ・バンク)
★会長 フランク・ヴァンダーリップ
(ナショナル・シティ・バンク前頭取/ロスチャイルドの代理人)
☆理事 ピエール・デュポン(デュポン社/GMにも投資)
オットー・カーン(クーン・ローブ商会)
ジョージ・ハーバード・ウォーカー
(ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領の祖父)
ウィリアム・ウッドワード(ニューヨーク連邦準備銀行理事)
ロバート・S・ロヴェット(ユニオン・パシフィック鉄道)
パーシー・ロックフェラー(一族、51の大企業で重役)
ジョン・D・ライアン(ナショナル・シティ・バンク)
J・A・スティルマン(ナショナル・シティ・バンク設立者の息子)
A・H・ウィッギン(?)
ビークマン・ウィンスロップ(1904~プエルトリコ民政官)
AICと密接な関係を持って共産主義者援助プログラムを進めていたギャランティ・トラスト(現モルガン・ギャランティ・トラスト)にも、G・ベイカー(ファースト・ナショナル・バンク)E・H・ハリマン(ユニオン・パシフィック鉄道)レヴィ・モートン(前合衆国副大統領)H・H・ロジャース(スタンダード石油)など錚々たる米資本家たちが揃っていた。
1916年ウィルソン米大統領は前国務長官エルフ・リート(クーン・ローブ商会の弁護士)をロシアに派遣、特別戦時資金から支出した2000万ドルを持たせた。
(米議会ロシア債権公聴会 HJ8714U5)
こうしてロシア革命が成功した後にも、英米のユダヤ資本は決して共産主義国・ソビエト連邦を見捨てなかった。
ウィルソン大統領の補佐役、ハウス大佐は秘書のケネス・デュラントをソ連に派遣、ソヴィエト政府の高官に就任させる。
後に「反共主義者」として有名になったハーバード・フーヴァーは1921年にウィリアム・N・ハスケル少将(世界戦争救済機関)の協力により、7800万ドルの費用(議会・公募等)をかけ、700万トンの食料など援助物資を共産主義者に供給した。
1935年にスターリンが外国の投下資本を接収した時もスタンダード石油には手をつけず。
有名なソ連の5ヶ年計画(1928-32、33-37、38-42)も、ヴァキューム石油、インターナショナル・ハーヴェスター、ギャランティ・トラスト、ニューヨーク生命など、モルガン-ロックフェラー財閥が支配する会社から融資を受け実行されている。
以降は省略するが、資本家たちのソ連支援は延々と続いた。ロックフェラー一族が訪ソした際には毎度、国賓待遇だったし、N.ロックフェラーが副大統領に指名されたときには、彼の批判者をプラウダが憤然として弾劾した。このロックフェラーの資金運用を指示していたのがロスチャイルドである。
ユダヤ資本の助力なしにロシア革命は成功しなかった。
ソ連という幻の帝国は、資本家たちの情熱的な支援が途絶えた時に崩壊した。
無駄な支出はしないのが資本家。
『東西冷戦』という幻の物語がどんな利益を彼らにもたらしたかは言うまでもない。
「2009年04月14日 日露戦争の真実」<悪の秘密結社 ジャーナル>より