・日本人にとっての「宗教」について考える

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〇神道や仏教について考察することから「宗教」とは何なのかについて考えてみたい。まずは神道であるが、神道の解説書などを読むと「神道とは自然崇拝と祖先崇拝が合わさったもの」「神道には教義はない」とよく解説される。これはその通り。人は自然から生み出され、自然によって生かされ、そして自然とともに生きていく。人は親から生まれ親もその親から生まれ、祖先に行き着く。この時間と空間に亘る存在の連関構造をしかと把握し、そこから生まれる感動、畏敬、愛着そういったものを作法化したものが「神道」と言われるようになった。言い換えると人間と自然の相互作用・感応から心に生まれる感動=もののあわれを作法化・形式化したものだとも言うことができる。だから形式以前に人間と自然の感応という原基的場面がある。ここが根底であり、両部神道、山王一実神道、伊勢神道、吉田神道、吉川神道、垂加神道など、のちの学派神道はこの原初的場面にできるだけ矛盾しない形で仏教や儒学などの用語や概念を借りながら後で作られた。(この場合は日本と中国、印度の精神文化が具体的な形は違えども、もともともっている汎神論的構造が鍵になると思うが。)だから神道に教義が元々ないのは当たり前なのである。

〇そもそも「宗教」とか「教義」とは何なのか。凝り固り絶対化された宗教教義があることがそんなに偉いことなのか?歴史を見てもむしろ弊害の方が多いのではないか?個人的には宗教教義というものは世界解釈のモデルだと考えている。人が世界を了解する上での一つのモデルであり「型」である。人がいかにこの人間存在を含む世界を了解し解釈するか。その解釈モデルが各種宗教なのではないか。だから自然とそこに各民族の傾向性や各個人(宗祖、教祖等)の傾向性が反映している。

〇神話も同じ範疇である。神話は事実かどうかというのは問題ではない。要はその民族の世界解釈つまり世界とはどのように開闢しどのようなものとして存在しているのか、存在の連関における人の立ち位置というものをいかにとらえるのか、人と自然・人と人の関係はいかにあるか、などそういった世界解釈全般についてその民族の考えが盛り込まれているか。そこに神話の価値が存する。だから神話は民族の数だけ存在し、民族の起源・ルーツも同じ数だけありえるのである。このことは渡部悌治先生のご著書に引用されていたある賢者の言葉から学んだ。まことにその通りだと思った。

〇一方仏教はまず苦という現実認識がありその苦を克服するにはどうすればいいかという実践的な問題意識から出発した。そのためにバラモン教のような伝承の学問に依らずに合理的に苦の原因が探求され無明=無知を根源とし対象の快と不快に応じて貪欲と憎悪として二様に現れる執着が原因だと解明した。そして執着を断てば苦が無くなると逆算され、執着を無くし平安に至る道(八正道)が説かれた。仏教は形而上学や教義学として始まったのではなく、いかにこの現実の苦を克服すべきか、という実践的・現実的な課題意識とともに始まった。仏教はのちに哲学として複雑化していくものの、その根底にはこの実践上の課題意識があるのである。苦と執着の依存関係ということが前提なので、縁起・空という一般的な道理が導かれる。したがって、苦の克服という究極の目的が達成できるのは苦もその一つであるこの世の事物が相互依存的に関係的に成り立っている=縁起・空ということが前提である。だからこの縁起・空を否定するような教義はもはや仏教ではなくなるのである。なぜなら縁起・空が否定されれば苦は常住不変の実体ということになり苦の消滅というのはあり得ないことになってしまうからである。様々に展開された仏教学派のそれぞれの教義の正否を分析する場合この「縁起・空」が前提とされているか否か、という視点が一つの指標になるのではなかろうか。

〇己も空・他も空、諸法=万有は同じ空という道理の上にあるので、己の身に引き比べて生類を傷つけてはならない、という慈悲の心が導かれる。形而上学を用いない道徳律、これは「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という孔子の道徳律と並ぶ東洋の黄金律であろう。通常黄金律とされる「自分がしてもらいたいことは人にもなせ」というイエスの教説は自分がしてもらいたいことと他人がしてもらいたいことが異なる場合があることが考慮されていないので黄金律とは思わない。薬物中毒者は自分がしてもらいたいことを他人にしてはならない。

〇神道も仏教も種類は違えど西洋的な意味における「宗教」(コチコチに凝り固まり絶対化した妄想的教義の塊)ではない、と考える。西洋人や自虐的日本人から「日本は無宗教」と言われたらそれは褒め言葉であろう。西洋人というのは何事も自己中心的である場合が多いのでキリスト教を前提にした宗教観で「日本には宗教がない」などと言っても、それは迷信に凝り固まった立場からの幼児の戯言なので気にする必要はない。太田龍氏も太田氏がよく引用された胡蘭成氏も共通して日本には(故蘭成氏の場合は日本と中国)宗教はなかった(もちろん肯定的に)、との論であるが、この点は同感である。一切の横断を許さない絶対的教義も基づく組織宗教というのは西洋的である。結社的宗教ということである。

〇一方、ワンワールドとか万教帰一という考え方は、各種の固有の解釈モデルを破棄し、特定の教義に統一・絶対化する、ということである。一つの解釈モデルしか認めないという発想である。フリーメイソンの前衛部隊である新人会の「新人」とは祖先や自然との連関と切り離した新しい人間に生まれ変わるという意味であり、神との契約で新たな命を授かる、とするキリスト教も同じ類である。要するに時間と空間に亘る存在連関を断ち切り固有性を捨てよと強制するわけである。

〇しかし特定の教義=解釈モデルを絶対化するのは愚かなことである。宗教教義も神話も、解釈モデルというのはどれが絶対ということはない。この点、古来より日本人はこの構えをずっととってきたのではないか。思想や宗教に対する日本人にとってよく根付いた一つの精神態度というものがある。

〇神社に参拝し、お寺にもお参りする。これをもって西洋人は無節操だと批判するが、しかし解釈モデルを絶対化する方が愚かではないのか?後付で考えた解釈モデルを絶対化し、多くの悪行を犯してきたのが西洋の精神史である。西洋精神史上の悪行としては、アレクサンドリア図書館の破壊、改宗を拒む古代ゲルマン人族長の大量虐殺、魔女狩り、異端審問、宣教師を前面に立てた海外侵略、数え上げたら切がない。西洋人はなぜかくも非寛容になったのか?それは世界解釈のモデルを絶対化したからだと考えるのである。

〇日本には各種流派学派神道や仏教宗派があり僧兵の横行などそれなりに小競り合いはあったものの、概ね共存して今に至っている。その秘訣は古来より日本人の中に「宗教教義=言挙げは世界解釈のモデルに過ぎない」という根本的な構えがあったからではないか。そういう仮説を立ててみた次第である。を磨くために神道も学び仏教も学び儒学も学び老荘も学ぶ、という石門心学の石田梅岩先生に典型的に表れる構えである。これは日本人全般が本能的に保持してきた構えではないかと思うのである。以下思いつくままに具体例を羅列する。

〇真言僧でもある西行法師は伊勢神宮に参拝し感激「何ものの おわすものかは知らねども かたじけなさに涙あふるる」と詠む、叡尊・忍性等鎌倉時代の仏僧は神国思想を高揚し蒙古調伏の祈祷。鎌倉仏教の一遍上人は踊念仏を行じながら神祇信仰も重視。道元禅師の永平寺と白山神社は密接な関係。上杉謙信は幼少期から林泉寺で禅を修行し上洛時には大徳寺で参禅、戦陣では儒学でも説く「義」を掲げ、高野山では真言密教を学ぶ。豊臣秀吉の伴天連追放令では日本は神国であることと仏教が行われる地であることが同時に語られる。「日本は神国である。仏法を妨げるな」と伴天連共に通告。徳川家康は浄土宗を信仰して幡随意白道上人に帰依し、天台宗の高僧天海僧正をブレーンとし、儒学者林羅山を起用して朱子学を奨励、死後は東照宮に祭られる。金地院数伝という臨済僧に宗教政策を立案させ、一度己に反抗した元一向宗徒の本多正信を謀臣に起用。沢庵禅師の弟子柳生宗矩を剣術指南役となし柳生新陰流を幕府御家流とす。江戸初期にキリシタン教化に九州に赴いた幡随意上人は途中伊勢神宮に参拝し対キリシタン戦の成功を祈願、仁王禅を唱えた鈴木正三道人は聴者の機根に応じて禅も念仏も勧める、熊沢蕃山は陽明学を学びつつ天地自然の道としての神道を唱えるに至る、数えるときりがないのでここら辺でやめておく。

〇日本人は神・儒・仏なんでも学ぶという、「無節操」とそそっかしい西洋人が言うようなことが可能なのは特定の宗教教義を絶対化せず、どれも一種の解釈モデル=言挙げであり、どれも己を磨く砥石のようなものと受け取っているからだと考えると一つの説明がつく。石田梅岩先生の求道ぶりが典型。

〇共存が壊れるときはきまって教義を絶対化した一派が登場するときである。戦国時代のキリシタンや明治初期の平田派などである。もともと人間と自然の感応・感動=もののあわれを作法化したものである神道をキリシタン神学と無理やり接合し、宗教化してしまったのが平田派である。平田篤胤は鈴屋学派(本居宣長直系)からは極めて評判が悪かったそうである。キリシタン宗的な死後の世界等言挙げによってあれこれ形而上学的な教説を作るという宣長先生がもっとも嫌ったことをしたことに憤ったのであろう。検証不能な形而上学をこさえた平田篤胤はさかしらを用いすぎた。

〇平田派の系譜から大本教が出、各種神道カルトの源流を成している。出口王仁三郎は恐らく平田派の教学の影響も強かったであろう明治期の皇典講究所で学んでいる。また幕末期に平田国学を学んだ本田親徳の鎮魂帰神法の影響を色濃く受けている。平田派と大本系神道カルトはかくして接続している。大本系カルトの根源には平田篤胤による神道のキリスト教的宗教化がある。教義をつけるだけならいいが、自己絶対化と不可分のキリシタン神学を密輸入するのは禁じ手である。儒・仏・道・陰陽思想、等を取り入れるのとキリシタン神学を密輸入するのでは意味が全く違う。

〇解釈モデルを絶対化するのがよくないというのは宗教に限らず科学思想にも言える。科学は要素還元主義という方法論があってこそはじめて成立したものだが、あくまでも方法論という所を忘れて、近代以降の西洋人は現実に孤立した要素の複合でこの世界が形成されている、と盲信するようになった。しかし現実には諸事物は相互依存し関係的に成立している。孤立的実体的に存在している事物は見つからない。要素還元主義はアトミズムと言い換えてもいいと思うが、これは自然科学だけではなく社会思想にまで拡大されて、社会契約論のような思想が作り上げられた。社会契約論はアトムとして孤立した個人を複合することで社会を構築するという発想である。近代科学の方法論を社会に適用したわけである。理性の規則に従い孤立した要素を複合して万物が形成されるという信念は政治思想に適用されて革命思想になっていく。イルミナティ思想はこの本流と謂えよう。しかしこの革命思想は解釈モデルを現実そのものと取り違えた誤謬から出発しているので結局成就することはない。解釈モデルを絶対化し現実に適用すると、かならず現実と齟齬を来し、無理に一致させようとすると暴力と流血を生む。フランス革命やロシア革命のとおりである。

〇このようにプラトンのイデア説以来、観念的なモデルを優先させ現実世界をそこに屈服させようという傾向が西洋には根強い。西洋の宿痾とも言うべき傾向である。これは唯物論とて例外ではない。唯物論とはキリスト教やプラトニズムと同種同根の観念論だと考える。


・時空と人と国家は一体。

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どうも最近「保守」という言葉はすっかり手垢がついてしまったが「愛国」という言葉はほとんどの場合マイナスイメージでしか語られないのでかえって個人的には常に新鮮味を感じる好きな表現である。

ところでどうして「愛国」という言葉は悪い意味でばかり語られるのであろうか。それはおそらく「国」ないし「国家」という概念が「政府」ないし「権力」という狭い概念とイコールでとらえられているからだろう。しかしそれはあまりに浅薄な概念規定である。吾人の考える「国家」とは言語や慣習や土地・自然そして歴史の集積そのものである。「人」を成り立たせている具体的な時間と空間の集積のことを「国家」と考える。人とは必ず過去の履歴を背負っており、必ず具体的な空 間に配置されている。具体的な時間と空間と切り離された個人は存在しえない。(神道家・今泉定助先生は古事記の宇宙観において神と存在と時は一体だと述べられている)歴史から切り離されたフリーメイソン的「新人」(フリーメイソンの前衛部隊として新人会という団体があった)は存在しえないのだ。

道元禅師は「有時」を説かれている。すなわち有は時なのである。存在と時は離れてあるものではなく、一体のものであるのだ。一木一草にも時の履歴がある。ましてや言葉を持つ生き物である人間は歴史と一体のものである。人は具体的な時空を背負うものだとするなら人に慈愛や愛情の眼を注ぐとはすなわちその対象である人が背負う具体的な時空の集積すなわち「国家」にも尊重の念を持つことで ある。ましてや自己存在が依拠している時空の集積に愛情や感謝の念を持たないのは自己否定に等しい。かかる愛国は単純に自己の背負う時空=国家を妄目的に礼賛するということではなく、祖国の中で起きる良い事象も悪い事象も受け止めた上で、良い部分は継承発展させ、悪いものは克服するよう努力することである。純正愛国陣営とは祖国日本のエッセンスをしかと継承し、それに依拠して、目をそらすことなく同時代の限りなく醜悪なものと闘った先人たちであった。

かかる意味で「愛国」は真の道義道徳、横文字でいえば真のヒューマニズムを基底にしていると解釈することができる。そして具体的な時間性、空間性を帯びているという、その根本的な性質を持つ点で、あらゆる国家は共通性を持 つ。(平たくいえば国にしても、それぞれそうなるのはそれぞれ事情があるということだ。それぞれ事情があるという一点ではどの国家も同じである)その共通原理を把握したならば、祖国愛を強く持てば持つほど他国への尊重の念も出てくる。これこそが正しく解釈せられた「八紘一宇」であると思う。「世界平和」のために「世界を一つ」にする必要など毛頭ないのだ。ナショナリズムの危険性はよくいわれるが、それ以上にこういう普遍主義は暴力的である。地域的限界をもつナショナリズムと違い、かかる普遍主義には地理的制限がなく無制約に暴力が拡散する危険性がある。かつてのキリスト教の十字軍や植民地侵略と伴う世界布教、あるいは世界革命を目指した国際共産主義がよい例だ。普遍主義や国際主義、グローバリズムというのは、それぞれの地域の文化を破壊し均一化するという暴力的発想である。

大事なことは相互理解と寛容さであって、世界を一つにすることではない。世界が一つになればそれを主導した一つの偏見が世界を支配するであろう。そんなことよりも、それぞれの国家の個別具体性そのものの根底に「時空と存在の一体性」という共通の基盤原理を見れば、それがそのまま相互理解の基盤たりうる。「我も人なら彼も人」である。我も彼も人でありそれぞれ具体的な時空と「即」である。逆接的にいえば違う時空を背負うから「共」たりうる。また、時空を背負うのが「人」だとするならば、「人」から具体的な時空を削ぎ落とした孤立人である「個人」をのみ対象とする「博愛主義 」は存在しない対象に対して、すなわち虚空に対して空虚な「愛」を注ぐ虚妄の偽善的ヒューマニズムである。

右翼左翼論で言うなら、左翼は平和や人権を力説するが、一向に血の通った暖かい情愛を感じないのはその空虚て虚妄な人間観のためであろう。愛情を注ぐ具体的な対象が見えないのである。人間不在のマルクス主義により精神の危機に陥り、仏教を学ぶことで救われ、「釈迦マルクス主義」に至った変わり種の左翼もいた。逆に右派、それもネオコン的な愛国主義にもそれは感じられない。それはネオコンの国家概念が著しく「政府」や「権力」に限定されているからだろう。彼らは自己の思想の実現のために権力や武力をフルにつかう。そして目指すところは具体的な人間観の欠けた空虚な 「自由」である。彼らはもともとトロツキストだったのだから左翼と同じような冷たさを感じさせるのも無理はない。

最後に世界を一つにして支配しようなどと考えている者達に告ぐ。人間を履歴から切り離された、顔の無いただの数字の単位として見ることしかできない想像力の貧困なあなた方では世界全体を範囲とする「世界国家」の統治など無理であろう。否、そんなことができる人間はどこにもいないであろう。人間の想像力の範囲は限られている。だからこそ己の知の限界をわきまえた謙虚さと寛容さが必要なのである。完全な理性と知性を持った自分達が世界を統治できる唯一の存在であると思うなどとんでもない思い上がりである。そんな誇大 妄想な途方もない野望のために犠牲になる人々がいてはならない。つまらん野心など捨てて収まるところに収まってせこい金儲けでもしているがよろしい。

それぞれの国の統治はそこの地域についてよく知る、その国の履歴と分かちがたく結び付いた人々が担うべきである。大和言葉では事実上の支配にすぎない実力統治を「うしはく」と表現し、正当に道義的に統治することを「しらす」と言った。「しらす」とはまさに統治する対象を深く知り一体化し治める意である。対象をよりよく知ればそれだけ愛情も深くなる。だが統治する地理的範囲が広大になりすぎると、当然このような「しらす」事は不可能になる。見たこともない、文化や気候風土もよく知らない土地に細やかな愛着を持って治める事は不可能である。土地土地に住む人々が治めるのが理に適っている。だから世界を一つにして支配するNWOは非現実的で不合理なのである。


・破NWO思想

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〇自然界において「闘争」は生命を危険にさらし、できれば回避する事が合理的であるから、「棲み分け」は理に適う。そして生命体は環境と不可分一体であるから、環境を棲み分ける事は無用な競合を回避し、共存する為に理にかなっている。NWOのように闘争を通じ居住環境を一元化するのは不合理の極み。

〇NWOはあらゆる観点から見て自然的な道理に反しており、不合理そのものである。自然的道理に反しているがゆえに、いつまでも実現はしないし、無理に実現しようとするから暴力や歪みを生じ、果てしない犠牲を出し続ける。一緒くたにするNWOより、棲み分ける共存=「和」の方が自然的道理に適う。

〇江戸時代の名僧・慈雲尊者が既にNWO思想の本質を抉り、軽く論破している。「山は高くして平等じゃ。 海は深くして平等じゃ。 山を崩して、谷を埋むるような平等では役に立たぬのじゃ。」NWOとは「山を崩して、谷を埋むる」事である。明治以前の思想の方が明治以後の思想よりはるかに奥深い。

〇山は高く、谷は低い。山の方が高いから偉いという事は無く、谷は低いから卑しいという事はない。山も谷も自然的なあり方でそこにあるのみである。優劣をつけるのは人間の後付けの価値判断に過ぎない。したがって、山を掘り崩して、谷を埋めるような事は馬鹿げている。よってNWO思想は馬鹿げている。

〇「山は高くして平等じゃ。海は深くして平等じゃ。 」を解釈する。「山は高く、海は深い」というのは現象=事としては其々固有のあり方をしていることを示し、「平等じゃ」というのは「縁起・空=法性」なる「理」としては同じだということだと考える。事の相違と理の同一は同時に実現している。

〇NWOとは「世界を支配したい」という欲望の思想的表現である。では、何故自然的道理に反してまで世界を支配したがるのか?それは人間に特有の概念的思考に由来すると考える。当たり前だが、知覚的に現前していない領域も含める「世界」という概念があるから「世界」に対する欲望もまた生まれてくる。

〇欲望とは概念的思考=識別作用=識に由来する。何故なら欲望とは常に特定の対象に向けられているからである。「対象」とは概念的に分節化されて初めてもたらされる。例えば、単に五感で捉える知覚与件のみであれば、「(全)世界」は現前しないから、(全)世界に対する欲望もまた起こりようがない。

〇概念的思考は人間なら世界共通なのに、何故NWO思想は一神教世界、特に西洋から出てくるのか。恐らく「唯一神」「イデア」「一者」等々、「他に依らずそれ自体で存在する」と定義される「実体」の観念から来ると考える。「実体」観念は万象が帰一する実在としてワンワールド志向を誘発しやすいのだ。

〇例えば、キリスト教なら「創造主」という実体観念があるから、「全ての被造物は創造主にひれ伏すべきだ」となる。新プラトン主義であれば「不純な物質世界(ヒューレー)は一者から流出した。この物質世界から抜け出して一者に帰還すべきだ」となる。理性崇拝教では「理性の支配に服すべき」となる。

〇西洋の思想派閥はキリスト教と神秘主義(新プラトン主義等)と理性崇拝教(啓蒙主義等)に大別されるが、この全てで「実体」の観念を持つ。キリスト教では「造物主」、神秘主義では「一者」、理性崇拝教では「理性」が其々該当する。皆「実体」の観念を持つので、どの思想派閥もNWO志向なのである。

〇東洋人も概念的思考は当然するが、東洋からはNWO思想が出てこなかったのは、「空」という「実体」の観念を完全に否定する思想が大きな影響を及ぼしたからではないだろうか。「自性=実体」の否定=無自性=空(=縁起)が実体の観念が強化され一つに収斂していく志向性を抑止する働きをしたと見る。

〇人間の五感による欲望は限界がある。しかしながら概念的存在に対する欲望は際限がない。例えば貨幣に対する欲望には際限がなくどこまでも増幅する。「世界を支配したい」という欲望もそれと同じ。仏教が苦の原因となる過度な欲望=執着の克服の為に概念的思考=分別への注意を促した理由はこれである。

〇「概念的存在」と書いたが、人間が認識した対象はある意味全て概念的存在と言える。例えば、知覚しうる「りんご」という対象は、「赤く、丸い、ざらざらした、酸っぱく、甘い」という視覚・触覚・味覚の複合という知覚与件である以上に「りんご」という概念で認識されている。

〇「西洋の思想派閥はキリスト教と神秘主義(新プラトン主義等)と理性崇拝教(啓蒙主義等)に大別」と書いたが、日本で言うと、「反日右翼」はキリスト教や西洋神秘主義を日本風に偽装したカルトを母体とし、「反日左翼」は理性崇拝教の直系である。共産主義は仏蘭西大東社系が担った理性崇拝教の流れ。