・黄金薔薇十字団 ~薔薇十字とフリーメーソン~

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※GDを始めとした魔術結社の多くは、薔薇十字団の末裔を意識しながら、同時に擬似フリーメーソンリーの位階制を採用している。
 
本来、起源を異にしている薔薇十字団とフリーメーソンは、いつごろから融合したのであろうか?
 
ここで重要になってくるのが、「黄金薔薇十字団」である。

薔薇十字の三文書が登場してから、薔薇十字運動は燎原の火の如くヨーロッパじゅうに広がり、以後数百年にわたって活動が行われることになる。
 
薔薇十字の潮流は、まず2つに大別される。一つは社会的・科学的・哲学的な啓蒙思想運動である。もう一つは、錬金術的なオカルティズム思想運動だ。そして、この錬金術的な思想運動は、さらに2つに分けられる。一つは「実践的魔術師」の潮流であり、もう一つは「思弁的神秘主義」の潮流だ。言うまでもなく、GDは「実践的魔術師」の薔薇十字運動の結社とも言える。
 
そして、この「実践的魔術師」の潮流は、「思弁的神秘主義者」の潮流から生み出されたのである。
 
とは言うものの、両者は、はっきりと区別できるものではないし、お互いに干渉しあい、融合したり、対立したりを繰り返してきた。
 
この両者の違いを、分かりやすく言うなら、「メイザース&クロウリー(実践的魔術師)」と「A・E・ウエイト(思弁的神秘主義者)」の対立と言ったところか? この両者は、どちらが正しいとか、どちらが優れているとか、そういった見方をするより、単に価値観の相違として見た方が公正であろう。両者には一長一短がある。例えば、ウエイトは、ライダー版タロットなどを見ても分かる通り、実践面ではお粗末ではあった。だが、思想史、神学、哲学などの学識の点から言えば、間違いなくウエイトは、メイザースやクロウリーの遥か上を行っていた。

話しを戻そう。
 
薔薇十字運動とフリーメーソンが結びついた経緯は、まだはっきりとは分かっていない。一説には、ロバート・フラットが両者を結びつけたのでは? という説もあるが、確証はない。ただ、早くもアンドレーエの弟子達がフリーメーソンに接近していたらしい。
 
イギリスより大陸に上陸したフリーメーソンは、急速に拡大成長を続けていた。そこへ、薔薇十字団の探索をしている人々が、接触した。彼らは、不思議なシンボルを用いて儀式を行うフリーメーソンを見て、これこそが薔薇十字団ではないのか? と思ったのであろう。少なくとも、17世紀には、両者の間に様々な接触があったと思われる。
 
しかし、薔薇十字とフリーメーソンが本格的に融合するのは、フリーメーソンのテンプル騎士団起源説が流行してからである。
このテンプル騎士団起源説を奉じる者達は、フリーメーソンが錬金術の結社になることを望んでいた。というのも、彼らは素朴にテンプル騎士団を錬金術の秘奥義に通じた秘教結社であると信じていたからだ。
 
やがて、彼らはテンプル系のメーソンでは満足しきれなくなり、「黄金薔薇十字団」運動へと向かって行くのである。
 
もともと、テンプル騎士団系のメーソンから発展した「黄金薔薇十字団」は、薔薇十字と銘うちながら、その内実はフリーメーソンに近く、位階制も踏襲していた。やがて、これがGDを始めとした魔術結社の雛形となるのである。
 
時代が下がると、「黄金薔薇十字団」の系統を引く者達は、テンプル騎士団起源説に魅力を感じなくなり、やがて忘れてゆく。代わりに発展してくるのが、聖書、およびカバラだ。18世紀になると、位階制を生命の樹に当てはめる結社も登場する。この時代に、現代の魔術結社の位階制の雛形が完成していたことが分かるであろう。
 
ともあれ、こうした一連の「黄金薔薇十字団」の活動は、主にドイツで行われていた。
 
GDの起源をドイツに求めたくなるのも、クリスチャン・ローゼンクロイツがドイツ人であるだけでなく、「黄金薔薇十字団」の運動がドイツで起こったということも、理由の一つにあるのではあるまいか?
 
さて、この「黄金薔薇十字団」と言う言葉は、早くも17世紀に登場するが、これは伝説の域を出ないようにも思われる。
 
むしろ注目すべきは、1710年に出版された「黄金薔薇十字団による友愛団の「哲学者の石」への真実かつ完全な準備」なる題名の本である。著者名はシンケルス・レナトゥスとあるが、これは偽名で、ザムエル・リヒターなる人物が、その正体である。彼はパラケルススとヤコブ・ベーメの熱烈な支持者であった。彼は、この著書の中で、黄金薔薇十字団について語っている。それは63人の定員性を持つ友愛団で、団員にはかの「哲学者の石」が支給されるという。さらに、この団の諸規則、イニシエーション、誓い、秘密の挨拶などが詳細に語られている。
 
リヒターが語る、この友愛団は実在したのか? 少なくとも、モデルとなった団があっても不思議ではなかろう。
 
リヒターのこの著書ほど有名ではないが、同時代に「黄金薔薇十字団」について語る写本は、他にもいくつも残されている。
 
団員に「哲学者の石」を支給する云々は、眉唾にしてみても、この時代に錬金術の研究に主眼を置いた「黄金薔薇十字団」のモデルとなった団が、盛んに活動していたことは間違いないと思われる。
 
実際、この時代には王侯貴族達も、字義通りの「鉛を金に変える」という無駄な努力に勤しんでいたし、それを冷ややかな目でみるヘルメス哲学者達もまた、多く活動していた。
 
ともあれ、こうした「黄金薔薇十字団」運動は、先に書いた通り、やがてテンプル騎士団系フリーメーソンと融合してゆく。

18世紀後半になると、「黄金薔薇十字団」を名乗る結社が登場する。
 
これは先に書いた通りのフリーメーソンの位階制を採用した薔薇十字結社であった。
 
この「黄金薔薇十字団」の起源はよく分かってはいない。ただ、ヘルマン・フィクトゥルトなる錬金術師によって創設されたか、別の結社を改革して作られたかしたらしい。ヘルマン・フィクトゥルトは、重要な錬金術の秘伝書を何冊も書いていながら、その正体は未だに謎に包まれている。
 
この「黄金薔薇十字団」は、多くの支部と分派を持ちながら、ドイツ全土に展開する。
 
1779年には26のサークルを持ち、アメリカ、イギリス、イタリア、パレスチナ、ペリシャにも支部を置いた(?)という。
 
かのカバリスト錬金術師のローゼンロートやヴァン・ヘルモント等の活躍によってこそ、こうした背景が形作られたのである。
 
彼らの主な活動は錬金術の研究であった。彼らが用いた錬金術のテキストは多く存在するが、特に有名なものが、ミヒャエル・マイヤーの著書やゲオルグ・フォン・ヴェリングの「魔術、カバラ、神学論集」などが挙げられる・

黄金薔薇十字団の隆盛と崩壊は、18世紀の終わりから19世紀初頭に起こる。
 
台風の目となるのは、以下の二人の人物だ。
 
ヨーハン・ルドルフ・フォン・ビショッフスヴェルダー(1714~1803)は、チュービンゲン出身の貴族であり、テンプル騎士団系のフリーメーソンに入り、その後に黄金薔薇十字団に入団した。
 
一方、ヨーハン・クリストフ・ヴェルナー(1732~1800)は、平民の出身であり、当初は牧師を志したが、それも放棄する。そして、貴族の領地を管理する仕事につく。やがて平民でありながら、貴族の娘と恋に落ち、周囲の激しい反発を受けながらも娘の親の許しを得て結婚した。
 
しかし、その代償は大きく、彼は貴族達から嫌われ、表の社会での成功はおぼつかなくなる。
 
そのため、彼はフリーメーソンの活動に熱中した。彼はメーソンの高位階につき、5つのロッジの指導者となる。そして、やはりテンプル騎士団系のメーソンの高位階を経由して、黄金薔薇十字団に入団するのである。
 
ヴェルナーは、たちまちのうちに黄金薔薇十字団の高位階に駆け上がり、錬金術思想をフリーメーソンに浸透させる活動に熱中していた。
 
この二人は、しばしば「悪党」だの「ペテン師」だのといった悪名でもって呼ばれることも多い。
 
と言うのも、二人は政治的野心をもち、プロシア国王のフリードリヒ・ヴィルヘルムに巧みに取り入ったからである。(後に、彼らは、ロシア皇帝をも黄金薔薇十字団にに引きもうとする計画も立てたが、これは成功しなかった。)
 
しかし、この悪名は不当だ。なるほど、二人は、時には手品を用いてインチキ魔術を演出したり、山師じみたこともしているが、基本的には、本気でヘルメス哲学を信じている真面目な錬金術の探求者であり、薔薇十字の世界革命を政治の場で実行に移そうとしていた。
 
二人は、フリードリヒ・ヴィルヘルム国王が、まだ王子の時に接近し、巧みに取り入り、彼を黄金薔薇十字団に入団させることに成功した。
 
やがて王子は王位につく。そして、王は黄金薔薇十字団の教義に夢中になる。必然的に二人の宮廷での地位は、飛躍的に良くなっていった。
 
ヴェルナーは宗教大臣に任命された。ヴェルナーは、兼ねてからの夢であった宗教改革に乗り出すが、激しい反発を受け、失敗に終わる。この「改革」で、彼は異端審問所の設置や言論統制といった、非難されても仕方の無い真似もしてはいるが、同時に貧民救済に熱心で、地位を利用して私服を肥やすようなことは一切やらなかった。彼は、真面目な政治家だったのである。
 
一方、ビショッフヴェルダーは、出世にはあまり関心は無かった。その気になれば、もっと高い地位も得られたろうが、少将と王の副官という地味な軍人職で満足していた。
 
しかし、彼らの後ろ盾とも言うべき王が死去すると、二人の地位は、あっさりと崩壊してしまう。
 
二人と黄金薔薇十字団関係者は、宮廷から、事実上追い出されてしまう。二人は田舎に領地を与えられ、そこで晩年を過ごした。

黄金薔薇十字団は、これを境に急速に衰退する。特に1785年と1790年に、南ドイツで布告された「錬金術禁止令」も大きな打撃となった。黄金薔薇十時団は地下にもぐり、やがてドイツでは、彼らの名は全く聞かれなくなってしまうのである。
 
……しかし、彼らは決して消滅したわけではなかった。彼らの運動は、ヨーロッパ全土の薔薇十字運動に影響をあたえ、その下地となったのである。
 
「英国薔薇十字協会」もGDも、ある意味、彼らの遠い子孫とも言えるのである。


「薔薇十字団」 クリストファ・マッキントッシュ 平凡社
「薔薇十字団」 ロラン・エディゴフェル 白水社

・フリーメーソンとオカルティズム

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※大部分のフリーメーソンは、思想を語り合う哲学研究の団体ではなく、上流階級のサロン、社交クラブと言うのが実態であった。また、その活動は、相互扶助の助け合いが主であった。
 
したがって、ほとんどのフリーメーソン会員はオカルティズムには関心を持たない者ばかりであった。いや、そもそも関わり合いすら持ちたがらなかった者が殆どだったであろう。
 
確かに、ロンドンの大ロッジが設立される前からも、薔薇十字運動の影響を受けて、フリーメーソンに秘教的な香りを期待して近づいた者も少なくなかった。しかし、薔薇十字運動に参加した者の中でも、オカルティストと言える程の人は、実はあまり多くはなかったのである。いいところ、神秘主義思想に心引かれるインテリ、啓蒙思想の支持者と言ったところが関の山であった。
 
すなわち、思弁的フリーメーソンの参入者達は、ほとんどが神秘主義にたいしては「ごっこ」以上の関心は持っていなかったのである。

とは言うものの、オカルティズム思想に本当に興味を持ち、それを学び研究するためにフリーメーソンに近づく者もまた、多くは無いが、確実に存在したのである。
 
フリーメーソンのオカルト結社化については、テンプル騎士団が大きく関係している。
 
1737年、パリの大ロッジで、「ラムジーの講話」なるものが発表された。この講話を発表したラムジー・アンドリュー・マイケルは、カトリックに改宗したイギリス人で、高位メーソンの法学者であった。そして、フランスにスコットランド式の儀礼を広めた人物でもある。彼は、この講話の中で、こんな説を発表する。
 
十字軍の時代、聖地エルサレムを異教徒の手から奪還しようとした騎士達は、国籍や身分と言った壁を乗り越えた「霊的な」統一国家を樹立するために、理想的な友愛団を創設した。そして、「連綿と継承されてきた秘儀と叡智」を民衆の間に広めようとした。しかし、これらの知識が不信心者や異教徒の手に渡らないよう、独自の合言葉やシンボルを用いて、暗喩という形で布教を行っていた。
 
一方、聖地から帰還した友愛団に所属する騎士達はヨーロッパの各地にロッジを設立した。フリーメーソンは、こうしたロッジの生き残りである……。
 
ラムジーのこの講話は、最初は高級幹部のみに限定して聞かされた。しかし、早くも翌年には小冊子となって一般にも発表された。
 
彼は、この講話の中で「テンプル騎士団」と言う言葉は使っていない。
 
しかし、仄めかしているのは確かだ。「ほどなくして我々は聖ヨハネ騎士団と併合された」なる遠まわしな歴史的事実が書かれていた。
 
また、フランスにはテンプル騎士団の残党がスコットランドに落ち延びたという言い伝えがあった。さらに、どちらも「ソロモンの神殿」と大いに関係がある。フリーメーソンはソロモンの神殿を作った石工の末裔だという伝説もあったし、テンプル騎士団もソロモンの神殿(テンプル)の跡地に幕屋を構えた。こうした偶然が話しに信憑性のようなものを与えてしまった。
 
さらに、フランスだけではなく、スコットランド派のメーソンの一部にも、紛らわしい伝説が存在したことも、これに拍車をかけた。例えば、ピエール・ドーモンなるテンプル騎士団の騎士がスコットランドの実践メーソンの創立者である、という説だ。その他にも「異境の地」だの「霊峰ヘレドム」など、メーソンには紛らわしい伝説やシンボルがいくつも存在した。
 
そして、フリーメーソンの「ヒラム・アビフ伝説」が、テンプル騎士団のジャック・ド・モレーの復讐伝説と、重なりあった。
 
ヒラム・アビフとは、伝説上の人物で、ソロモンの神殿を建設した大棟梁である。伝説によると、彼はフリーメーソンの秘儀に通じた奥義伝授者だった。ある日、彼の三人の部下が良からぬ考えを起こし、彼を待ち伏せ、秘儀を明かすように脅しをかけた。しかし、ヒラム・アビフは頑として口を割らなかったために殺害される。この三人の下手人は、彼の死体を山に埋め、そこにアカシヤの枝をさしておいた。彼の姿が見えなくなったことに気づいたソロモン王は15人の石工に彼の捜索を命じる。そして、創作中の職人が偶然、アカシヤの枝を手がかりに彼の死体を発見し、それが手がかりとなって下手人の三人は逮捕され、処刑される。
 
これは、フリーメーソンの象徴的寓意なのだが、ジャック・ド・モレー伝説は、これの繰り返しではないのか? と言うわけである。

勿論、これは完全に空想の産物であり、歴史的根拠は全くない。
 
そもそも、テンプル騎士団が秘教結社だったということ自体、根拠の無い話しだ。
 
それどころか、この騎士団は、「秘密結社」ですら無かった。(これらについては別項で詳述する。)
 
事実、この講話が発表されてすぐ、スコットランドの大ロッジは「馬鹿馬鹿しい」とのコメントを出したが、この「テンプル騎士団起源説」は、ヨーロッパ大陸で大旋風を引き起こしてしまったのである。
 
そしてついに、スコットランド派からも、この説に興味が惹かれる者も現れることになる。
 
1754年にボンヌヴィル勲功侯がラムゼーの構想を受け継ぎ「クレルモン参次会」を創設。1760年には、そこからさらに「テンプル厳修派」なる分派が生まれた。
 
こうしたテンプル騎士団を標榜する分派が、数多く生まれ出た。しかし、このブームはすぐに沈静化する。こうした分派のメンバー達も、次第にこの説を放棄し、正統派に戻って行った。
 
しかし、それでも多くのメーソンがテンプル騎士団に近親感を持っているのは確かだ。何しろ、絶対王政と異端審問所という「共通の敵」を持っているからだ。

ともかくも、このブームがきっかけとなって、「テンプル騎士団系フリーメーソン」が雨後の筍の如く、ヨーロッパ中に創設される。これらは、錬金術、ヘルメス哲学、占星術、カタリ派の思想、各種キリスト教神秘主義を取り込み、オカルティズム結社化を進めてゆく。
 
位階制が量産されるのも、この騎士団系メーソンで、ものによっては100位階を越えるものすらあった。
 
こうした思想はテンプラリズムと呼ばれる。
 
代表的な団として、「テンプルと聖ヨハネの連合教団」、「テンプルとホスピタルの騎士団」、「王立教団」などがある。これらはいずれもイギリスの団だ。
 
フランスにも夥しい数のテンプラリズムの騎士団が創設された。
 
その中でも有名なものは、1804年にB・R・ファブレ・パラプラによって設立された「テンプル教団」であろう。この団は、「ラルメニウスの証書」だの「レヂティコン」なる怪しげな証拠と称する古文書や、偽造品の聖遺物を持ち出して、正統なテンプル騎士団の後継団体を名乗った。高位メーソンたちが面白がって参加したために、そこそこの分派にまで成長した。そのうえ、ナポレオンの支援まで受けたこともある。が、創立者のパラプラの権力が、高位メーソンの参加によって失墜し、すぐに衰退した。
 
他にも「新テンプル騎士団」、「エルサレム神殿全権軍事騎士団」などがあり、アメリカを中心に現代でも活動している団もある。

これらの団の設立過程は、ケース・バイ・ケースである。
 
思弁的メーソンと何の関係の無いもの、最初は関係無かったが途中から融合したもの、関係の曖昧なもの、設立の認定証を貰いながらも変形したもの……などなどである。

言うまでもなく、ロンドンの大ロッジことスコットランド派やフランス大東社と言った主流派は、こうした活動を軽蔑するか、無視するか、である。
 
そして当然の如く「非正規」のメーソンとされる。(さらに残念なことにごくごく一部だが破壊的カルト化する集団も現れた。スイスで集団自殺事件を起こした「太陽教団」も、こうしたテンプル騎士団系メーソンの子孫である)

だが、こうしたテンプル騎士団系メーソンこそが、後の魔術結社の母体となるのである。
 
かのOTOが、その一つだ。
 
また、母体とはならないまでも、位階制などに大きな影響を与える。
 
儀礼に薔薇十字のシンボルを好んで使ったのも、テンプル騎士団系フリーメーソンだ。これは、かの「黄金の夜明け」の遠い先祖と言えなくも無い。


「テンプル騎士団」 レジーヌ・ペルヌー 白水社
「テンプル騎士団の謎」 レジーヌ・ペルヌー 創元社
「秘密結社の辞典」 有澤玲 柏書房