・旧約聖書アラビア起源説

https://fknews-2ch.net/archives/20170208.html

※エジプト?

この一連のシリーズの取っ掛かりは、「出エジプト記の舞台はエジプトじゃないのでは?」という疑問。

記録がない

大量のイスラエル人がエジプトから亡命したとされる、出エジプト。

旧約聖書には、「60万人の男とその家族」と書かれていますので、総勢200万人とかそういうレベルの人間が亡命したわけです。



これはもう大事件ですよ。

にもかかわらず、その記録はサッパリ見つかりません。

古代エジプトは、文書(碑文やメモや落書き)がわりと豊富に見つかっているのですが、どういうわけか出エジプトに関する記録だけは、サッパリ見つかりません。

まあ人数がかなり誇張されている感じはします。

それでも、「出エジプトって、本当にエジプトでの出来事なんですかね…??」という疑念が湧いてくるわけです。

ミツライムとは何なのか

旧約聖書において、「エジプト」を指す単語は、「msrym(ミツライム)」です。

しかし、これも実は変な話なのです。

「エジプト」という地名は、

「コプト」
 ↓
「ギプト」
 ↓
「アル=ギプト」
 ↓
「エジプト」

という感じで変化していったもの。

紀元前にエジプトが「ミツライム」と呼ばれたケースは、旧約聖書以外には一つも確認されていません。

したがって、旧約聖書における「出ミツライム」が「出エジプト」である理由は何一つありません。

というか、「ミツライム」の本来の意味など分かっていないのです。

七十人訳聖書

それでは、なぜ「ミツライム」は「エジプト」と解釈されているのか。

その原因と思しきは、B.C.3世紀ごろに行われた「七十人訳聖書」の編纂であります。

旧約聖書はもともとは「古ヘブライ語」という言語で書かれた書物ですが、この古ヘブライ語はB.C.6世紀頃に話し言葉としては消滅してしまっています。

一応、ユダヤ教の儀式の中ではかろうじて残っていましたが、結局のところ古ヘブライ語を扱えるのはもうユダヤ教の司祭や一部の知識階級に限られてしまっていました。

このままでは誰も旧約聖書を読めなくなっちまう。

ユダヤ教が幸運だったのは、B.C.4世紀の終わり頃からエジプトを支配していたプトレマイオス朝エジプトが、学問や文化芸術を非常に大切にする王朝だったことであります。

時の王プトレマイオス2世は旧約聖書をギリシア語に翻訳するよう命じ、ユダヤ教の司祭たちが学術都市アレキサンドリアに集められたのです。



(上)編纂のようす

子音文字

古ヘブライ語はアブジャドという子音だけで表記するタイプの言語。2chで言えば、ggrksとかkwskみたいな感じ。

ものすごく不便そうに感じますが、実際には単語に一定のルールがあるので、言語そのものを知ってさえいれば、問題なく理解できるものです。

ただ逆に、元々の言語を知らない人がこれを正確に読み取ることは困難です。

七十人訳聖書の翻訳時点で、古ヘブライ語はすでに話し言葉としては消滅していました。

そして、その翻訳に携わった司祭たちだって、古ヘブライ語の消滅から何世代も後の人間でした。

彼らの文法や語彙の知識は、かなりの部分が伝承を元にしたあやふやなものだったはずであります。

そんな状態で、彼らは旧約聖書に登場する数々の地名を正確に照らし合わすことができたでしょうか。

「msrym」という単語は、本当に「エジプト」のことなのでしょうか?

「yrwšlym」は、本当に「エルサレム」のこと?

「’wr」は、本当にメソポタミアの「ウル」のこと?

「r’mss」は、本当にエジプトの「ラムセス』のこと?

現代の常識ではその通りですが、果たしてそう言い切れるでしょうか。

ここで思い出して欲しいのは、旧約聖書に登場する地名のうち、確定的に「ここだ!」と特定された場所はないとういうこと。

そもそも一番大事な「エルサレム」ですら、統一イスラエル王国の首都だったという確証はありません。

その他、パレスチナからはいくつも遺跡が見つかっていますが、それが旧約聖書に登場する街だと断定できる証拠は何一つ見つかっていません。

聖書アラビア起源説

ここから本題。

1985年4月、ある一冊の本が欧米各国で議論を巻き起こしました。

その本の名は、「聖書アラビア起源説」。



この本の著者は、レバノンの歴史家カマール・サリービーという人物です。



ベイルート・アメリカン大学の歴史考古学部の名誉教授でもある。

ある日、彼がサウジアラビアの地名図鑑を眺めていた時のこと。

図鑑に登場するいくつもの地名が、どうもどこかで見たような気がしてならない。

サリービー教授は敬虔なクリスチャンだったため、すぐにその既視感の正体に思い至ります。

それは、にわかには信じがたい仮説。

これ、ひょっとしたら旧約聖書の地名なんじゃないの?

不都合な地理

実は、地理的な観点から見ても、旧約聖書には結構問題があります。

地名がない

地名というのは、「言葉の化石」と言われるほど、変化しにくいものであります。

しかし、パレスチナの地名と旧約聖書の地名の一致率が異常に低いという事実があります。

旧約聖書には800を超える地名が登場しますが、そのうち実際にパレスチナに残っているのは、ほんの一握りに過ぎません。

これは、聖書考古学者を苦しめている原因の一つでもあります。

地名から場所を特定することができないために、彼らは旧約聖書の街を追い求めてひたすら遺跡を掘るしかないのであります。

そして、その発掘も成果が出ていないという具合。

神様の正体

別の例として、YHWHも挙げられます。

今でこそ、YHWHは唯一にして最高の神様ですが、最初からそうだったわけではありません。

初めは「ある自然現象」を象徴する神だったと言われています。

そのヒントは、旧約聖書中のいくつかのエピソードにあります。

ソドムとゴモラ

堕落した街、ソドム(sdm)とゴモラ(’mrh)。

そこの住民たちは、「不自然な肉の欲の満足を追い求めていた(*´Д`*)」らしいです。

なんとも羨ましい限りですが、YHWH目線ではこれはもう大変けしからんこと。

彼は天から硫黄と火を降らせて、ソドムとゴモラをあっという間に滅ぼしたとされています。



シナイ山

次は、モーセがシナイ山(←場所不明)で十戒を受け取る際の、YHWHの登場シーン。

出エジプト記 19章16節
三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。

出エジプト記 19章18節
シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。



YHWHはパレスチナにはいない

もうお分かりですね。

YHWHは、もともと火山の神だったのです。上に挙げたエピソードは、明らかに火山の噴火を象徴しています。



(上)怒らせたらヤバイ

ところが、である。

パレスチナやシナイ半島に、火山は存在しないのです。

見たこともない自然現象を自分たちの主神にするなんて、ちょっと考えにくい気がしませんか?

エチオピアとパレスチナ

ちと細い話ですが、もう一つ例を。

ユダヤ人の父祖アブラハムは、メソポタミアのウルから旅立った後、一時期ゲラルという街に住んでいました。

その場所は未だにわかっていませんが、なんとなく「パレスチナの地中海沿岸にあったんじゃない」と考えられています。

このゲラルという街は、旧約聖書によればクシュ人が支配していたと書かれています。

で、この「クシュ人」というのは、エチオピアらへんで栄えたクシュ王国のことだとされていて、旧約聖書のいろんな場面でちょくちょく登場します。

だが待って欲しい。

冷静になって、クシュ王国とゲラル(仮)の位置関係を見てみましょう↓。



この二つの間には、超大国エジプトが陣取っています。

アブラハムが生きていたB.C.20世紀頃のエジプトは、もう圧倒的なパワーを持っていました。当時世界一かもしれん。

クシュ王国は、そんなエジプトを飛び越えて、遠くの一都市を支配していたことになっているわけですが、そんなの無理じゃないですかねぇ…。

本当の舞台

という具合に、挙げ始めたらキリがないのですが、要するに、旧約聖書には地理的にもいろいろと矛盾があるのであります。

そして、それを解決するかもしれないのが、サリービー氏が唱えた聖書アラビア起源説という仮説なのです。

この説の骨子は、

本当の旧約聖書の舞台は、パレスチナではなく、サウジアラビア南部のアシール地方だよ

という主張です。

アシール地方というのはここね↓。



今でいうと、サウジアラビアのイエメン寄りらへん。

「アシール地方」などと言われても「へーそうですか」程度の感想しか出てこないくらい、我々日本人には馴染みのない地域ではあります。

サリービー氏は、サウジアラビアの地名図鑑を読んでいた時に、旧約聖書に登場する地名の大半を、このアシール地方から見つけ出すことができました。

その上、旧約聖書の物語をアシール地方の地理に置き換えても、物語上の位置関係や、登場人物の移動経路に破綻をきたさず、むしろ自然に理解出来る位置関係になります。

ここでその考証を一つ一つ検証することはしません(ちょっと無理…)。

ですが、こんな都合よく聖書の地理に当てはまる土地は、アシール地方以外には存在しないのであります。

本当の地名

では、サリービー氏が発見した本当の地名はどんな感じなのでしょうか。

例えば、古代イスラエルの首都エルサレム(yrwšlym)。

サリービー氏は、これは本当はアシール地方にある「アール・シャリーム」のことだと言います。

同じように、父祖アブラハムの故郷はメソポタミアのウル(’wr)ではなく、「ワルヤー」という村。

ゲラル(grr)は、「グラール」という村。

モーセが脱出したのはエジプトのラメセス(r’mss)ではなく、「ラ・マサース」という村。

エチオピアのクシュ王国(kwš)とされていたのは、本当は「クーサ」という村。

そして、エジプト(msrym)は、クーサの近くにあるミスラーマという村。

という具合。

要は、せいぜい300km四方の、アラビア半島南部のアシール地方で起こった一連の出来事というわけ。

ワルヤー村出身のアブラハムは、西のグラール村に引っ越しました。

その子孫はミスラーマ村に移住したけど、奴隷扱いされたので脱出しました。

そして、周辺の村を侵略して、最終的にアール・シャリームに本拠地を置き、小さな王国を築いたよ。

なんともスケールの小さい話であります。

信憑性

ただもちろん、単に地名が一緒というだけでは、その信憑性は微妙ですよね。

もっと具体的な証拠が必要。

本来、その根拠を示すのに一番手っ取り早いのは、考古学的調査。発掘です。

実際、アシール地方には多くの遺跡の存在が確認されていますが、未だにその発掘調査は行われておらず、この説の裏付けを取ることはできません。

しかし、推測できることが幾つかあります。

火山があるよ

YHWHのモデルである火山。

パレスチナには一個もありませんが、アラビア半島には幾つも火山があります。

さらに言うと、アシール地方自体が溶岩層でできていて、かつて火山活動が活発だったことが伺えるのであります。

だとすると、火山の神を信仰するのは非常に自然なことと言えますね。

イエメンのユダヤ人

イエメン。

サウジアラビアの南、アラビア半島の最南端にあるこの国では、不思議なことについ最近までユダヤ教徒が存在していました。





(上)イエメンのユダヤ人

「マジック・カーペット作戦」で検索せよ。

なぜ、パレスチナから遠く離れたイエメンに、ユダヤ教があるのか。

もっとも古い伝承では、ユダヤ教を信じる人々がイエメンに定住したのはB.C.1451年とされています。

ソロモン王が金銀を調達するためによこした商人が定住した、という言い伝えもあります。

諸説あってイエメンのユダヤ教の起源はハッキリしませんが、かなり古い時代からそこにいたのは間違いなさそう。

もしアシール地方がユダヤ人の本当の故郷だったとするならば、そのすぐ南にあるイエメンにその子孫が残っていても不思議ではありません。

つまりどういうことなのか

もう一度整理してみましょう。

旧約聖書の舞台がパレスチナだったという現在の説については、

・パレスチナには旧約聖書に対応する地名がほとんど残っていない。

・火山もない。

・いくつも遺跡が発見されているけど、旧約聖書との繋がりは一つも発見できていない。

という問題があります。

それに対し、アラビア半島のアシール地方が舞台だったとすると、

・サウジアラビアのアシール地方からは、旧約聖書に登場する地名のほとんどを見つけることができる。

・火山がある。

・アシールには未調査の遺跡がたくさんある。

・アシール地方のすぐ南のイエメンには、つい最近まで何故かユダヤ教徒が存在していた。

という感じ。

もし仮にアシール地方が本当の聖書の故郷だとすると、パレスチナから古代イスラエルの痕跡が見つからない理由も説明がつきます。

また、ユダ王国やイスラエル王国が、他国の文献に登場しているにもかかわらず、パレスチナで遺跡を発見できない理由も説明できます。

全てはアシール地方に存在していたのであり、現代の考古学者は見当違いの場所を発掘しているのです。

いつ置き換わったのか

この説が正しいとするなら、いつどのようにして、「アシール地方の物語」が「パレスチナの物語」へと置き換わってしまったのでしょうか。

ここからは空想全開ですので、適当な気持ちで読んでくださいね。

↓↓↓↓↓↓ここから空想↓↓↓↓↓↓

まず、思い出して欲しいことが二つあります。

一つは、フェニキア人の故郷がどこだったか。
もう一つは、七十人訳聖書がどこで編纂されたか。

フェニキア人=イスラエル人?

前回の記事で、旧約聖書の原典に書かれている古ヘブライ文字は、その実在が疑わしいと書きました。



(上)古ヘブライ文字



(上)フェニキア文字

この比較画像から分かる通り、古ヘブライ文字とフェニキア文字は、どう見ても同じ文字なのです。

つまり、今日パレスチナで発見されている数々の遺跡は、本当はフェニキア人のものだった疑いがある。

もっと言うと、我々は「フェニキア人の歴史」を「イスラエル人(ユダヤ人)の歴史」だと思い込んでいるのです。

ヘロドトスの「歴史」によると、フェニキア人は元々紅海沿岸に住んでいて、やがてパレスチナへと移住してきたとされています。

アシール地方は、まさに紅海沿岸。

これまでの話を総合すると、フェニキア人の故郷はアシール地方だと考えるのが一番自然です。

アシールとパレスチナ

フェニキア人の中には、パレスチナに移住せず、紅海沿岸に残った人もいました。

旧約聖書は、そのアシール地方に残ったフェニキア人が書いた、アシール地方の出来事を記録した書物なのです。

しかし、B.C.6世紀、アシール地方のフェニキア人の国は、新バビロニアに攻められて終わってしまいます。

そして、地中海のフェニキア人も、ペルシャとかマケドニアとかに攻められて、パレスチナから駆逐されてしまいます。

人類史上最大の偽造

そんな感じで、パレスチナでの覇権を失ったフェニキア人。

そんな彼らが起死回生を図って取り組んだのが、旧約聖書のスケールをでっかく見せかけて信者を増やす試みだったのではないでしょうか。

文化を愛するプトレマイオス2世が命じた七十人訳聖書の翻訳プロジェクト。

この時、フェニキア人は、本当の「古ヘブライ語(=フェニキア語)」を読める人が誰もいなくなっているのを良い事に、アシール地方の地名のことごとくをパレスチナの地名だと解釈しました。

「出『ミスラーマ村』記」も、「出エジプト記」となりました。「ミツライム」を「エジプト」だと無理やり言い張ったのです。

ここで大事なのは、翻訳を命じたプトレマイオス2世がエジプト人ではなくマケドニア人だったという点。

出エジプト記におけるエジプトというのは、イスラエル人をいわれなく奴隷にして、赤子を皆殺しにしようとして、YHWHをナメて、逆にコテンパンにやられるという役割。

生粋のエジプトっ子なら激怒するところですが、プトレマイオス2世はマケドニア人なので、それまでのエジプトの歴史と連続性を持っていません。

したがって、七十人訳聖書を読んだ彼の感想は、「エジプト人って酷かったんだね。エジプトの古い歴史を知れてラッキー♪」程度だったと推察されます。

こうして、フェニキア人はアシール地方の地味な歴史を、見事に壮大なものに見せかけることに成功します。

その結果、人種民族にかかわらず多彩な信者が集まってきました。

やがて、ユダヤ教という宗教のみで繋がる「ユダヤ人」という集団が構築されたのであります。

↑↑↑↑↑↑ここまで空想↑↑↑↑↑↑

聖書アラビア起源説の可能性

もし、旧約聖書の起源がアシール地方だとすると、今のイスラエルがあそこに建国した正当性は、木っ端微塵に吹き飛んでしまいます。



(上)イスラエル建国時の独立宣言(1948)

しかし一方で、この説の根拠は「地名が似ている」というだけのことに過ぎず、単なるトンデモだったという結末も十分にあり得ます。

それでもなお、この説が正しい可能性がゼロではない理由。

それは、本流の聖書考古学が、未だに成果を出せていないからなのであります。

パレスチナでは未だに何の遺跡も見つかっておらず、「旧約聖書は大げさだった」なんていう結論を出しています。

そんな退屈な結論よりも、この「旧約聖書アラビア起源説」の方がよっぽどロマンがありませんか?




※ブログ主コメント:イエメンにユダヤ人が多いのは、ヒムヤル王国というユダヤ教国家があったためだとも考えられます。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヒムヤル王国とは、紀元前115年頃から525年にかけてアラビア半島南部のヤマン(イエメン)に存在していた国家である。首都はザファール(ラフジュ)。

王国の歴史は成立からエチオピアのアクスム王国の攻撃を受ける4世紀頃までの第一期、525年に滅亡するまでの第二期に分けられる。南アラビア史において主導的な役割を果たした国家であり、同時期に南アラビアに存在していたサバア王国、ハドラマウト王国と覇権を争った。523年にユダヤ教徒の国王ズー・ヌワースがナジュラーンに居住するキリスト教徒を弾圧した事件の後、ヒムヤル王国はアクスム王国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、イランのサーサーン朝の介入を受けて滅亡する。ただし、525年のアクスム王親征軍によりズー・ヌワースが破滅すると、アクスム王によってキリスト教徒のスムヤファ・アシュワァが王位に封じられている。その後にアクスム軍の将軍がクーデターで王位を簒奪している。以上のことから、真の滅亡は570年代とみられる。


歴史

第一次ヒムヤル王国

紀元前2世紀、アデン東部を支配するカタバーン王国から離脱した諸部族が、イエメン南部の高原地帯にヒムヤル部族連合を形成する。ギリシャ世界においてヒムヤルの諸部族はホメリタエ (Homeritae) と呼ばれ、博物学者の大プリニウスは「最も多数の種族」と言及した。ヒムヤル族はサバア人、ミナエア(ミネア、ミナー)人の文化と商業を継承し、同じ言語を話していたと考えられている。アラブの系譜学において、ヒムヤル族の祖であるヒムヤルは、南アラブの祖であるカフターンの玄孫に位置づけられている。

インド洋と地中海を結ぶ交易ルートが「香料の道」と呼ばれる陸路から紅海を経由する海路に移ると、紅海沿岸の港を支配するヒムヤル族はその恩恵を受け、紀元前1世紀から1世紀にかけて急速に発展する。紀元前25年、ローマの将軍アエリウス・ガルスの率いる遠征軍が富を求めて南アラビアに侵入する事件が起きる。遠征軍は酷暑に屈して撤退し、サバの首都マアリブに到達することはできなかった。

1世紀にヒムヤルはサバアと連合王国を形成し、連合国家はサバ・ヒムヤル王国と称された。その後両国は再び敵対し、2世紀末にヒムヤルの首都がザファールに移される。ザファールが首都とされた理由について、マァリブを経由する乳香交易路の衰退、インド洋交易に適したザファールの立地が一因であったと推測されている。ザファールを統治したヒムヤル王カリバ・イル・ワタル(カリバエル、チャリバエール)は、ローマ帝国と交流を持ったと伝えられている。

2世紀末、ローマ帝国の衰退に乗じて勢力を拡大しつつあるエチオピアのアクスム王国が、紅海を越えて南アラビアに進出する。アクスム王自らがアラビア半島に遠征し、従来ヒムヤルとサバの領有下にあったアラビア半島南西部の沿岸地域、高原地帯の一部がアクスムの支配下に置かれた。アラビアに進出したアクスムは当初サバ、ハドラマウトと同盟してヒムヤルに敵対していたが、ヒムヤルが内紛で弱体化し、サバの勢力が強まると、ヒムヤルと同盟してサバに対抗した。3世紀末にヒムヤル王シャンマル・ユハルイシュはサバ、ハドラマウトを併合して南アラビアの統一に成功する。だが、ヒムヤルの統一事業の達成にはアクスムの支援が大きな役割を果たしていたとする見解も存在する。


第二次ヒムヤル王国

4世紀に入り、ヒムヤルはアラビア半島中心部への進出を試みるようになる。300年頃に王の称号にハドラマウト、ヤマナート(南アラビアの海岸地帯)が追加されていた。しかし、4世紀初頭にエチオピアのアクスム王国の干渉と攻撃を受け、4世紀半ばに建立されたアクスムの碑文に確認される王の称号の中にヒムヤルも含まれていた。第二次ヒムヤル王国の国王であるシャンマル・ヤルアシュ、アブー・カリバ・アスアドは、後世のアラブの伝承に征服者として名前を残した。アブー・カリバの死後に彼の子であるハサンが即位するが、ハサンは弟のアムルによって殺害される。アムルの死後にヒムヤル族は分裂するが、ハサンのもう一人の弟であるズー・ヌワース(ズルア・ブン・ティバーン・アスワド)によって反乱者は殺害され、王国は再統一された。

イエメンにおけるユダヤ教の勢力は6世紀初頭に確固たる物となっていたが、ユダヤ教の隆盛はキリスト教国であるアクスムとの対立の一因となる。交易活動の中でヒムヤルとアクスムの間に武力衝突が起こり、ヒムヤルの攻撃によって死者が出たアクスム側は517年に南アラビアに派兵し、この年以降両国の貿易摩擦が進展する。

523年10月、ナジュラーンで、ズー・ヌワースによるキリスト教徒の虐殺が起きる(ナジュラーンの迫害)。虐殺が起きた背景について、イエメン土着のキリスト教徒が抱いていた、エチオピアのキリスト教徒によるイエメン支配を憎悪する感情があったと考えられているナジュラーンの迫害は各地に波及し、それぞれの地域でキリスト教徒への攻撃が起きる。ナジュラーンの住民の訴えを受けたアクスム王カレブ(エッラ・アスベハ、エラスボアス)は、キリスト教徒迫害を憂慮した東ローマ皇帝ユスティヌス1世から輸送艦隊の貸与を受けた。アラビア方面への影響力の強化、イランのサーサーン朝への牽制と商業関係の強化を図る東ローマ帝国は海路から軍隊を送るとともに、アレクサンドリア総主教ティモセオス3世に援軍を要請し、525年春にアクスムのヒムヤル遠征が開始された。アクスムに敗れたヒムヤル王国は滅亡し、イブン・イスハーク、タバリーらイスラーム世界の歴史家はズー・ヌワースが海中に飛び込んで自害したと述べている。

ヒムヤル攻撃を指揮したアクスム軍ヒムヤル駐留司令官アブラハはイエメンで独立し、ヒムヤル王位を簒奪した。アブラハは中央アラビアのマアッド(リヤド周辺)のフジュル朝やヒジャーズ地方に遠征し服属させた。アラブ世界の伝承では、ヒムヤル王族の末裔であるサイフ・イブン・ズィー・ヤザンが強国の援助を得るために東ローマ帝国、サーサーン朝を訪れ、最後にサイフがサーサーン朝からイエメンの共同統治者に任じられたことが述べられている。575年にサーサーン朝の軍隊が海路を経て南アラビアを征服し、サーサーン朝は地中海とインド洋を結ぶ陸海の交易路をすべて掌握する。サーサーン朝によってイエメンにサトラップ(総督)が置かれ、サトラップはサナアに駐屯した。628年にサトラップのバーダーンは預言者ムハンマドの呼びかけに応じてイスラム教に改宗し、ヒムヤル族の多くもイスラム教を受け入れた。


社会

城郭に住処を置いて領地を所有していた、紀元前1世紀から4世紀までの第一次ヒムヤル王国の王は封建領主に比定される。王国で発行された銀貨と銅貨の表面にはアテネの町の紋章でもあるフクロウ、裏面には雄牛の像が刻まれた。

碑文では、ヒムヤルの国王は「マリク (maik) 」を王号として使用していたことが確認されている。クルアーン(コーラン)、イスラーム世界の歴史学者が記した伝承にはヒムヤルの国王は「トゥッバァ(トゥッバウ、Tubba'/タバービア、Tabābi'a)」という称号を用いていたと記されているが、ヒムヤル王国の碑文に「トゥッバウ」という称号は確認されていない。トゥッバァが示す人物の定義は伝承によって異なり、語源もアラビア語、ゲエズ語(古エチオピア語)、古代南アラビアの族名など諸説分かれている。伝承に現れるトゥッバァを碑文で確認される王と同定する試みがされてきたが、不成功に終わっている。古代南アラビア史の研究者である蔀勇造は伝承に現れる王名をエチオピア語がアラビア語に訳されたものと推定し、彼らをヒムヤルに強い影響力を行使していたアクスムの王、あるいは王子と見なしている。

元来南アラビアでは月の神を頂点とする多神教の天体信仰が主流を占めていたが、4世紀の第二次ヒムヤル王国の時代にヒムヤルにキリスト教とユダヤ教が伝えられる。多神教の神殿に奉納される碑文の末尾には祈願する多数の神の名前が記されていたが、多神教信仰は一神教信仰に変化していき、363年/373年に奉納された碑文の末尾には「天の神」のみへの祈願が記されていた。4世紀初頭のヒムヤルでは「天の神」を信仰する一神教が存在しながらも王家はユダヤ教の影響を受け、キリスト教に対して非常に友好的な態度を取る状況が成立していた。ユダヤ教の影響を受けた一神教の出現の背景には、キリスト教を受容してビザンツ帝国と同盟したアクスムに対抗するため、ヒジャーズとメソポタミアのユダヤ教徒コミュニティとの関係を深める意図があったと推測されている。やがて、それぞれの宗教の信者の間に宗教的対立が起きるようになる。

356年にローマ皇帝コンスタンティヌス2世によって派遣されたアリウス派のテオフィルス・インダスを長とする使節団が初めて南アラビアを訪れ、テオフィルスはアデンなど3箇所の土地に教会堂を建立した。500年頃にナジュラーンにおいてシリアの聖者ファイミユーン(フェミオン)が、この地に単性説のキリスト教徒のコミュニティを形成したといわれている。ナジュラーンでのキリスト教の布教について、ファイミユーン、あるいはファイミユーンから教えを受けて改宗したナジュラーンの住民アブドゥッラーが大きな役割を果たし、支配者と住民は多神教からキリスト教に改宗した伝承が残されている。523年のナジュラーンの迫害において、アブドゥッラーも他の人間とともに殉死したと伝えられている。

5世紀のある時期から「天の神」を信仰する一神教は実質的にユダヤ教と同質の宗教となり、多神教時代の神殿に代えてシナゴーグが建設され、ユダヤ系の人名、宗教分野の語彙が取り入れられる。6世紀初頭になるとイエメンにおけるユダヤ教の勢力は揺るぎ無いものとなっており、アブー・カリバ・アスアド、ズー・ヌワースらヒムヤルの国王の中にもユダヤ教に改宗した者がいた。アブー・カリバはヤスリブ(メディナ)に遠征を行った際、2人のヤスリブのユダヤの法学者を連れ帰り、彼らの意見を容れて多神教時代の神殿を破壊したと伝えられている。