・聖書アラビア起源説

http://feb27.sakura.ne.jp/episode11.html
 


(上)カマール・サリービーによれば、このアシュール地方で古代イスラエル王国が建国され、「ソロモン王の神殿」もアシュール地方のエルサレムつまり、現在のアール・シャリームにあったという。古代イスラエル王国の遺跡とソロモン王の神殿は、今もアシール地方の地下に眠っているはずであるという。

※ここでいう「聖書」は、ユダヤ教の聖典の「旧約聖書」のこと。この旧約聖書の舞台である、アブラハムが神から約束された地、モーゼがユダヤ民族に与えると約束された「蜜と乳のしたたる地」、ダビデ王・ソロモン王の活躍した古代イスラエル王国の地は、現在のパレスチナ地方ではなく、アラビア半島のアシール地方にあるというのが、この説の根幹である。 
 
現在のイスラエルの建国されたパレスチナの地をいくら発掘しても古代イスラエル王国の痕跡は、ほとんど見いだせないという。無理にこじつけているのはあっても、決定的な遺跡は出てこないという。
 
ヘブライ語は、子音のみで表記されていた。実際の読みは、母音を入れて表現されているので、正しい発音は復元しにくかったり、変化するのでもともと古代の地名の復元はむずかしいという。
 
そのこともあり、前500年頃には、アシール地方のユダヤ人達は、衰退の中で、民族意識もその歴史も失いつつあり、田舎生活者となりはててしまった。
 
なぜ、このようなことが起こってしまったのか。アシール地方は、大変豊かな土地で、古代イスラエル王国の二代国王ダビデ、三代国王ソロモンの時代に大変繁栄したが、その後、ユダ王国とイスラエル王国に分裂し、さらに、アッシリア帝国や新バビロニア王国の度重なる侵略をうけ、大変疲弊してしまう。そのために、アシール地方のユダヤ人たちは、当時の交易路でつながれていたパレスチナ地方に新天地を求めて多数移住していった。そして、移住したユダヤ人たちが、アシュール地方の出身地名をパレスチナ地方の移住地につけていった。
 
パレスチナ地方には、聖書に書かれてある地名の場所が、確かにあることが多い。しかし、その位置関係になると、聖書に記述に一致しないことが多いという。ところが、このアシュール地方に当てはめると、聖書に書かれている位置関係が、合理的に考えて一致するという。たとえば、ソロモン王がヤハウェ神の神殿をつくったエルサレムであるが、アシール地方の「アール・シャリーム」が本来のエルサレムであるという。ただ、言語の変化があるので、古代のアラビア半島や古代ヘブライ語の知識が必要であることは言うまでもない。
 
また、聖書に書かれているオリーブ、イチジクなど植物や、気候自然の風景までも、パレスチナ地方ではなく、アシール地方の説明とする方が、合理的であり、記述に一致するという。

アッシリアにより、前722年北王国のイスラエル王国は滅ぼされ、首都サマリアも徹底的に破壊され尽くされた。イスラエル王国の民もアッシリアに連れて行かれた。そして、前586年南王国のユダ王国も、新バビロニアに滅ぼされて、民は「バビロン捕囚」によって、バビロニアに連れ去られた。首都エルサレムのヤハウェ神殿も徹底的に破壊された。
 
アケメネス朝ペルシアによって新バビロニアが滅ぼされ、オリエントが統一されると、南王国のユダヤ民族は、前586年「バビロン捕囚」より解放され、祖国(アシュール地方)に帰ることになる。
 
ところが、アケメネス朝ペルシアによる、オリエントの統一は、交易路の変化をもたらし、交易の拠点として栄えていたアシュール地方の諸都市は、交易路から外れ、衰退していった。アシュール地方に帰還した、ユダヤ人たちは、あまりの荒廃と衰退に祖国の再建をあきらめて四散したと想像される。一方、パレスチナ地方に根付いていたユダヤ民族は、アケメネス朝ペルシアの支配下で信仰の自由をえて、交易の一大拠点としてさらに発展することとなる。パレスチナ地方のユダヤ民族及び周辺の民族も大い繁栄することとなる。
 
アケメネス朝ペルシアは、アレキサンダー大王に征服される。大王の死後、パレスチナは、セレウコス朝シリアの支配下におかれる。前141年ハスモン朝の下にユダヤ国家が独立を果たすが、このころパレスチナのエルサレムの神殿は、ユダヤ教徒にとって第一の聖所と認識されていたようである。 前63年にローマに滅ぼされるまでハスモン朝はつづく。ハスモン家はユダヤ教の祭司の家系であり、自ら古代イスラエルの正当な後継者であるとみなしていた。
 
この王朝によって故意に、アシール地方の歴史が抹殺されパレスチナ地方にダビデ・ソロモンの王国があったと解釈されるようにされたのではないかと想像される。 
 
現在1947年に再建されたイスラエル国は、ユダヤ民族の遠祖アブラハム、及びモーセにユダヤ民族に与えると約束され土地に2600年の空白を経て建国されたということではあるか、アシュール地方が「約束の地」であるとすれば、建国の前提が崩れることとなる。この説が正しいかどうかはやがてアシュール地方の発掘される時が来れば明らかになるであろう。

(「聖書アラビア起源説」カマール・サリービー著 広河隆一、矢島三枝子訳 草思社 1988年 による)


・出エジプト記(エジプトとは言っていない)

https://fknews-2ch.net/archives/20160803.html

※全39巻に及ぶ旧約聖書の2巻目にあたる、「出エジプト記」。



旧約聖書の中でもひときわストーリー性に富んでおり、「モーゼが海を割った」や「神様から十戒を授けられた」といった、よく知られたエピソードが登場する書物であります。

出エジプトのあらまし

この出エジプト記で語られているのは、いわゆるイスラエル人の集団脱走です。

時のファラオに迫害されたかわいそうなイスラエル人たちが、偉大な預言者モーゼに率いられ、約束の地へ移動していくという筋書き。

ものすごく端折ってあらすじを書くと次のような感じ。

当時イスラエル人はエジプトで奴隷状態

モーゼが生まれる

神様がモーゼに、イスラエル人をエジプトから逃がすよう指示する

いろいろ奇跡を起こしつつ、200万人連れて脱出成功!



(上)民を率いた預言者モーゼ。統率力◎。

で、よく議論になるのは、この「出エジプト」は史実かどうかという点です。

もちろん、旧約聖書に書いてあることが全て事実というのは考えにくい。その内容には史実と神話が混在していると思われます。

それでも、一般的にはこの「出エジプト」の元になった出来事は実際にあっただろう、というのが通説になっています。

本当に史実なのか

しかし、そうした風潮とは裏腹に、イスラエル人が当時エジプトに住んでいた痕跡は、今の所一つも発見されていません。

大量のイスラエル人がエジプトから出て行ったことなどどこにも書かれていませんし、そもそも「イスラエル人」という民族がエジプトに住んでいた痕跡すらないという有様。

古代のエジプトというのは、世界屈指の文明国。石碑とかパピルスとか陶片とか、当時の記録が相当量残されています。

それこそ、王墓建設の作業員名簿とか、落書きとか、男に奢ってもらったものリストとか、本当に細かいものまで発掘されているのです。



(上)「夫婦喧嘩」とか「二日酔い」とかの理由で休む古代エジプト人の様子が書かれた出勤簿

にも関わらず、イスラエル人に関する記述はゼロ。

彼らがエジプトにいたというソースは、旧約聖書だけなのであります。

いつ脱出したのか

くどいようですが、現在のところ、イスラエル人がエジプトにいたことを証明する遺物は何一つ見つかっていません。

ですので、出エジプトがいつ頃の出来事だったのかも、もちろんサッパリ分かっていません。

旧約聖書の内容を信じるならば、「出エジプトの480年後にソロモン神殿の建設がスタートした」と書いてあり、さらに、証拠はないけどソロモン神殿の建設スタートがB.C.960年くらい。逆算してB.C.1440年くらいとなります。

別の説では、旧約聖書によるとイスラエル人を強制労働させて「ラムセス」という都市を建設したと書いてあるので、出エジプトはラムセス2世の時代だろうというのもあります。この場合は、B.C.1290年くらいとなります。

ずいぶん年代に差がありますね。

どちらの説にせよ、推測の域は未だに出ておりません。

エジプトを脱出できていない件

モーゼ一行がエジプトを旅立った後の足取りも、やっぱりよく分かっていません。

例の海を割った場所も、十戒をもらった場所も、不明です。

が、まあ一応の定説としては次のルートを通ったとされています。



(上)モーゼの足取り

なお、この地図で薄オレンジ色がついてるエリアは、当時のエジプトの領土です。

出エジプトが起きたとされるB.C.15〜13世紀は、エジプト新王国時代という時代で、エジプトの国力が充実しまくっていた時期でした。

出エジプトの目的は、「ファラオの迫害から逃れること」だったはず。なのに、なぜかその移動範囲はほぼエジプト領土内という違和感。

翻訳が怪しい件

ヘブライ語からギリシャ語へ

現在、広く読まれている旧約聖書というのは、もともとは古ヘブライ語で書かれた書物でした。

「旧約聖書」という言葉はキリスト教目線で、本当は「ヘブライ語聖書」と言います。でも、こんがらがるので「旧約聖書」で統一します。



(上)ヘブライ語

この古ヘブライ語は、B.C.5世紀くらいから使われなくなっていき、一旦はそのまま消滅してしまった言語。

「このままでは誰も旧約聖書を読めなくなっちまう。」

そう思ったユダヤ教徒たちは、B.C.3〜1世紀にかけて、旧約聖書を当時の国際言語だったギリシャ語へと翻訳したのです。

このギリシャ語の旧約聖書は、伝説では72人の学者が72日間で翻訳したとされており、それにちなんで「七十人訳聖書Septuaginta」と呼ばれています。



(上)翻訳のようす

ヘブライ語という言語は、アブジャドといって、子音しか表記されず、母音は省略されます。「ggrks」みたいに書かれます。

そのため、どのような発音なのか、どういう意味なのか、かなり想像しながら翻訳しなくてはなりません。訳者たちがかなり苦労したであろうことは、容易に想像できますね。

この七十人訳聖書は、メジャーなギリシャ語だったということもあり、ヘブライ語聖書以上に広く読まれ、のちの聖書解釈の基礎になったとも言われています。

しかし、このギリシャ語翻訳版聖書。果たして原典を忠実に翻訳したものかというと、どうもそういうわけではないようです。

「エジプト」を意味する単語

そもそも、「出エジプト記」の原典に「エジプト」という国名が書かれているかというと、かなり微妙。

厳密には「エジプト」ではなく「msrym」という表記です。

七十人訳聖書の訳者たちは、これを「ミツライムmisrayim」という単語だと考えました。

この我々には馴染みのない「ミツライム」という単語。これは、直訳すると「2つの都市」みたいな意味になります。

都市を意味する「ミスルmisr」という単語があり、それの双数形が「ミツライム」というわけです。

※「双数形」とは、複数形の一種。ヘブライ語やアラビア語では、1つなら単数形、2つなら双数形、3つ以上なら複数形、という変化をします。

エジプトは、大昔は上エジプトと下エジプトに分かれており、B.C.3150年にようやく1つに統一されたという歴史があります。そのため、「2つの都市」→「エジプト」という理屈になるのです。

実際、現代でもイスラム圏においては、エジプトのことを「ミスルMisr」と呼んでいますので、一般的には、アラビア圏では古代から伝統的にエジプト地域を「ミスル」と呼んでいたという風に説明されます。

だとすれば、旧約聖書に記載されている「msrym」を「ミツライム=エジプト」と解釈するのは、ごく自然なことであります。

しかし、エジプトや周辺諸国の遺跡や記録から分かることは、七十人訳聖書が成立したB.C.3〜1世紀より以前は、誰一人としてエジプトを「ミツライム(ミスル)」とは呼んでいないという事実です。

ギリシャでは「アイギュプトス」、アラビア世界では「アル=ギプト」と呼ばれていました。どちらも「エジプト」に近い発音ですね。

イスラム圏でエジプトを「ミスル(ミツライム)」と呼ぶようになったのは、イスラム教が成立したA.D.7世紀以降のことです。

だとするならば、七十人訳聖書の時代(紀元前3〜1世紀)において、「msrym」を「ミツライム=エジプト」と解釈する合理的な理由は一切ありません。

しかし、七十人訳聖書で「ミツライム=エジプト」と定義されてしまったために、それ以降の旧約聖書の解釈は全てがこの定義にならうという事態になってしまったのです。

コーランの場合

ついでに、イスラムの聖典コーランについても軽く触れておきます。

コーランが成立したのは、A.D.7世紀。ムハンマドが示した神の啓示を、彼の死後にまとめたものです。

その内容自体は、旧約聖書と新約聖書の再解釈(焼き直し)で、アダムとイブの話や出エジプトのエピソードなんかも織り込まれています。

コーランのスタンスは、人の手で歪められた聖書に代わり、改めて神様が正しい啓示を下したもの、という感じ。したがって、イスラム教徒にとってこのコーランは絶対的に正しいものとなっています。

しかし実際のところ、このコーランの成立過程で七十人訳聖書の影響がないはずはありません。その結果として、コーランにおいても「ミツライム(ミスル)=エジプト」となってしまいました。

コーランは絶対に正しいので、以後イスラム教徒は、エジプトを「ミスル」と呼ぶようになったと考えられます。

そういう意味でも、イスラム圏でエジプトを「ミスル」と呼んでいるからといって、旧約聖書に書かれている「ミツライム」がエジプトを指しているという根拠にはならないわけですね。

エジプトの王は誰か

エジプト関連では、他にもおかしな翻訳があります。

それは、「ファラオ」という単語。

この「ファラオ」を旧約聖書の原典で見てみると、元は「pr’h」と書かれています。

それを例の72人が、「パロparoh」という単語だと決め、「エジプトの王」を意味すると解釈したのです。

この「パロ」が変化し、英語圏では「ファラオpharaoh」、アラビア語圏では「フィルアウンFir’awn」となりました。

もともとの「pr’h」は、古代エジプト語で「大きな家」を意味する「ペル=アアpr=aa」のヘブライ語読みだというのが通説です。

しかし、実際のところ、古代エジプトでは「パロ(ファラオ)」という単語が王の称号としては使われた事例は一切ないという事実。

また、語源とされる「ペル=アア」も、王宮を意味することはあっても、王そのものを意味した事例は一つもありません。

エジプトでは、王は「王」と呼ばれていたのであって、決して「パロ(ファラオ)」ではないのです。

実際、10世紀頃のイスラム歴史家がエジプトの歴史を調べている時、エジプト人学者と次のような会話をしています。

イスラム「ファラオって元々はどんな意味なの?」
エジプト「え?」
イスラム「ファラオだよ。王様の。」
エジプト「ファラオ?なにそれ」

A.D.10世紀のエジプト人学者は、「ファラオ」を知らなかった。

この事実は、すなわち「ファラオ」という称号はエジプト以外でしか使われていなかったということを意味します。

だとするならば、「パロ=エジプトの王」と解釈することに、合理的な説明はつきません。

例の七十人訳聖書が初めて「pr’h」を「パロ=エジプトの王」と解釈したわけですが、これは、ミツライムがエジプトだという前提があって初めて可能な翻訳なのであります。

『出エジプト記』はフィクションなのか

・証拠が全然ない
・年代もハッキリしない
・移動のルートが変
・エジプトとは言っていない
・ファラオはエジプトの王ではない

こうした事実を列挙すると、「やっぱり出エジプト記は作り話じゃないか!」となりそうです。

しかし、これらの事実は、もう一つの可能性を示唆しているのです。

それは、そもそもエジプト関係ないんじゃないの?という可能性であります。


・旧約聖書とエジプトの無関係具合

https://fknews-2ch.net/archives/20160818.html

※旧約聖書の原文にある「msrym」という単語。

これは、一般的には「エジプト」を意味する単語とされていますが、どうも怪しい。

B.C.3世紀に旧約聖書はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されたわけですが、それより古い時代に「エジプトをミツライムと呼んだ事例」は一つも見つかっていません。

この時点で、七十人訳聖書が「msrym」を「エジプト」と翻訳したことに、何の根拠もないことがわかります。

そして、さらに調べてみると、「msrym=エジプト」ではどうも違和感のあることがいくつも見つかるのです。

今回は、その違和感について。

エジプトの象徴

エジプトと言えばピラミッド



(上)高さ147m

アレクサンダー大王やヘロドトス、ナポレオンなど、多くの軍人や歴史家がこれまでエジプトを訪れましたが、彼らはエジプトについて思い起こす時、必ずピラミッドについて触れてきました。

特にギザの大ピラミッドは、B.C.2560年の完成から実に4000年以上もの間、世界で一番高い建造物でした。

このインパクトは強烈で、エジプトと言えばピラミッドというくらいのイメージを、訪れた者の心に焼き付けるものです。

ピラミッドは登場しない

しかし。

「msrym」という単語は、旧約聖書の中になんと600回も登場します。

にも関わらず、その中にピラミッドへの言及は一つもありません。

また、古代エジプト文明に数多く存在する息を飲むような壮大な建造物もまた、どこにも登場しません。

スフィンクス然り、神殿然り、オベリスク然り。

イスラエルの民が400年間もエジプトで暮らしていたとするならば、これはちょっと不自然ではないでしょうか。

ナイル川も登場しない

預言者モーゼが生まれた頃の「msrym」では、イスラエル人の男の幼子は全員殺すよう「pr’h」に命じられていました。

モーゼを守りきれないと悟った両親は、彼をカゴに入れてナイル川に流したとされています。



(上)流域面積2,870,000km2。利根川の170倍!

しかしながら、旧約聖書の原文を見てみると、モーゼが流されたとされる「ナイル川」の箇所は、単に「川」と書かれているだけ。

それを20世紀以降の訳者が「エジプトの川だから、多分ナイル川やろ」という具合に勝手に付け足したものなのであります。

「エジプトはナイルの賜物」という言葉に表されるように、ナイル川はエジプト文明の礎であり、もう一つの象徴とも言えるほどの存在感を持っています。

したがって、「msrym」がエジプトであると信じ込んでいる後世の訳者が、「『msrym』の川」を「ナイル川」と解釈してしまうのも無理のないところ。

逆に、なぜ旧約聖書を編纂した記者たちはモーゼが流された川を「ナイル川」としなかったのか、不思議な感じがします。

こうした疑問を列挙していくと、聖書の作者たちは本当のエジプトを知らなかったのではなかろうか。

そんな疑念が頭をもたげてくるのであります。

奴隷

アブラハムの孫ヨセフは、家族にハメられて、「msrym」に奴隷として売られた。

「r’mss(ラメセス?)」という都市の建設にあたり、イスラエル人が奴隷として強制労働させられ、非常に苦しんだ。なので、モーゼは民を率いて脱出した。

旧約聖書にはこんな感じのことが記されています。

しかし、実際のところ、古代エジプトに奴隷を売買する市場は見つかっていません。

さらに、建設労働者には賃金が支払われている上、食料や薬なんかも支給されていた記録が発掘されています。

聖書の記述と実態とは、大いにかけ離れているわけですね。

もちろん、古代エジプトにも奴隷制はありましたが、戦争で捕まえた捕虜を奴隷にしていたのがほとんど。

奴隷を個人で購入するにも値段が高くて、普通に召使いを雇った方がマシだったと言われています。

また、奴隷の身分も固定されたものではなく、頑張れば自分を買い取って一般人に戻れたりもしました。

こうしたことから、どうもエジプトには聖書で書かれるような悲惨な奴隷はいなかったんじゃないかと考えられます。

このこともまた、「msrym」がエジプトではないということを示唆しています。

古代イスラエルの状況

属国として

旧約聖書によると、B.C.995年頃、イスラエル人たちは苦難の末にイスラエル王国を建国しました。



(上)願望の混じった想像図

その王国は、ダビデ王とソロモン王という優れた王のもと大いに栄えましたが、やがて内輪揉めで分裂。

その後は、

アッシリアの属国(B.C.722)

エジプトの属国(B.C.609)

新バビロニアの属国(B.C.597)

という具合に、いろんな国家の属国として細々と生き延びる日々を送っていました。

新バビロニアの属国時代には反乱を起こして失敗し、かの有名な「バビロン捕囚」、イスラエルからバビロンへの強制移住なんか起こります。



(上)バビロン捕囚。自業自得。

薄れる民族意識

なお、移住先のバビロンは、圧倒的な大都会で、かなり居心地がよかったみたい。

400年も「エジプト」で過ごしたにも関わらず、イスラエルの民は、ヘブライ語を保持し、エジプトの多神教に染まらず、その文化的影響を一切受けませんでした。

そんな彼らがバビロンで過ごした期間は、せいぜい60年程度。

しかし、この短い期間のうちに、普通にバビロニア風の名前をつけたり、言葉もアラム語(※当時のオリエントの共通語)しか話せなくなったりして、もう「イスラエル人」というアイデンティティは風前の灯火となっていったのです。

このエジプト在住時とバビロン在住時の、異文化に対する抵抗力の違い。

イスラエル人はエジプトにいなかったとすれば、この違いもすんなり説明できるのですが。

神話をまとめる

ちなみに、この事態に焦ったイスラエル人指導者たちは、イスラエル人というアイデンティティの再構築に取り掛かります。

それまで言い伝えられてきた伝説、教訓、そして歴史。これらを1冊の本にまとめ、共通の価値観を共有させようと試みたのです。

その本こそが、人類最大のベストセラー、「旧約聖書」というわけです。

この試みがけっこううまくいき、現在まで続くユダヤ教がほぼほぼ完成。現在で言うところの「ユダヤ人(=ユダヤ教徒)」が成立したのであります。

離散するユダヤ人

離散の民

新バビロニアは、B.C.537年にアケメネル朝ペルシャに滅ぼされました。

それに伴いイスラエル人(=ユダヤ人)の強制移住は終焉を迎え、好きなとこに引っ越せるようになりました。

それでも、大半のユダヤ人は居心地の良いバビロンに残留しました。

さらに時代が降って、B.C.330年。

今度はペルシャがマケドニアのアレクサンダー大王に滅ぼされると、西はギリシャ、東はパキスタンまでが一つの巨大な国家として統一されました。



(上)黄色い部分がマケドニアの最大版図。

ひとたび領土が統一されれば、その中を縦横に商業網が広がっていきます。

ユダヤ人の多くは商人として生計を立てておりましたので、この広大なマケドニア王国全域に広がった商業網に乗って、それぞれが各地へと移住していきました。

こうして各地へ散ったイスラエル人を「ディアスポラ」、別名「離散の民」と呼びます。

なんか「離散の民」というと悲劇的な雰囲気がありますが、全然そんなことはなくて、単に行商とかしていく中で自然にあちこちに散っていっただけです。

ユダヤ人の移住先

ところで、こうして各地に散っていったユダヤ人ですが、その中で一番人気のあった都市はどこでしょうか。

答えはイスラエル王国があったとされるエルサレム・・・ではなくて、なんとエジプトのアレクサンドリアでした。



(上)「世界の結び目」と称された大都市

旧約聖書によれば、イスラエル人の偉大な祖先たちは、「エジプト」に相当煮え湯を飲まされたことになっています。

奴隷にされ、幼子をことごとく殺され、自分達の神を侮辱され、やっとこさ逃げ出したところで今度は300年も荒野をさまよう羽目になるという感じ。

そんな憎いエジプトに、なぜユダヤ人は大量に移住してるのでしょうか。

大量のディアスポラが起こったB.C.4世紀の時点では、「msrym」は「エジプト」ではなかった。

だから、ユダヤ人は抵抗なくエジプトへ移住できたとは考えられないでしょうか。

うっかり?わざと?

こうした疑問点を列挙していくと、やっぱり「msrym」=「エジプト」というのは誤訳という線が濃厚になってきます。

この誤訳の根源は、前回も触れたとおり、B.C.3世紀ごろにヘブライ語からギリシャ語に翻訳された、七十人訳聖書です。

では、72人の翻訳者たちは、うっかり間違えちゃったのでしょうか。

そうかもしれません。

しかし、そうではなかったとしたら。

もし彼らがなんらかの明確な意図を持って、あえて誤訳したとするならば。

その企みを明らかにするためには、「msrym」が本当は何を指しているのか、そしてエジプト以外の地域が誤訳されていないかどうか。

それを検証してみなくてはなりません。