ヌーフの箱舟

かくて我らはヌーフをその民に使徒として遣わした。

「わしは、見られるとおり、お前たちに警告しにやって来たのですぞ。ただアッラーだけにお仕え申すように、と。ほんとうに、わしはお前がたが(今のままでは)あの苦しみの日にどんな刑罰を受けることかと、そればかり心配なのじゃ」

と。

すると民の中でも無信仰な長老たちが言うことには、

「だが、見かけたところお前は、わしらとなんのかわりもないただの人間じゃないか。それにこうして見かけたところ、わしらの中でも特に卑しい連中が、ただもうやみくもにお前の後にくっついているだけじゃないか。見かけたところ、どうもお前がわしらより上だというところは何もなさそうじゃないか。なんのなんの、お前たち実は大嘘つきであろうがな。」

曰く、

「これ、皆の衆、考えてもごろうじろ。このわしが神様から下されたお徴(しるし)の上に立って、こうしてお手ずから恩寵を頂戴しておるのに、お前がたにはそれが見えないとしたら、嫌だというお前がたを強制してまで無理にそれを(受け容れ)させることができるものか。」

「これ、皆の衆、このわしは、別にこれでお前がたから金を貰おうというわけではない。わしの報酬は全部アッラーからいただけることになっておる。それに、わしはなにも信仰している人たちまで追い出そうとしているわけではない。そういう人たちはみんな神様に逢いまつる身だもの。だが、わしの見たところでは、お前がたよくよくのもの知らずにできておるようだな。」

「これ、皆の衆、もしわしがそういう人たちまで追い出したりしたら、一体誰がわしをアッラー(の御怒り)から救ってくれると思う。これでもまだ気が付かんか。」

「わしはお前がたに、『わしはアッラーのお宝をもっておるぞ』などと言いはしない。窈冥界(ようめいかい)のことは一切わしにもわかりはせぬ。わしはまた、『わしは天使じゃ』などと言いはしない。またお前がたが軽蔑の目で見ている連中にも、わしは、『あんな人々にどうしてアッラーが結構なものを下さるものか』などと言ったりしない。あの人々の心の中にどのようなものがあるか、それはアッラーが一番よく御存知。そんな(だいそれたことをしたら)それこそ、わしは悪人になってしまう。」

するとみんなが言うことに、

「これ、ヌーフ、お前よくもまあそのようにつべこべとえらそうな口をきいたものだな。よし、それならお前の預言どおりのことを、今、ここで起して見せるがいい、もしお前の言葉が本当であるならば」

と。

(ヌーフが答えて)言うに、

「アッラーだけが、もし御心ならば、そういうことをしてお見せになるだろう。お前たちなどに勝手にできるものではない。アッラーがお前たちを邪道に引き入れようとしていらっしゃるからには、このわしなどが、いくらお前たちに忠告してやろうと思ったって益ないこと。(アッラー)こそお前たちの主。お前たち、いつかはみんなお傍に喚び戻されることになっておるだから。」

なに、これは全部彼の作り話しだと言うのか。言ってやるがよい、

「もしもわしの作り話しなら、わしが自分でその罪を負わねばなるまい。わしはお前たちとは違って、そのような罪は犯しはせぬ」

と。

かくてヌーフに啓示が下りた。曰く、

「汝民の中でも、結局は以前から信仰していた者だけが信仰するだけのこと。だから、彼らがどのようなことをしようとも、汝はなにもがっかりすることはない。さ、我らの目の前で、我らの啓示どおりに箱舟を作るがよい。悪業にふけっている者どものことでわしにうるさくせがんではならぬ。いずれにしてもあの者どもは溺れて死んで行くさだめじゃ。」

そこで彼は箱舟を作り出す。だが民の長老たちは、そのそばを通りかかるごとに彼を嘲弄した。彼が言うに、

「今のうちたんとそうしてわしらを嘲りなさるがいい、いずれ今度はわしらの方でお前がたを嘲ってやろうから、丁度いまお前がたが嘲っておるのと同じように。そうなったら、お前がたにもわかるであろう。(その時)天罰を受ける者は、散々な恥をかかされた上に、しかも永久にかわらぬ責苦を負わされるのですぞ。」

そうこうしているうちに、遂に我らの最後の断は下され、(天の)大釜が煮こぼれたので、我らは(ヌーフに)こう命じた、

「(舟の)中に、あらゆる(生き)ものを一番<ひとつがい>ずつ入れるがよい。それから汝の家族をも。但し、前もって運命がきまっている者は(のせては)ならぬぞ。それから信仰ある人々も(乗せて)やるよう。」

といっても彼と信仰をわかつほどの者はごく少ししかおらなかったが。そこで彼が言った、

「さあ、みんな、乗り込め。舟路と泊りはアッラーの御加護におまかせして。ともかくわしの神様は、実に気のやさしい、情ぶかいお方だから」と。

かくて舟は一同を乗せ、山なす波浪の中を走り行く。ヌーフはいつまでも離れて立っている息子に呼びかけた、

「おおい、早くお前も、わしらと一緒にお乗り。罰当りなまねをするでないぞ」

と。

すると

「おれは山に逃げる。あそこなら水もこわくない」

と言う。

「いや、いや、今日こそ、アッラーの御命令から守ってくれる者はない、アッラーが(御自身で)特に恩恵をかけて下さった者以外は」

と言っているうちにも大波が二人の間を裂き、(息子)はとうとう溺死してしまった。

やがて、声あって曰く、

「大地よ、汝の水を呑みほせ。大空よ、鎮まれ」と。すると洪水は引き、事件は完全に了って、舟はジューディー山の上に止った。その時、また声あって曰く、「ことごとく滅び去れ、悪人ども」

と。

ヌーフは主に呼びかけて言った、

「主よ、私の息子は家族の一人でございます。貴方のお約束は絶対で、貴方は公正無比の裁き手におわしますものを」

と。

するとお答えがあって、

「これ、ヌーフ、あれは汝の家族ではない。彼の所業は義しくない。何も知りもしないことでわしにとやかく口出ししてはならぬ。よいか、しっかりと申し渡しておくぞ。汝不義なすやからのまねをしてはならぬ」

との仰せ。

「主よ、おゆるし下さりませ、これからは、決して自分の知らないことで貴方に身勝手を申したりいたしません。貴方に赦して戴けなければ、貴方に情をかけて戴けなければ、私は全く浮ぶ瀬がございませんもの」

という。

時に声あって曰く、

「ヌーフよ、さ、降りて行くがよい、我らのつかわす平安のうちに。我らの祝福は汝の上に、また汝と共なる者(から生まれ出る)多くの民族の上に下るであろうぞ。だが、(現世の)享楽を味わせて戴いたあげく、我らの恐ろしい罰に襲われる民族も出ることであろう。」

以上は、元来、窈冥界のはなしであるが、特に我らが汝に啓示してつかわすものである。これまで、このようなことは全然知らなかったであろう、汝も、汝の一族も。されば、辛抱づよくせよ。まこと、最後の(勝利)は懼敬(くけい)のこころ敦き人々のもの。