・もうひとりのカリスマ 武田崇元(八幡書店・代表取締役)「80年代オカルト」一代記!(宝島30 特集オウム事件「怪情報」すべて検証 1996年1月号)

※あるときはオカルト・ビジネスの成功者。
あるときは大本教の「影の支配者」。
あるときは「霊的革命]を目指す黒幕。
もう一人のカリスマ・武田崇元の実態や如何に!?
 
小さな世界でのことなのだが、本誌十一月号に載った文明史家・原田実氏の「私が出会ったもう一人の『カリスマ』―武田崇元とオカルト雑誌『ムー』の軌跡」があちらこちらで話題になった。この記事は、一連のオウム事件と雑誌『ムー』に代表される八〇年代のオカルト・精神世界プームとの関連性を、八幡書店代表取締役・武田崇元氏を軸に論じたもので、筆者である原田氏自身、一時期八幡書店社員として、『ムー』に「伊集院卿」というヘンネームで「偽史」関連の記事を執筆していた。
 
オカルトに少しでも興味のある方ならご存知だと思うが、一九七六年に『地球ロマン」編集長となった武田崇元(当時は武田洋一)氏は、偽史やUFOカルトや近代オカルティズムの生成過程そのものを対象化するマニアックな編集方針で、オカルトマニアを超えた一部の知識層にまで影響を与え、雑誌『迷宮』を経て一九八一年に八幡書店を設立、八〇年代のオカルトプーム、精神世界ブームの中心人物となった。『竹内文献』「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」などの超古代史の原典刊行、大本教・出口王仁二郎の『霊界物語』全八十一巻の刊行、ホロフォニクス(注1)やマインドマシンなどのヴアーチャル体験マシンの制作など、武田氏の動静は常にオカルト業界注視の的であった。
 
地下鉄サリン事件が発生し、オウム教団によるとてつもない犯罪が明らかになっていく過程で、宗教学者の中沢新一氏がオウムの「革命性」に触れ、「ぼくたちにとって〃霊的ポルシェヴィキ〃(武田氏の造語)が合言葉だった」と発言した。そこに、武田氏の「偽史運動」や「革命運動」などが、麻原彰晃に影響を与えたのではないか、と指摘する原田氏の論考が登場したために、少なからぬ反響を呼んだのだ(武田氏は本誌先月号に寄稿した「これはニュータイプのオカルトだ!」で麻原との関係を強く否定)。
 
そこで今回は、〃霊的ホルシェヴィキ〃を提唱し〃オカルト革命の黒幕〃とも噂された「もう一人のカリスマ」本人に登場してもらうことにした。

「霊的革命」の誕生

宝島 原田論文が掲載されてからの反響はどうだったんですか?
 
武田 ある人から冗談まじりに電話があって「いやいや、さっぱりそんな方とは知らないで失礼しました。武田さんて凄い人だったんですね」なんてね(笑)かなわんで、まったく。

宝島 それはどうも失礼しました(笑)では、
「オカルト業界のカリスマ」と呼ばれる武田さんが異端の古代史やオカルトに興味を持つきっかけあたりから、うかがいたいと思うんですが。

武田 これが残念ながら、ガキのときからひたすらオカルト道を目指したとかそういうわけじやない。まあ、僕らの時代は、オカルテイズムというと澁澤龍彦とか種村季弘という時代でね、そういうなかで、シュールレアリスムとか、ドイツ表現派(注2)とかそういう方向からオカルティズムに興味を持っていった。それから日本の伝統のなかにもオカルティツクなものがあるはずだというので、戸来村のキリスト伝説(注3)のようなものがどういうふうにして形成されていったのかを調べたりしているうちに、神代文字(注4)とか『竹内文献』(注5)といった裏文化の世界に首をつっこむようになったわけです。

宝島 学生運勣なんかは、まるで関係ないんですか。

武田 「レッズ」(注6)という映画がありますが、あのインターバルでインターナショナルが流れるとやっぱり今でもジーンときますよね。レーガン大統領も涙を流したらしいですが(笑)。だけど、当時の日本の急進左翼のなかには神秘主義的な衝動というのはじつはそんなになかったと思う。だからそこに飽き足らないものはあったかもしれない。アメリカではオカルティズムとか神秘主義的な衝動と極左急進主義がかなり結びついていたわけですが、日本ではそういう土壌は希だったでしょう。しかもアメリカのそういう状況も後講釈であってね、当時はよくわからんかったですね。
 
ただ、いま日本では希薄だったといったけれども、当時の日本のサブカルチャー状況というのがすでに歴史に入ってしまっているので、案外と原田君には見えてないところがあって、いちど思いだしながらレクチャーしてあげようかと思うわけですが(笑)、たとえば夢野久作のリバイバルなんて、彼のいうように急進主義が退潮した七〇年代後半からハ○年代初頭ではなくて、ちょうどバリケードが華やかなりし頃なわけです。だいたいが吉本隆明の『共同幻想論』なんてわけのわからんオカルトみたいなもんが流行していたからね(笑)。

宝島 巷では、武田さんがある非常に過激なセクトの黒幕だった、なんて声もありますけど(笑)。

武田 それはもうずっこけちゃいますよね。だいたい年代的にみても、当時の運動の指導層というのはもうちょい上の世代でしょうが。でも、「全共闘運動の崩壊過程を目の当たりにした武田が左翼イデオロギーの限界を知って云々」という原田君の捉え方はカッコイイので、まあそう思いたければ、そうしておけばいいじやない(笑)。

宝島 レーニンなんて読んだりしなかったんですか?

武田 どちらかというとトロツキーですよね。赤軍の創設者でありながらアンドレ・ブルトン(注7)と交流があったり、非常にカッコイイですよね。だから『虹色のトロツキー』(注8)という漫画は愛読していて、満州が舞台で、石原莞爾(注9)、植芝盛平(注10)、出口王仁三郎でトロツキーというとやね、これはまったくおたくの世界ですから(笑)。

宝島 では、「学生運動の崩壊を目撃した武田さんが霊的な革命に目覚めた」という文脈は、いったいどこから出てくるんですか。これも「カリスマ」に対する深読み、裏読みですか。

武田 そもそも僕は、急進主義運動の崩壊について深刻に考えて、どうこうしようなんていうご苦労さんな人間じゃないですよ。たしかに方法論として、ヴィクトル・セルジュのロシア共産党の党内闘争史やさまざまな反対派の歴史とかコミンテルンの歴史というのは、いまでもきっちりと頭に入っていて、そういう観点からのアナロジーとして、たとえばUFOカルト(注11)や戦前の日本右翼のイデオロギー論争(注12)の分析をしていったわけです。その道のおたくにはわかるんですが、僕はよく反対派というタームを使っていて、これは左翼反対派とか労働者反対派というボルシェヴィキ党史の用語から由来しているわけね。

合言葉は〃霊的ボルシェヴィキ〃

宝島 武田さんがやっていた『地球ロマン』のショックというか、あの雑誌が果たした役割は大きかったんじゃないですか。あれでオカルトにハマった人を何人も知ってますよ。
 
武田 あれは、かなりインテレクチュアルな層を狙ったわけで、大衆性はなかったけれど当時の文化状況に対するインパクトはあったと思います。まあ、それまでのオカルティズムというと、澁澤龍彦さんなんかの非常に洗練された美学評論のようなものはあっても、近代オカルティズムの問題は抜けていたし、ましてや神道系の偽書とかは誰も知らなかった時代。僕はなまなましい生きたオカルト運動史や近代の伝説のようなものが生成されるカ学に興味があって、それまでの情報系からはまったく埋もれていたものをきちんと対象化して提出したという自負はあるわけです。

宝島 『日本のピラミッド』(注13)というのは『地球ロマン』の前ですか?

武田 そう。原田君の深読みでいちばん困るのは、あのパロディめいた本を読んで階級意意識に覚醒してやね、世界革命を志そうなんて奴はありえないわけ。そんなこと期待して仮に真面目に僕が戦略を立てていたとすれば、これはほんまもんのぷっつんですがな(笑)。

宝島 そもそも武田さんの神道霊学(注14)への入口は、どのあたりになるんでしょうか。
 
武田 関心としては偽史が最初にあって、それからです。本格的には、もっとあとで『出口王仁三郎の霊界からの警告』を書く過程で、いろいろと再整理していったわけです。
 
宝島 『地球ロマン』でも、王仁三郎を正面きって採り上げてはいませんでしたね。
 
武田 言霊学(注15)とか本田親徳(注16)とか周辺から攻めていたわけ。ずっと周辺ばかり掘っていた。周辺を眺めていると、王仁三郎に関わったさまざまな人脈とかも見えてくるし、あの時代の状況もそれなりに見えてきた。戦前の右派陣営でも官僚派、浪漫派、神代史派の三つ巴になった戦いがあったわけですが、でも、そんなこと近代史学のなかでも忘れられていた。
そうした世界に触れて、裏の文化の文献を読み漁ったりしているうちに、それまで僕が引きずっていた左翼的な母斑みたいなものから、ぐっと右の方に振れていったわけです。
 
宝島 〃霊的ボルシェヴィキ〃ということを提唱されたのも、その頃からですか?
 
武田 うーん、……『ヘヴン』とか、そんな雑誌のインタビューあたりだったかな。ハタと気づいたのは、右翼や民族派を自認する人たちも、結局は浪漫派でしょ。もちろん三島由紀夫はいいけど、やっぱり浪漫派じゃない。でも、浪漫派に拮抗していた、いわゆる霊的国体原理派(注17)の歴史みたいなものが忘れられている。ひとつはそういうところとか、戦前の大本(教)運動総体を眺めていくなかで、そういう言葉が出てきたわけです。

家島 それを左翼運動に代わる新しい革命のアジテーションだと捉えた人たちがいた。中沢新一さんなんかもそうでしょう。

武田 なんと捉えてもらってもいいわけですが、僕はサリン事件直後の『週刊プレイボーイ』の中沢さんのインタビュー読んで、びっくりしたんです。八〇年代の西麻布にニューアカとオカルトのサロンがあって、そこでのキーワードが「霊的ボルシェヴィキ」とか「霊的革命」であったなんてまったく初耳なわけ。へーぇ、わしの一言がそんなに影響力あったの、という感じでね。
 
中沢さんによれば、霊的ボルシェヴィキという言葉は、ナロードニキ的なものとボルシェヴィキ的なものを合体させている、一言でいうと「ロシア」という意味だったというわけで、その伏線として、麻原がロシアと密接な関係をもったのは偶然ではない、ロシア型のマルクス主義思想にはオウムの思想に通ずるものがあるというようなことをいっておられるわけです。霊的ボルシェヴィキとか霊的革命とかいう言葉をめぐって、こんなおかしな解釈があるとは、狐につままれたような気分なわけです。

宝島 本家としては困ってしまう(笑)。

武田 まあ、身魂相応にお取りになったのだとは思いますが、最近の鎌田東二氏と中沢さんの対談を読んでわかったのですが、そもそもマルクス主義に対する中沢さんの理解そのものが、おかしい。ソ連国旗の「鎌とハンマー」の図柄には深い思想的意味があって、文明を都市的色彩じやないものにしなくてはいけないという意志がこめられていて、それを極端な形で表出したのがポル・ポトだとかね。
どこからそういう論が出てくるのか、ボルシェヴィズムというのは都市化そのものでしょう。そんなのトロツキーの『アメリカに革命が起こったら』(注18)という論文を見ればすぐわかる。ポル・ポトなんて、正統な国際主義(笑)の伝統からいえば、バーバリズムです。
 
ボルシェヴィキという感覚は、神道霊学的にいうと立て分けと歴史継承なんです。ところが左翼小児病の急進主義者は反ブルジョア的なものならなんでも歓迎したり、煽りたてたりするわけ。その挙げ句がポル・ポトでしょう。これと同じく、オカルト小児病患者は反近代とか非合理なものであれば、その中身を問わずなんでも歓迎して評価してしまう。霊的ボルシェヴィキといったことのさらなる意味は、まさにそういうオカルト小児病、反近代小児病患者に対する批判だったわけです。これがわからん人は、すいっと『アーガマ』に行ってしまうし、麻原みたいな野郎と三島由紀夫、北一輝、石原莞爾、出口王仁二郎までを一緒くたにしちゃうわけでしょ。そういうズブズブの感覚というのは、懐かしい言莱でいえば社民の感覚ですわな(笑)。けっしてボルシェヴィキ的感覚ではない。そのあたりの落差がすごくあるのを感じます。

出口王仁三郎伝との出会い

宝島 そういえば、武田さんは一時期、新右翼の人たちと霊的ボルシェヴィキ党という組織を作ってたそうですけど。

武田 そういうキッチュな名称を名乗ったことはありませんが、いわゆる民族派の人たちとの交流はありましたということにとどめておきましょう。まあ、当時のうちの本なんてそのまま見りゃ右翼の本じゃないですか(笑)。

宝島 『神日本』(注19)とか。

武田 そうそう。僕の関心が民族的なもの、フェルキッシュ(注20)なものというか、戦前に向いていた部分というのがある。王仁三郎も含めてね。だいたい僕は一九八三年に出口王仁三郎の本を書いたわけですが、戦後の王仁三郎論というのは、宗教学者の村上重良さんの『出口王仁三郎伝』がべーシックなものとしてあって、王仁三郎の入蒙ですとか満州国との関わりとか内田良平(注21)とやった昭和神聖会連動(注22)といった、戦後的な価値観からするとマイナスの部分を、出口王仁三郎の限界であり、主観的善意はともかくとして客観的には軍部に利用されたとして切って捨てていたわけです。それを僕は、へえー、なんちゅう敗北主義やろ、どこが悪いの、という素朴な疑問から出発したわけです。ここらあたりから、逆に僕なりに近代日本史の再点検の必要性を感じた。たとえば満州事変にしても、中国プロレタリアートの利害からすれば、中国軍閥の支配にあるよりはむしろ日本の支配下にあるほうがまだましなんじやないかと、当時のエスペランティストで国際主義者のランティという人なんかは言っていたわけです。
 
それで、あの本は大衆的窓口で予言を軸として王仁三郎を書いてくれという話だったのですが、無理に巻末に「霊的革命者・ 出口王仁二郎」というのを入れてもらった。これはじつは王仁三郎こそ日本民族派の本流であるべきではなかったかということを示唆したものだったわけで、まあ、これが霊的ボルシェヴィキというキャッチコピーのひとつの背景でもあったわけです。いまではまた、王仁三郎に対する理解も違ってきてはいますが、当時としてはそういうことだったわけです。

宝島 ちょうど、荒俣宏さんも「霊的国防論」という論稿を書いたりしてましたね。

武田 霊的国防というのは友清歓真(注23)の言葉であって、荒俣さんとそれとの関連はよくわかりません。いずれにしても、原田君にしても中沢さんにしても議論の根底が狂っているのは、地下鉄にサリンを撒いたり弁護士一家を殺害するというのぱたんなる刑事犯罪であってしかもそういった犯罪行為と切り離しても、オウムというのはしょせんは底の浅いまったくお粗末な集団じゃないですか。思想や大義なんてありやしませんよ。ところが中沢さんは、どんな心情的思い入れがあるのか、オウムに革命的志向が伏在していたと見て、その脈絡で当時の自分たちの周辺サークルのキーワードは霊的ボルシエヴィキあったとか言うし、原田君は原田君で反社会的行為の背後には革命思想があるという床屋談義みたいなレベルで引き寄せてくるわけです。力二はおのれの甲羅に似せて穴を掘るといいますが、なんか二人とも妙な革命コンプレックスみたいなものが頭のなかにあるんじやないの、と疑いたくなってくるわけです。


・知られざる名著『学理的厳正批判大本教の解剖』

1997年2月25日 原田 実

http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/text/text2.htm

※ブログ主注:以下、不要部分を省略し一部改変

※麻原彰晃と出口王仁三郎

未だ注目を集めるオウム真理教事件だが、もしもその解散請求が通っていたならば、それは、史上初の破壊活動防止法団体適用であるとともに戦後初の国権による宗教団体解散処分となるはずであった。
 
私はここに戦前の二度にわたる大本教弾圧を連想せずにはいられない。その弾圧は二度ともある意味で前例のない事件だった。実は第一次大本事件(一九二二)は不敬罪で、第二次大本事件(一九三五)は治安維持法で宗教団体が起訴された最初の事例だったのである。大本教主の出口王仁三郎は第一次大本事件では大正天皇大葬による大赦で結局は免訴され、第二次大本事件では不敬罪で懲役五年、治安維持法では無罪という判決を得て刑に服した。

さて、一九九五年五月、オウム真理教教祖・麻原彰晃の逮捕とほぼ時を同じくしてオウム出版から出た『亡国日本の悲しみ』には、麻原が自らを出口王仁三郎に擬した記述がある。

「大本教団の出口王仁三郎、彼は第二次世界大戦の日本の敗北と大きなかかわり合いを持
つ偉大な予言者である。彼に対する国家の弾圧と、そして第二次世界大戦の敗北の経緯を
見てみよう。(以下、第二次大本事件の大要と二・二六事件から日本の敗戦までの過程を
語る)大本大弾圧を境に、日本という国は焼け跡しか残さない悲惨な運命に投げ込まれて
いったのだ。そして、予言者出口王仁三郎が投獄されていた二四三五日と全く同じ期間、
日本は連合国の占領下に置かれたのである。なしたことは自分に返る、とカルマの法則は
冷厳に宣告する。聖者を迫害した国家の運命は、このように悲惨なものとなることが定め
られているのだ。(中略)これからもわかるとおり、予言者を弾圧した場合、このような
激しい国家的な災難に遭わなければならないのである。そして今存在しているオウム真理
教は、それよりも精神的ステージの高い者がそろっている。しかも出家し、ボーディチッ
タを、つまり性エネルギーを保全している者たちである。この弟子たちに対する国家の弾
圧は、果たして、これから迎えるであろうハルマゲドンにおいて、日本をどのような方向
に導くのか、わたしはそれを考えると非常に悲しく、そして哀しみの心が出てくるのであ
る」(『亡国日本の悲しみ』一九三~一九七頁)
  
実は戦前の大本教は決して「国際的で平和主義でまっとう」といいきれるような教団ではなかったのである。

『大本教の解剖』

今、私の机上には一冊の書物がある。中村古峡著『学理的厳正批判大本教の解剖』(一
九二〇)、これは第一次大本事件前夜、一般のインテリが大本に対してどのようなイメー
ジを抱いていたかを探る上での貴重な史料である。

中村古峡は本名、中山蓊(しげる)、作家としての筆名を胆駒古峡といい、明治十四年(一八八一)二月二十日、奈良県生駒に生を享けた。夏目漱石門下として東京帝国大学英文科を卒業、東京朝日新聞に入社するも精神医学への関心押さえがたく明治四三年に退社、東京医専に入学しなおす。昭和三年(一九二八)、医専卒業の後は千葉県千葉市に精神病院を開設した。その著書は多く、作家としての創作には『殻』『甥』『永遠の良人』、医学関係の書籍としては『変態心理の研究』『二重人格の女』などがある。彼はまたは日本精神医学会の主幹として日本における心理学の確立に大きな役割に果たした人物である。昭和二七年九月十二日没。
 
さて、『学理的厳正批判大本教の解剖』の本文の冒頭において、中村は次のように言い
放つ。

「およそ世の中に馬鹿ほど恐ろしいものはない、と云ふ俗諺がある。蓋し馬鹿は、概ね独
りよがりのお先まっくらで、自制や反省の念は薬にしたくても見当らず、おまけに向う見
ずの無鉄砲と来てゐるので、何をしでかすか分らないからでらである。余は大本教を思ふ
毎に、およそ天下に迷信ほど恐ろしいものはないと、つくづく云ひたくなる。蓋し迷信者
は馬鹿と同じく、概ね独断で、無反省で、更に自負誇大の念に強く、ややもすると頑迷不
霊に陥り易いので、果して何を云ひ出し、また何をしでかすか、分らないからである」
 
中村は当初、心理学者の立場から大本教祖の「神懸り状態」に関心を持ち、丹波綾部町
(現京都府綾部市)の大本本部で現地調査を行ったが「宗教的内容が、予想以上に浅薄で
且無稽なのに失望」した。しかし、大本教がその後、勢力を伸ばし、社会問題となったば
かりか、中村の所にも「大本教は果して宗教として存在するだけの価値あるや否や、其の
鎮魂帰神法と催眠術との関係は如何、其のお筆先と予言の真偽とは如何」などという問い
合わせが殺到するようになったため、この書物を著してその回答に代えようとしたという。

大本教は当初、綾部の老女・出口なほ(教祖)の「神懸り状態」に端を発したが、教団
の基礎を作ったのは教祖の娘婿・王仁三郎であり、さらにそれが急成長するには東京帝国
大学英文科卒のインテリ浅野和三郎の入信が契機となっている。中村はその経緯を踏まえ
た上で「今日の大本教は、短刀直入にこれを云へば、つまり出口王仁三郎と浅野文学士と
が、教祖の『お筆先』を種にして、巧に捏ち上げたものとも云へる」とみなす。そして、
大本教はしょせん「誤つたる一妄想の上に猿とも狐ともえたいの知れない鵺的社会を建設
しようとしてゐる一曖昧団」にすぎないと断ずるのである。中村によると、『お筆先』と
は「妄想性痴呆患者の濫書症」の産物であり「私達変態心理の研究者に取つては、いささ
か興味ある一研究資料」にしても、それを神聖視するのは滑稽な錯誤だとする。
 
中村はさらに大本教の鎮魂帰神法で導かれる精神状態(神懸り)が催眠状態であること
、教祖没後に公表された『お筆先』は教祖直筆ではなく王仁三郎の捏造になること、『お
筆先』の予言が的中したと称するのはすべて後からのこじつけであり、実際には多くの予
言が外れていることなどを論証しており、そこにはオウム真理教のマインドコントロール
や麻原による予言の捏造などをも連想させるものがある。
 
次の一節など、そのままオウムの理系インテリ信者への批判に転用できるのではないか。

「大本教の幹部では、ややもすると其の信者の中には現代の知識階級を網羅してゐると
誇称する。彼等の所謂知識階級とは果して何を指すのだらうか。曰く某々高官、曰く某々
陸海軍将校、曰く某々専門博士、曰く某々実業家-(中略)皆夫々の道にかけては、現代
の知識階級かも知れない。然し余等の見る所にして誤なくんば、彼等は精神科学の知識に
かけては殆どゼロである、否寧ろマイナスである。精神科学に無知識な門外漢が、単なる
暗示に基く人格変換に驚いて、神霊の憑依を主張するのは、丁度余が前述の無教育な子供
や田舎者が、蓄音機を見て、喇叭の中に人が潜匿してゐるのを恠むと同様の程度である。
こんな信者はたとへ百万人を集め得たとて、大本教の虚勢にはなるかも知れんが、大本教
が迷信でないと云ふ証拠には毫もならないのである」
 
また、大本の鎮魂帰神法は単なる催眠術ではなく、自己暗示による人格変換であること
から「覚醒後屡々思想の惑乱を来し、遂には精神錯乱に陥つて、とんでもない乱暴をしで
かすこと」があったという。中村は鎮魂帰神法が原因になったと思われる殺人事件の実例
まであげている。
 
王仁三郎はまたトリックによる「奇蹟」を演出してもいる。王仁三郎の元側近の証言に
よると、王仁三郎は『お筆先』の「煎豆に花が咲く』という予言を実証?するため、人知
れず庭の一角にふつうの豆をまき、その同じ場所で信者たちの見ている前、煎豆をまいた
ことがあるという。十数日後、そこから生えてきた豆の芽にトリックを知らない信者たち
は驚嘆したというわけである。
 
王仁三郎の言動には麻原を髣髴とさせるものがある。たとえば大正四年、王仁三郎は
火の雨が降るという妖言を流布して、多数の信者を綾部に避難させた。大阪のある老夫婦
などは自分の店を売り払ってその金を王仁三郎に献納し、鰹節まで抱えて綾部に逃げ込ん
だ。当然、火の雨など降るはずもなく、王仁三郎は「あれは幸い幽界だけですんだ」とや
って信者たちに随喜の涙を流させたという。これは一九九〇年、麻原が自ら予言した天
変地異を逃れるため、信者たちを連れて石垣島に避難したというのとそっくりである。ま
た、先述の元側近の証言によると王仁三郎は大の好色家で「大本教に出入してゐる女達は
大抵片っぱしから手を掛けて」いたという。王仁三郎は「天下に私ほど不器量な者はない
。それでも世の中の女と云ふものは、一度私が秋波を送ると、みんな吸い付けられて来る
から不思議だ」とうそぶいていた。これもまたワイドショーや週刊誌に賑わわせた麻原
の性豪ぶりと通じるものがある。麻原も信者の女性たちには魅力に満ちた男性だったら
しい(実は出口王仁三郎の写真には、ひげのない頃の麻原氏とそっくりなものがある)。
麻原彰晃と出口王仁三郎はさほど異なったキャラクターというわけではないのである。

『学理的厳正批判大本教の解剖』には東洋大学学長の境野黄洋、哲学者の井上哲次郎、イ
ンド学の権威・高楠順一郎、社会主義者の堺利彦、河上肇、国粋主義者の三宅雪嶺などが
序文を寄せており、また私が持っている刷では付録として哲学者・姉崎正治による同書へ
の書評が転載されている。彼らはいずれも当時を代表する一流の知識人ばかりである。彼らが中村を支持したということに当時の知識階級一般が大本教に抱いていた反感がうかがえる。

白馬に乗っての閲兵

とはいえ、戦前の日本国家が大本を弾圧したのは、別に予言や奇蹟の類がインチキだか
らでも王仁三郎が不品行だからでもない。『お筆先』にある「世の立替」の予言や王仁三
郎の大正維新、昭和維新という主張が、時の政府から革命の予告、すなわち政治的野心の
表明と受け取られてしまったのである。
 
第一次大本事件の際、新聞には「内乱予備の陰謀として告発」「命を的に探査の二ケ年
毒殺、決闘、斬奸状」」「軍人に深い根を下した大本教」「竹槍十万本の陰謀団」「十人
生き埋めの秘密あばかる」など、昨今のオウム報道顔負けの毒々しい見出しが踊った(こ
のマスコミの狂騒ぶりは第二次大本事件でも再現された)。
 
また、第二次大本事件の時にはすでに王仁三郎は多くの軍人や頭山満、内田良平ら右翼
の大物たちとも交友を持っていた。昭和維新に備え、大本から北一輝(一九三六年の二・
二六事件に連座、銃殺刑に処される)に資金援助があったという風説さえある。
 
さらに第二次弾圧直前には王仁三郎は自ら主宰する昭和神聖会のメンバー約三千人を集
めて軍事演習まがいの示威行動を行った。王仁三郎は皇居の前で白馬に乗り、サーベルを
下げて彼らを閲兵したこともあった。二・二六事件前夜の不穏な情勢下、疑心暗鬼に脅え
る政府相手にこれでは、弾圧するなという方が無理だろう。
 
こうして見ると大本は単なる宗教というよりも一種の政治思想団体として弾圧されたと
いうことが明らかである。だからこそ第二次弾圧に際して国家は不敬罪のみならず本来、
ラディカルな政治思想団体を対象とする治安維持法でも起訴したというわけである。
 
なお、この第二次大本事件を契機として第二次世界大戦の終結まで、日本では国家によ
る宗教統制・弾圧の嵐が吹きあれるが、その際には大本教への治安維持法による起訴が見
せしめとしての役割を果たしたことは想像に難くない。
 
そしてオウム真理教も単なる宗教団体というよりも多分に政治思想団体としての性格を
持つ組織であった。彼らは「真理党」として九〇年の衆議院選挙に出馬、二五人の候補者
を立てるも全員落選している。また、組織運営には国家を模した省庁制を採用、信者の一
部で軍事演習まがいの訓練を行い、国家権力掌握後に発布するべき真理国基本律(オウム
憲法)の草案まで準備するなど政治的野心に燃えた集団だった。地下鉄サリン事件はその
政権掌握計画の第一歩だったのである。だからこそ、戦前の治安維持法と同様、本来は政
治思想団体を対象としたはずの破防法がオウムに対して適用されることになったのだ。
 
王仁三郎は大正時代からすでにマスコミ工作の重要性を理解しており、一九二〇年には
当時の大新聞社の一つ、大正日々新聞を買収している。これは第一次大本事件の引き金と
もなった。そして麻原もマスコミ操作には巧みな手腕を示し、テレビや大手出版社から
の雑誌(学研『ムー』など)を利用して教勢を伸ばしていった。
 
また、オウムではマスコミに叩かれたり警察と衝突した場合、それを「弾圧」としてマ
スコミに訴え、大衆の共感を求めるという対マスコミ戦術を多用しているが、これも第一
次大本事件をバネとして急成長した戦前の大本教から学んだものかも知れない。オウムで
は地下鉄サリン事件以降も権力やマスコミによる「弾圧」を訴え、教団内部の結束を図っ
たのだが、その被害者意識の裏付けの一つに戦前の大本教弾圧があったこと、先述した麻
原の発言からもうかがうことができる。
 
その他、フリーメーソン(マッソン)による世界征服という妄想や、世界最終戦争への
待望なども王仁三郎と麻原の共有する思想的特徴である(中村古峡は大本教のフリーメ
ーソン陰謀論について「あまりの馬鹿々々しさに、開いた口がふさがらぬとは此のことで
ある」と評している)。
 
王仁三郎は一九二四年、モンゴルに入った際、「大本ラマ教」なるものを奉じ、自らダ
ライ=ラマを称していたが、麻原はオウム真理教の教義をチベット仏教の用語で説明し
、本物のダライ=ラマとの交友を宣伝のため、最大限に利用していた。こうして見ると、
戦前の大本教とオウム真理教とでは教義面でも共通性をあるといえよう。

オウムは大本教のネガ

しかし、麻原が王仁三郎のコピーだとして、それが粗悪なコピーであることもまた否
定できない。第一、大本教はオウム真理教のような凶悪犯罪を犯してはいないのである。
弾圧事件当時の新聞は大本についてあることないこと書き立てたが、実際には当局の必死
の捜査にも関わらず、内乱予備や凶悪犯罪を証拠立てるようなものは一切発見されなかっ
た。だからこそ、大本は二度にわたる弾圧にも耐え、再建を果たすことができた。
 
あるいは王仁三郎が昭和維新を奉じる皇道派の青年将校たちと連動してことを起こせば
、大本が何らかの政治的役割を果たすこともありえたかも知れない。しかし、二・二六事
件が勃発した時、王仁三郎はすでに獄中にいて、その事態に対し一切の責任を負うべき立
場ではなかった。政府が王仁三郎と皇道派との分断を図っていたとすれば、その狙いは一
応的中したといえよう。しかし、弾圧はむしろ結果として、大本教と王仁三郎を日本的フ
ァシズムの成立、ひいては第二次世界大戦の敗戦から免責することになったのである。
 
戦後、大本教は平和主義だった、あるいは反ファシズム、反天皇制の教団だったために
弾圧されたなどという誤解が知識人の間に広まることになるが、その原因はこのあたりに
求めることができよう。
 
出口王仁三郎は陸軍、海軍問わず将校クラスの現役軍人を多数シンパとしており、それ
がまた国家に大本を畏怖させる原因の一つとなっていた。ところが麻原は自衛隊へのオ
ウム浸透を図ったが、ついに尉官、佐官クラスの信者を獲得できず、軍事的には素人の教
団幹部が明確な作戦もないままサリンなどを扱わなければならなかった。かくして地下鉄
サリン事件は、その戦術目標が何だったにしろ、無意味に人々を苦しめ、死に追いやるだ
けに終わってしまったのである。
 
オウム真理教とは、戦前の大本教が内包し、そして現在の大本教団が切り捨てたところ
のいかがわしい面だけを集めて純粋培養したような宗教だったということもできよう。オ
ウム真理教はある意味では大本教のネガなのである。

ハルマゲドンは第二次世界大戦?
 
さて、ここで興味深い問題がある。『日出る国、災い近し』(オウム出版)によると、
麻原は繰り返し世界最終戦争はアジアの盟主たる日本とアメリカを中心とする連合国と
の戦いになると説いていた。そしてその戦争の後、日本は一時、連合国に占領される(オ
ウムの本当の出番はその後だという)。また、麻原はヒヒイロカネなる神秘金属を用い
て、ハルマゲドン後の広島にタイム=スリップしたことがあるとも主張していた(『ムー
』一九八五年十一月号、『トワイライトゾーン』一九八八年一月号、他)。なぜ、彼は広
島に行かなければならなかったのだろうか?
 
これがたとえば一九二〇年代あたりに出された予言だとすれば、それはまさに的中して
いたことになるだろう。第二次世界大戦はまさにアメリカを中心とする連合国と日本との
対決の様相を呈し、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下をもって実質上の終焉を迎えたからで
ある。ここに興味深い分析がある。清水アリカ氏によると、麻原のハルマゲドン予言は
世紀末的未来を差し示すものではなく、過去におけるヒロシマ、ナガサキの想起に基づく
ものであり、その反米思想も来るべき日米戦争などではなく、過去の日米戦争にその根拠
を持っているというのである(「「サブカルチャー的悪夢」と革命的想像力」『ジ・オウ
ム』太田書店、一九九五、所収)。
 
かつてオウムと同様のハルマゲドン予言は大本教によっても説かれていた。そして、そ
の予言をなぞるかのように日本は連合国と戦い、廃墟が残された。王仁三郎は日本の敗戦
以降、政治的な発言を止め、陶器作りなどの芸術的活動に専念した。この沈黙は戦後、大
本教団が健全な再建を行うのを助けることになる。あるいは彼は第二次世界大戦をもって
予言の成就とみなし、すでに自分の使命は終わったと心得ていたのかも知れない。
 
大本教におけるハルマゲドン予言は結果として「予言」といってもおかしくないものに
なったが、オウムのハルマゲドン予言は過去に起こった事件の未来への投影にすぎない。
ここでもオウムは大本教のグロテスクな模造になってしまっている。
 
麻原と王仁三郎の共通点には偶然のものもあろうが、麻原の方でかなり意図的に王仁三郎から学んだとみられるものもある。その際、重要なテキストとなったのは武田崇元(洋一)著『出口王仁三郎の霊界からの警告』(光文社、一九八三年)であろう。
 
この書籍は王仁三郎を大予言者として、あるいはカリスマ的政治指導者、霊的革命者と
して評価するものである。それによると、王仁三郎は大正時代、すでにワープロやファッ
クス、テレビ、リニアモーターカー、クレジットカードなどをも予言していたという。も
っともそれらハイテク関係の予言というのは、実際には武田氏によるこじつけの域を出て
いないのだが、おりからの予言ブームで同書もベストセラーとなり、予言者・出口王仁三
郎というイメージを一般に流布することになった。
 
また、武田氏は同書の中で王仁三郎のファシスト的側面をも肯定的にとりあげた。それ
は戦後に定着した王仁三郎のイメージ、すなわち平和主義者、反戦主義者という虚像をく
つがえすには効果的だったが、結果としてファシズム礼讃となったことは否めない。もっ
とも武田氏は以前より自らファシストを標榜しており、同書の狙いの一つにファシズムの
思想的復権があったとみなすこともできよう。麻原の予言好み、ファシズム的傾向、マスコミ操作の技術などに『出口王仁三郎の霊界からの警告』が影響を与えたであろうことは想像に難くない。

ちなみに『出口王仁三郎の霊界からの警告』は、王仁三郎を単に一教団の教祖としてで
はなく日本近代史上の巨人として位置付ける内容であったため、オウム以外のカルト教団
からもしばしば利用されている。

最近では、『出口王仁三郎の霊界からの警告』に基づきつつ、統一教会(原理運動)の文鮮明こそ王仁三郎の予言した真の救世主であると唱える書籍まで出された。それによると、王仁三郎(およびその前世というスサノオ)と文鮮明の間には、宗教統一を唱える、淫行の教祖として非難をあびる、政府の弾圧によって投獄される、など二二項目の共通点があるという(高坂満津留『出口王仁三郎の救世主大予言』光言社、一九九六)。
 
出口王仁三郎礼讃の流行が超能力者待望の風潮を生み、それがオウムや統一教会、阿含
宗のようなカルトの受け皿を提供したという側面も無視できないだろう。現在、活躍して
いる自称超能力者については、うさんくさい面もおのずと目につくし、トリックを暴くこ
とも比較的容易である。ユリゲラーやサイババなどはその類だ。
 
また、神話上の人物や架空の人物、遠い過去の人物がいかに超能力を奮っても、それは
現代の読者に実感をもって迫るものではない。ところが王仁三郎が活躍したのは大正時代から昭和初期という比較的近い過去である。本物の超能力者が実在したという印象を与える上で、王仁三郎の例はもっとも有効なケースなのだ。
 
今、大本教の刊行物や『ムー』などのオカルト雑誌も含めて、王仁三郎礼讃の雑誌・書
籍は多数出版されている。ところが『学理的厳正批判大本教の解剖』を復刻しようなどと
いう奇特な出版社は存在しない。したがって読者には王仁三郎がいかに偉大な超能力者だ
ったかという情報ばかりが与えられることになる。この状況がカルトの布教にどれほど有
利な状況を作り出しているかは、考えるだに恐ろしいものがある。

第三次大本事件

さて、先述した麻原の発言の中で、出口王仁三郎の入獄と戦後の日本占領との日数が
同じだということを指摘するくだりがあった。麻原はなぜ、この偶然を意味ありげに持
ち出すのか。実は、そこには大本教の教義における「型の思想」が取り入れられている。
すなわち、大本教団は日本の雛型、日本は世界の雛型であり、したがって大本に起きたこ
とは拡大された形で日本に起こり、さらに世界に起こるという信仰である。その観点から
いけば、第二次世界大戦とは、まさに第二次大本事件の型が日本に移写された結果、起こ
ったものだということになる。
 
一九八〇年、大本教団では第三代教主・出口直日の後継者の座をめぐって内紛が起き、
その結果、教団は三つに分裂した。すなわち大本本部、大本信徒連合会、そして「いづと
みづの会」を母体とする愛善苑である。この内、愛善苑は出口王仁三郎こそ救世主である
として教主制そのものの廃止を唱え、もっとも急進的な立場をとっている。
 
そのため大本本部では幹部に現教主・出口聖子氏への個人的忠誠を求めるという形で結
束を固め、愛善苑側ではその動向を非民主的だと非難するという形で両者の対立は進行し
ているのである。この内紛は裁判沙汰にまでなっているが、宗教教団内の問題を現代の法
廷で裁くのは難しく、ドロ沼化の様相を呈している。これがいわゆる第三次大本事件であ
り、第一次・第二次大本事件が国家権力という外部からの弾圧だったのに対して、攻撃の
火の手が教団内部から起こったところに特色がある。
 
さて、愛善苑は王仁三郎の神格化を押し進め、王仁三郎原理主義ともいうべき方向に教
義を展開させている。王仁三郎が大正時代に口述した『霊界物語』は三五万年前、トルコ
はエレズレムに神都を置く世界帝国の崩壊に始まるSF調の物語だが、機関紙『神の国』
など愛善苑側の刊行物にはこれがフィクションではなく、真実の人類の歴史であるという
記述がしばしばみられる。
 
また、王仁三郎は終生、天動説と地球平坦説を信じ、地球が丸いなどという学者は阿呆
だと唱えていたのだが、そのことは愛善苑側の刊行物でもとりあげられている。王仁三郎
を神格化するということは、このような彼の歴史観・宇宙観をも受け継ぐということであ
る。愛善苑が王仁三郎のオカルト・擬似科学的な世界観を奉じる限り、現代の常識的な世
界観との衝突は必至となるだろう。ただでさえ王仁三郎の思想にはハルマゲドン予言やフ
リーメーソン陰謀論などオウムの先駆となった要素があるのだ。
 
先述の『出口王仁三郎の霊界からの警告』の著者、武田崇元氏は一九八九年、愛善苑の
事実上の代表者である十和田龍(出口和明)氏の令嬢と結婚し、大本閨閥入りを果たした
。武田氏は最近、中島渉氏のインタビューに応え「僕はね、出口王仁三郎の信者であって
、(大本教団の)どこそこに所属しているわけではないんです」「わしは、いよいよ一朝
事という場合には、ちょっと言上の儀ありというので、どこでも押し出していく覚悟はし
ておるわけです」と述べている(「武田崇元80年代オカルト一代記!」『宝島30』一九九六年一月号)。
 
しかし、客観的に見れば、現在の武田氏の立場は決して中立というわけにはいかないは
ずである。現代の社会常識と愛善苑の教義の衝突が表面化した時、自らファシストを標榜
するアジテイターが果たしてどのような役割を演じてくれるのだろうか。