「外国人は来るな!」と叫ぶ人たちが、移民政策に沈黙しているワケ (ITmediaビジネスオンライン 2018年11月27日)

※本日、衆議院で「出入国管理法改正案」が通過する。
 
野党が重箱の隅をつつくような攻撃をしているが、ここまできてしまうともはや誰にも止められない。仮に、安保法案の時のようなプラカード作戦を断行したところで、スケジュールが多少後ろにズレこむだけで、法案成立も時間の問題だ。
 
これで、外国人留学生や技能実習生という裏スキームを用いてきた「隠れ移民国家」だった日本が、法の後ろ盾を得て、いよいよ世界有数の「移民大国」へと生まれ変わる。
 
日本人が外国人労働者の皆さんに「いいか、お前らは移民じゃなくて、労働者だからな」とどんなにきつく念押しをしたところで、労働者として入国した外国人が、その国の人々と同様の権利、同様の社会福祉サービスを求めて“移民化”していくのは、人類の歴史が証明している。

そうなれば、貧しい日本人も雪だるま式で増えていく。「外国人労働者様がやって来る! ヤァヤァヤァ」と大ハシャギするのは経営者のみで、日本人の労働者からすれば、現在の低賃金がビタッとフィックスする。大量の労働力が流入して、替えがいくらでも効いてしまうからだ。故に、若者はいつまでたっても所得が上がらず、結婚・出産のハードルもグンと上がっていく。こういう若者の怒りの矛先が誰に向けられるのかは、ネオナチを例に出さなくても容易に想像できよう。
 
つまり、この法案によって日本は、これまでグレーだった外国人の人権問題、さらには排外主義などの「移民問題」に真正面から向き合わざるを得なくなるのだ。

「移民政策」はスルーの不思議
 
なんてことを考えていくと、ひとつだけ、どうしても不思議でしょうがないというか釈然としないことがある。
 
それは、いわゆる「ネトウヨ」の皆さんのリアクションだ。
 
ご存じのように、愛国的な思想をお持ちの方たちは、何かとつけて、「外国人は日本から出て行け!」と声高に主張される。彼らは有名観光地に外国人観光客が溢れかえることでさえ露骨にイヤな顔をする。伝統や自然を守るためにも、日本は日本人だけが楽しく暮らせばよろしい、という思想なのだ。
 
そういう愛国心溢れる方たちからすれば、今回の出入国法改正など、断じて許すことのできない「売国の移民政策」――になるはずなのだが、どういうわけか、そんな風に騒いでいる人たちがそれほどいないのだ。
 
一部の市民団体の方たちが反対デモをしたという報道はあったものの、国会前に何万人も集まって、「移民政策を強引に進める売国安倍政権を打倒せよ!」なんてシュプレヒコールをあげた、なんて話も聞こえてこない。

むしろ、ネットを眺めると、「移民は断じて反対だが、人手不足を解消するには、ある程度の外国人労働者の受け入れは仕方がない」なんことを言っている方も少なくないのだ。
 
これには正直、困惑している。
 
外国人観光客のマナーの悪さや、韓流スターの原爆ファッションにはあれほど怒りをあらわにするのに、それよりもはるかに日本に打撃を与えるであろう「移民政策」は、なぜかスルーしているのだ。
 
この矛盾した考え方を一言で言い表すと以下のようになる。
 
「移民は反対だし。外国人観光客も迷惑だからできる限りやって来てほしくないけれど、外国人労働者は人手不足なんだから、しょうがない」

では、愛国心溢れる立派な志をお持ちの方たちが、なぜこうした矛盾した考えに陥るのか。もちろん、安倍さんの信者で、「総理が移民政策じゃないって言ってんだから、移民じゃないんだ」とかたくなに信じている方もいらっしゃるかもしれないが、個人的には、イデオロギーを超越したところにある、日本人が潜在的に持っている「恐怖」が関係しているのではないかと考えている。
 
それは「人手不足で日本が滅びる」という恐怖だ。
 
今回の法案もなんとなく、なし崩し的に賛成へと流れる人がいるのは、「移民も怖いが、人手不足はもっと恐ろしい」という脅迫観念のような思い込みがある。なぜそんなことが言えるのかというと、日本ではこれまでも「人手不足」という「錦の御旗」を掲げると、どんな無茶も通ってきた、ということが繰り返されてきたのだ。
 
人口減少、限界集落、少子高齢化みたいなネガワードが溢れる流れで、人手不足祭りが始まったので、この問題を何やら人口と結びつけたがる人がマスコミでも多いが、実は両者は全く関係ない。
 
その証拠が1960年代だ。
 
年配の方ならば覚えていると思うが、この時代は今とは比べものにならないほど「人手不足」が叫ばれた。新聞には連日ように、人手不足で悩む企業の話題が掲載され、世の中に悪いことが起こると、すべて人手不足のせいにされた。
 
例えば、分かりやすいのが1965年にたて続けに発覚した、オートレースなどの公営ギャンブルの八百長事件だ。コンプラ教育不足や、組織のガバナンスに問題があるのは明らかなのに、以下のような「人手不足犯人説」がまかり通っている。
 
『公営ギャンブル 八百長なぜ起こる 人手不足 監督がルーズに 選手の待遇改善望む声も』(読売新聞 1965年10月7日)
 
少年犯罪が起きるとすぐにゲームやネットのせいにする、典型的な「時代が悪い」的ロジックだが、裏を返せば、「人手不足」を出せばなんでも許されるような風潮があったのだ。
 
だが、ご存じのように、この時代は労働人口も右肩上がりで、今と比べものにならないほど失業者も溢れていた。要は、高度経済成長で人々が豊かになってきたことで、安い人件費で労働者をコキ使いたい企業の求人がそっぽを向かれてきた、という雇用ミスマッチが起きていただけの話なのだ。
 
もちろん、産業界は今のように「外国人労働者をいれてくれないと死ぬしかない!」と訴えたが、日本の政治家も今と比べてかなりまともだった。『人手不足対策 人口政策を再検討 首相・労相が一致 外人は受け入れぬ』(朝日新聞 1967年2月25日)という見出しからも分かるように、移民政策を突っぱねたのだ。

「生産性向上」は永遠のテーマ
 
では、この時代を生きた我々の先輩たちはどうやって「深刻な人手不足」を乗り切ろうとしたのかというと、「生産性向上」だ。この時代の経済記事には平成日本とほぼ変わらない、中小企業の生産性をどうやって上げていくのかということや、採用のために、新人の賃金をどうやって上げていくかなどのテーマが非常に多く見られるのだ。
 
つまり、日本企業の「生産性向上」というのは、昨今の人口減少うんぬんは関係なく、50年以上前に掲げながら先送りされてきた因縁のテーマなのだ。
 
なんてことを言うと、現実問題として、日本の生産性が悪いということは、この時代の人たちが問題先送りをしたってことだろ、と思う方もいるかもしれない。ただ、先人たちの名誉のために言っておくと、彼らが失敗したのは、ちょうどこの時期から日本の「生産性向上」を阻む人の大量流入があったことが大きい。
 
もうお分かりだろう、それは「外国人労働者」である。

『政府の反対姿勢にもかかわらず――根をおろす外人労働者 研修生の名で入国 深刻な人手不足の中で』(朝日新聞 1973年2月8日)というようなニュースが1970年代から右肩上がりで増えていく。研修生や観光の名目で入国した外国人が、ブローカーを介して労働現場へ送り込まれるというスキームが確立していったのだ。
 
低賃金でコキ使える労働力は、経営者にとって覚醒剤のようなもので、一度でもそこに依存してしまうと、中毒者となって、その労働力なしにはビジネスが回らない。もっと外国人労働者を、もっとたくさん受け入れないと死んでしまう――。
 
このような外国人労働者中毒が、日本の経営者の中に伝染病のようにまん延して、今多くの人が指摘する、「日本は既に移民大国だ」という国のグランドデザインは、このあたりからスタートしたというわけだ。

日本は企業数が異常に多い
 
では、この時代の事業者たちは、なぜ日本政府が反対した移民政策へと突き進んだのだろうか。そんなもん、会社を続けるために仕方なくに決まっているだろ、という声が聞こえてきそうだが、筆者はそれこそが「恐怖」に尽きると考えている。
 
60年代にちまたを席巻した「生産性向上」は、実行に移すのは容易なことではない。組織のあり方をゼロから見直さなくてはいけないので、従業員との衝突は不可避だ。ましてや昔の日本企業は「窓際族」なんて言葉があるように、終身雇用なので何もしない社員もたくさん食べさせていた。このような無駄を削減するには、場合によっては非情な決断もしなくてはいけない。
 
そんな辛いことはしたくない。かといって、今のままでは会社は潰れてしまう。そんな恐怖に苛まれた経営者が、溺れる者はわらをもつかむではないが、場当たり的にすがったのが、日本人ではあり得ないような低賃金でコキ使える労働者、すなわち不法就労の外国人だったのである。
 
このような話をすると、「こいつは経営者の辛さが分かっていない」とか叱られてしまうかもしれないが、日本の経営者が「恐怖」にとらわれれ、生産性向上を避けてきたことは、「企業数」が如実に示している。
 
よく言われることだが、日本は企業数が異常に多い。
 
2010年に経済産業省が、日本の産業競争力を検討するために作成した「日本の産業を巡る現状と課題」という資料があり、その中で詳しくは分析されているが、日本は欧米や韓国では1~2社しかないような分野でも数多くのプレイヤーが群雄割拠している。「同一産業内の企業が多すぎる」のだ。
 
そう言うと、「信長の野望」みたいなのが好きな日本人はライバルが切磋琢磨できて良いことだと勘違いをするが、実はこれほど生産性の悪い話はない。国内で「あそこには負けない」「ウチのほうが安く」なんて消耗戦を繰り広げなくてはいけないので、いつまでたっても「低賃金労働」を前提とした成長モデルから脱却できない。こういうビジネスモデルは国際的な低賃金競争で負けると一気に、バタバタと共倒れしていく。その代表が電機メーカーだ。
 
つまり、日本が他の先進国と比べ、産業の集約化が進んでいないことこそが、経営者が生産性向上という“痛みをともなう改革”を避け続けてきたことの動かぬ証なのだ。

最後にすがるのは「低賃金労働」
 
では、なぜ生産性向上を避け続けることができたのかというと、どんなにダメな経営者でも「外国人労働者」を使うことで、人手不足が乗り切れてしまったからだ。
 
本当に深刻な人手不足ならば、賃金アップできない事業者から潰れていく。自然淘汰が進んで、産業内の整理や再編が進む。だが、日本の場合は「隠れ移民国家」だったので、いざとなれば低賃金労働者が確保できる。そこで本来なら廃業・吸収されたはずの、生産性の悪い事業者が延命できてしまったのだ。
 
もっと言ってしまうと、日本の「人手不足」が真の人手不足ではなく、「同一産業内の企業が多すぎる」ことが招いた幻影だ。その象徴がコンビニ業界である。

今や外国人に頼らないと回らない、というコンビニオーナーの悲鳴が聞こえるコンビニは大手3社がしのぎを削るドミナント戦略のせいで、同一エリア内にあまたの事業者が乱立することとなっている。
 
本来、マーケット的にもニーズ的にも1店舗で済むような地域であっても、「成長」の名のもとで出店が進められる。そんな明らかな過剰供給のなか、「バイトが集まらない」とこの世の終わりのように騒いでいる。そのくせ、賃金を上げるわけでもなく、低賃金をキープするために外国人留学生を引っ張ってきているのだ。これが本当の意味での「人手不足」でないことは言うまでもない。
  
国内のコンビニは右肩上がりで増え続け、現在は5万7000店舗を突破している。地方では深刻な人口減少が始まっているにもかかわらず、だ。このような高度経済成長期のような“右肩上がり成長”の神話から抜けきれないのは、何もコンビニに限った話ではない。今回、人手不足で死にそうだと叫ぶ業界のほとんどが、人口減少社会に見合わない数の事業者が乱立し、競争の名のもとで同じ仕事に、多くの人員が投入されている。
 
このような産業がすべきことは、増えすぎたプレイヤーを統廃合して、生産性を向上していくことなのは明らかだが、なかなかそこへ踏み切れないのは、「右肩上がり成長」を否定することが怖いからだ。
 
そして、おびえた経営者が最後にすがるのが「低賃金労働」というドーピング――。つまり、今回の「外国人労働者の受け入れ拡大」というわけだ。

本当の恐怖は「移民政策」を進めた後に
 
テロが分かりやすいが、「恐怖」は人から人へと伝染していく。経営者たちの「人手不足で日本が滅びる」という恐怖が経済メディアなどを介して、社会に急速に広がっている。
 
本来であれば、「外国人は来るな!」と叫んでいる方たちが、真っ先に「移民政策」に反対しているはずである。しかし、「ま、外国人労働者ならしょうがないか」となるのは、イデオロギーに恐怖が勝ってしまったからだ。ただ、これまで述べてきたように、本当の恐怖は「移民政策」を進めた後からやってくる。
 
今回、安倍さんはかたくなに移民政策ということを否定するが、実は戦前の日本でも、後に在日朝鮮人となる外国人の方たちを受け入れるという事実上の移民政策を行なった際、政治家は「労力の輸入」と言い換えている。ちょっと前に安倍さんが好んで使った「一億総活躍」も戦前のリバイバルで、読売新聞で1942年に「一億皆労へ覚悟はよいか」なんて連載が行われている。
 
「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍さんらしいといえばそれまでだが、経済戦争の指揮を執るリーダーがここまで「戦前レジーム」にとらわれてしまうのもいかがなものか。
 
選挙対策でゴリ押しした今回の移民政策が、「第二の敗戦」への引き金にならないことを心から祈りたい。