・死肉も食べる? アステカで実際に行われていた怖すぎる祭まとめ

https://www.phantaporta.com/2019/09/Azteca.fes.html

※古代アステカでは実際に生贄の儀式を含む凄惨な祭が行われており、時には生贄の肉を食べることもありました。今回はそんなアステカの怖すぎる祭をまとめてご紹介しましょう。


アステカってどんな国だっけ、そもそもどこにあるの? ――という方のために、まずは簡単な歴史をご紹介しましょう。

*アステカ基本情報*
・時代:1325年~1521年
・場所:メキシコ中央高原
・王都:テノチティトラン(現在のメキシコ首都メキシコ・シティー)
・特徴:他の都市国家と「3市同盟」を組み周辺都市へ戦争を仕掛け、捕虜を生贄の儀式に利用した。1521年、スペイン人のコルテスに征服された。


1325年、アステカ人たちはメキシコ中央高原にあるテスココ湖を埋め立て水上都市テノチティトラン(現在のメキシコの首都メキシコ・シティー)を建設します。こうして誕生したアステカは、テスココとトラコパンというふたつの都市国家と「3市同盟」を組むと、周辺国家に戦争を仕掛け、メキシコ中央高原全体へと勢力を広げていきました。王都テノチティトランの人口は30万人に達し、人々の生活水準はヨーロッパのどの都市よりも高かったといいます。


しかし、その繁栄の裏には絶え間ない戦争と血なまぐさい生贄の儀式がありました。生贄の儀式は当時、メソアメリカ各地でよく行われていたのですが、アステカでは並み外れて大規模に行われていたのです。生贄に捧げられたのは、周辺諸国から戦争で集められた大量の捕虜たちでした。そのため、周辺の都市国家の民衆の中にはアステカに恨みを抱く人が増えていきます。

こうした事情を利用し、アステカを征服しようと考えた者がいました。スペイン人のエルナン・コルテスです。彼はアステカに強く反発する周辺の先住民集団を味方につけると、1521年、激戦の末に王都テノチティトランを占領します。こうしてアステカの繁栄は終焉を迎えたのです。


アステカで使われていたふたつの暦と祭の関係

では、アステカの人々はどんな時に生贄の儀式を行っていたのでしょう? その答えは彼らが使っていた暦にあります。

アステカでは「シウポワリ(太陽暦)」と「トナルポワリ(祭祀暦)」というふたつの暦を使用していました。

*シウポワリ(太陽暦)

・1年=365日(1ヶ月=20日×18ヶ月+5日)
・農耕サイクルに合致した暦で、毎月、その月の農耕に関する祭祀が行われた。
→祭祀の度に生贄の儀式を実施!


*トナルポワリ(祭祀暦)

・1年=260日(1~13の数字と20の絵文字の組み合わせでできている)
・宗教儀式用の暦で、その日の全ての出来事の吉凶が予測できると考えられていた。
→占いで「凶」となったら生贄の儀式を実施し運命を回避!

このように、アステカではふたつの暦それぞれで生贄の儀式を必要としたため、とても頻繁に儀式が行われていたのです。


アステカの怖すぎる祭①子どもを生贄にした祭

ここからはいよいよ、アステカで行われていた怖すぎる祭をまとめてご紹介しましょう。


*アトルカワロもしくはクァウィトレワの祭*

・時期:シウポワリ暦第1の月(現在の2月14日~3月5日)
・目的:神々に雨乞いと五穀豊穣を祈ること。
・内容:山頂で大勢の子どもを生贄に捧げて雨乞いをし、祭の後にその死体を食べる。大勢の捕虜も生贄に捧げて五穀豊穣を祈願する。

最初にご紹介するのはシウポワリ暦第1の月に行われる祭りです。この祭りではまず、神殿や各家庭に柱を立てて儀式用の旗で飾り、供物を捧げます。

祭で生贄に捧げられたのは大勢の子どもたちと捕虜です。
子どもの中でも、頭につむじがふたつある乳飲み子が最適とされ、両親から買い取って着飾らせると、輿に乗せて山頂まで登り、そこで胸を切り裂いて心臓を取り出して神に捧げました。この時、子どもが泣き叫べば叫ぶほど雨が降ると信じられていました。


捕虜たちの方は大きな円形の石版に縛り付けられ、木製の剣と盾を持たされて完全武装のアステカの戦士4人と戦わされます。当然捕虜は負け、4人の戦士に両手両足を押さえ付けられると、神官に心臓をえぐり出されました。


アステカの怖すぎる祭②生贄の皮を剥ぐ祭

続いてご紹介する祭は「人の皮剥ぎ」を意味する第2の月に行われます。


*トラカシペワリストリの祭*

・時期:シウポワリ暦第2の月(現在の3月6日~25日)
・目的:豊穣の神シペ・トテックに五穀豊穣を祈ること。
・内容:捕虜の心臓をえぐり、死体の生皮を剥ぎ、バラバラに切断して食用にする。剥いだ生皮を身にまとって五穀豊穣を祈願する。

豊穣神シペ・トテックは五穀豊穣の見返りとして人身御供を要求する神です。
シペ・トテックとは「生皮を剥がれた者」という意味で、その名の通り、儀式では生贄の捕虜の心臓をえぐり出した後、死体を神殿の階段から投げ落とし、生皮を剥いだ上でバラバラに切断し、トウモロコシと一緒に煮て食べます。さらに生皮を身にまとい、五穀豊穣を祈願しました。

ちなみにこの時人々が身にまとった生皮は、翌月の祭で神殿に奉納されます。奉納まで20日以上もあるため耐え難い程の悪臭が漂い、奉納後は臭いが染みついた身体を洗う必要がありました。


アステカの怖すぎる祭③生贄を火攻めにする祭

第10の月に行われた祭は、生贄に想像を絶する苦しみを味わわせるものでした。

*ウェイ・ミッカイルウィトルもしくはショチコトルウェツィの祭*

・時期:シウポワリ暦第10の月(現在の8月13日~9月1日)
・目的:火の神ウェウェテオトルや商業の神ヤカテクトリに感謝する。
・内容:生贄の捕虜を火の中に投げ入れ、死ぬ直前に助け出して心臓をえぐり出す。

この祭は火の神に感謝を捧げる祭のため、生贄の捕虜たちは燃えさかる火の中に投げ込まれます。死ぬ直前に助け出されますが、それは心臓をえぐり出されるためでした。
人々はその様子を見物し、歌ったり踊ったりしたといわれています。


アステカの怖すぎる祭④52年に1度の大祭

最後にご紹介する祭は、ふたつの暦で同じ日が巡ってくる52年目の年に行われます。アステカの人々にとって、この年はひとつの周期が終わり新しい周期が始まる大切な年で、祭も大々的に開催されました。

*トシウモルピリアの祭(新しい火の祭)*

・時期:52年に1度、ふたつの暦で同じ日が巡ってくる年
・目的:新しい周期(世界)の再生
・内容:20日間、断食と禁欲の日々を送る。深夜、聖なる丘で神官が生贄の胸の上で火を起こして「新しい火」をともし、生贄の心臓をえぐり出して焚き火の中に投じる。

祭が開かれる20日間、アステカの人々は火を消し、断食と禁欲の日々を送ります。
神官たちは深夜になると神々に扮し、王都テノチティトランからウィシャチトランと呼ばれる聖なる丘へと向かいました。夜空に「ママルワストリ(火起こしの錐)」と呼ばれる星座が現れる頃、生贄を仰向けに寝かせてその胸の上で錐と木を使い「新しい火」を起こします。さらに生贄の心臓をえぐり出し、たき火の中へと投げ入れました。

「新しい火」はその後、走者たちによって王都へと運ばれます。この一連の儀式はアステカの人々にとって、ひとつの周期(世界)の死と再生を象徴するものでした。


アステカで行われていた多くの祭は、現代人からみると恐ろしく野蛮なもののように思えます。しかし当時の人々にとってはどれも欠かすことのできない大切なものでした。それにしてもトウモロコシと一緒に煮た生贄の味はどのようなものだったのでしょう……。ちょっと想像したくありません。



・アステカ文明の恐ろしい儀式と生贄について

http://fukayomi-asia.net/aztec-sacrifice/

※アステカ人は神々から恩恵を受けるため、人々を虐殺し生贄としました。それは習慣となり、年に何十万人もの人が犠牲になったと言われています。


テスカトリポカの祭り

テスカトリポカの祭りは、太陽に命を捧げる催しです。トシュカトルと呼ばれるアステカ太陽暦の5番目の月に、神テスカトリポカに似ている男性が1人選ばれます(髪が長く、背の高い者)。その男性は翌年、神のように扱われるとか。

選ばれた者は肌を黒く塗られると、花の冠や貝殻の胸当て、また宝石類を身につけます。そして4人の美女が妻になるとのこと。

テスカトリポカは、アステカ神話の主要な神の1柱。神々の中で最も大きな力を持つとされています。キリスト教の宣教師たちは悪魔であると認識しているようです。

選ばれた男性は、笛を吹きながらアステカの町を周ることになります。それを行うと人々から尊敬の念を集めることができるとのこと。

神のように扱われて1年経ち、再びトシュカトルの月に入ると、その男性は大きなピラミッド状の神殿に登ります。そして司祭が、彼を祭壇に横たえて心臓をえぐり、太陽に捧げます(司祭が動く心臓を高くかかげる)。

その行為が終わると、また翌年の犠牲者が選ばれます。


儀式後に人肉を食べる

犠牲者の肉はトウモロコシと一緒に炒められ、貴族や司祭たちに食べられていました。また骨は楽器や武器などに利用されました。

当時の儀式料理「ポゾール」は、現在メキシコの伝統的なスープ料理となり人々に親しまれています。

メキシコの各地域で、独自のスタイルがあるとのこと。豚肉、にんにく、たまねぎ、キャベツ、ライムなどがトッピングされています。

アステカポゾールでは、犠牲者の切り刻んだ肉が使われていました。1500年代にスペイン人がメキシコに到着すると、彼らはカニバリズム(人食い)を禁止します。それからポゾールの人肉レシピは、豚肉で代用されることになります。アステカ人は「あまり味が変わらない」とし、豚肉を人肉のように味わったとのことです。


生贄を得るために、戦争を仕掛ける

生贄を得るための戦争は、皇帝の弟トラカエレルによって始められました。彼はアステカ帝国の権力を高めた人物です。またアステカの歴史を改ざんした人物であるとも言われています(古い歴史書を燃やし、帝国の民は神々に選ばれたことを強調する歴史書を作った)。

ちなみにアステカ人は多神教ですが、中でも太陽神であり軍神でもあるウィツィロポチトリを主に崇めていたとのこと。

「神に栄養(血)を捧げなければ」と考えた彼は、生贄を捕まえるために帝国の東にあるトラスカラ王国を攻めました。トラスカラ王国は征服されませんでしたが、ある契約を結ばされます。それはトラスカラの敗戦兵を奪うという内容でした。

その後帝国はトラスカラ王国だけでなく、他の近隣国にも戦争をふっかけて捕虜を確保したそうです。衝撃的ですが神の供物となる捕虜たちは、栄光の死を得られるとして喜んでいたといいます。


人間牧場として利用され続けたトラスカラ王国

アステカ帝国は、トラスカラ王国を簡単に征服できるにもかかわらず、それを実行しませんでした。それはトラスカラ王国を「生贄を生み出す農場」として利用し続けるためです。こういった仕打ちにトラスカラ人は帝国を恐れ、いつまでも憎んでいました。

やがてスペイン人が海から渡ってくると、トラスカラ人は彼らを帝国に導き、国落としをさせました。


自分から進んで、神の供物となる

アステカ文化によると、神に命を捧げることは名誉だと考えられていたそうで。帝国の犯罪者や売春婦たちの一部は、自ら進んで儀式の生贄になりたがっていたとか。またアステカ文化を共有していた国の捕虜は、スペイン人によって開放されたとき、栄光の死を奪われたとして怒ったといいます。

アステカ人の犠牲の精神は、彼らの思う宇宙創造論から来ているそうです。彼らは神々に食事を与えると、宇宙の乱れが収まりバランスが取れ、長く生きられると考えていました。そのため神への犠牲は、尊敬にあたいする行為と思われていたとのことです。


巨大ピラミッドのために大虐殺

アステカ人はときに、大虐殺を行っています。アステカ帝国の首都テノチティトランに巨大ピラミッドを数年かけて完成させた後、それは起こりました。

彼らは巨大ピラミッドを開場する大規模な祭りを行うと、4日間で約8万人以上を殺したそうです。それはアステカ帝国で史上最大の虐殺劇に発展したとのこと。

ちなみにアステカ帝国がメキシコ全土を統治していた頃、年間で約25万人ほど虐殺にあっていたと推定されています。


穀物の神シペ・トテックへの祭事

毎年春になると、豊作になることを願って「人の皮をはぐ祭典(トラカシペワリストリ)」が開催されます。祭典では、戦争の捕虜たちが生きたまま全身の皮をはぎ取られて絶命するとのこと。シペ・トテックの「自身の皮をはいで、人々に食料をわけ与える」という伝承を参考にしたとか。

祭典の40日前に、犠牲者はシペ・トテックを模した服装になります。赤色の羽や金色に輝く宝石を身に着けるそうで。祭典までの40日間は、神として振る舞われるとのこと。祭典の当日になると、ピラミッド状の神殿の頂上に運ばれて皮をはがされます。はがされた皮は司祭に与えられ、司祭はその皮を20日間ほど着るそうです。


剣闘大会

この祭りでは剣闘大会が開かれます。内容は捕虜たちが命をかけて、アステカ帝国のエリート兵と戦うというものです。捕虜たちは素手で挑戦するのではなく、あらかじめ硬い木の剣や盾が渡されます。ある者は5回戦って勝つと、捕虜から開放され自由の身になったそうです。負けた捕虜は容赦なく斬首とのこと。生きたまま皮を剥がされて死ぬよりか、まだましかもしれません。


生き残るために、双子のどちらかを殺害

アステカ神話には双子の神が複数おり、それらはヒーローやモンスタースレイヤー、さらには世界の創造主として敬われていました。神話の中で、双子というのは神聖なものでした。

しかし、現実での双子は軽蔑された扱いを受けたといいます。親は双生児のどちらかを神ケツァルコアトルの双子とされるショロトルに見立てて、殺さなければなりませんでした。なぜならショロトルは不吉な象徴とされ、両親に死を運ぶと信じられていたからです。

そのため、現実での双子は忌み嫌われていました。

アステカ神話でショロトルは怪物、奇形を象徴する神。ケツァルコアトルは、人類に火や文明を授けた神と言われています。


雨の神トラロックのために、生贄となる子ども

アステカ帝国首都のとあるピラミッド山頂に設けられた礼拝堂は、雨の神トラロックのものでした。その礼拝堂は「山の居間」と呼ばれ、翡翠(ひすい)や貝殻、穀物などが供えられたといいます。

トラロックは山頂だけでなく、湿った肥沃な洞窟にも宿ると信じれており、そのような洞窟では子どもたちが生贄にされました。現在考古学者の調査により、トラロックが住むとされる洞窟から幼児の埋葬室が見つかり、また穀物の貯蔵施設と思わしきものが発見されています。

トラロックは絶え間ない崇拝を必要としたそうで。アステカ人は豊かな雨を守るため年に数回、子どもたちを犠牲にしました。犠牲となる子は、美しく装飾され、ダンサーに囲まれて洞窟に運ばれるとのこと。洞窟に向かう途中で子どもが泣いたら、それは豊かな雨が降る兆候だと思われたようです。泣かない子どもの場合は、わざと爪をはがして泣かせたとか。

犠牲となる子どもは、奴隷落ちの子や貴族出身の子だったりと、さまざまでした。平民だけでなく、身分の高い子も犠牲になっています。儀式では彼らの薄い胸を開き心臓を取って捧げるとのこと。そして最終的に、彼らの遺体は調理されてアステカ人の胃に納まる手はずです。


・「国家的規模の生贄と人肉喰いの儀式」とは?

https://bushoojapan.com/world/south/2019/05/03/103843

アステカの生贄の儀式は神事ですので、捧げられる神によって様式も異なります。

以下に簡単にまとめてみました。


◆「太陽神・軍神・狩猟神 ウィツィロポチトリ」

夜を打ち破り、朝の光をもたらす戦士の神
犠牲者:麻薬を投与された捕虜
手段:黒曜石のナイフで胸部を切り裂き、心臓を取り出して焼く
処理:死体は階段の下に突き落とされ、関節から解体される。捕虜の所有者が最上級の部位を手に入れる。残りはシチューとして振る舞われ、骨は動物の餌になる

◆「穀物神 シペ・トテック」

自らの皮を剥いで食料を与える神という性質上、生贄も皮を剥がれる
犠牲者:捕虜
手段:初日は黒曜石のナイフで胸部を切り裂き、心臓を取り出して焼く。
「剣闘士の犠牲」では、鎖に岩でつながれ殺傷力のない武器を持たされた捕虜が犠牲となる。鷲の戦士二名、ジャガーの戦士二名、左利きの戦士一名と戦い、殺される
「矢の犠牲」では、木製の枠に手足を広げてくくりつけられた捕虜めがけて無数の矢が射られる。心臓が取り出され、皮を剥がされる
処理:心臓を抉られた死体は家族に供され、宴の肉に。
神像に塗る血を採られる。遺体が腐ると丁寧に皮を剥がされ、皮は儀式を執り行う神官が身につける。そのあと皮は地下室に廃棄されて清めの儀式が行われる

◆「雨と雷の神 トラロック」

雨、雷、干ばつを司るとされる
犠牲者:占いの結果特別な日に生まれた、あるいは特定の身体的特徴を持つ子供。子供を犠牲にする場合は穢れた仕事とされ、なるべく回避されていた
手段:神官が子供を泣かせて涙を集めた後、喉を切る
処理:犠牲者の皮は剥がされ、神官が最低でも20日間身につける

◆「トウモロコシの女神シロネン」

うら若い女性の姿であらわされる女神
犠牲者:女性
手段:女神の化身として踊っている所で斬首され、皮を剥がされる
処理:犠牲者に好意を持っていた戦士は、翌年その皮を身につける

◆「火の神 シウテクトリ」

犠牲者:鎮静剤を与えられた捕虜
手段:生きたまま燃えさかる石炭の中に放り込まれ、神官が鉤で引きずり出し、まだ生きているうちに心臓を取り出す


確かにこれは「国家的規模のすさまじい生贄と人肉喰いの儀式が伴う文化」と言えるでしょう。

犠牲者数は年間で1万5千人から2万人、総計120万人から160万人だったとの見積り。あまりに多数であるため「花戦争」と呼ばれる戦いもしばしば行われました。要は、犠牲者を確保するためだけの戦闘です。

こうした血腥い儀式をさだめたのは同王朝の名君モクテスマ一世の異母兄弟であり、副王として仕えたトラカエレルであると伝えられます。


・ナナワツィン(Nanahuatzin)またはナナワトル(Nanahuatl)は、アステカ神話の神。太陽の創造説話と食料起源説話に登場する。

アステカ神話では、世界は創造と破壊を繰り返し、そのたびに新しい太陽が創造された。第5の太陽、すなわち現在の太陽である「4の動き」(ナウィ・オリン)の創造にナナワツィンが登場する。

世界がまだ闇のなかにあった時、テオティワカンに神々が集まって、太陽を創造するためにふたりの神を生贄にすることになった。ひとりは裕福だが高慢なテクシステカトルであり、もうひとりはみすぼらしいナナワツィンだった。ふたりはまず4日間にわたって儀式を行ったが、テクシステカトルは儀式にケツァールの羽根や宝石や黄金を使ったのに対し、ナナワツィンは草や彼自身の血を使った。炎の中に身を投じる段になって、テクシステカトルは4回にわたってためらったが、ナナワツィンは勇敢に炎に飛びこみ、太陽に変身して東の空に出現した。自分の臆病さを恥じたテクシステカトルもその後に飛びこんで第2の太陽に変身したが、神々はウサギを投げつけてその光を暗くし、月にした。


・5つの太陽の神話

https://kuusou-tanuki.com/main/mythology/azteca.html

アステカの創世神話は、創造神オメテオトルから始まります。

オメテオトルは二面性をもつ神で、両性具有の存在でした。

オメテオトルの生んだ子どもに、テスカトリポカ、ケツァルコアトルがいます。

テスカトリポカとケツァルコアトルによって、天空と大地、天の川が創られました。

テスカトリポカは『煙の立つ鏡』という意味です。

人々に富と繁栄をもたらす一方で、人々を罰することのできる神です。

マヤ文明ではハリケーンと同一視されました。

ケツァルコアトルは『美しい羽毛をもつ蛇』という意味です。

オルメカ文明からその原型が存在し、マヤ文明ではククルカンと呼ばれます。

豊穣にまつわる神で、金星の神ともされます。

テスカトリポカとケツァルコアトルは兄弟で争い、その闘争の結果によって次の時代がどのようになるかが決定されます。

アステカには、5つの太陽の神話があります。

現在は5番目の太陽の時代であり、これまでに4つの太陽が生まれ、滅ぶことを繰り返してきたとされています。

1番目の太陽は『土の太陽』で、テスカトリポカが支配しました。

やがてケツァルコアトルがテスカトリポカを追い落とし、ジャガーの群れによって世界は滅びました。

2番目の太陽は『風の太陽』で、ケツァルコアトルが支配しました。

しかし、ケツァルコアトルはテスカトリポカによって追われ、嵐によって世界は滅びました。

3番目の太陽は『火の太陽』で、雨と稲妻の神トラロックが支配しました。

この世界は、ケツァルコアトルが火の雨を降らせたことで滅びました。

4番目の太陽は『水の太陽』で、トラロックの妻である河川の女神チャルチウトリクエが支配しました。

この世界は大雨が降り、大洪水が起きたことで滅びました。

地上を照らす5番目の太陽を生むために、神々はテオティワカンに集まって相談しました。

テオティワカンはメキシコシティの北東に位置し、6世紀頃まで栄えたテオティワカン文明の中心地です。

有名な遺跡に、太陽と月のピラミッドがあります。

テオティワカンとは『神々の都』という意味です。

神々は焚火を囲んで話し合いました。

このとき、目立ちたがりのテクシステカトルという神が、「自分が明るい天体となって世界を照らす」と名乗りを上げました。

しかし、1人では荷が重いということで、ナナウアツィン(ナナウアトル)と2人で、焚火の中に飛び込んで太陽になることが決まりました。

ナナウアツィンとは『皮膚病を患う者』という意味で、謙虚で寡黙な神でした。

テクシステカトルが豪華な供物を捧げたのに対して、ナナウアツィンの供物はみすぼらしく、皮膚病で剥がれた自分のかさぶたを香として焚いていました。

ところが、いざ焚火に飛び込むときになると、先に飛び込むはずだったテクシステカトルは4回も怖気づいてしまいました。

そこで、ナナウアツィンが先に焚火に身を投じました。

やがて東の空に昇ってきた太陽は、ナナウアツィンでした。

ナナウアツィンが焚火に身を投じた後、怖気づいていたテクシステカトルも焚火に飛び込みました。

しかし、他の神々がテクシステカトルにウサギ(※あるいは灰ともいう)を投げ付けたために輝きが鈍り、月となりました。

満月になると、テクシステカトルの顔に付いたウサギの跡が見えるそうです。

現在も、この5番目の太陽の時代が続いています。

この時代は、地震によって滅ぶとされています。


・アステカの文字と暦法

マヤは二十進法を採用し、0の概念を知っていた。マヤでは太陽暦とともに、13日と20日とからなる二つの周期を組み合わせた、260日で一巡する独自の暦が用いられていた。



アステカ人も農耕と宗教が結びついた暦を使っていた。シウポワリという365日(20日からなる18ヶ月と5日の余り)の太陽暦とともに、トナルポワリという20の絵文字と13の数字を組み合わせた260日の祭式暦を用いていた。この二つの暦の第一日が再び一致するのが最小公倍数の18980日、つまり52年目となる。アステカ人はこの52年を1周期とし、その周期ごとに創造と破壊が行われるという、東洋の還暦と同じような年代観を持っていた。


・アステカの暦石(アステカカレンダー)

http://solyluna.mysnco.com/item/2001-7.html



写真は、メキシコの国立人類学博物館に展示されているアステカの暦石です。

直径が360cm、重さ24トン、メキシコシティのテノチティトランの敷地で1790年に発見され博物館に収められました。

「太陽の石」あるいは「アステカの暦」と呼ばれていますが、それは中央のトナティウつまり太陽像の回りに、アステカの暦と宇宙論の関連を示す絵文字・記号が配置されているからです。
 
アステカ人によると、宇宙は今までに4つのサイクルを経てきた、つまり4つの太陽の世界が次々に生まれてそれぞれ滅んできたというのです。

現代はこの5番目の世界に当たるとされています。この石の中央の太陽がそれにあたり(舌を出しています。)、過去の4つの太陽はその斜めの上下に記されています(4つの四角です。)そして、それを取り巻いて、各種の暦表記が表現されています。

過去の4つの太陽はそれぞれはナウイ・オセトル(四のジャガー)、ナウイ・エエカトル(四の風)、ナウイ・キアウィトル(四の雨)、ナウイ・アトル(四の水)です。

それぞれの太陽を司っていた神と人間は、太陽とともに滅びたり、別の生き物に変えられたりしたそうです。
 
第一の太陽の世界では、神の創った巨人が住み、農耕は知らず、洞窟に住んで野生の果物や木の根を食べて暮らしていましたが、ジャガーに食われて滅びました。

第二の太陽の世界では、人間は嵐のために滅びましたが、神は風に吹き飛ばされないように人間を四足の猿に変えました。

第三の太陽の世界では、すべてのものは火山の溶岩のため滅びました。神は人間を鳥に変えて難を避けさせました。

第四の太陽の世界では、すべてのものが大洪水で滅びました。神は人間を魚に変えて命を助けました。 この洪水伝説は、聖書の中の「ノアの箱舟」と似ていると思われるのです。

また、一番上の四角で囲まれた絵文字は「13の葦」の日付を表しており、この太陽の石が完成して奉納された西暦1479を表しています。

太陽の民族アステカの宇宙観と世界観を集約したこの石は、まさにアステカ文化のシンボルなのです。


・アステカカレンダー2

http://solyluna.mysnco.com/item/2004-7.html



「アステカの暦石」にてご紹介した「アステカ暦」の絵文字・記号についての簡単な意味をご紹介致します。
 
「アステカ歴」によると、宇宙は今までに4つのサイクルを経てきた、つまり4つの太陽の世界が次々に生まれてそれぞれ滅んできたというのです。 現代はこの5番目の世界に当たるとされています。この丸いカレンダーの中には、アステカ民族の壮大な宇宙観と世界観が集約されているのです。

アステカカレンダーには中央のトナティウつまり現在の世界の太陽像の回りに、アステカの暦と宇宙論の関連を示す絵文字・記号が配置されています。

「絵文字・記号の説明」

1. トナティウの顔。トナティウは太陽であり、宇宙の安全はその存在にかかっていると考えられていた。 石のナイフの形をした舌を外に出し、人間の血と心臓を養分として必要することを示している。
2. オセロトナティウ(ジャガーの太陽)。第1の太陽をあらわす。 神の創った巨人が住み、農耕を知らず、洞窟に住んで野生の果物や木の根を食べて暮らしていたが、ジャガーに喰われて滅んだ。
3. エヘカトナティウ(風の太陽)。第2の太陽。人間は嵐のため滅んだ。 神は風に吹き飛ばされないように人間を四足の猿に変えた。
4. キアウトナティウ(火の雨の太陽)。第3の太陽。すべてのものは火山の溶岩のため滅んだ。 神は人間を撮りに変えて難を避けさせた。
5. アナトティウ(水の太陽)。すべてのものが大洪水で死んだ。神は人間を魚に変えて命を助けた。 以上、4つの太陽の時代の順序は、伝説の系統により多少違うこともある。
6. 太陽の爪。この爪で太陽は空間につかまると考えられていた。いけにえの心臓をつかんでいる。
7. 太陽神、4つの太陽、爪をかこむ枠。 この枠および8の示す数字(4)によって、ナウイ・オリン、すなわち現在の「地震の太陽」があらわされる。
8. 数字の(4)をあらわす。
9. シュウウィツォリ。東をあらわす絵文字。
10. 1の雨 の日付。
11. 7の猿 の日付。
12. 1の黒曜石のナイフの日付。北のシンボル。
13. 1月の20日をあらわす絵文字Aからはじめて左廻りに、シパクトリ(ワニ)、エヘカトル(風)、カリ(家)、 クェツパリン(トカゲ)、コアトル(蛇)、ミキストリ(死)、マサトル(鹿)、トチトリ(兔)、アトル(水)、イツクイントリ(犬)、 オソマトリ(猿)、マリナリ(草)、オセロトル(ジャガー)、クウトリ(鷲)、アカトル(葦)、コスカクアウトリ(禿鷹)、 オリン(地震)、テクパトル(黒曜石のナイフ)、クイアウィトル(雨)、ショチトル(花)。
14. 太陽光線のシンボル。
15. 宝石(チャルチウィテス)の飾り光、力、美をあらわす。
16. 飛び散った血のシンボル。
17. シゥテクートリ(トルコ玉の神)夜の神。 顔の半分がかくされているのは、夜の暗さをあらわす。 黒曜石のナイフの舌を外に突きだし、18 のトナティワ(太陽)と戦っている。
18. トナティワ(太陽の神)中央に描かれているのと同じ飾りをつけ、 口から黒曜石のナイフの舌を出し、怒りのあまり煙を吹き出しながら、夜の神と戦っている。 二人の神は、火の蛇シウコアトルの衣をまとっている。
19. シウコアトルの前足。
20. シウコアトルの背中の強い焔。
21. シウコアトルの頭。
22. シウコアトルの頭の突起。スバル星座をあらわす七つの星のシンボルがある。
23. 奉納の札。中央の絵文字は葦をあらわし、その回りにある13の点は数字をあらわす。 したがって、これは「13の葦」の日付を意味し、この太陽の石が完成して奉納された日付をあらわしている。 西暦1479年にあたる。
24. シウコアトルの尾。
25. 花をつけた草の飾り。
26. トラチノリ。焔のシンボルであり、シウコアトルのからだの節ごとに1つずつ付けられている。
27. アマトルで結んだ4本の帯。アマトルとは、マゲイで作った紙のこと。


・Sol(太陽)

http://solyluna.mysnco.com/item/2002-1.html

メキシコでは古くから太陽信仰がありました。 「アステカの暦石」では、今ある世界よりも前に4つの世界(あるいは4つの太陽)の存在をご紹介しました。 では、第5番目の太陽(今、私たちが目にしている太陽)はどんな風にして生まれたのでしょうか。

第4の太陽が洪水で失われた後、光の神であるケツァルコアトル(羽のある蛇)と、 闇の神で煙を吐く鏡テスカトリポカという相反する性格の2人の神が力を合わせてまず大地を造ったとされています。

大地ができたあと、ケツァルコアトルは犬の神ショロトルと地底世界へ行き、第4の世界で洪水で死んだ人々の骨を取り返して、 トウモロコシのように砕いて粉々し、それに神々の血を混ぜて現在の人間の姿を作りました。
 
人間の創造が終わると、神々は暗闇の中でテオティワカンに集まり、 第5の太陽(ナウイ・オリン)を創り出すことにしたのです。このときにはまだ世界は真っ暗な暗黒の世界でした。 そのためには神々のうち一人が巨大な火葬用の焚き火に身を投じなければならないと決まり、 まず放漫なテスシクテカトルが志願し、そのあと病弱で地位も低いナナワツィンが周囲に進められ遠慮勝ちに出てきました。
 
準備段階として、2人の神は4日間断食をし、苦行をおこないました。
いよいよ焚き火に飛び込む段になって、テクシステカトルは炎を前に4度火に向かって走り、 そのたびに引き返しました。ナナワツィンはためらうこともなく勇敢に火の中に飛び込みました。 それをみてテクシステカトルも後に続きます。
 
ナナワツィンのほうは太陽となって昇りました。 テクシステカトルも同じ輝きを帯びてでてきましたが、 神の一人がテクシステカトルの顔にウサギを投げて光輝を弱めたため、光の弱い天体である月になりました。
 
その後、その太陽や月をコントロールするために残りの神々も次々自らを生贄として捧げ、 彼らの亡骸から神聖な包み「トラキミロリ」がつくられました。

(古代メソアメリカの人々はこの「血の負債」 つまり、人間は血と肉を永遠に神々に請け負っているという考え方を持っていたと考えられ、 それが「太陽に滋養を与えるための人身供犠」につながっていきます。)

これらのことからも、アステカの人々にとって夜明けというのは単なる一日の始まりではなかったのです。 それは死に満たされた「地底世界」の辛苦の深淵を通り抜けた「太陽」の再生であったわけです。 太陽は西に沈んだ後、真夜中に地底世界の底まで行き、そこから再び上昇して東から昇ると信じられていました。
 
そして、地底世界を通り抜けてきた太陽は、空へ昇るという骨の折れる道行きのために、 人間の血と心臓という形での滋養を必要とすると考えられていたのです。 毎日毎日太陽がまた昇るかどうかとても心配だったのでしょう。

一説にはアステカ人の戦争形態とは私たちが考える決定的な勝利を収めるためのものではなく、 生け贄用の捕虜を得るためのものだったようです。


・6番目の太陽 ~アステカ帝国の滅亡~

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mizuta/mizutasekaisi/6azteca.htm 

湖上の都テノチティトラン

標高2200m、現在メキシコシティは世界有数の大都市として発展しています。この大都市の地下には、15~6世紀に栄えたアステカ帝国の都が眠っています。昔、メキシコシティの中心には大きな湖がありました。その湖岸からまっすぐにのびる広い堤道を渡ると小島があり、そこにアステカ帝国の都テノチティトランがあったのです。

人身御供(ひとみごくう)

湖上の都テノチティトランでは、日々想像を絶するような儀式が行われていました。太陽神ウィツィロポチュトリの神殿で、毎日人間の「いけにえ」が捧げられていたのです。この人身御供の儀式は神官6人で行われました。4人が「いけにえ」の手足を押さえ、もう一人がのどを押さえます。そして最後の一人が胸を切り裂いて心臓を取り出し、湯気が立っている心臓を太陽に捧げるのです。重要な儀式の日は、数千もの心臓が神に捧げられました。
 
いけにえにされる人は、戦争捕虜でした。日々のいけにえを確保し続けるためにアステカ人は戦争をして勝ち続けなければなりませんでした。戦争に敗れた人たちが捕虜として都につれてこられ、その心臓が太陽の神に捧げられていたのです。

5番目の太陽の時代

神話によると、アステカの時代は5番目の太陽の時代と考えられていました。最初の太陽は676年続き人々はジャガーに食われて太陽とともに滅んだと伝えられています。2番目の太陽は364年続いて風によって滅び、3番目の太陽は312年続いて火によって滅び、4番目の太陽は676年続いて水によって滅びました。すべて52年の倍数の周期でまわっています。そして、アステカの時代は5番目の太陽の時代と考えられていました。
 
太陽は、夜になると地下の闇に沈みます。その太陽が闇と戦って勝つと、明朝再び昇ってくるのです。もし、うち勝てなければ太陽とともに世界が滅亡するのです。太陽が戦いに勝つために、人間の心臓を捧げてエネルギーを与えなければならないとアステカ人は考えていました。彼らは1日でも太陽の滅亡を遅らせるべく、人身御供の儀式を続けていたのです。

アステカ帝国までのメキシコ高原

ここで、アステカ帝国以前のメキシコ高原の歴史をふり返ってみたいと思います。メキシコ高原には、紀元前数世紀から洗練された文明が生まれていました。中でも、ティオティワカンとトゥーラの都は際だって繁栄しました。都市国家ティオティワカンは5世紀頃を中心に前後数百年間に渡ってメキシコ高原を支配しました。今でもメキシコシティの北東40kmのところにその遺跡が残っています。
 
11世紀頃、このティオティワカンの文化を継承したトルテカ族が、都トゥーラを建設しました。トルテカ族が最も崇拝した神は「羽毛の蛇神ケツァルコアトル」でした。そして、神と同じ名の祭司王がトゥーラを拠点にメキシコ高原を支配していたのです。しかし、12世紀頃トゥーラは滅亡しました。羽毛の蛇神ケツァルコアトルとその祭司王は、東の方角に去っていったと伝えられています。
 
その後、北方から新たな部族がやってきて各地に定住しました。彼らによって新たに建設された都市は、それぞれがトルテカ族の正当な後継者を自称して争い合いました。メキシコ高原を支配するためには、トルテカ族の権威すなわちケツァルコアトルの権威が必要だったのです。

メシカ族のアステカ帝国

13世紀になると、遅れてメキシコ盆地に新たな部族が移住してきました。彼らこそが、後にアステカ帝国を建設するメシカ族だったのです。メシカ族もトルテカ文化を吸収しましたが、先住部族の中になかなか割り込めませんでした。メシカ族は、太陽神ウィツィロポチュトリを崇拝していましたが、その神の予言で、「鷲がサボテンの上にとまる所」がメシカ族の町を築くべき所であるとされていました。
 
1325年、メシカ族はその鷲をテスココ湖に浮かぶ小島のサボテンの上に見ました。彼らはその小島に町を築き始め、「サボテンの花が咲く地」=テノチティトランと名づけました。初めは小さな王国にすぎませんでしたが、100年ほどで大帝国に発展しました。
 
この発展を支えたのは、チナンパという独特の農作法です。チナンパとは、アシなどでつくったいかだの上に湖底の泥を盛り上げて作った湖上の畑のことです。たえず灌漑されると同時に、多くの養分を含んだ泥で栽培するので集約的に高い収穫を得ることができました。また、島の上は石や木材などさまざまな物資が不足していたので、他の国々との商取引も盛んに行われました。

全盛期、モクテスマ2世の不安

やがてアステカ帝国は全盛期を迎えます。1502年に即位したモクテスマ2世はメキシコ全土に君臨しました。王の軍隊は絶えず各地を巡回して、反乱を鎮めたりさらに領土を拡げたりしていました。しかし、先述したような彼らの周期的な時間観念が、王モクテスマ2世を不安にさせていました。彗星の出現などに象徴される不可解な自然現象が続き、王は5番目の太陽の時代が終わりに近づいたのではないかと苦悩し続けます。王は太陽神ウィツィロポチュトリへのいけにえの儀式を、日々エスカレートさせていきました。

スペイン人の出現

そのころ、スペイン人たちが各地に出没し始め、その情報はモクテスマ2世にも入ってきました。トルテカ族の権威を背景に成立したアステカ帝国の王権は、もともと祭司王ケツァルコアトルから委譲されたものと捉えられていました。スペイン人の出現は、羽毛の蛇神ケツァルコアトルとその祭司王が、東の方から再来したのではないかとも考えられたのです。
 
当時、スペイン人大陸探検隊の中心になっていたのはコルテスという男です。彼は、まずユカタン半島のマヤ人と戦い勝利しました。マヤの首長たちは、コルテスに金や宝石などと共に20人の乙女を差し出しました。その中にマリナリという賢い女性がいました。彼女は、マヤのことばはもちろんのことアステカのことばも話せました。スペイン語もすぐに覚えました。彼女は、コルテスの通訳兼秘書のような存在になります。そして、やがてコルテスの子どもを生むのです。征服者と被征服者との関係であったのですが、二人の間には愛が芽生えていたのではないかと想像します。

出会い~コルテスとモクテスマ2世~

コルテス一行は、湖上の都テノチティトランに迫って行きました。メキシコ諸国の対立関係をうまく利用しながら、アステカ帝国と対立していた国の軍隊も引き連れています。モクテスマ2世は、使者をコルテスのところへ派遣しました。そして大量の金や布、食料を贈りました。中には13kgもある直径2mの金の輪もありました。モクテスマ2世は、十分な金を贈ることで帰ってもらおうと考えていたのです。しかし、スペイン人たちは大量の金の存在を知り、ますます征服欲にとりつかれていったのです。
 
1519年11月8日、コルテス一行は湖上の都テノチティトランに入りました。モクテスマ2世はコルテス一行を羽毛の蛇神ケツァルコアトルの再来として丁重に迎えました。しかし、コルテスはモクテスマ2世を捕らえました。そして、王にメシカ族の首長たちを集めさせました。コルテスは彼らの前で「昔、この地を治めた王が戻ってくることになったのだ」と演説しました。しかし、首長たちはスペイン人に抵抗することになります。

5番目の太陽の時代の終わり

羽毛の蛇神ケツァルコアトルは、天上では宵と暁の明星=金星になると信じられていました。1521年7月末から8月初めにかけて、金星が太陽の後ろに隠れます。その時にケツァルコアトルの力が弱まるということで、メシカ人たちは総反撃を始めました。しかし、スペイン軍は大砲・小銃でメシカ軍を迎撃し、その8日間を守り抜きました。金星が太陽に隠されてる間にスペイン軍を倒せなかったことは、信心深いメシカ人にとって精神的に大きなショックとなりました。メシカ人の中にはコルテス側に寝返る者もあらわれました。そしてついにコルテスはアステカ帝国を征服しました。

スペイン征服後のメキシコ

その後、スペイン人たちは、先住民の支配者層を利用しながらメキシコへの支配を固めていきました。先住民の貴族は、自分たちの娘をスペイン人と縁組みすることで、それまでの権力維持に努めました。貴族の娘たちはキリスト教の洗礼を受け、スペイン化することでその役目を果たしていくのです。先住民の支配者層は、新しい世界の中で生き延びていく道を模索していったのです。しかし、彼らのアイデンティティの危機には深刻なものがありました。
 
一方、ほとんどの先住民はスペイン人の一方的な支配を受けました。多くの人々は焼き印を押されて奴隷状態に追い込まれたのです。やがて、スペインは中南米全体を植民地とし、先住民を酷使しながら大量の金や銀を掠奪していきます。過酷な労働と伝染病によって先住民の人口は激減しました。

6番目の太陽の時代

コルテスは羽毛の蛇神ケツァルコアトルではありませんでした。そして、スペイン人とアステカ人の出会いは、5番目の太陽の時代を終わらせました。スペイン人によって人身御供の儀式が廃止されたのです。しかし、先住民はいけにえ同様の運命を辿ることになります。征服者たちが、先住民を奴隷化して絶滅状態に追い込んだのです。先住民は金や銀という新しい神のいけにえになりました。そして、征服者たちはアフリカ大陸にもいけにえを求めていきました。それに応えてオランダ人やイギリス人が、アフリカの人々を奴隷としてアメリカ大陸に送りこんだのです。世界中の弱くて優しい人々が、金や銀のいけにえにされていく時代が始まりました。貧困や飢餓の問題が解決できない今の世界は、アステカ帝国の滅亡から始まった6番目の太陽の時代といえるかも知れません。
 
金や銀は神々しく輝きます。しかし、この輝く光はアステカ人とスペイン人の出会いを不幸なものにしました。その神々しい光が、具体的な世界で展開される人間の愛を見えなくさせてしまったのです。不幸の根源を見極めることが大切です。6番目の太陽の時代に生きる私たちは、金や銀を神としてはいけません。金や銀に「いけにえ」を捧げ続けてはいけないのです。


・メキシコのオーパーツ「アステカカレンダー」

https://uranai007.com/147/

1790年にメキシコシティーの中央広場から発掘された直径3.6メートルの巨大な太陽の暦石を「アステカカレンダー」という。後に太陽の石と呼ばれるオーパーツである。



この遺物はこの地に栄えたアステカ王国の第6代の王が、1479年に神に奉納したものである。アステカの遺物はスペイン人の侵略によって破壊されたが、奇跡的に残った遺物がアステカカレンダーなのだ。

現在は、マヤ文明・テオティワカン文明などの古代文明を展示したメキシコ国立人類学博物館に展示されている。

マヤとアステカの神話によると、世界は過去に4度滅んでいて、現在は5番目の時代だそうだ。

アステカカレンダーは玄武岩に円形の暦が刻まれている。重さは24トン、厚さは98センチ、直径は3.6メートルもある。この遺物の大きさ、作者、目的の正確な年についての明確な示唆はない。

暦の解説

アステカカレンダーの暦がどんな意味を表しているか解説しておこう。

アステカカレンダーの説明



中心には5番目の太陽があり、周囲に4つの太陽が刻まれている。世界誕生から5つの時代と進化が描かれている。

中心の太陽神は黒曜石のナイフ(舌)を出している。近年、この神は世界の基盤になった神である__トラルテクトゥリ__ではないかと考えられている。

もともとは、この世に5番目に誕生した太陽のトナティウと考えられていた。

中心の顔=トラルテクトゥリ 説

しかし、色々な大学機関では、石の中心にある顔が地球の怪物トラルテクトゥリの顔であると信じられているようだ。トラルテクトゥリは大地の主であり、世界の基盤になった神である。

逸話によると、トラルテクトゥリはケツァルクアトルとテスカトリポカの二人の神に倒され、その後、体の各部位が世界の一部となったようだ。



これらのことから、中心がトラルテクトゥリ説であれば、この神によって全てが創造されたという解釈もできる。

4方の四角は、ジャガー・風・雨・水を表している。

カレンダーの計算は、モチーフを9つの輪に分類し、それぞれをコンピューターで答えを出す方法で算出する。

太陽の間には太陽の爪、5つの太陽を囲む輪には20日のシンボルが彫られている。

中心付近

中心:第5の太陽(黒曜石をくわえた太陽神)
右上:第1の太陽(ジャガーの太陽)
左上:第2の太陽(風の太陽)
左下:第3の太陽(火の雨の太陽)
右下:第4の太陽(水の太陽)

中心の外枠は20の絵が彫られている

ワニ


トカゲ


鹿
ウサギ




リード
ジャガー

ハゲタカ
運動
フリント(岩石)



上部

数13アカトルを表すシンボル

下部

シウテクトリ
トナティウ

このカレンダーには、世界の誕生から現在を経て遠い未来までが描かれているという。

このアステカカレンダーは現代天文学の計算と、わずかしか誤差がない。つまり、このカレンダーの製作者もしくは公案した人は地球の公転する周期を計算していたことになる。


・古代マヤ文明最古の暦を発見、「世界終末説」裏付ける証拠は見つからなかった(米研究)(カラパチア 2012年5月12日)

※中米グアテマラの遺跡で古代マヤ文明の最古の暦が発見された。同国シュルトゥンにあるマヤの住居跡の内部の壁に書かれていた象形文字を分析した結果、古代マヤ人の書記官が記録を残したり、「天文現象と聖なる儀式との調和」を模索したりするための計算式を書いていた可能性が高いことが分かったという。

象形文字は9世紀のもので、これまで最古とされていた樹皮の本に記されたマヤの絵文書(1300~1521年)から見つかった暦よりも数百年古い。

調査と発掘を指揮した米ボストン大学の考古学者、ウィリアム・サターノ氏によれば、象形文字には365日周期の太陽暦のほか、584日周期の金星暦、780日周期の火星暦とみられるものも含まれていたという。

サターノ氏は、これらの象形文字はまるで、複雑な数学の問題を解くために黒板に書いた計算式のように見えると話している。

一方で、マヤのカレンダーが終わる2012年に世界が終末を迎えるという有名な俗説を裏付ける証拠は見つからなかった。それどころか壁に書かれていた計算表は、今から6000年先までの暦を計算したものだそうで、これにより後6000年先まで地球の未来が続くこととなる。

論文の共同執筆者、米コルゲート大学のアンソニー・アベニ教授(天文学・人類学)は、2012年に終わりを迎えるのは暦の1周期に過ぎず、また新たな周期が始まるだけだと説明している。

熱帯雨林の奥深くにあるシュルトゥン遺跡は100年ほど前に発見された。広さは31平方キロ程度でかつて数万人のマヤ人が暮らしていたとされている。

今回の暦などが見つかった住居跡は2010年に発見されていた。慎重な発掘作業の結果、頭に羽飾りをつけた人物などを描いた壁画が発見され、マヤの住居の内部で見つかった初の芸術的遺物となった。

サターノ氏は「シュルトゥンでこのような発見があったこと自体が珍しい。このような文字や壁画は、マヤの低地、特に地表からわずか1メートル下に埋もれた住居跡では良い状態で残らないことが多い」と話している。


・アステカ王国の滅亡

https://www.y-history.net/appendix/wh0204-007_0.html#wh0901-043

※16世紀初め、メキシコの地にあったインディオのアステカ王国は、スペインのコルテスによって征服され、滅亡した。

古代のマヤ文明が存在し、また15世紀にはアステカ王国が繁栄していた現在のメキシコ一帯に、スペイン人が最初に侵入したのは1517年であった。コロンブスは第4回航海でユカタン半島沿岸を探検し、途中海上でマヤ人と遭遇しているが、その地には上陸しなかった。その後、エスパニョーラ島、キューバ島に入植したスペイン人は、さらに東洋に抜ける海路を見つけるために、さかんに海上探索を行った。そのひとつエルナンデス=コルドバの率いる遠征隊が1517年にメキシコに初めて上陸して、翌18年から入植が始まった。この広大な入植地をスペイン人は、ヌエバ=エスパーニャ(新しいスペイン)と呼んだ。

コルテスによる征服

さらに征服者(コンキスタドール)、コルテスは1519年、スペイン国王カルロス1世の承認のもと、キューバから大陸に上陸して最初の植民都市としてベラクルスを建設し、さらに内陸の都テノチティトランに向かった。1520年、アステカ王モクテスマ2世は初めて見る白人の騎兵に驚き、戦わずに恭順の意を表し、カルロス1世に財宝を献上した。

分配された黄金

アステカ国王モクテスマ2世からカルロス1世に献上された財宝を見て驚いたコルテスは、各地に人を派遣して貴金属や工芸品を集め、略奪した。1520年10月30日付の報告書間によるとカルロス1世の取り分は3万2400ペソの金塊と10万ドゥカード(約17万8千ペソ)相当の工芸品だった。しかしコルテスの部下の告白によると実際にはもっと多く、その3分の1はコルテスとその一派がくすねて隠匿したという。真実の数字は判らないが、アステカの財宝は溶解されて金塊となり、国王が5分の1、コルテスに5分の1,その他は船乗りや聖職者の俸給、征服に要した馬や武具の代金などに充てられ、残りはキューバ総督など事業への出資者に分配された。しかし末端の兵士に渡った分配金はわずか100ペソで、不満が残ったという。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.10-11>

アステカ人の反撃と滅亡

モクテスマ2世の後を継いだクアウテモクは、スペイン人に反撃を試みた。1520年6月30日の夜、王自らアステカ人を率いて猛反撃に転じ、コルテス以下のスペイン人はテノチティトランから撤退、数百人が殺され、奪った財宝と共にテスココ湖に沈んだ。
 
翌1521年、コルテスは、インディオの反アステカ勢力(トラスカラ人)を味方に付け、火器と騎兵で武装してテノチティトランを攻撃した。反アステカのインディオを含め、コルテスの軍勢は総勢10万にのぼった。国王以下、アステカ人はよく戦い、約3ヶ月にわたり抵抗したが、ついに敗れ、3万の命と共にアステカ王国は滅亡した。

滅亡の原因

スペインの征服者はわずかな兵力と火器・騎兵の戦力でアステカ王国を「かんたんに」征服したような印象をあたえる記述があるが、テノチティトランでの戦いは壮絶なものがあり、けして簡単だったのではなく、またアステカ王国が敗れたのもスペインの近代兵器に屈したからではなかった。
 
アステカ王国は周辺先住民に過酷な税を課して服従させていたので、スペイン軍がテノチティトランを攻撃したとき、帝国の圧政に呻吟していた周辺諸民族もスペイン軍に加わって戦った。その兵力が加わったのでコルテス勢は大軍になり、アステカ王国軍に勝てたのだった。さらに、アステカ王国に従属しながらも常に独立を企てようとしていたトラスカラ人などが、過酷な納税制度に耐えられず王国に反旗をひるがえしたこともコルテス軍が膨大な数になった原因である。また、スペイン人によって疫病がもたらされ、特に天然痘が免疫がなかったアステカの戦士に感染し、戦力が低下したのもアステカ王国の敗北の一因である。アステカ人の循環史観に影響されたモクテスマ2世が戦意を喪失したことも、敗北を招いた原因から排除できない。3ヶ月におよぶ湖上の都テノチティトランの包囲戦でも降服しなかったため、都に入城したスペイン軍はアステカ人を3万人も大虐殺したといわれている。<大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』2008 中公新書 p.34 より要約>

インディオ人口の減少

スペインの宣教師ラス=カサスはその著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』1542年に、1518年から今日に至るまでのスペイン人征服者の残虐行為によって約400万のインディオが犠牲になったと延べ、征服者は「人類の最大の敵」とまで言って、激しく非難している。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.61>

※メキシコのインディオ人口の減少については、コルテス以前に2500万人あまりだったのが、わずか50年間で100万人に激減した、という数字が上げられている。<鶴見直弘・遅塚忠躬『世界史B』実教出版 2003 p.168>

天然痘とアステカ王国の滅亡

アステカ王国の滅亡は、コロンブス以来、ヨーロッパから新大陸にもたらされた感染症である天然痘が、免疫のないインディオにもたらされ、大流行したという背景があった。

(引用)最初の遭遇は1518年だった。天然痘がエスパニョーラ島に到達し、インディオ住民に激しく襲いかかった。バルトロメ=デ=ラス=カサスの信じたところによれば、生存者はわずか千人に過ぎなかった。イスパニョーラ島から、天然痘はメキシコに向かい、1520年に上陸した。沿岸部にいたコルテスのトラクスカラン同盟と、コルテスを追い払った側のインディオの双方に打撃を与えた。だが、この病気が地上をどのように移っていったかについてはとても再構成することなどできない。それにしても、コルテスが退却を余儀なくされてからほぼ四ヶ月後に首都テノチティトランでこの病気が突発したという事実は、まさにスペイン人を襲撃した者たちへの神罰と見なさないわけにはいかなかった。その結果、コルテスがメキシコ中央部に戻ってきたとき、チチカカ湖の周辺に住んでいた諸部族はみな彼の味方となることを決意した。これは重要な点である。コルテスのスペイン軍は僅かな数だったし、沿岸部のインディオの同盟軍といっても、テノチティトランを、首都に食糧を供給していた周囲の諸共同体から孤立させるには、軍勢の数が不十分だったからである。だからひとたび湖水周辺の臣下たちに裏切られたとき、アステカ人の運命は決まったようなものだった。彼らの抵抗がいかに勇猛で、自殺を目指しているほどのものだったとしてもである。<マクニール/佐々木昭夫訳『疫病と世界史』下 2007 中公文庫 p.91-92>
 
続けてマクニールは「もし天然痘があのとき突発しなかったならば、コルテスの勝利はもっと困難、いや不可能だったろう。ピサロのペルー侵略についても同じことが言える」と結論づけている。