・中国人に乗っ取られたミャンマーの古都マンダレー(JBpress 2018年9月7日)

※「マンダレーの死」――。

ミャンマーのフォークシンガーが歌うその歌は、ユーチューブで公開され、瞬く間に拡散し、おおよそ100万人が怒りと悲しみに包まれた。

「異邦人(中国人)にめちゃくちゃにされた」「この都市に住みついたあいつたちは何者」「私たちの愛するマンダレーは死んだ」――。

ミャンマー人が中国人移民に乗っ取られた故郷、マンダレーを嘆くフォークソングだ。

中国人が、地元企業を買い漁り、国民であるミャンマー人が故郷を追われ、異邦人の中国人が我が物顔で自分たちの故郷を占拠したと歌う。

前回、「ついに頓挫か 中国人100万人マレーシア移住計画」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53936)で、マレーシア第2の都市、ジョホールバルに移住計画を企ててきた中国が、マハティール首相の誕生で苦境に立たされている様子をお伝えした。

そして8月27日、マハティール首相は「外国投資歓迎・外国人不動産取得認可」の一貫した国の政策変更はないものの、「永住権や市民権を目論んだ」不動産取得は認められないとし、中国人による違法かつ不正な不動産取得の契約合意内容など事実関係の再審査を決定した。

マレーシアの場合、マハティール首相が、先月の訪中で「新たな植民地主義は受け入れられない」と中国を公然と批判。同月末の米ワシントン・ポスト紙は「マハティール首相の中国に対する外交姿勢は、極めて正当なもの」と高く評価した。

一方、東南アジアでは、中国投資により経済では一定の起爆剤になったものの、大量の中国人移民を阻止できず、中国人の大量移住により、すっかり変貌してしまった都市も出てきている。

その一つが、「アジア最後のフロンティア」と言われるミャンマーの中心に位置する第2の都市で最後の王朝の古都、マンダレーだ。

道路が縦横に基盤の目のごとく走り、町の中心に正方形の城壁と濠に囲まれた王宮が鎮座する。その外側を市街地が広がる。まるで、日本の京都のような佇まいだ。

筆者も新聞記者時代から何度か訪れているが、首都・ヤンゴンの喧騒から、ホッと一息できる、昔ながらの歴史的文化都市が醸し出す空間は、ミャンマー人にも人気だった。

そもそも、マンダレーはコンバウン朝の9代ミンドン王が、都をアマラプラからマンダレーへ遷都。1878年、ミンドン王が逝去し、次のティーボー王時代の1885年、第3次英緬戦争を経て、英国がマンダレーを占領。

インドに王が追放され、コンバウン朝は滅亡。ミャンマーは英国の植民地となり、マンダレーは、ビルマ独立を守った最後の「王都」となった。

美しいフォルムで際立つ東南アジアでは希少の木造建築の「シュエナンドー僧院」、マンダレー最大の仏塔「マハムニ・パゴダ」など、ミンドン王時代に荘厳な仏塔や寺院が多く建立され、マンダレーは国の文化の中心として発展した。

最後の王都では、王様に寵愛される高僧を育てる芸術家が多くいたほか、マンダレー人は最も洗練されたビルマ語を駆使し、独特の具材とレシピでビルマで最高のカレーを作り出した王室料理人も育てたといわれる。

すなわち、マンダレーはミャンマーの「伝統文化」を育んだ祖国発祥の大地なのだ。

仏教文化の聖地で、絹織物や翡翠、さらには木の彫刻や大理石の仏像製作など特殊伝統工芸の中心集積地で、ミャンマーでのマンダレーの存在意義は別格だ。まさに、日本の京都を髣髴させる。

しかし、1990年代から2010年初頭の軍政時代、欧米が経済制裁を科す一方、中国人がマンダレーの経済を支配し、マンダレーは中国資本の国内最大の拠点となった。

中国のミャンマー輸出(最終財)の約80%が昆明経由といわれている。マンダレーは昆明経由の中国製品の集積地なのだ。

マンダレーを拠点に農村市場に中国の製品がばらまかれる一方、中国人経営のマンダレー市内の縫製工場では、「中国製」のタグを付け香港経由で欧米に輸出しているという。

生産現場を見れば一目瞭然だが、部材から機械設備まで、中国製品に支配されているというのが現状だ。

こうして、中国製品が溢れ、中国人が増えた結果、マンダレーの不動産価格は高騰。

オーストラリアやニュージーランドなどの諸外国でも社会問題化しているが、中国人による投機で、マンダレー市民は地元故郷に住めなくなり、故郷を追いやられている悲惨な状況が続いている。

その結果、かつてのビルマの伝統的な歴史的文化都市を標榜してきたマンダレーは、古き良き伝統を失いつつある。

大陸・中国からの大量移民が、ミャンマーの伝統文化、歴史的価値観を軽視し、中国の文化、伝統を押し付ける事態に発展しているからだ。

今では、毎朝、旧王宮の美しい壮大な堀のある街の中心部で、太極拳の練習をする中国人が大挙し、大音量の中国の音楽が鳴り響く。天空のミンドン王におかれては、さぞかしお悩みのことだろうとお察しする。

結局、古の王都は、現在人口120万人ほどだが、その半数以上に相当する約60万から70万人(中国人。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/e-vol1/1-3shee.pdf=プーン・キム・シー立命館大学客員教授著「中国とミャンマーの政治経済関係」)が占拠する「中国の植民地化」となってしまったのだ。

ミャンマーの法律では、外国人は土地の所有ができない。

しかし、中国の雲南省との国境沿いで入国管理の役人に賄賂を渡し、偽造文書を作成し、違法な手段でミャンマーの国民証明書を入手する「異邦(違法)ミャンマー人」が急増。

不正、違法な形でミャンマーの市民権や国籍を取得しているのだ。

しかし、こうして外国人の中国人がいとも簡単に市民権を取得するのに対し、イスラム教徒のロヒンギャは何世代にもわたって永住権さえもらえない。何とも不条理な事態に陥っている。

EUや米国が、「ロヒンギャ問題」と呼ばれる人権問題を背景に、ミャンマーへの投資を控えている状況にある中、中国は以前と変わらず、野心的に投資を進める。

中国はミャンマーを、内陸部の雲南省とインド洋を結ぶ一帯一路の要衝と位置づけており、マラッカ海峡が封鎖された場合、ミャンマーを経由地点として、インド洋から直接中国国内に資源を輸送するルートが確保できる。

地政学的にも、安全保障の観点からも重要な国であると認識しているからだ。

昨年4月には、雲南省の昆明とミャンマーのインド洋沿いの港町、チャオピューを結ぶ原油パイプラインも稼働。

90%の原油を中東やアフリカに依存する中国にとって、マラッカ海峡を通過せず、中国国内に運ぶ“代替肢”を確保できたことは大きい。

さらに、今年2月、ミャンマー・中国経済回廊構築に関する政府間合意への署名か゛行われた。

習政権が主導する一帯一路の重要プロジェクトの経済回廊計画には、中国の昆明からミャンマーのマンタ゛レーを経由し、ヤンゴンまて続く道路建設が組み込まれている。

つまり、中国がミャンマーの主要道路を建設し、中国まで繋がっていくということ。マンダレーは中国のライフラインの“心臓部”というわけだ。

欧米がミャンマー政府によるロヒンギャ住民の迫害を糾弾する一方、一貫して中国はミャンマーの立場を支持してきた。

中国は今後も、巨額のチャイナマネーによる経済支援とロヒンギャ問題への支持をしたたかに両秤にかけ、ミャンマーを一層、中国の“陣地”に引き寄せたい思惑がある。

マンダレーは、古くから中国・雲南省との交易・交通の拠点で、密輸ルートでもあった。

麻薬の密輸や翡翠などの宝石の取引に関わる中国人も多く、今でも翡翠の卸売市場の朝市には、大陸から中国人が大挙する。

中国とミャンマーの政府は、両国は「胞派(パウッポー)」の関係だ、という。ビルマ語で「血を分け合った兄弟」という意味で、友好関係を強調する。

しかし、両国の思惑とは裏腹に、マンダレーの人たちは、中国人の大量移住は、マンダレーの植民地化と考えている。

筆者の知人のマンダレー人は「我々は、今やマンダレー人と思っていない。中国人が我が物顔で生粋の住民のように平然と暮らしている。なぜなら、彼らは『お金』があれば、何でもものにできると思っているからだ」と誇り高い王都の子孫らしく、中国人を見下げる。

そして、「宝石の都」(パーリ語)と呼ばれた最後の王朝は、「ミャンマー連邦・中国共和国」に成り果てた、と卑下して止まない――。

※日本も二の轍を踏むな!いかなる理由でも移民お受け入れに賛同する物は国賊だ!売国奴だっ!日本人よ!日本国民よ!日本に大量の移民を受け入れる、売国安倍自民党政権を倒せっ!!!

・中国人の街「西川口」の変貌っぷりが凄すぎる すでに中国人が多数派になっている団地も (東洋経済ONLINE 2018年8月18日)

※東京から荒川を隔てた埼玉県南部に「西川口チャイナタウン」と呼ばれる一帯がある。JR蕨(わらび)駅からの徒歩圏内に位置する芝園団地に一歩足を踏み入れると、すれ違う人のほとんどが中国人だ。

隣のJR西川口駅周辺では、本場の味が楽しめる中国料理店が雨後の筍のように誕生している。ここは中国なのだろうかと錯覚してしまうほどの生活感だ。この地域で根を張る中国人はいったいどこからやってきて、どこへ向かおうとしているのだろうか。現地を取材してみた。

芝園団地の中国人比率は50%

2013年に芝園団地に住み始めた王琳さん(39歳、本人の希望により仮名)の顔には日本人女性と見紛うような白いファンデーションと真っ赤な口紅が浮かんでいた。話してみると日本語もほぼ完璧。それもそのはず、彼女が留学目的で東北部・遼寧省から来日してきたのはもう17年前のことだという。

この団地で暮らしている日本人について聞いてみると、「日本人の影はないですよ。老人ホームみたいに(アパートの)部屋から出てこない」と答えた。約4500人が住むこの団地の中国人比率は50%を超えており、日本人住民は脇役となりつつあるのだ。

芝園団地に住む中国人居住者の職業で目立つのはIT企業勤務。30代以上の中年層が家庭を築いているパターンが多いという。

その一方で、1978年に完成した当時に入居した日本人住民らは年老いて、1人暮らしをしているケースが少なくない。1990年後半の「都心回帰」以降、中国人をはじめとする外国人が次々と空き部屋を埋めていった。団地内にある十数件の店舗もアジア系のレストランや商店が元々の地元店に取って代わっていった。あたかもオセロゲームのように。

「中国人は日本語を話せないふりをする」「私物を公共スペースに置く」「敷金を払わないでいいようにと居抜きしている」などなど日本人住民からのクレームは尽きない。当然、昔ながらの住民は中国語を話すことができない。なにか注意しようにも怖くて声がかけられないという。

在住歴40年の日本人の未亡人は「昔は優雅だった。1人も『向こう』の言葉を話す人はいなかった」と懐かしむ。国籍だけでなく、世代の違いが日中両住民のボタンのかけ違いの原因になっているのだ。

昼間団地の中を歩いていると、中国人の子どもが1階の渡り廊下を無邪気に走り回っているのをよく見かける。観光ビザなどで訪日しているのであろう、お婆ちゃんたちが見守っている。王さん自身も、中国人男性との間に生まれた7歳と2歳の女の子を育てる忙しい日々を送っている。同じ団地に住む中国人ママ友には、日本語がうまく話せず、子育てで悩んでいる人も多いという。

SNSを使って育児相談

中国人コミュニティといえるようなものはまだこの団地にはないが、ネットワークは徐々に形成されつつある。たとえば、メンバー数が350を超える微信(ウィーチャット、LINEに似た機能を持つSNS)グループでは育児についての相談が行われている。「子どもが病気になった。どの病院がいいかな?」といった具合に。このグループは元々は中古品を売り買いする目的で始まったが、今ではビザの手続き、不動産仲介業の情報も飛び交っている。

王さんとは違うもう1つのパターンとして、日本に留学せずに中国から転職で直接やってくる中国人たちがいる。山東省臨沂市の農村出身のシステムエンジニア(SE)である姜啓民さん(36歳、男性)もその1人だ。

聞くと、芝園団地への引っ越しがスムーズで助かったという。芝園団地はUR都市機構が管理する物件で、保証人や礼金、更新料がない。彼のケースでも、公的証明書を何枚か提出するだけで、2週間で手続きが完了した。この入居のしやすさが中国人住民を引きつける大きな魅力になっている。

地元の専科(注:日本の短期大学または専門学校に相当)でコンピュータを学んだ姜さんは卒業後に中国の地方都市を転々とした。北京、上海、広州などの大都会が窮屈だと感じ敬遠した。日本への移住を考え始めたのは、日系企業在職中に東京へ出張に来たときだった。

彼にとって芝園団地はまさに理想の住処だった。「初めて来た頃は週末にすることがなく寂しくなるかと思ったけど、(団地では)中国語が聞こえてきてとても温かい気持ちになった」。

在日歴がもうすぐ5年になるにもかかわらず簡単な日本語しか話せない姜さんは中国語でそう明かしてくれた。日本語を上達させるため、週末には団地内にある公民館で開かれるボランティアの日本語講座に通う。それでも、日本語は言葉一つをとってもさまざまな意味があり、難しく感じる。日本人とのやりとりでは「空気を読むこと」が求められることもあり、なかなか日本社会に溶け込めずにいる。「日本人はどのSNSを使って友達を作るの?」と逆に聞かれたほどだ。

中国人住民にとって特に関心が強いのが子どもの教育だ。昔は団地直結の小中学校があったのだが、日本人の子ども減少を受け随分前に閉校になっている。今は一般的な幼稚園と中国人向けの保育園を残すのみだ。

団地で出会った9歳の中国人男児は、福建省の福清から1年半前に引っ越してきたばかりだが、すでにこなれた日本語を話していて驚かされた。父親によると、通っている公立小学校で特別な日本語授業を受けたり、公文で国語を習っているのだという。

日本の教育を選んだ理由について、「日本の教育は生活に関するものが中心で、(中国と比べて)より西洋に近い」こと、空気がよりきれいなこと、子どもが日本式の礼儀が好きなことを挙げた。だが、中国人の教育観は一筋縄でいかず、他の中国人住民によると、祖父母が孫の「日本人化」を心配するケースもあるとのことだ。

新華僑の住まいは「郊外化」している

正確には昼夜の流動人口を考慮に入れる必要があるが、JR京浜東北線が通る川口市西部の一部は神戸・長崎両中華街はもちろんのこと、横浜中華街のある横浜市中区などを中国人人口密度という点で凌駕しつつある。中国人を筆頭に川口市の外国人人口は3万3279人(比率は5.5%)に上り、全国屈指のレベルにある。

これだけ中国人が密集するようになったのは、どのような経緯があったのだろうか。

中華街について詳しい立正大学の山下清海教授は最近になってこの一帯を「西川口チャイナタウン」と呼び始めた。「中華街」という言葉はそもそも、1955年に今の横浜中華街に建てられた牌楼門にそう書かれたことに由来している。

日本人にとっての観光地というイメージの強いその「中華街」と区別するために、山下教授はあえてこのエリアを「チャイナタウン」と定義した。

2003年に池袋北口周辺を「池袋チャイナタウン」と命名したのも同様の論理に基づく。山下教授によると、1980年代、つまり中国で改革開放が本格化し、日本政府が留学生10万人計画を始動させたころから、まずは上海人そして後には福清人が「池袋チャイナタウン」へ流入した。1990年代後半には、朝鮮系を含む東北部出身者がそれに続いた。

これらの人々は当初日本語学校が近い、そしてアルバイトの口があるといった理由で、都内の池袋や新大久保に集まり、安アパートに住んでいた。今起こっている現象はこれら新華僑のさらなる定着であり、郊外化だ。

「より広い住宅が欲しい。結婚して、子どもを持って。そういうふうなときにやっぱり都心近くには住めない。なので、だんだん郊外のほうに移っていく」

東京に住む日本の人々が西川口に対してどれだけネガティブなイメージを持っていようと、外来の中国人にとってはほどんど関係がない。むしろ、便利さが最優先だ。実際、姜啓民さんは平日仕事で都心に向かうが、通勤は1時間以内で済む。

確かに、『週刊新潮』が2010年に「チャイナ団地」と称してセンセーショナルにこの団地を取り上げたころはゴミや騒音などの問題が山積していた。だが、自治会の岡崎広樹・事務局長は「目に見える問題はなくなってきた」と話す。

この間、UR現地事務所に対して中国語を話すスタッフを駐在させるよう要求したり、新しくやってくる中国人住民に注意事項を中国語でまとめたパンフレットを配布するといった対策をとるようになった成果といえる。

自治会は「芝園かけはしプロジェクト」を推進中で、大学生ボランティアの支援を得つつ、フリーマーケットといったイベントを月1回のペースで催している。太極拳や交流カフェに実際に参加したが、中国人参加者は十数人程度で、中国人住民の関心はそれほど高くない。

自治会に入っている中国人世帯は現在約60にとどまっている。なお、自治会の幹部にはかろうじで中国人がひとり入っている。中国人には「下からの」自治会という概念自体がなかなか理解できない。岡崎さんは「別に無理やり日中友好がよい、と双方に押し付けるのではなく、前向きにいろいろと交流などに取り組める仕組みや環境があればよい」ということが見えてきたという。

川口市協働推進課の川野道広課長は日本人と外国人の習慣の違いで、「夜まで外国人がたむろしている」といった苦情を受けることがあると認める。しかし、外国人を「資源」というよりは「課題」と捉えがちな多くの保守的な自治体と違い、川口市は独自の対策を少しずつ進めようとしている。市は今年独自に定めた「多文化共生指針」を改定し、来年には外国籍生徒の日本語学習需要などに対応することを目的に夜間中学を開校することが決まっている。

本格的な中華料理店が林立

このように変化の著しい西川口チャイナタウンのもう一つの顔は、本格的な中華料理店の林立する西川口駅周辺にある。

駅近くの蕎麦屋「二幸」の主人、小久保亮治さんは「飲んで、打って、食う」ためのこのエリアが徐々に変貌していくのを目の当たりにした。過激な風俗店の数が一時は200を超えたが、2000年の半ばの摘発をきっかけにそのほとんどが消えた。

その後に増加したのが中国料理店だった。今ではこのエリアのあちこちで「麻辣湯(マーラータン)」「鴨脖(注:鴨首のスナック)」「油条(注:細長い揚げパン)」といった看板が躍っている。

北京でも滅多にお目にかかれない東北料理・鉄鍋炖を提供するのが「縢記熟食坊」だ。店員が巨大な鉄鍋の中に川魚や野菜をテキパキと放り込むと、頃合いを見計らってさらに鍋の際に黄色のパン生地がペタペタと貼られていく。これを眺めるのが楽しい。

スタッフによると、この店のオーナーはこれまでも東京で日本の好みにあった「台湾料理」店を展開していたが、このような本格路線は初めての試みだったそうだ。予想外の成功で、店には日本人ファンも駆けつける。年内に同じエリアに2号店を開くことが決まったほどだ。

同じく中国駐在経験のある日本人の間で評判となっているのが蘭州料理店「ザムザムの泉」。昨年夏にオープンした。ご主人が注文を受けてからカウンター席の前で麺を引いてくれる。「池袋だったら回転率が高く、家賃も高く、味に集中できないから」と彼は西川口で実験的に開店した理由を明かす。

他にも、馬堅さん(32歳)は故郷の味を再現したくこの地でウイグル料理店「火焔山」を開いた。ウルムチでスマホ修理を生業としていた馬さんは、奥さんの親戚が日本にいたことをきっかけに2007年に来日。当初は弁当工場で惣菜を作る仕事に就いていたが、そのうちにその経験を生かして店を出すことを思いついた。「東京や千葉方面から客が来ることもあります」。試行錯誤で味を改良しており、お客がいっぱいになるときが一番楽しいと言う。

チャイナタウンの「進化」

中国人移民の社会ステータスの上昇とともにチャイナタウンの進化は続きそうだ。それを暗示するように、芝園団地に住む中国人住民の流動性は高い。より良い教育環境を求めて別の場所へ移っていく傾向がある。

山下教授は、アメリカの例をあげつつ、中国人が今後さらに遠い郊外、または都内の高層マンションに移っていく可能性を指摘する。たとえば、元来ロサンゼルスのチャイナタウンはダウンタウンにあったが、より豊かな新華僑の到来で、第2のチャイナタウン(モントレーパーク)、さらには第3のチャイナタウン(ローランドハイツ)へと次第に郊外化が進んだ。上述の王琳さんも「いつかはマイカーやマイホームが欲しい」と漏らす。

自然発生的に誕生しつつある西川口チャイナタウンの現場を歩いていて実感するのは、国の存在のなさだ。中国人の定住化は留学生の受け入れを推し進め、最近では外国人IT人材を確保に動き始めている国の諸政策と密接に関係しているにもかかわらずである。先駆けて浮上した日系ブラジル人の定着問題と同じで、政府は入り口だけを議論し、あとは地元に「おまかせ」の格好だ。

今夏、外国人単純労働者受け入れの制度設計に向け議論が展開されているが、相変わらず企業の経済的打算に基づいたニュースしか聞こえてこない。移民政策の事実上の開始とも言われる今回の制度をきっかけに、外国人の統合政策についても大いに議論されるべきではないだろうか。西川口チャイナタウンで垣間見える日中住民の不和、そして交流へ向けた努力はそのことを端的に示しているように思える。


・イタリア:アフリカ人移民がイタリア人とアフリカ人の内戦を避けるために国境を封鎖するようアドバイス

2018年09月25日(火)

「ナスタチウムのブログ」様より転載

https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12407528880.html

※Mohamed Konareさん(写真下)というイタリア在住のアフリカ人の移民が、内戦を避けるために国境を封鎖するようアドバイスしました。

イタリアに20年以上住んでいるMohamed Konareはこう言います。

「グローバル・オリガーキーはアフリカから人的資源を取り除いて空にしたいと思っています。若い男たちをヨーロッパに送り込みます。ヨーロッパが現在経済困難に取り組んていることを知りながら彼らをヨーロッパに送り込みます。彼らに未来が無いことを知っていてそうします。」

この現状が壊滅的な結果を迎えると述べています。

今日ここにいる移民たちはほとんど職がありません。

若いアフリカ人移民たちは、西洋社会への準備が無く、満足なイタリア語もできません。

このような人たちは、そのうち何の支援もないまま無一文で放っておかれるでしょう。

イタリア語や西洋文化も知らず、どうなるでしょうか?

イタリア人の低所得クラスと飢えた大量のアフリカ人との間で起こる貧困者たちの戦いです。

このような内戦を避けるために国境を封鎖するようアドバイスしているのです。

イタリア、移民・難民の許可厳格化へ 大幅に減る可能性(朝日)という記事が昨日出ました。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180925-00000030-asahi-int

同法では、難民が公務員に暴力を振るったり、強盗や性暴力などの犯罪で有罪になったりした場合は、難民認定を取り消すと規定。不法滞在になった人を強制送還するための収容施設を増設し、最長6カ月間の収容期間中に送還手続きを進めるとしている。

今まで犯罪者が難民認定取り消しにならなかった方が驚きですが、不法滞在者の収容施設を増設し、6か月間で送還手続きを進めるということは日本も見習うべきだと思います。最近、収容期間が長いと言って批判する記事が多く出ていますが、仮放免ではなくて速やかに送還するという正常な方向へ舵を切ってもらいたいです。

こちらの記事はご覧になった方も多いと思いますが、移民との共生は生易しいものではないということを真面目に説明している記事です。少し紹介しますが、ぜひリンク先でご覧ください。

中国人住民が半数を占める埼玉の団地「ガラスの共生社会」のリアル

室伏謙一:室伏政策研究室代表・政策コンサルタント 2018.9.25 DIAMONDonline

https://diamond.jp/articles/-/180184

中国人が半分もいる川口の芝園団地、ここは移民共生の成功例のように言われていますが、どこでもそれが出来るわけではないこと、持続できるかは不透明であることが丁寧に説明されています。

最初に住み着いたのは質の高い中国人たち、彼らは子育てに中国から両親などを呼び、特にその親類たちが文明人でなかったためにトラブルが噴出したらしいです。

中国人でも質の高い人たちは、より良い環境を求めて都内などに引っ越していきます。

後に残るのはそうでない人たち、彼らは日本語が出来ない人も多く、日本の生活習慣を知らず余計に孤立します。

オランダでの移民実態調査経験を持つ人と大学などが共同でプロジェクトを立ち上げて共生を模索し、様々な活動を通して接点を作り関係構築をしていきました。

接点は自然には出来ず上記のように努力して作ります。

放っておいて自然にできるのは嫌悪や対立です。

外国人とは「当たり前」が異なり、それを知ることすら困難です。

外国人(特に第三世界から)が普通に暮らしていたら、それが問題になるということです。

順風満帆にいっているように見えるが、芝園団地における外国人との共生はこれまでの苦労の積み重ねのみならず、極めて微妙な均衡の上に成り立っていると言っていい。その均衡を辛うじて成り立たせている要素の1つでもなくなれば、均衡はもろくも崩れてしまうだろう。

その要素とは、繰り返しになるが、芝園団地に住む中国人のほとんどが大卒以上で、都内の企業に勤めるサラリーマンであり、ある程度収入があること。

一言で言えば、中国人住人に一定以上の知的水準が担保されていることだ。これに加えて、中国人住民の数と日本人住民の数がほぼ均衡しており、周辺地域も含めれば、当然のことながらに日本人住民の数の方が多いことも重要な要素である。芝園団地のこれまでの経緯からも明らかなように、人が増えれば増えるほど問題が顕在化しやすくなり、場合によっては住民同士の衝突にまで発展する可能性も高くなる。

しかし、中国人住民の数が現状以上に増加し、住民の入れ替わりも頻繁になり、日本の生活習慣を全く解しない親族が多数住むようなことになれば、かつての問題※が再発する可能性も否定できない。

(※ゴミを部屋の窓から投げ捨てる、階段の踊り場で大便や小便をする、ゴミ捨て場に分別を無視してゴミを捨てる、粗大ゴミを置いていく、団地内の広場で夜中に爆竹を鳴らし、注意に来た日本人住人に暴力を振るう等)

芝園団地のある住人は、「中国人住人の数が一定数を超えたら、話ができなくなった」と言っていたという。まさにトマス・エリオットが、「あるリージョナルコミュニティ(地域社会)にある速度以上で急激に外国人が入ってくると、そのコミュニティーは崩壊する」としていたのを彷彿とさせる。

要するに、芝園団地の現状は、まれで“特異な例”であり、この事例をもって成功と持ち上げて他の地域に当てはめることは不可能だし、芝園団地で成功しているから、外国人材、もとえ移民が入ってきても、皆の努力で共生社会が実現できると考えるのは、明らかな間違いであるということだ。

国は受け入れ環境を整えるとしているが、芝園団地でのこれまでの試行錯誤を見れば、そんな単純で簡単なものではない、画一的にどうこうできるものではないことは明らかであろう。しかも、流入してくる移民が単純労働者ということになれば、芝園団地の共生社会の微妙な均衡の重要な要素である、外国人住民の知的水準の高さは担保されないことになる。

外国人=悪であると言いたいのではない。

一定の規模以上で、生活習慣の異なる外国人が一気に入ってくれば、違いが明らかになり、そこには容易にコミュニケーションは成立しえず、共通の経験も意識も生まれえない。

そんなことを微塵も考えない、外国人材受け入れという「美名」の下で着々と進められる“移民政策”は、わが国に「百害あって一利なし」の愚策以外のなにものでもなく、即時やめるべきである。

先にイタリアの記事を紹介しましたが、イタリア人と日本人を比べると、日本人の方が弱腰で腕力も強くないです。だから、日本に移民が増えれば内戦ではなくて、無抵抗のままの静かな占領になる可能性が高いと思います。

洗脳TV番組で偏った知識を大量に教え込まれ、何でも知っている気にさせられます。

だから、日本人は自分が外国人を知らないことを知りません。

無知の無知。

これほど恐ろしいことはありませんが、自分が酷い目に遭うまでは憂うこともなく幸せです。