・マネーの魔術史(16) 積極政策と緊縮政策の交代を繰り返した江戸後期の経済運営(新潮社Foresight 2017年9月14日)

野口悠紀雄

※吉宗(1716年~1745年)による「享保の改革」までをまとめると、

(1)元禄・宝永の改鋳:荻原重秀による金貨・銀貨改鋳で、品位低下。(2)正徳・享保の改鋳:新井白石によって品位を戻す。(3)元文の改鋳:吉宗による貨幣流通量の調整。

その後、江戸時代後期には、積極政策(重商主義)と緊縮政策(重農主義)の交代が繰り返された。



**田沼時代

田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握っていた1767年から1786年の時期、享保の改革で年貢収入は増加したが、頭打ちとなってきた。これを打開するため、商業活動に新たな財源を見出し、さらに大規模な新田開発と蝦夷地開発を試みた。このため、緊縮政策を捨て、商業資本を重視した積極的な政策を取った。手工業者の仲間組織を「株仲間」として公認、奨励し、運上・冥加などを課税した。また、新貨の鋳造により、財政支出の補填を行なった。

一方で、賄賂政治がはびこり、幕政は腐敗の極に達した。商業,高利貸資本が農村に進出して、農民の階層分化が進んだ。また、天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発したため、意次は失脚した。

**松平定信による「寛政の改革」

松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に行われた改革。吉宗による享保の改革を理想とした。

田沼が推進した重商主義政策を否定して、農本主義に立脚。株仲間は解散。徹底的な緊縮財政を行なって倹約を励行し,大奥の費用も3分の1に切りつめた。庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制を行なったことから、「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と揶揄された。

定信は失脚したが、その後も寛政の遺老たちにより、方針は引き継がれることになった。

**文政と天保の貨幣改鋳

水野忠成(1763年~1834年)は、田沼意次派の人脈に連なる。老中在任中は、田沼時代を上回る賄賂政治が横行したという。「水野出て 元の田沼と なりにけり」などと皮肉られた。

文政元年から天保3年(1818年~1832年)にかけて、約80年ぶりに貨幣改鋳が実施された。良貨であった元文小判を廃し、大幅に品位を落とした文政小判を発行した。将軍・徳川家斉の浪費が原因とされる。さらに、天保8年からも改鋳が行われた。これは、天保4年から7年にかけての大凶作による支出増が原因とされる。

その結果、貨幣流通量は46%も増加して幕府は550万両にも及ぶ出目(差益収入)を得た。しかし、激しいインフレを引き起こした。

元文の改鋳の結果、米価はほぼ一石一両で推移し、幕藩体制の基盤が約80年間にわたって安定的に推移していたが、文政の改鋳の結果、物価は1820年を底として長期的上昇局面に入った。グラフ(上)が、この過程を明確に物語っている。

**水野忠邦による「天保の改革」

江戸時代後期の天保年間 (1830年~44年) に行われた、水野忠邦(1794年~1851年)による重農主義的な改革。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。

享保,寛政の改革を目標とし,風俗矯正,質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い,農村人口を維持するため「人返し」政策をとった。また、印旛沼開発などにも着手した。しかし、大名や旗本の抵抗を受けて失脚した。

この頃すでに、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、資源と市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めていた。アヘン戦争(1840年)において、清が敗北した。一方,薩摩藩や長州藩など「雄藩」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功。明治維新の原動力となった。