「キリスト教シオニスト」の実態
~ シオニズムとキリスト教原理主義の関係 ~
■■第1章:はじめに
●シオニズム運動とは、パレスチナの「シオンの丘(ZION)」(=聖地エルサレム)にユダヤ人の国家を公的に建設する事を目標とするものである。一般に、ユダヤ人テオドール・ヘルツルが、シオニズム運動の父として知られているが、広義の意味での“シオニズム運動”の本当の「創始者」ではない。本当の創始者は、ユダヤ教徒ではなく、それより300年前のイギリスに住んでいたプロテスタント・キリスト教徒だったのである。
これは非常に重要なポイントである。
●キリスト教にもシオニズム運動は存在し、ユダヤに劣るとも勝らない強烈なシオニズム信奉者が存在する。そして、驚くべきことに、現在アメリカのキリスト教シオニストとユダヤのシオニストは「同盟」を結んでいる。この同盟関係を知ると、パレスチナ問題の根がより深いところに根ざしていることに気付く。
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●宗教改革以前は、全ての西欧キリスト教徒はカトリックで、聖アウグスティヌスその他が説いた「聖書の中には文字通りではなく寓意的に解釈すべき箇所がある」という見解を普通は受けいれていた。例えば、「シオンの丘(ZION)」は天国、あの世にあって、我々全ての人間に等しく開かれており、この地上にあってユダヤ人だけが住むべき場所ではないという考え方だ。
しかし、宗教改革以後、プロテスタント・キリスト教徒たちが唐突に「ユダヤ人は全てパレスチナへ移住せよ!」などという、およそ正統派キリスト教神学では主流になどなったことのない考え方を支持し始めたのである。
いったいどうしてなのか?
●ここで少し長くなるが、プロテスタント・キリスト教徒たちがこのような主張──「ユダヤ人は全てパレスチナへ移住せよ!」と言い始めるようになったきっかけを、時間の流れに沿って解き明かしていきたい。
■■第2章:シオニズム運動の本当の創始者はプロテスタント・キリスト教徒である
●宗教改革において、聖書は一般人にも身近に手に入るものになった。これはキリスト教界に非常に大きなインパクトを放った。キリスト教徒たちが初めて聖書を購入するようになって、それに自分自身で解釈を加え始めた。その過程で、イスラエルとユダヤ人とを聖書の預言の中核的要素に格上げし出したのである。聖書が日常言語に翻訳されると、初期のプロテスタント・キリスト教徒たちは、ユダヤ教またはヘブライの聖書として知られていた『旧約聖書』に目を向け、ヘブライ人の歴史、物語、伝統、律法、そしてパレスチナの地に親しもうとし始めた。彼らは『旧約聖書』の物語をそらんじ、記憶だけで必要な個所を朗読してみせた。
こうしてパレスチナをユダヤ人の国と考え出すプロテスタント・キリスト教徒が増えてきた。
プロテスタント・キリスト教徒たちは『旧約聖書』を特別面白い文学として読んだばかりでなく、歴史解釈のお手本とも見るようになった。彼らはキリスト教以前のパレスチナの歴史過程すべてを、ヘブライ人が来てからの逸話だけに還元してしまったのである。
●こうして、古代パレスチナでは『旧約聖書』に記録されたあいまいな伝説やわずかな歴史物語に、これまたあいまいに記されているだけの出来事以外、何一つ実際に起こりはしなかったと思い込むようにしつけられたキリスト教徒が膨大な数に達したのである。聖書好きのキリスト教徒たちは、『旧約聖書』を中東で重要な歴史を記した唯一の書物と見なすようになってしまったのである。そして、17世紀半ばまでには、プロテスタント・キリスト教徒たちは「ユダヤ人はすべてヨーロッパを離れてパレスチナへ帰るべきだ」と断定する論文を発表し始めていた。
新たに確立したピューリタン共和国の「護国卿」となったオリヴァー・クロムウェルは、パレスチナにユダヤ人が帰還すれば「キリスト再臨」の序曲になると明言した。
オリヴァー・クロムウェル
(1599~1658年)
彼は、パレスチナにユダヤ人が帰還すれば
「キリスト再臨」の序曲になると明言した
●1655年にドイツに生まれたプロテスタント・キリスト教徒、パウル・フェルヘンハウエファは『イスラエルヘのよき知らせ』の中で、「キリスト再臨」の際にはユダヤ人はイエスを彼らのメシアとして受け入れるだろうと宣言した。これを証明する前兆は、「神が無条件にアブラハム、イサク、ヤコブと交わされた約束で永久にユダヤ人に授けられた彼ら自身の国へ、彼らが永住覚悟で帰還することだ」と書いている。
●また、児童労働者、精神異常者、受刑者らにもっと人間的待遇を与えることを主張する運動を起こして「偉大な改革者」として有名な第7代シャフツベリー伯爵アントニー・アシュリー・クーパー卿は、1839年に「すべてのユダヤ人はパレスチナへ移住すべきだ」と書いた。彼は『ユダヤ人の現状と展望』という論文を発表、「ヘブライ人種」のことを心配しているものの、非ユダヤ救国に居住する以上ユダヤ人はいつまでも異邦人のままだという理由で彼らをヨーロッパ諸国で同化・解放することには反対したのである。
このクーパー卿は、「キリスト再臨」という「神の計画」でユダヤ人が枢要な役割を果たすと見ていた。彼の聖書解釈では、「キリスト再臨」はユダヤ人がパレスチナに移住し、そこにユダヤ国家を再建しないと実現しないと考えていた。
クーパー卿はすべてのユダヤ人をパレスチナに移住させるという「神の計画」を推進する上で神に手を貸すべきだと確信して、「ユダヤ人は頑固かつ陰険な連中だし、道徳的退廃、頑迷、無知のどん底に落ちて福音の何たるかも分からない始末だが、それでもキリスト教徒が救われる希望を左右する存在なのだ」ということを、イギリス人同胞に叩き込むことを自分の課題にしていたのである。
●しかし困ったことにクーパー卿は、そもそもパレスチナに当時、パレスチナ人が住んでいるかどうかをわざわざ調べようとはしなかったし、自分のものでもない民族や土地を勝手にユダヤ人にくれてやることをまるで気にしていなかった。あっさりとパレスチナの土地が獲得できると書いているのである。
彼の言葉を使うと、パレスチナは「国のない民に与えられるべき民のいない国」というわけだったのだ。後にこの言葉はシオニスト・ユダヤ人によって、「土地のない民に与えられるべき民のいない土地」という言葉に作り変えられた。
●このユダヤ人をパレスチナに移住させようと躍起になったクーパー卿は、時の外相パマーストン卿と姻戚関係にあったので彼をせっついて、エルサレムにイギリス領事館を開設させた。1839年敬虔な福音派信徒ウィリアム・ヤングをエルサレム駐在の初代副領事に任命した際に、外相は当時オスマン・トルコ帝国の一部だったパレスチナに居住するユダヤ人全員を保護する任務があることを、特にヤングに念を押している。その年パレスチナには総数9690名のユダヤ人が居住していた。元からそこにいた者と外国籍のユダヤ人双方を合わせても、それだけだった。
当時の条約上の権利によれば、イギリス領事の保護が適用される範囲はパレスチナ在住の外国籍ユダヤ人に限定されていた。他方パレスチナ生まれのユダヤ人は依然、オスマン・トルコ帝国の臣民としてスルタンの支配下にあった。ところがイギリス副領事は、パレスチナのユダヤ人にイギリス政府がいかに彼らに親身になっているかを示して感謝してもらおうと、パレスチナ全土のユダヤ人を保護の対象にしてしまったのだ。
フランス政府やスペイン政府がパレスチナ在住の地元カトリック教徒に何ら主権を及ぼせないのと同じで、イギリス政府は地元のユダヤ人に保護の手を差し延べることなど本来は許されない行為だった。イギリス政府の行動は他国への内政干渉だったが、これが同時に全てのユダヤ人の民族的統一を肯定するシオニズムの主要な要石になったのである。
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●1841年、中東勤務のイギリス外交官チャールズ・ヘンリー・チャーチルは、ロンドンのイギリス・ユダヤ人代表者会議議長でロスチャイルド家に繋がる実業家モーゼス・モンテフィオーレ宛に書いている。「あなたの同胞が再び統一国家の下で1つの国民として出発するよう努力される光景をこの目で見たいという、私の切なる願いを、あなたにお伝えせずにはいられません。その目的は完全に達成可能であると愚考致します。しかしそのためには必要なことが2つあります。まず世界中のユダヤ人全員が一致してこの目標をとり上げること、そしてヨーロッパ列強がユダヤ人の目標達成に力を貸すことです。」
モーゼス・モンテフィオーレ
●そして4年後の1845年には、イギリス植民省(現・外務連邦省)のエドワード・L・ミットフォードが、「パレスチナに大英帝国の保護領としてユダヤ国家を建設し、同国家が自立でき次第、大英帝国は保護領の権限を放棄すること」を提案している。
彼は、ユダヤ国家ができれば「わが国のレパント地方(地中海東部沿岸諸国地方)における支配権が確立し、同国家を拠点として敵国のわが国封じ込めを抑え、敵を威嚇し、必要とあれば敵の侵攻をはねつけることができる」とも書いている。
●ところが肝心のヨーロッパのユダヤ人たちは、自分らの住み慣れた土地を離れてパレスチナに移住したがる者はほとんどいないか、皆無に近かったのだ!以後150年間にわたってシオニズムを唱え続けたのは、大半はイギリスで、むろん他のヨーロッパ諸国でもそうだったが、さらに後には驚くほどの規模でアメリカで、もっぱらキリスト教徒だったのである。なかでもプロテスタント・キリスト教徒は、パレスチナはユダヤ人のものなのだから、ユダヤ人は全てそこへ移住し、異教徒と分かれて暮らすべきだと熱心に主張し続けた。
結局、1世紀半もの間、西欧帝国主義運動のリーダーたちであるキリスト教徒らは、このユダヤ不在のシオニズムにユダヤ人からの支持を得られなかったのである!
●レジャイナ・シャリフは『非ユダヤ人シオニズム』の中で、キリスト教シオニストは敬虔さの背後に「政治的動機」を持っており、彼らにとってはこの動機こそ最初から宗教信念より遥かに重要だったと強調している。
●まあ、そんなことがあるにせよ、パレスチナにイスラエル共和国が建国された現在、シオニスト・ユダヤ人たちの多くは、初期のシオニズム運動においてプロテスタント・キリスト教徒がユダヤ人以上に熱心に行動してくれたことに「感謝」しているのである。イスラエル共和国の建国を達成できたのは、キリスト教シオニストらの手助けのおかげだといっている。
(※ この件については、第4章で詳しく取り上げたいと思う)。
■■第3章:アメリカのキリスト教原理主義者とシオニスト・ユダヤの同盟関係
●アメリカがかたくなに親イスラエル政策を実施する原因として、アメリカがユダヤ系のメディアや政治家などの強い影響下にあるためだと説明される場合がある。しかし、それだけが原因ではないだろう。シオニスト・ユダヤ人と利害関係を共にするキリスト教原理主義勢力(ファンダメンタル・プロテスタント勢力/キリスト教右翼勢力)がイスラエルを賛美し、アメリカ国内で巨大な勢力を誇っていることも大きな要因になっているといえる。
彼ら「キリスト教シオニスト」たちは、「キリスト再臨」のためには、イスラエルが中東に建国されることが不可欠な要素だと信じこんでいるのだ。イスラエル建国は「キリスト再臨」のための重要な第一歩だと盲信しているである。そしては自分たちこそ神に選ばれた人間(選民)であり、罪深い人間が全て滅ぶようなハルマゲドンが襲来すれば、世界から人類が姿を消した後、自分たちだけが生き返ると信じている。
この彼らの世界観は一般に「天啓史観」と呼ばれている。
●彼ら「キリスト教シオニスト」たちによれば、イスラエル建国は聖書の預言が成就されたものであり、“神”が行った奇跡の現れだということだ。そして彼らはイスラエルの存在を柱にして信仰心を増幅させ、次に起きる奇跡(核兵器による世界大戦など)を、まだかまだかと待ち望んでいるのだ。にわかに信じがたいがウソではない。中東が平和であるうちは「キリスト再臨」が来ないと信じているのである。
ここに、パレスチナ問題の複雑さがある。
●カリフォルニア大学の政治学教授スティーヴン・スピーゲルは、次のように主張している。「ユダヤ人グループがどれだけアメリカの政治に干渉しているかという面ばかりを見るのは誤りで、むしろキリスト教シオニスト・グループのほうが、アメリカ政府の対イスラエル政策形成に真の影響力を持っているのだ」
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●ところで、アメリカにおける「キリスト教シオニスト・ロビー」は「ユダヤ教シオニスト・ロビー」ができる前に存在していた。
アメリカの「キリスト教シオニズム」は、聖書預言会議運動と共に1880年代にやってきた。そして同じ時期にウィリアム・ブラックストーンが、最初のアメリカ・キリスト教シオニスト・ロビーを生み出したのである。
このウィリアム・ブラックストーンの運動には、石油王ジョン・D・ロックフェラーなどが資金を与え、最高裁判事らがメンバーとして名を連ねていた。その目的は、ユダヤ人移住民がロシアのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れることができるように、パレスチナにユダヤ国家を樹立することであった。
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(左)学者であり、聖職者でもあった
ウィリアム・ブラックストーン(1723~1780年)。
アメリカに最初の「キリスト教シオニスト・ロビー」を生み出した。
(右)石油王ジョン・D・ロックフェラー(1839~1937年)。
ウィリアム・ブラックストーンの運動に資金を与えた。
●現在、アメリカのキリスト教シオニストとユダヤのシオニストは同盟を結んでいるが、彼らが同盟を結ぶ大きなきっかけになったのは、1967年の第三次中東戦争(6日戦争)である。
もっとも「同盟」とはいっても完全に心を許した仲ではなく、お互い利用しつつ牽制しつつ、微妙なバランスの上で“共生”しあっていると言ったほうがいいかもしれない。
●もともとWASPで構成されていたアメリカのキリスト教原理主義者たちは、反ユダヤ色が強かった。キリスト教原理主義者たちは今でも、ユダヤ人はハルマゲドンで殺されるか、キリスト教に帰依(改宗)してボーンアゲイン・クリスチャンになるか2つに1つの運命だと本気で信じている。彼らの伝統的反ユダヤ主義は、機会あるごとに噴出する。当のユダヤ人たちも彼らのそのような信念をよく知っている。キリスト教原理主義者たちのイスラエル支持は、具体的なユダヤ人への配慮ではなく、千年王国的な終末論という神学的根拠に由来しているのであって、旧来の教会に存在した反ユダヤ主義の残滓を払拭しようとして積極的に努力している主流派プロテスタントや、とりわけ第2バチカン公会議以降のカトリックなどのユダヤ人に対する姿勢とは本質的に異なるのである。
●かつてアメリカ国内において、ジェラルド・ウィンロッドのようなキリスト教徒は、自ら発行する雑誌『ディフェンダー』で、公然とむき出しの反ユダヤ主義を説いていた。ジェラルド・L・K・スミス、ウィリアム・ダドリー・ペリー、ウィリアム・カルグレン、ウェスリー・スィフト、ウィリアム・L・ブレシングらのキリスト教原理主義者たちも、「アメリカにユダヤ人がいなければキリスト教国としてより純粋になる」と主張していた。
キリスト教原理主義の白人は、自分たちの優越さを主張するのに、黒人キリスト教徒に対しては肌の色を持ち出したが、ユダヤ人に対しては、ユダヤ人は他の民族同様イエス・キリストの神性受け入れを拒んだので救われなかったのに対して、キリスト教原理主義の白人は他のキリスト教徒同様、キリストを受け入れたため救われているから、ユダヤ人より優位に立つと考えた。
従ってキリスト教原理主義者は、キリスト教こそユダヤ教が完成したものであることをユダヤ人たちに示すことで、ユダヤ人らを間違ったユダヤ教から救ってやらないといけないと信じていたのだ。
●当然、アメリカのユダヤ人エスタブリッシュメントは、このような押し付けがましい「改宗」要求に大反発して、ウルトラ保守のキリスト教原理主義(右翼)勢力とは交渉を持とうとはしなかった。その代わりにアメリカのユダヤ人エスタブリッシュメントは、同じリベラル派として、リベラル派キリスト教徒と建設的な関係を築いていた。
1948年から1967年にかけて、ユダヤ系アメリカ人のリーダーたちは、約4000万人の信徒を代表する「全国カトリック教徒正会議(CCB)」と約4000万人のプロテスタントを代表する「全国教会会議(NCC)」の幹部たちと、定期的に友好的な集まりを持っていたのである。