・シナルキズムと対イスラム戦争

By デーヴィッド・リヴィングストン

http://stopthesheeplelife.blog.fc2.com/blog-entry-69.html


※用語:「シナーキー」(Synarchy)

「統合国家体制」。「アナーキー」(無政府主義体制)の正反対とされる。

「完全政府主義」、「秘教的統合主義」とも。

フランス世紀末のオカルティスト、「サン=ティーヴ・ダルヴェードル」が広く流布させた用語。

「ナポレオン・ボナパルト」の宿敵として、王制や民主制を排する神秘主義的階級支配を提唱した「ファーブル・ドリヴェ」の思想が、ひとつの基盤となっている。

世紀末オカルティズムが生んだユートピア体制の一試論として重要。


※弁証法

この陰謀は共産主義者やファシストによるものではなく、シナルキストによるものである。しかしながら政治的領域の両端を操作するシナルキストの陰謀は、新自由主義として知られるファシスト的経済哲学という目標へと前進するための「共産主義」の脅威という恐怖を培養した。「大きな政府」を公然と非難することで彼らは公的資産を個人企業群へと譲渡することと、世界銀行とIMFを装った彼らの金融システムへと世界の従属化を要求した。

陰謀史の研究家諸氏は1776年にアダム・ヴァイスハウプトにより創設された悪名高いババリアン・イルミナティを世界の出来事の背後で社会転覆の原則として個別化する傾向がある。しかしイルミナティ自身の起源はマルティニズムとして知られる、よりいっそう強力で影響力のある秘密結社にある。マルティニズムはイルミナティが消滅する1885年をはるかに越えイルミナティ結社を生き長らえさせた。


※人物:マルティネス・ド・パスカーリ(Martines de Pasqually、正式には、Jacques de Livron Joachim de la Tour de la Casa Martinez de Pasqually、17??‐177?)

(コトバンクより)



(上)マルティネス・ド・パスカーリ

18世紀ヨーロッパに数多く誕生した神秘主義的秘密結社の最大の開祖。その生涯には不明な点が多く、出自についても定説はない。1754年頃から「エリュ・コーエン」と称する教団をフランス各地に創設、降霊術による人間および自然の復活・再生を目ざした。独自の宇宙発生論・終末論を含む彼の神智学は、著名な弟子サンマルタンの作品によって広く全欧に普及した。パスカーリの思想を「マルティニズム」という。

※用語:エリュ・コーエン Elu Cohen (The order of the Elect Cohens)

(羽仁礼 著「図解 近代魔術」より)



(上)エリュ・コーエンの紋章

フランスのオカルティスト、マルティネス・ド・パスカーリ(17??〜 177?)が結成した秘密結社。その儀礼はパピュスにより復活され、ロシアの神秘主義にも影響を与えた。パスカーリはポルトガルあるいはスペイン系の改宗ユダヤ人といわれており、カバラにも傾倒、その奥義を極めていたという。パスカーリは、1760年頃、秘密結社「エリュ・コーエン」をボルドーに組織した。エリュ・コーエンにはフリーメーソンからの参加者が多かったため、ときにフリーメーソン内の組織とみなされ、エリュ・コーエン・メーソン騎士団と呼ばれることもある。

エリュ・コーエンの団員は、自己の出生の始原的創造原理を回復することを目的として、教団内で定められた各種の修行を行っていた。

その修行には、フリーメーソンの儀礼や召喚魔術の要素が取り入れられており、肉体のための食餌訓練、星気体(アストラル体)投射を行うための呼吸訓練、霊のための音楽的・精神的訓練などが含まれる。また、天使の召喚を行い、団員は天使の立会いの下で円や円弧を描き、ロウソクに火をつけ、呪文を唱えた。こうした儀式の最中、金物は一切帯びてはならない。

パスカーリ自身は1772年に突然カリブ海のサント・ドミンゴ島に渡り、そこで病死したが、その儀式は弟子のルイ・クロード・ド・サンマルタン(1743~1803)などに引き継がれた。

サンマルタンは1768年にエリュ・コーエンに加入し、やがて独特の神秘哲学を展開するようになる。彼の思想はロシアに伝わり、ソロヴィヨフ(1853~1900)らのロシアの神秘思想家にも影響を与えることとなった。

フランスの魔術師パピュス(1865~1916)は、19世紀になって、エリュ・コーエンの儀礼を再編している。

※人物:パピュス(Papus)本名 ジェラール・アンコース(Dr. Gerard Encausse)
(1865-1916)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/magic/papyusu.htm

(上)パピュス

パピュスことジェラール・アンコースは、1865年スペインのコローニャで、裕福なフランス人の父とスペイン人の母の間に生まれた。
 
彼は学業優秀な少年で、医学の道を進む。1885年には医学の大学に進み、1894年には医学博士となった。
 
彼は医学を学ぶ傍ら、錬金術にも精通した化学者ルイ・リュカの著書に触れたのがきっかけで、生命創造に興味を持ち、そこから錬金術に関心を持つようになり、オカルティズムの道にも進むことになる。
 
国立図書館でオカルティズムの本を読みふけり、レヴィやポール・クリスチャンを知ったらしい。
 
さらに彼の関心はメスメルの動物磁気やホメオパシー療法、果てはラインの超心理学にまで及んだ。

彼は1887年に神智学協会のフランス(パリ)支部であるイシス・ロッジに入会する。
 
ここにおいて、彼は神智学協会の会誌「ロータス」に寄稿を始めるのであるが、この中でパピュスというペンネームを使うようになるのである。
 
このパピュスのペンネームの由来は、かの数学者にして魔術師といわれたアポロニウスの著書「ヌクテメロン」に出てくる医学の精霊から借りたものである。
 
彼は、この「ロータス」誌において、カバラの聖典「創造の書」の翻訳を行った。
 
しかし、この神智学協会の支部との関係は、わずか1年であった。イシス・ロッジが解散してしまったのである。

だが、彼はすぐに精力的に活動した。
 
多くのオカルティスト達と交わり、いくつもの秘教結社に入団し、自らも団を率いる。
 
1888年には、自ら「Groupe Independant d'Etudes Esoteriques」(秘教実践独立集団)なる組織を設けている。

特に重要なことが、スタニスウス・ド・ガイタ侯爵やサール・ペラダンらと共に、同年に「薔薇十字カバラ団」を創立したことであろう(あるいは1890年に途中入団か?)。
 
同年、彼はサンマルタンの思想を受け継いだというメーソン的な結社、サン=ティーヴの「マルタン会」にも入団した。同会では彼はすぐに頭角あらわし1891年にはサン・ティーヴの後を継いで首領(グランド・マスター)に就任する。彼は死去するまで、この地位に居た。
 
このマルタン会は3位階からなり、やがて世界中に160の支部を持つマンモス結社となる。
 
人によっては、このマルタン会の活動こそが、パピュスの中心的な仕事だったと考える者もいる。
 
同会はパピュスの死後も息子によって引き継がれ、1958年には他のマルタン主義の団と合併し、「サンマルタン派諸教団連合」となる。
 
他に彼は、1889年に「秘教的研究の独立団」なる組織を設立。この結社は、先の「薔薇十字カバラ団」や「マルタン会」の下部組織的な存在であり、人材をさがすための団として機能した。
 
著作活動も熱心に行った。
 
1888年「隠秘科学の基礎理論」を出版。またオカルティズム雑誌「イニシエーション」を編集する。
 
他に彼が関わった雑誌としては「オカルト同盟」、「イシスのヴェール」等がある。
 
彼の著書は、オカルティズム以外の物を加えると、実に260にも及ぶ。
 
さらに、あちこちの雑誌や秘教団体の会誌にも寄稿をしており、それらも加えると、凄まじい著作量になるであろう。
 
彼は複数の秘教結社に入団した。メイザースとも親交があり、1895年には「黄金の夜明け」のアハトゥールテンプルにも入団している。
 
1897年には、近代錬金術思想、ヘルメス哲学者として著名なジョリデェ・カストロとセディールらとも親交を持ち、彼らと共同で「ヘルメス学院」を設立した。
 
さらに彼は文武両道で、フェンシングの腕も全国大会に出場するほどのものであったという。
 
しかも、彼はあくまで医者であり、これらの仕事は、本業との掛け持ちで行っていたのである。
 
ゆえに彼は、「オカルティズム界のバルザック」等の異名も受けることになったのである。

彼の伝説として有名なのが、ロシア最後の皇帝ニコライ2世に招かれ、そこで降霊会を行い、アレクサンドル3世の霊を呼び出してみせたというのがある。これは1905年のことだというが、眉唾である。
 
ただ、彼とロシア宮廷との間に付き合いがあったのは事実らしく、ラスプーチン登場の前段階にも関わるキナ臭い噂もある。

しばしば、パピュスの最大の業績の一つとして、1889年に出版された「ボヘミアンのタロット」が挙げられる。これは後世のタロット解釈に大きな影響を与えることになる名著である。
 
彼のタロット理論は「宇宙の車輪」とよばれる、十字の周りを循環する宇宙論に基づいている。これが薔薇十字章を中心においたマンダラのそれと考えても良いだろう。しかし、彼の築き上げたそれは、ポール・クリスチャンのそれより、遥かに複雑で高度な進歩を遂げたものだった。これは、聖四文字名、INRI、そしてギョーム・ポステルやレヴィの唱えたROTAを十字におき、これに数秘術を絡めるという大変に複雑な体系である。
 
彼はこの著書において、レヴィが提唱したカバラとタロットを照応させる作業を、さらに高度に推し進めている。
 
また、この「ボヘミアンのタロット」の第三部には、ガイタとオスワルト・ウィルトが登場し、彼らの書いた論文が収録されている。
 
ここにおいて、パピュスのタロット体系とガイタやオスワルト・ウィルトのそれとの間に、早くもズレが見られる。
 
後年、パピュスはさらにタロット体系に改良をほどこし、「エジプシャン・タロット」なる独自のタロットを作ることになるのであるが、この頃には、ガイタやオスワルト・ウィルトのそれとは、だいぶ違ったものになっていた。

さらに彼は、カバラとインド哲学との融合すら試みた。
 
インド神話の神を生命の樹に当て嵌め、サンスクリット文字とヘブライ文字、エジプトのヒエログリフとの照応すら試みた。
 
彼はフランスにおいて、ガイタらと共に、「黄金の夜明け」とは異なる形で、魔術の近代化、システム化を試みた偉大なオカルティズム界の巨人であった。

1914年、第一次世界大戦において、彼は軍医として従軍。そこで傷付いた兵士達のために献身的に働いた。しかし、結核に感染して倒れた。
 
病が小康状態になると、すぐに軍務に復帰。しかし、これが命取りとなる。1916年、結核をこじらせた彼は永眠した。


マルティニズムは究極の悪魔的策謀で、歴史の問題は敵対者という策により解決されたと認識するカバリストのアジェンダに創設された。しかしこれらの敵対者は自発的行動は許されず代りに、慎重に育成され、彼らが考案した解決案を世界に提案する方法とともにひねくれた陰謀者を供給し、彼ら自身の結論に達するように見せかける。
劇では多くの表現方法がある。根本的に彼らは神の二元論と無神論、または虚偽を背景とする真理にルーツがある。悪魔に対するマルティニスト側のように、すべてがひっくり返っており、そこでは真実が虚偽であり、虚偽が真実なのである。

マルティニストにとって歴史は神により進行中の物語であり、人類によって転覆されている。それは世俗主義の歴史、ニーチェの超人のように至高存在として人類自身を賛美するために神への信仰を離れて進歩してきた人類の歴史である。歴史の終わりとは人類が進化させてきた知能の最高点、「啓示」を打ち負かした「理性」の勝利の世紀である。

この新世界秩序の出現を遅らせているものは、しかしながら宗教なのである。そのもっとも驚異的で直近の表出がイスラム教なのである。そこで最終攻撃のための戦場を用意するために弁証法的に世界を分割する必要があるのであろう。すなわち「イスラム」に対し「西側」を闘わせるという文明の衝突である。

マルティニズム

陰謀研究家たちはイルミナティ、ビルダーバーガーズ、連邦準備制度、さらにはユダヤというような常連の容疑者に関する古くてくたびれた同じテーマに取り憑いてきた。ある者は「共産主義」に責任があるとすれば、別の者は「ファシズム」にあるとし、これらの偽装フロント組織の背後にある真の敵を確かめることに完全に失敗している。その真の敵とはすなわち、シナルキズムである。

シナルキズムはナポレオン・ボナパルトにもっとも近いサークルの内部に起源があるマルティニスト運動だった。マルティニズムは1754年に「the Ordre des Chevalier Maçons Elus-Coën de L’Univers」(宇宙の選ばれし司祭のメイソン騎士団)を創設したフランス人神秘家「マルティヌス・ド・パスカーリ」に始まる。グレシャン男爵という名のマルティニストは次のように記している。「パスカーリはもともとスペイン人で、おそらくユダヤの血が混じっていた。というのは彼の弟子は多くのユダヤ語の原稿を彼から受け継でいるからである」。J・M・ロバーツによると、エリュ・コーエン結社の哲学は「霊的存在が物質的形態を取り、別世界からのメッセージを伝達することを可能にすることを目的とする一連の儀式に表現される」。

マルティニズムは後にパスカーリの二人の弟子、「ルイス・クラウド・ド・セント—マーティン」と洗礼者「ジェーン・ウィレルモ」により別の形で普及した。

ウィレルモは、彼の師パスカーリのエリュ・コーエン結社からの項目を含め、別のストリクト・オブザーヴァンス儀礼として改訂スコティッシュライト、もしくは「Chevaliers Bienfaisants de la Cité-Sainte」(聖地の慈善騎士団)を組織化した人物である。

これらすべての結社はリヨンにある単独の母体ロッジ、ウィレルモの「Chevaliers Bienfaisants de la Cité-Sainte」の権威下に置かれた。「Chevaliers Bienfaisants」はストリクト・オブザーヴァンスとミュンヘンの「グッド・カウンシル・テオドール・ロッジ」を含め数多くのロッジを監視した。

1777年、アダム・ヴァイスハウプトを参入儀礼したロッジの傘下に入り、ヴァイスハウプト自身が前年に創設したイルミナティ・ロッジと結束した。

「Chevaliers Bienfaisants」の重要メンバーの一人は、ジョセフ・ド・メーストル(1753~1821年)で、『ジョセフ・ド・メーストルとファシズムの起源』で概略するようにアイザイヤ・バーリンによると彼の著作の思想はファシズムの起源を含む思想家だった。敬虔なカトリックとして認識されていたにもかかわらず、彼もまたマルティニストだったのである。ジェリー・ミューラーの解説のように「メーストルのキリスト教の信仰告白はたしかに誠実なものだった。しかし彼の著作では懸念される政治的団結という要素としての宗教の社会的有用性を記した」。メーストルは行き過ぎたフランス革命を理性に訴えた悲惨な結果とみなした。もし革命家たちが辛抱したなら、すべての権威制度はやむを得ず理性を失ったに違いない。唯一の絶対的権威のみが人間に王手をかけることができる。

メーストルにとってナポレオンは独裁者の見本だった。メーストルによるとフランス革命の失敗は見せかけのカトリックのように、神という言葉とカトリック教会に対して向きを変え、それゆえ恐怖時代そしてナポレオンにより罰せられた。メーストルによるとすべての権威は神から授かったのもで、ナポレオンが権力を得たということは、神はナポレオンを神の復讐の道具として見なした。

シナルキズム

哲学としてのシナルキズムの出所は近代でもっとも悪名高い陰謀者の一人、英国工作員の通称「ジャマール・アディーン・アル・アフガーニー」である。彼はイスラム教のサラフィー派の伝統の創設者であるが、そこからムスリム同胞団からISISに至るまで20世紀のテロリズムのすべてが出現した。アフガーニーはエジプトでフリーメイソンのグランド・マスターであるのと同時に「H・P・ブラヴァツキー」の教師でもあった。ブラヴァツキーは神智学協会の創設者でニューエイジ運動の名付け親で、彼女の大著はフリーメイソンの「経典」と思われる。

通称「ハジー・シャリフ」で通っているアフガーニーは彼の異常な考えを「アレクサンドル・サン=ティーヴ・ダルヴェードル」に伝えた。サン=ティーヴの著書は広くマルティニストに読まれ、アナーキズムにより生み出された災難に対する反応という趣旨としてシナルキズムの理論を提起した。そしてファシズムとオカルティズムの合体を通して一つの選択肢を与えた。シナルキズムは「秘密結社による支配」を意味するようになり、おそらく地球内部に実在するアガルタのアセンデッド・マスターを意味する「神々」と直接意思疎通する司祭位階として務める。そこはオカルト文献ではサタンと同一視される「世界の王」が統治し、陰から何世紀も人類を統治してきた秘密のヒエラルキーを率いる。

ヨーロッパ連合の誕生は、シナルキズムの中心概念でサン=ティーヴの理想図の一部である。シナルキズムに関する彼の処女作『東方への鍵』の最初のページにそれが表れている。サン=ティーヴによると、シナルキスト国家という一つの下で統一されるヨーロッパの必要性は世界規模の勢力としてのイスラムの興隆により誘発され、それが弱い、断片化した、物質主義者の西洋を脅かす。サン=ティーヴはイスラムに対する欧州キリスト教国家とイスラエル間の新たな同盟が間違いなくあるに違いないと主張した。

サン=ティーヴは、経済権限、司法権限、科学共同体を代表する3つの評議会で構成されるコーポラティスト政府のヨーロッパ連邦を予想した。その形而上的議院は構造全体を一つにまとめる。この政府の概念の一部として、サン=ティーヴはオカルトの秘密結社のために重要な役割に貢献した。それが神託を構成し舞台裏から政府を保護する。

サン=ティーヴの信奉者たちは、彼らのメンバーを設立予定である政治・経済機関のカギとなる役職に潜入させるという、さらに内密な手法を使うことを最終的に決定した。20世紀のフランス政治史の専門家リチャード・F・クイーゼルの言葉を借りれば、「イニシエートされたエリートによる世界政府」である。ゲラルド・ガルティエによるとシナルキズムはすべてのマルティニストとその世紀初頭のオカルティストに影響を与え、「疑うことなくパピュスのようなマルティニストの指導者は…、政治的事象の方向性に秘密裡に影響を与え、特にシナルキズムの概念の普及をしようとする野心があった。」

しかしながら1916年のパピュスの死亡は、政治への関与についてマルティニスト結社内での分裂という結果となった。ヴィクター・ブランチャード配下の活動家たちはフランス議会の下院の書記局の局長で、分離したマルティニストとシナルキスト結社の集団を形成した。それは1922年にシナルキズム中央委員会を設立し、前途有望な若い公務員と「大事業家ファミリーの若者」を引き込むために計画された。すぐにその委員会は議会法学主義を廃止し、それに代わりシナルキズムを置き換えることを目的とし、1930年にシナルキズム帝国運動(MSE)となった。

MSEはヨーロッパの統一のための活発な運動家として記憶されている、ヴィヴィアン・ポステロ・デュマスとジャンヌ・カヌードに率いられた。ポステロ・デュマスはフランスのオカルティスト、レネ・アドルフ・シュウォーラー・デ・リュビッツにより創設されたウォッチャーズのメンバーだった。ユダヤ人の母親より生まれたにもかかわらずデ・リュビッツと他の神智学協会のメンバーはオカルト右翼と反セム主義組織を形成するために関係を断った。彼はそれをレス・ヴィーヤ、つまりウォッチャーと呼び、若き日のルドルフ・ヘスもまたそこに所属していた。

ポステル・デュマスとカヌードの両者はサン=ティーヴの目的をフランスと統一されたヨーロッパのために実行した。またポステロ・デュマスは「ヒンドゥー教のカースト制度に相当する4つの階級」に基づくシナルキスト協定を著し、「大衆を階級別に分類することは自然であり伝統に則したものだ」と論じた。さらに上級の公職に潜入することで内部から国家を乗っ取ることを意味する「見えざる革命」、または「上方からの革命」のためのプログラムを開始する。この第一歩が「ヨーロッパ連合」を創設する前にフランスの主導権を握ることだった。

彼らのシナルキズムの重要な証言者は、ヘンリー・ミラー、サミュエル・ベケット、ジョン・グラスコ、クリストファー・ローグの著作群はもちろんのこと性愛文学を出版したオリンピア・プレスの設立者でパリの出版者モーリス・ギロディアスだった。ポステロ・デュマスとカヌードが統率し、赤いケープを羽織りブーツを履きテンプル騎士団のように装った集団をみると、「彼らは政治的意図を持ったシナルキズム的神智学者であり…、ヨーロッパ合衆国の議長であるクーデンホーフ・カレルギー卿とつながっていた…、とギロディアスは言われる。彼らの目的は汎ヨーロッパ政党を立ち上げ、スピリチャリストの概念の言いなりになる社会を、ヨーロッパで始め、全世界に制定することである。」

リチャード・ニコラウス・フォン・クーデンホーフ・カレルギー卿はオーストラリアの政治家、哲学者、ヨーロッパ統一の先駆者であり、またリュビッツのレス・ヴィーヤのメンバーでもあった。またクーデンホーフ・カレルギーの父親はシオニズムの生みの親、テオドール・ヘルツルの親友でもあった。クーデンホーフ・カレルギーは回顧録に次のように記した。

1924年初頭、私たちはルイス・デ・ロスチャイルド男爵からの要求を受けた。というのは、彼の友人の一人で、ハンブルグ出自のマックス・ウォーバーグが私の著書を読み、私たちにお目にかかりたいとのことだった。とても驚いたことに、この運動が最初の3年間を乗り切るためにウォーバーグは自ら金貨6万マルクを私たちに提供した…。私が今まで出会ってきた人物の中でもっとも威厳あり聡明な男の一人だったウォーバーグには、これらの運動への融資には原則があった。彼は全生涯を誠実に汎ヨーロッパに関心を持っていた。マックス・ウォーバーグは、私をポール・ウォーバーグと資本家バーナード・バルークに紹介するために、1925年の合衆国への旅程を準備した。

クーデンホーフ・カレルギーは民族共同体のドイツ国粋主義の理想を、共同社会的文化に基く包括的、混合民族的ヨーロッパ国家に置き換えることに骨を折った。一国の精神は、ニーチェ主義者の用語でいうところの「偉大なヨーロッパ人」で、たとえばアベ・ド・サン・ピエール、カント、ナポレオン、ジュゼッペ・マッチーニ、ヴィクトル・ユーゴ、ニーチェ自身である。またニーチェはナポレオンを超人の実例として頻繁に引き合いに出した。

クーデンホーフ・カレルギーがオットー・フォン・ハプスブルグ大公と汎ヨーロッパ連合(PEU)を共同設立したとき、サン=ティーヴによるシナルキスト・ヨーロッパ連合という理想が一連の政治的支配力を成し得たが、それはクーデンホーフ・カレルギーによるものだった。クーデンホーフ・カレルギーは彼の貴族の血統とエリート主義的観念をエンゲルベルト・ドルフース、クルト・シュシュニック、ウィンストン・チャーチル、シャルル・ド・ゴールのような政治家たちのそれと同一のものと考え、彼らと協力した。クーデンホーフ・カレルギーの運動は1926年のウィーンでその最初の議会が開かれた。1927年、フランス第三共和制の首相を11期務めたアリスティード・ブリアンは名誉大統領に選ばれた。参列している著名人はアルバート・アインシュタイン、トーマス・マン、ジグムンド・フロイト、コンラート・アデナウアー、ジョルジュ・ポンピデューが含まれた。

PEUに参加した最初の人物は、後のヒトラーのドイツ帝国経財相、円卓会議のメンバーでもあり、ヒトラーの奴隷労働者プログラムの事実上の立案者であるヒャルマル・シャハトだった。ドイツ生まれにもかかわらず、彼のフルネームはヒャルマル・ホレス・グリーリー・シャハトで、幼少期の一部をブルックリンで過ごしたため強力なウォール街のコネクションを維持した。シャハトは、彼の孫の一人の名付け親でもあるイングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンの親友だった。1933年から1939年にかけてモンタギュー・ノーマンはナチ政権への融資を計画するため個人的に何度もシャハトに会い、ロックフェラー、ウォーバーグ、ハリマンといったヒトラーの主要な支援者たちの戦略を導いた。

ヨーロッパ連合

ヨーロッパ連合は、ビルダーバーグ・グループの創設者の一人でもあるジョセフ・レティンガーによるヨーロッパ運動の創設により始まった。CIAに資金提供された超機密のビルダーバーグ会議は、「個人的かつ内密に互いに話し合える影響力のある人物たちの非公式ネットワーク」を拡大するために、世界のトップの実業家、政治家、諜報当局者を招待した。ビルダーバーグ会議の最初の年次総会は、ジョージ・ボール、ロックフェラー石油王朝の御曹司のデーヴィッド・ロックフェラー、ジョセフ・レティンガー博士、元SS幹部でIGファルベンの社員のオランダのベルンハルト殿下、米国外務省そして後にモービル・オイル社の上級役員ジョージ・C・マクギーを含めたグループで1954年5月に始まった。

またレティンガーはヨーロッパ評議会とヨーロッパ連合の設立へと先導したと思われるヨーロッパ運動の創設者でもあった。ウィンストン・チャーチル、アヴェレル・ハリマン、ポール・ヘンリー・スパークに誘導されたヨーロッパ運動を『誰が報いを受けるのか:CIAと文化的冷戦』でフランシス・ストーナー・サンダーズは説明するが、トム・ブラッデンが初代事務総長だったヨーロッパ連合における米国委員会と呼ばれるフロント組織を介して、入念にCIAに監視され資金提供されたという。

戦時中、クーデンホーフ・カレルギーはパリ—ロンドン枢軸国に沿ってヨーロッパ統合の要請と、映画カサブランカで架空のレジスタンス・ヒーローのヴィクター・ラズロに基く実生活を務める活動を継続した。彼のヨーロッパ統合への訴えは、アレン・ダレス、OSSの初代局長「ワイルド・ビル」・ドノヴァン、ウィンストン・チャーチルの支援を享受し、彼らは1930年からヨーロッパ統一を奨励しヨーロッパ議会を統轄した。チャーチルは『世界を制する概念』というカレルギー伯爵の著書に序文を寄せた。1947年、クーデンホーフ・カレルギーはヨーロッパ議会連邦(EPU)を設立し、それはハーグのヨーロッパ議会で顕著な役割を果たした。EPUは後にヨーロッパ運動と合流しクーデンホーフ・カレルギーは1952年にその名誉総長に選ばれた。

1949年、レティンガーは未来のCIA長官アレン・ダレス、CFR会長ジョージ・フランクリン、トム・ブラッデン、ウィリアム・ドノヴァンと協力してヨーロッパ連合のためのアメリカ委員会(ACUE)を組織した。「さらに後で」、レティンガーは「我々がヨーロッパ運動のための援助を必要としたときにはいつでも、ダレスは我々をもっとも助けてくれたアメリカの彼らの中にいた。」と述べた。アンブローズ・エヴァンス—プリットチャードと機密解除されたアメリカ政府の文書からの報告によると、「レティンガー、先見の明のあるロバート・シューマン、初代ベルギー首相ヘンリー・スパークといったヨーロッパ運動の指導者たちは全員、アメリカの支援者たちによる雇われ労働者と思われていた」。合衆国の役割は隠された作戦として上手く扱われることだった。ACUEの資金提供は、合衆国政府と密接に結びついた事業家集団はもちろんのことフォードとロックフェラー財団からも出ていた。

この「ヨーロッパ計画」そのものは1950年にフランス外相ロバート・シューマンのフランスと西ドイツは石炭と鉄鋼産業で協力することに同意するという発表で始まった。イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグは7年後のローマ条約に至るその参加要請に応じ、それがヨーロッパ経済共同体(EEC)を設立し、そこからヨーロッパ連合はその出自を辿る。

ロバート・シューマンは1958年のヨーロッパ議会の初代議長になった。しかしこの新しい組織の議長になったのは、この運動の背後で主要な影響力の高位権威と呼ばれたジャン・モネだった。当時モネは戦後のヨーロッパでもっとも影響力のある事業家兼経済学者だった。1936年、ヴィヴィアン・ポステロ・デュマはクーデンホーフ・カレルギーと共に、モネはシナルキスト・アジェンダの影響力のあるプロモーターだったと、ギロディアスに話した。ウルマンとアゼウのMSEの別の資料提供者は、「同運動の会員である真のシナーキーは…、真の入会者にとって決して疑わしいものではなかった」とモネを記述した。

必要不可欠な敵

シナルキストの計画だったヨーロッパ連合が現在の形態を取ったのはアレクサンドル・コジェーヴとジャン・モネの業績によるものだった。コジェーヴ(1902~1968年)はロシア生まれのフランス人哲学者であり政治家で、抽象派画家ヴァシーリー・カンディンスキーの甥だった。

フランス対外経済関係局で高い地位にあったコジェーヴはヨーロッパ連合と関税及び貿易に関する一般協定(GATT)の初期の立案者だった。彼はローマ条約の交渉でキープレイヤーの役割を果たしたオリヴァー・ワームザーと政治キャリアは確実に一貫した、より卓越したヨーロッパ連合の擁護者であり、1974年にフランス大統領となったヴァレリー・ジスカール・デスタンに多大な影響を及ぼした。

バーバラ・ボイドによると、コジェーヴは「普遍的ファシズムに染まっていただけでなく、20世紀のフランスでもっとも強力なファシスト・サークルの主要人物、シナルキストだった」。これらのサークルはカール・シュミット(1888~1985年)を含み、「第三帝国の最高法学者」として記述されている。シュミットはそのキャリアを通じて、戦時中ヒトラーの国家元帥でナチスドイツの主要なシナルキストだったヘルマン・ゲーリングの一貫した保護下にあった。1933年、彼はヘルマン・ゲーリングにより国家評議員に任命され、国家社会主義法学者同盟の会長となった。ベルリン大学の教授として彼はナチ独裁政権のイデオロギーの樹立という理論と、法哲学に関しては「総統」[訳注:ヒトラーのこと]の地位の正当化を示した。

マキャベリとメーストルの公然たる擁護者だったシュミットは、『力強く断固とした指導者が国家緊急事態を口実とした権力奪取という成熟した概念』という論文で全体主義的権力構造の出現を支持した。シュミットは国家が脅威に直面するとき、断固とした行動を取ることができるであろう「君主的独裁者」に言及した。事実上、国家緊急事態は妥当かつカリスマ的な指導者が主権者の決断を行使する具体的な敵国を前提とする。

またシュミットは必要不可欠な敵という教義を発展させた。シュミットは「政治」と呼ばれる、すべての大衆とはまったく異なる生活領域があると提案した。シュミットによると人間存在の個々の領域は、それ自体が持つ二元性という特定の形態がある:道徳では善と悪があり、経済では利益と債務があり、審美学では美しさと醜さがあるなどである。シュミットにとって「政治」とは「友好」と「敵対」という区別を基盤とする。衝突の可能性がある異なる集団、異なった利益を持つ集団という敵対者が存在する場所ならば、どこであっても政治は存在する。政治的活動により一般大衆を一体化させ戦時体制に持って行くことができ、その中で敵を認識させ立ち向かわさせる。

ブライアン・ターナーが『独裁制と緊急事態の政治理論・イスラムとアメリカの保守主義』で要約するように、

シュミットは、友好国と敵対国とのあいだの断固とした闘争という用語で定義することを主張し、そのような闘争がなければ、真の価値を守ることも維持することもできないであろう。より正確に述べるならば、権力は強力な道徳的生活の要旨を限定するため文明間の衝突を必然的に含む…。

政治的生活は国家主権なしでは生き残れす、国家主権は危機的状況においては効果的な決断を下すために指導者の能力に占められる。民主主義的討議や協議は、明瞭で確定されたヴィジョンで行動するために国家の指導者の能力を低下させるだけである。

ナチ党のメンバーの一人、シュミットはユダヤ人著者の書物を焚書にし、ユダヤ的思想に影響された著作家の書物を含めるため粛清のさらなる拡大を要求した当事者だった。1934年彼は、『指導者は法を定義する』と称する著書の中で「政治的正義の最高形態」とヒトラーの権威として、左翼と反ナチ指導者殺害を実行したナチ政権による粛清、長いナイフの夜の政治的殺害を正当化した。

シュミットがSSに好意を抱いたときシナルキストの後援でスペイン、ポルトガル、イタリアを旅行し、それらの国家のファシスト政府の正当性をいかに示すかについての講義を頻繁におこなった。1945年のアメリカ軍による彼の逮捕に続き、一年以上に渡り収容キャンプで過ごした後、シュミットは脱ナチス化のいかなる試みも拒否したが、それにより彼は事実上、学術界での地位を奪われた。学術界と政治共同体の主流派から孤立した状態であるにもかかわらず、彼は特に国際法の研究を続けた。

1950年からシュミットはコジェーヴを含め、定期的な訪問者を受け入れ、彼はコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』を編集した。ヘーゲルに関するコジェーヴの哲学講座は、「今世紀のフランスの知的ランドスケープを劇的に形作った」と思われている。コジェーヴにとってEECの創設はヨーロッパを世界国家の一例へと鍛造するというヘーゲル主義者の夢に具体的な形を与え、それが「歴史の早い段階での矛盾」の解決と「すべての人間の要求」を満たす能力を秘めている唯一のものと彼は考えた。

コジェーヴの世界国家というヴィジョンは、カール・マルクス、マルチン・ハイデガーの両思想の結合を基にしたヘーゲルの翻訳から展開した。直後、ヒトラーが権力の座に就き、ハイデガーは1933年にナチ党に入党し、第二次世界大戦終結に解党されるまでナチ党員だったが、彼の思想とナチズムの関係は依然として大いに議論の余地がある。なぜなら特に彼はいかなる明確な後悔の念を示していないようだからである。

コジェーヴはマルクスのように歴史を動かす人物を信じた。しかしながらヘーゲルの絶対精神を神と認識するヘーゲル右派とは違い、コジェーヴはそうではなく歴史は人間により形づくられるものと解釈するマルクスのヘーゲル主義的見解の伝統を固守するヘーゲル左派を信奉した。『アレクサンドル・コジェーヴ:ポストモダンの政治のルーツ』で歴史家シャディア・ドゥルリーは、コジェーヴの歴史観を解説し、ヘーゲルの弁証法のカバラ的基礎を暴く。

ヘーゲル右派の解釈に比べてコジェーヴは、神とは人間が自分自身を偶像化した投影にほかならないとみなすフォイエルバッハとマルクスを継承した。この見解では、人間と人間自身(神としての投影)のあいだの二元論は歴史的プロセスの中で超越される。「歴史の終焉」で人間は神を自分の創造主であると認識し、もはや自分自身から目を背けることをしない。なぜなら人間は自分自身と、もしくは自分自身の偶像化された自分の像と一つになるからである。そこで理解するのは、歴史とは人間自身が自分で作っている投影であることである。これがコジェーヴの解釈が頻繁に、「マルクス的ヒューマニズム」とみなされる理由である。

コジェーヴにとって革命の時代は終わった。歴史の終焉は1806年のナポレオンのイエナの戦争以来、長いあいだ鎮静化した。その時以来、世界の諸国家は同じ原則、希望、大志を共有してきたようだ。歴史としての異なった誤りであるイエナの戦い以来、すべては単にヨーロッパの前革命時代の過去という「時代錯誤の帰結」を解決することの問題だった。それにもかかわらずコジェーヴは、きわめて自然な終結として新しい普遍国家を認めない「病人」による抵抗が続くだろうと認識した。したがってコジェーヴは、最終国家または普遍国家は普遍的独裁者を要求すると主張した。

シャディア・ドゥルリーは「コジェーヴは、マルクスはもちろんのことハイデガーの目を通してヘーゲルを読むことでサルトルの著作により要約される、実存主義的マルクス主義として知られる奇妙な現象を生み出した」と説明する。コジェーヴはジャン・ポール・サルトルに、革命の必要不可欠な構成要素としてテロを特に強調することで感銘を与えた。歴史の終焉の成就は「闘争なしでは不可能である」と彼は述べた。コジェーヴはヘーゲルの弁証法を確立し、「奴隷」は「支配者」に打ち勝つために完全に死ぬ運命であることを意識する状態の上に、さらに命を懸けることで「自分自身に死の要素を導入しなければならない」と理解した。結果として、学者たちはコジェーヴを「歴史についてテロリストの発想」を持つとして解説した。コジェーヴが解説するように哲学者たちは因習により制約されることが少なく受容能力が大きく、もしくはテロかまたは「犯罪」と考えられるかも知れない他の手段に訴えている。もしそのような手段が終末願望を成就するのに効果的であるならばだが。

ネオコンサヴァティヴ[新保守派]

コジェーヴによるヘーゲルの歴史の終焉という概念は、後にフランシス・フクヤマにより発展し、それは「文明の衝突」という彼らの方程式、別名テロとの戦い、もしくはもっと正確を期すならイスラムとの戦いというアメリカのネオコンサヴァティヴ[訳注:以下ネオコンと記す]運動という狂信的シオニストの野望の基本原理となった。

ネオコンの世界観は、アレクサンドル・コジェーヴと終生交友関係を結んでいたドイツ系ユダヤ人政治哲学者レオ・シュトラウスにより呼び起こされた。シュトラウスは若かりし頃、政治的シオニストに改宗し、またマルチン・ハイデガーが教鞭を取っていたフライブルグ大学の講座に出席していたようである。ナチスの政権奪取によりシュトラウスはドイツに帰国しないことを選び、彼はキャリアのほとんどをロックフェラーが融資するシカゴ大学で政治科学の教授として過ごした。同大学はミルトン・フリードマン率いる新自由主義経済理論の要塞であるシカゴ学派として知られるようになった。

ナチの過去があるにもかかわらず、レオ・シュトラウスへ決定的な影響を与えたのはカール・シュミットだった。シュミットの大変前向きな言及が、シュトラウスがドイツを離れるための奨学金基金を勝ち取る一助となった。逆にシュトラウスの『政治の概念』の批判と解明はシュミットをその第二版で重要な校正をする気にさせた。シュトラウスは1932年にシュミット宛てに手紙をしたため、彼の政治理論の含蓄を下記のように要約した:

なぜならば人間は生来邪悪だからであり、したがって人間には支配が必要である。しかし支配は確立されるかもしれないが、それは人間たちが他の人間たちに敵対し敵対する統一でのみ結束されるかもしれない。人間たちすべての結束とは必然的に他の人間たちからの分離である…。それゆえ政治的合意はその国家の憲法原則や社会秩序ではなく、その国家の状況なのである。

コジェーヴとシュトラウスの両者はシュミットによる戦後の「復興」における主要な役割を果たした。1955年、コジェーヴはシュミットの紹介でデュッセルドルフの資本家グループに演説し、シュミットはコジェーヴとヒャルマル・シャハトとの個人的会合のセッティングをした。そしてシュトラウスは合衆国でのキャリアを通じて、パリのコジェーヴの下に研究のために主要な弟子を送った。たとえば、シュトラウスの最上級の被後見人の故アレン・ブルームは、コジェーヴのニーチェ的ファシスト信条を研究するため1953年からコジェーヴが死亡する1968年まで毎年パリに旅行した。ブルームはコジェーヴをもっとも偉大な教師の一人とみなしただろう。

シュトラウスにとってコジェーヴの歴史の終焉は近代のすべての過ちとその自由主義の価値の結果である。自由主義の過ちとは、人間の中の自然な階級秩序の必然性を認める古代人の知恵からはずれてきたということである。これがレオン・トロツキーの支持者をすっかり導いてきたシュトラウス信奉者たちの政治的スペクトラムを正反対の方向へ転換させ、プロ—シオニズムと組み合わせて新自由義経済を採用している「ネオコン」となった。

大事なことだが、自由主義が引き起こした60年代の社会的大変動はネオコンによる米国の自信と信頼の欠乏による「衰退」と理解された。したがって米国のアイデンティティの感覚を再活性化するために、ネオコンが「高貴な嘘」に頼る必要のあるシュトラウスの概念を手に入れた。彼らは米国が世界で唯一の「善」の源で支持されなければならず、さもなければ「悪」が跋扈するであろうとの神話を捏造したのだろう。

ニクソンが1974年に辞任に追い込まれた後、ネオコンはニクソンの後継者ジェラルド・フォード政権内の二人の右派と連携し、ソ連共産主義に対する強硬路線を採用するための口実としてテロリズムのエスカレートを利用した。その二人とは新たな国防総省長官のドナルド・ラムズフェルドとフォード顧問団長のディック・チェイニーだった。ニクソンがソヴィエト連邦との緊張緩和期間を開始した一方で、ラムズフェルドは合衆国の軍事防衛に匹敵するソ連のそれを打ち立てるという、ソヴィエトの「一貫した目的」について演説したことで今日まで古びたパラノイアを生き返らせた。CIAはこの主張を否定し、それらはまったくの作り話だと決定づけている。だかラムズフェルドは自分の地位をフォードが独立調査会を設定するように説得するのに利用し、彼は米国に陰からの脅迫があった証拠を強調した。この調査会はネオコン集団により運営されていたかもしれず、その中の一人がコジェーヴの門弟アラン・ブルームの私的後見人ポール・ウォルフォフィッツだ。

ネオコンの新戦略は、1992年にディック・チェイニーの防衛政策次官としてウォルフォフィッツが、ポスト冷戦時代の合衆国の戦略的優位性を概説した『防衛計画指針報告書』を著したとき、危険な領域に達し始めた。ニューヨークタイムズにリークされた文書は、多くの政治体制との軍事的衝突により合衆国のグローバルな優越性を確固たるものにすることを指示し、特に石油供給とイスラエルの保護を強調し、利益がどの地域にあろうともその利益を確保することを米国に要求した。

両著者によると、合衆国が国家軍事能力の強化により無類の軍事的優越性を達成するときだった。この同じ世界観は、アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)として知られる、あきらかに意図されたシンクタンクの創設で促進された。このプロジェクトの署名者にはディック・チェイニー、ドナルド・ラムズフェルドがおり、イラン—コントラ事件の役割について偽証罪が発覚したが、後にジョージ・H・W・ブッシュにより赦免されたウォルフォフィッツ、ダグラス・フェイス、リチャード・パール、エリオット・アブラムスのような主要なネオコンもいた。

特にPNACは中東の政治情勢に関係し、イスラム原理主義に対して西側の世俗的民主主義を闘わせるサミュエル・ハンチントンとフランシス・フクヤマが明確に述べた新しい論理的枠組みにより広範囲に形成された。ここまで見てきたように西側のリベラルな民主主義は、知性が進歩する世紀の勝利を象徴するヘーゲルの見解では、「歴史の終焉」である。フクヤマは1948年頃、コジェーヴの影響を強烈に受け、合衆国が歴史の終焉における経済生活のモデルであると考えた。冷戦が終結となるだいぶ前にコジェーヴは米国のソヴィエト連邦征服を予想したが、それは軍事的勝利ではなく経済的なそれを予想したものだった。

フクヤマの主張は、最終的に同じシナルキストの弁証法の向上だった。換言すれば、一つに結束した世俗的民主主義の到来で、「西側」文明の優越性がおそらく人類知性の進化の絶頂を表す、ということである。

私たちが目撃してきたかもしれないことは単なる冷戦の終結ではなく、またポスト冷戦の歴史の特殊な時期を経過したことでもなく、そうゆうものとしての歴史の終焉である。すなわち、人類のイデオロギー的進化段階の終結と、人間による政府の最終形態として西側のリベラルな民主主義の普遍化である。

フクヤマの主張に応じて、サミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」の概念を展開した。ハンチントンはイデオロギーの時代は終わりつつある一方で、世界は文化圏の間での摩擦により特徴づけられた問題という通常の状態にただ元に戻るだけであると考えた。彼の理論では未来における摩擦の主軸は、文化的宗教的ラインに沿ったものとなるだろうと論ずる。彼はそれは高水準の文化的イデオロギーとして、異なった文明同士であり、衝突する潜在的可能性を分析するのにますます役立つようになると示唆する。

2008年にフクヤマがワシントン・ポスト紙に断片的に意見を寄稿し、「今日の概念の世界における民主主義の唯一かつ真の競争相手は、過激なイスラム主義である」とした。しかしながらイスラム脅威の捏造は想像上のものであり、あきらかにさらなる極悪な政治的目的を隠したものだった。

ハンチントンの文明の衝突理論は、イスラム世界を西側が冷戦の数十年から引き継いできた戦略的交戦状態へ移行することを促進した。引き合いに出された共産主義の危険性とイスラムのそれとの類似性は、イスラム「脅威」の本質の分析を不要とし、きわめて異なった別の現実にとって脅威を懸念するよう設定された概念的ツールを、単に置き換えただけの幻想をワシントンの戦略プランナーに与えた。

ネオコン運動は、このレトリック的置き換えを引き起こす決定的役割を担った。それは緻密な政治的アジェンダへの貢献において、二十世紀末で米国の民主主義的モデルが浸透していない世界で唯一の地域である中東で、その拡大を目論み、サウジ石油王室との同盟よりイスラエル保護の優先権を与えるために中東地域で合衆国の政策を修正することで軽薄な考え方を設定した。

むしろ真実は、西側に本当の「民主主義」はない。4年ごとに投票するようにと言われてきた人々が安住する継続的独裁制はペテンであり、寡頭支配層が西側を構成していることを隠すために設計されたものである。産業の利益は彼らが共有するグローバリストの野望を追求するために その影響力を政府、メディアと教育システムへと利用する。ブライアン・ターナーの要約のように、「ハンチントン理論についての大衆向けの討論は、敵味方間の文明的紛争という観点から主権を定義することを求めた政治哲学、すなわちカール・シュミットとレオ・シュトラウスの遺産が、アカデミズム的伝統に知的に従属することをわかりにくくしてきた。」