・日本の原子力村はアメリカが全面核戦争の準備を進める過程で作り上げられた

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2011年10月1日 櫻井 春彦

【中曽根康弘】
 
アメリカ軍の内部で先制核攻撃の準備が始まる直前、日本では「原子力村」が産声を上げた。1954年3月2日、2億3500万円という原子力予算案が国会に提出されたのである。

その中心には当時35歳だった中曽根康弘がいた。予算案は修正を経て4月に可決されている。
 
言うまでもなく、こうした動きの背景には1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。日本に原子力村を建設することはアメリカ政府の政策だった。
 
1955年12月には藤岡由夫を団長とする調査団が欧米の原子力事情調査のため出発、翌年の3月に帰国しているが、その間に原子力基本法が成立、4月には通産省工業技術院に原子力課が新設され、経団連は「原子力平和利用懇談会」を発足させている。
 
しかし、日本には原子力発電に関する技術も必要な物質もない。そこで6月には日米原子力協定が締結され、アメリカから原子炉と濃縮ウランが提供されることになった。この協定によって原発を推進する目処が立ち、1956年1月に原子力委員会が設置される。初代委員長に選ばれたのは読売新聞社主の正力松太郎だ。
 
ここで、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。なぜ、中曽根が原子力村を建設する際、最初の鍬を入れたのだろうか?
 
1947年、28歳で衆議院議員に初当選した際には矢部貞治東大教授に推挙されたこともあり、全国5位の大量得票を得ているのだが、だからといって原子力予算案の提出には結びつかない。1956年には日ソ平和条約について「黙祷を捧げつつ承認を与える」と演説しているが、これとも結びつかない。アメリカ政府が中曽根を信頼する何らかの理由がほかにあるはずだ。
 
中曽根とアメリカとの関係を調べると、1950年6月の出来事が節目になっていると思わざるをえない。スイスで開かれるMRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席するために日本を飛び立っているのだ。この団体はアメリカの「疑似宗教団体」で、CIAと結びついていると言われ、日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維(みついたかすみ)らが参加していた。

そのMRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメン
バーと知り合うことにも成功、1953年にはキッシンジャーが責任者を務めていた「ハーバード国際セミナー」に参加している。セミナーのスポンサーにはロックフェラー財団やフォード財団、あるいはCIA系だと言われる「中東の友」も名を連ねていた。
 
キッシンジャーがセミナーの責任者に選ばれたのは1950年、ハーバード大学を卒業した直後のことなのだが、大学へ入る前、彼はCIC(対敵諜報部)の一員として活動している。
 
その当時、キッシンジャーは極秘機関OPC(政策調整局)と接触している。その仲立
ちをしたハーバード大学のウィリアム・エリオット教授はAMCOMLIB(ソ連人民解放アメリカ委員会)の幹部という顔を持ち、OPCのフランク・ウィズナーにアドバイスを提供したり、CIA系学生団体を監督し、政府の秘密機関へ学生を導いたりしていた。キッシンジャーの大学における足場を築いたのもこの人物だという。

【第五福竜丸の被曝】
 
中曽根たちによって日本へ原子力を持ち込む扉がこじ開けられたわけだが、原子力推進政策が順調に進んだわけではない。まず、原子力予算が提出される前日に大きな問題が持ち上がっている。
 
当時、アメリカは南太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆の実験を行っていたのだが、近くで操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」の船員23名が被曝したのである。漁船の乗組員はアメリカ側に傍受されることを恐れて日本との無線連絡を絶ち、3月14日に焼津港へ戻っている。広島と長崎に原爆を落とされから9年足らず、当時の日本人には反核感情が強く、漁船の被曝はそうした感情をさらに高めることになった。
 
こうした世論を「親核」へ転換させるために動いたのが読売新聞/日本テレビを経営していた元内務官僚の正力松太郎と彼の懐刀と言われた日本テレビ重役の柴田秀利。反核を親核へ転換させるためのプロパガンダを展開していくことになるのだが、その際に正力や柴田は「ダニエル・ワトソン」なる人物と接触している。
 
ワトソンはアメリカの心理戦に加わっていたとされているので、おそらく心理戦局に所属していたのだろう。心理戦局はCIA長官、国務次官、国防次官で構成され、大統領直属の部署だ。
 
結局、このプロパガンダは成功し、日本の政財官界は原子力政策を邁進することができた。

【核戦争計画】
 
1952年5月に自由党が明らかにした科学技術庁設立案には核兵器の開発研究も含まれていたようだが、当時、アメリカの場合はソ連に対する先制核攻撃が議論されている。この計画はウィンストン・チャーチル英首相のソ連に対する先制攻撃とも共鳴しあっている。
 
チャーチルは第2次世界大戦が終わる前からソ連に対する先制攻撃を目論み、JPS(合
同作戦本部)に計画の立案を命令している。そこで考え出されたのが「アンシンカブル作戦」だ。
 
イギリスの学者リチャード・オルドリッチによると、数十万人の米英軍が再武装したドイツ軍約一〇万人と連合して奇襲攻撃するという内容。ジャーナリストのステファン・ドリルによると7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。
 
5月8日にドイツ軍のアルフレート・ヨードル大将が降伏文書に署名し、その2週間
後、22日に計画はチャーチル首相へ提出されているのだが、この作戦は発動していない。実行できないとして、参謀本部が5月31日に計画を拒否したのだ。攻撃ではなく防衛に集中するべきだという判断だった。
 
1945年7月にチャーチルは首相の座を降り、この計画はとりあえず消えるのだが、アメリカでは逆の動きがあった。1945年4月、「反ファシスト」のフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、「反コミュニスト」へ政策が大きく変化していくのである。
 
日本がポツダム宣言を受諾すると通告してから約1カ月後、統合参謀本部では「必要なら」という条件付きで先制攻撃を行うことが決められた。この決定は「ピンチャー」という暗号名で呼ばれ、1946年6月に発効している。

この時点のアメリカに「全面核戦争」を行う能力はなかったが、数年で事態は大きく変化、1948年後半頃、「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」、1949年に出された統合参謀本部の研究報告では70個の原爆をソ連の標的に落とすという内容が盛り込まれていた。この戦争を戦うために特殊部隊のグリーン・ベレーが創設されている。
 
1955年頃になると、アメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ 、57年になると軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。マックルア将軍の計画は十分に実現可能な状態になった。当然、日米安保体制はアメリカのこうした核戦略に組み込まれている。
 
世間で「抑止力」という表現が使われるようになったのは、アメリカ軍の内部でソ連への先制核攻撃を準備しはじめた頃から。本心を隠すための嘘ということだ。この段階から核兵器は「攻撃力」であり、「抑止力」などではない。「核の傘」という表現も現実を反映しているとは言えないだろう。

【キューバ危機】
 
核戦争を実行する為には、核弾頭だけを持っていても仕方がない。「運搬手段」が必要なのである。当時、アメリカは戦略爆撃機で核爆弾を運び、投下する仕組みを作り上げていた。その雰囲気はスタンリー・キューブリックが監督した映画「博士の異常な愛情」で感じることができるだろう。
 
勿論、先制攻撃しても核兵器で反撃されることは防ぐ必要がある。当時のソ連を考えると、中距離ミサイルで攻撃するしかないのだが、ソ連本土からではアメリカ本土に届かない。アメリカの近くに核ミサイルを持ち込む必要があったわけだ。
 
そうした拠点として、ソ連やアメリカがキューバに目をつけたことは想像に難くない。アイゼンハワー政権の終盤、アメリカの軍や情報機関はキューバへの軍事侵攻を計画しているが、その理由もそこにあったのではないだろうか?
 
計画が進行中の1961年1月に大統領となったのはジョン・F・ケネディ。4月15日にまずキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にした。16日にはホワイトハウスで会議が開かれ、ディーン・ラスク国務長官やアーサー・シュレシンジャー大統領補佐官などの反対論は退けられ、ケネディ大統領は作戦を許可している。このときの重要な会議にアレン・ダレスCIA長官はなぜか欠席し、プエルト・リコで講演していた。

17日に1543名の侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みているが、この部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けていた亡命キューバ人だ。戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などとともに5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航し、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。

しかし、この作戦が成功する可能性は小さかった。事前に情報が漏れていたことを考えるだけでも、約2万人という言われるキューバ軍が手ぐすね引いて待ち受けていることは目に見えていたからである。おそらく、アメリカの好戦派もこうした展開を予想していたに違いない。その先には「アメリカ軍の介入」というシナリオが見える。
 
実際、侵攻作戦の失敗を受け、チャールズ・キャベルCIA副長官(当時)は航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言しているのだが、アメリカ軍の直接的な介入は大統領から却下された。その後、キャベル副長官はアレン・ダレス長官とともに解任されている。
 
ピッグス湾侵攻作戦から3カ月後の7月、ケネディ大統領は軍や情報機関の幹部からソ連を攻撃する計画について説明を受けている。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、1957年初頭にアメリカ軍はソ連に対する先制核攻撃の準備を開始している。
 
ケネディ大統領に対し、軍や情報機関の幹部がこの計画について説明、1963年の後半にはソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMを準備できると信じていたからである。

1962年になると、ソ連がキューバにミサイルを持ち込んでいる事実をアメリカはつかんだ。この年の8月に偵察機U2がキューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を発見し、9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認したのだ。

それだけでなく、ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明した。その当時、ソ連は中距離ミサイルのサイトを6カ所、また長距離ミサイルSS5のサイトを3カ所建設する予定だった。

こうしたソ連の動きに対し、10月22日にケネディ大統領はキューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。軍事的な緊張の度合いが急上昇していた27日、U2がキューバ上空で撃墜されるという出来事が起こったのである。ニューヨークにいたソ連の外交官たちは機密文書の処分を始めたという。核戦争の勃発を覚悟したということである。
 
同じ27日、シベリア上空ではU2をソ連のミグ戦闘機が要撃するという事態になっていた。核戦争の危機が迫っている最中、アメリカの戦略空軍はU2をソ連周辺に飛ばしていたのだ。そのうちの1機が北極からソ連領空に侵入し、ソ連のミグ戦闘機がスクランブル発進したのである。
 
事態の深刻さを認識したU2のパイロット、チャールズ・モールツビー少佐は司令部に
連絡、引き返すように命じられたため、アラスカへ向かう。この偵察機を護衛するため、アメリカ側はF102Aを離陸させ、アラスカではDEFCON3(通常より高度な防衛準備体制)が発令された。ベーリング海峡の上空を核武装した軍用機が飛び交うという緊迫した状況が生まれたのだ。幸いなことに、ミグよりもアメリカ軍機が早くU2を発見、無事帰還できた。
 
この事態を受け、ロバート・マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したのだが、
その後も別のU2がモールツビー少佐と同じコースを飛行している。一連の偵察飛行はアメリカによる核攻撃の準備だとソ連が考えても不思議ではない状況だ。
 
この日、カーティス・ルメイ空軍参謀長など統合参謀本部の強硬派は大統領に対し、すぐにソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたという。ルメイを含む軍事強硬派はソ連に核戦争を仕掛けるつもりだった。命令を無視してU2を飛ばしていた目的もそこにあったのだろう。
 
しかし、ケネディ大統領は話し合いで戦争を回避することに成功、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相は10月28日にミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されたのである。

翌年の4月にはフルシチョフ首相へ極秘で手紙を送り、その中でカリブ海で頻発しているソ連船への「民間の攻撃」を止めさせるとも伝えた。
 
こうした和平の流れに対抗するかのように、CIAの強硬派は秘密工作を展開する。例えば、ダイビング・スーツの内側に深刻な皮膚病を引き起こす細菌を塗り、呼吸器具に結核菌を付着させてカストロにプレゼントしようとしている。成功すれば、カストロの命とケネディ大統領の信頼を奪い、キューバとアメリカとの対話を不可能にできるはずだったのだが、すでにドノバンがダイビング・スーツをプレゼントした後だったため、実行されなかった。

【ノースウッズ作戦】
 
キューバ危機の直前、アメリカの好戦派はキューバを軍事侵攻する「偽装テロ作戦」を練り上げていた。「ノースウッズ作戦」である。アメリカの諸都市で「偽装テロ」を実行し、最終的には無線操縦の旅客機をキューバ近くで自爆させ、キューバ軍に撃墜されたように見せかけて、「反撃」という形で軍事侵攻しようというシナリオだ。
 
この作戦で中心的な役割を果たしていた人物はライマン・レムニッツァー統合参謀会議議長。作戦に関する文書は大半が破棄されたと言われているが、同議長が国防長官あてに作成した1962年3月13日付けの機密文書が残っていて、作戦の概略が説明されている。
 
こうした作戦の存在を知ったケネディ大統領は好戦派の排除を始める。すでにダレスなどCIAの幹部は処分していたが、今回はレムニッツァー議長の再任を拒否、NATO軍を指揮するSHAPE(欧州連合軍最高司令部)の司令官に据えている。ヨーロッパへ追放したわけである。
 
このレムニッツァーは日本とも関係がある。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めているのである。レムニッツァー長官時代の1956年6月に「プライス勧告」が公表された。この勧告の中で沖縄は制約なき核兵器基地として、アメリカの極東戦略の拠点として、日本やフィリピンの親米政権が倒れたときのよりどころとして位置づけられている。
 
この時期、アメリカの好戦派はソ連との核戦争をすでに想定していたはずで、プライス勧告には具体的な目的があったと考えるべきだろう。沖縄は間近に迫った核戦争の最前線基地として位置づけられていた可能性が高い。
 
この勧告が伝えられると沖縄の住民は激怒、「島ぐるみ闘争」が始まるのだが、それに対して民政府は琉球政府の比嘉秀平主席の更迭を含む事態収拾策を画策している。

そうした混乱の中、1956年10月25日に比嘉長官は55歳の若さで急死した。

【アジアの戦争】
 
中国ではアメリカの思惑に反し、国民党が敗北して共産党が勝利、1949年10月に中華人民共和国が成立した。その翌年、6月に始まったのが朝鮮戦争だ。
 
当時、アメリカの情報機関員として活動していた中島辰次郎によると、1948年の夏の時点で国民党軍の敗北を見通したOPCは秘密工作を始めている。中島が与えられた任務は人民解放軍が北京入りし、民衆の前に姿を現した時に首脳部を暗殺しろというもの。
 
暗殺による混乱に乗じ、偽装帰順していた傅作義の軍隊と済南に待機していた陳誠(蒋介石の片腕)の率いる国民党軍が武装蜂起し、人民解放軍を殲滅するというシナリオになっていたという。

しかし、この作戦は事前の情報が漏れて失敗、1950年初頭に暗殺計画は中止になる。

アメリカ政府の内部にも国民党の内部が腐敗していることを懸念する声があり、1949年8月には支援が打ち切られている。
 
共産党政権の誕生が決定的になるとOPCは上海から日本へアジア地区の拠点を移して
いる。日本全体で6カ所に拠点を作ったが、その中で中心的な存在は米海軍の厚木基地におかれた。OPCは1950年末までに日本で1000人以上を訓練、翌年に朝鮮でゲリラ活動を行っていた人数は約1200名、あるいは2000人以上だという。
 
1950年2月頃に中島も「マーシャル国務長官の命令で」、つまりOPCの任務で朝鮮半
島行きを命じられている。そして6月、朝鮮戦争が勃発した。この年の10月にOPCは形式上、CIAに吸収されるのだが、活動の中身に変化はない。朝鮮戦争が始まるとOPCのメンバーは302名から5954名へ、また年間予算は470万ドルから8200万ドルへ増えている。
 
おそらく、OPCにとって朝鮮戦争は中国との戦争の一場面にすぎない。1950年6月に
約2000名の国民党軍がCIAの軍事顧問団とともに中国領内に侵入し、一時は片馬(ケンマ)を占領している。
 
翌年の8月にも国民党軍は中国に侵攻、国境から約100キロメートルほど進んだが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わっている。CIAの描いたシナリオでは中国の民衆が「毛沢東打倒」を掲げて立ち上がることはなっていたようだが、そういうことは起こらなかった。1953年7月に朝鮮戦争が休戦になると国民党軍は東南アジアへ移動し、タイからミャンマー(ビルマ)に入っている。
 
朝鮮半島での戦闘がとりあえず終わると、新たな戦争の動きが出てくる。1954年1月にアレン・ダレスCIA長官の兄、ジョン・フォスター・ダレス国務長官がベトナムでのゲリラ戦を準備するようにNSC(国家安全保障会議)で提案したのだ。
 
それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、エドワード・ランズデール
がSMMの団長になる。この軍事派遣団は「北部地域の現地人に対する政治的、心理的、かつテロリスト的な活動を開始」した。

アメリカがインドシナで戦争を始めた理由として、希少金属や石油を狙っていたということも言われているが、対中国戦争の前線が朝鮮半島からインドシナ半島へ移動したとも考えられるだろう。
 
この時点でアメリカはまだ本格的な軍事介入には踏み切っていないが、同じ状態が長く続くとは考えていなかっただろう。ベトナムでの大規模な戦争を見通していたはずで、そうなると、沖縄は重要性な軍事的な拠点になる。ソ連との核戦争にしろ、ベトナムでの戦争にしろ、沖縄の軍事基地化はアメリカに取って急務だったはずだ。勿論、ベトナム戦争の先に中国との戦争があるなら、その先には社会主義圏との戦争も見通されていたことだろう。
 
日本がアメリカの核戦争計画に組み込まれたことを暗示する出来事があったのは原子力予算が可決される前年、1953年のことである。この年の春、厚木基地に核攻撃機AJが飛来、その半年後の10月には空母「オリスカニ」が横須賀に入港しているのだ。
 
この空母には核兵器を組み立てる能力があったが、1950年代の後半になると、厚木基地へ核爆弾の組み立てを担当する「MARTSAT(海兵隊戦術支援組立チーム)」も移動してきた。核戦争の準備が着々と進んでいたと言える。日本は核戦争の最前線基地になろうとしていた。

【JFK暗殺】
 
核戦争の危機を何とか回避したジョン・F・ケネディ大統領は1963年に入ると平和への意志を明確にしていく。この年の6月、アメリカン大学の卒業式で行った「平和の戦略」と呼ばれる演説は、そうした大統領の心情をよく表している。この演説でソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言したのだ。
 
当時の国防長官、ロバート・マクナマラの回顧録によると、暗殺の直前、大統領はアメリカ軍をベトナムから撤退させる決断をしている。10月11日に出されたNSAM(国家安全保障行動覚書)263では、アメリカ軍を撤退させることが明確に示されていた。
 
その直前、アメリカ軍の準機関紙「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」は10月4日付けの紙面で「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載しているのだが、実際にそうした動きがあったということである。
 
勿論、この決定は実行されない。11月22日、テキサス州ダラスで暗殺されたからである。11月26日にリンドン・ジョンソン新大統領が出したNSAM273と翌年3月26日付けのNASAM288によってケネディ大統領の撤退計画は取り消されてしまった。
 
ケネディ大統領暗殺については多くの研究者、ジャーナリストが調査を行ってきた。その大半はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行に懐疑的だ。もうひとつの暗殺計画に関しては語られることもほとんどない。
 
実は、1963年11月2日、大統領はシカゴを訪問する予定になっていたのだが、ここで
も暗殺計画があったことが判明している。この計画はシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補とFBIが情報を入手し、大統領のシカゴ訪問は中止になり、事なきを得ていたのだ。FBIが計画を察知したのは情報源からの通報によって。その情報源は「リー」と呼ばれていた。

ダラスで大統領が暗殺された翌日、CIAのジョン・マコーン長官はリンドン・ジョンソン大統領に対し、「国際的な陰謀」で殺されたとする説明を行っている。キューバとソ連が関与しているというわけだ。
 
25日にはFBIのJ・エドガー・フーバー長官に対し、CIAのリチャード・ヘルムズは電
話の盗聴記録について話している。ソ連とキューバから大統領を暗殺する支援を「オズワルド」が受けていることを示唆する内容だというものだったのだが、その「オズワルド」が偽者だということをFBIは独自の調査でつかんでいた。声も容姿も容疑者とされた本物のオズワルドとは別人だということである。
 
ジョンソン大統領がCIAの説明を信じたなら、キューバやソ連に対する報復攻撃という道を進む可能性もあったのだが、実際はそうならなかった。フーバーFBI長官がCIAの説明を否定したからである。FBIの説明をジョンソン大統領が信じたことで、全面核戦争は回避された。
 
ケネディ大統領が暗殺された翌年、1964年に興味深い映画が3作品、公開されている。まず1月にはスタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」、2月にはジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」、そして10月になるとシドニー・ルメット監督の「フェイルセイフ」。
 
3番目の作品はコンピュータのエラーでソ連を核攻撃してしまうというプロットだが、前の2作品は狂信的な軍人の暴走がテーマだ。フランケンハイマーの作品の場合、統合参謀本部議長らのクーデター計画は失敗に終わるが、キューブリックの作品は狂信的な空軍司令官によるソ連への核攻撃命令を止められず、ソ連の破局兵器を始動させてしまう。映画界も世界の危機的な状況を知っていたのだろう。

【核武装計画】
 
アメリカの好戦派が核戦争を始めるチャンスを逸した1964年、中国が初めて核実験を実施した。日本政府はこの出来事にすぐ反応、内部で核武装への道を模索する動きが具体的に出始めている。
 
NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した
佐藤首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。こうした日本側の発言に対し、ジョンソン政権は日本に対し、思いとどまるよう伝えたという。
 
また、1967年に訪米した際、佐藤首相は「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守ると言うことを期待したい」と求め、ジョンソン大統領は「私が大統領である限り、我々の約束は守る」と答えたという。ちなみに、「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」はこの年に設立されている。
 
日米の間でこうしたやりとりがあったわけだが、その一方で核武装の議論は政府内で続けられ、西ドイツ政府に秘密協議を申し入れている。1969年2月に開かれた両国の協議へ日本側から出席したのは国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調査課長だった村田良平。日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を歩もうと日本側はその席で主張したのだという。
 
この提案を西ドイツは拒否するが、それで日本側が核武装をあきらめることはなかっ
た。10年から15年の期間での核武装を想定、核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などについて調査した結果、技術的には容易に実現できるという結論に達している。
 
原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになっていた。この発電所で高純度のプルトニウムを年間100キログラム余り作れると見積もっていた。つまり、長崎に落とされた原爆を10個は作れるということになる。

【再処理工場】
 
東海発電所の原発はGCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で、原爆用のプルトニウ
ムを生産するには適していると言われている。アメリカやソ連はこの型の原子炉でプルトニウムを生産、原爆を製造している。
 
このほか、重水炉や高速炉でも原爆用のプルトニウムを作れるようだが、その高速炉の開発を目指していたのが動燃。「もんじゅ」と「常陽」が核兵器製造システムに組み込まれていると疑われても仕方がないと言える。こうした高速炉が機能していないのは結果にすぎず、日本の「エリート」たちが核武装を夢想しているかどうかとは別の話だ。常陽の燃料を供給していたのが臨界事故を起こしたJCOだった。
 
1977年になると、東海村の核燃料再処理工場(設計処理能力は年間210トン)が試運
転に入る。2006年までに1116トンを処理、その1パーセントのプルトニウムが生産されたとして10トン強、その1パーセントは誤差として認められるので、0.1トンになる。つまり、計算上、これだけのプルトニウムを「合法的」に隠し持つことができるということになる。
 
こうした日本の動きをアメリカは警戒するはずだと最初に指摘したのがジャーナリストで市民運動にも積極的に取り組んでいた山川暁夫。1978年6月に開かれた「科学技術振興対策特別委員会」で再処理工場の建設について、「核兵器への転化の可能性の問題が当然出てまいるわけであります」と発言している。アメリカ政府は見過ごさないと指摘したわけだ。
 
実際、当時のジミー・カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったと言われている。兵器級のプルトニウムを生産させないため、常陽のブランケットを外させたともいう。アメリカが疑惑を深めた一因は、「第二処理工場」を建設する際の条件だった「平和利用」が東海村の処理工場にはついていなかったことにもある。
 
日本が核武装を目指していると疑われている一因は、RETF(リサイクル機器試験施
設)の建設を計画したことにある。RETFとはプルトニウムを分離/抽出するための施設で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。
 
この施設には奇妙な点がある。アメリカ政府が東海村のRETFに移転した技術の中に
「機微な核技術」、例えば小型遠心抽出機などの軍事技術が含まれているのだ。この事実は、環境保護団体のグリーンピースからも指摘されている。
 
つまり、この段階になると、日本の核兵器開発にアメリカ政府が協力している疑いが出てきたのである。日本が進めていた「自主開発」を中止させ、アメリカの管理下で開発させようとしている疑いがあるということだ。日本の核武装をアメリカは自分たちの戦略に組み込んだ可能性も否定できない。


櫻井春彦
早稲田大学理工学部卒。米国の世界戦略と情報/破壊活動の関係をテーマに調査研究を続けている。「軍事研究」や「世界」でレポートを発表。著作は『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』(三一書房)と『アメリカ帝国はイランで墓穴を掘る』(洋泉社)