ブラック企業の狡猾さは一層進んでいる。「厚労省の『若者応援企業』に指定されており、働きやすい職場だとPRしていたのを信じてしまった」。あるIT企業を休職中の高口玲子(仮名、24)は悔やむ。
昨年12月から働き始めた高口の職種はSE。終業の定時は17時半だったが、実際は23時を過ぎることもザラだった。月給は18万円で、そこに40時間分の固定残業代が含まれる。ただし超過分について支払われることはなかった。「社長はそもそも残業代というシステムがおかしいと公言していた」(高口)。
結局高口は過労で適応障害となり休職に追い込まれたが、こうした会社が社員定着率の開示を求められる若者応援企業と公表できるのは、「最初の研修でどんなに苦しくても周りに相談してはならない、親も他人と思えと“洗脳”されるため、倒れるまで頑張ってしまう」(高口)ためだ。労働時間規制の適用除外、中でも新人までその対象にできるスマートワークが導入されたら、こうしたブラック企業の手法にお墨付きを与えることになりかねない。
「過労死等防止対策推進法案」を超党派の議員連盟で今国会に提出する動きとも方向感が異なっている。
競争力会議では労働時間規制の緩和と併せて、解雇の金銭解決制度が議論されているが、もしその狙いが「裁判所で不当解雇とされても、原職復帰ではなく補償金で終わらせたい」という点にあるなら、労働者への萎縮効果は計り知れない。
労働者に突然解雇を通告し、直ちに職場から締め出す「ロックアウト型普通解雇」を年1回のペースで実施している日本IBM。「査定で低評価を受けるとロックアウト解雇されかねない、との恐怖感が社内に蔓延している」と同社社員は語る。「上司は残業や休日出勤はきちんと申告するようにと言うが、それで低評価を受けてはたまらない。皆当たり前のようにサービス残業をしている。まったく物を言えぬ職場になった」とため息をつく。
生活者の日々の営みそのものである雇用の制度改革に当たっては、ひときわ慎重な制度設計が欠かせない。それを株価浮揚のための一手段として弄ぶようなことがあれば、この国のありようそのものをゆがめることになりかねない。
しかし現在の国会では、こうした長時間労働是正とは真逆の法案が審議され、可決されようとしているのをご存知だろうか。それが労働基準法改正案だ。
安倍政権は発足以来、「1億総活躍」「女性活躍」などの労働改革をスローガンとして掲げてきた。今年夏に発足した第三次安倍内閣でも「最大のチャレンジは“働き方改革”」として、今国会でその成立を目指す方針としている。9月2日には杉田官房副長官を室長に「働き方改革実現推進室」をもうけ、また有識会議「働き方実現会議」をスタートさせた。
しかしその内実はといえば、安倍首相がいう言葉とは真逆で、タダ働きを可能にする「残業代ゼロ」制度であり、「過労死促進」法案なのだ。
この問題について追及した『あなたを狙う「残業代ゼロ」制度』(昆弘見/新日本出版社)には、長時間労働や過労死などが全て労働者の自己責任となってしまうこの法案の危険性、そして安倍政権と財界の思惑が指摘されている。
「働いた時間ではなく、成果で賃金を払う」
安倍首相が長時間労働是正のためとしてぶち上げたのが「高度プロフェッショナル制度」だ。これは管理職の手前の年収1075万円を超える高度な専門知識が必要な労働者について、労働時間規定を「適用除外」するというもの。しかし、そこには大きな落とし穴が存在する。
〈特別の立場の人に限って適用除外としてきたこれまでの(労働基準法の)判断を変えて、管理監督者ではない、その一歩手前の労働者、安倍首相の表現をかりれば「専門性の高い仕事」の人に広げようとしているのが今回の改正案です。管理監督者になる手前の労働者は、どこの会社でも労働時間が長く、一番の働き手、働き盛りの層。その労働者たちを労働基準規制の対象外にする。そして、どんなに長時間働いても残業代を出さなくていい仕組みをつくろうということです〉
長時間労働是正と言いながら、残業代を支払わない。しかも何時間働くのか明確な取り決め規定もないため、経営者の思いのままに長時間働かされることになる。しかもそれは深夜や休日の割増賃金など全てが含まれるものだ。現行では労働時間規制が除外されている監督管理者でも、深夜などの割増賃金は支払われる。ところが、この法案では監督管理者でもない労働者が労働時間規制除外だけでなく、割増賃金も支払われなくなる。
また、現行の労働基準法は、長時間労働を規制し、企業が休日を確保することを義務付けている。これに違反した経営者には罰則規定もある。しかし、その罰則規定も今回の法案ではなくなっている。
〈労働者は、長時間労働から自分の身を守るよりどころを失ってしまいます。一方、経営者は、労働時間を管理する責任がなくなります。労働者が働きすぎて体をこわして働けなくなったり、「過労死」することがあっても、労働者の自己管理が悪かった、自己責任だと言い抜けることができるようになってしまいます〉
本書では改正法案を「過労死促進法案」と断じているが、その通りだろう。
もっとも、この改正法案は、「年収1075万円」「高度専門職」という条件がついているため、多くの国民は高収入の労働者だけの問題で、自分たちは関係ないと思うかもしれない。
だが、そこにも罠がある。もし今回の法案が通れば、それを突破口として将来、中堅サラリーマンや低賃金の労働者にも対象を押し広げていく可能性がきわめて高いのだ。
実際、労働者派遣法の場合、1986年の施行当初は、派遣可能業務が13に制限されたが、たった3カ月後に16業務に、そして96年には26業務に拡大、ついに現在では業務の分類さえなくなった。
そして今回の法案に関してもすでにその動きは現実化している、と同書はいう。
〈安倍首相は、(年収規定を)下げる可能性を否定していません。2014年6月16日衆議院決算行政監視委員会で民主党の山井和則議員が「5年後も10年後も1000万円から下がらないということでよろしいですか」と質問したことに、次のように答えています。
「経済というのは生き物ですから、将来の全体の賃金水準、そして物価水準というのは、これはなかなかわからないわけですよ。
そこで例えば年金においても、安定的な制度とするために、年金額も物価が下がっていけば、物価スライドでこれは下がっていくじゃないですか」(略)
導入するときはきびしい要件をつけて法律を通し、その後、要件が簡単に見直されて悪くなり、国民に大被害をもたらしている例はいっぱいあります〉
また「残業ゼロ」法案導入に積極的かつ重要な役割を果たした経団連の榊原 定征会長は「制度が適用される範囲をできるだけ広げてほしい。年収要件を緩和して、対象職種も広げていけない」と語り、経団連としてもすでに10年以上前の05年から「年収400万円以上」という適用範囲を要求しているほどだ。
さらに「高度専門職」の範囲や年収要件は、国会の議決が不要な省令で決定されるため、法案が一旦成立してしまえば、その要件が下がっていくであろうことは容易に想像できる。
年収400万円以上の労働者に、残業代も支払わず24時間働かせる──。ようするに、これこそがこの法案の本質なのだ。そして、その背後にはもちろん、財界の意向がある。
〈企業にとっていま何が問題かといえば、成果で評価する賃金制度をつくったとしても、現在の労働基準法のもとでは労働時間規制条項から逃れることはできないということです。労働時間を把握して健康管理に責任をもち、1日8時間を超えて働かせるために労使の協定(サブロク協定)を結んで労働基準監督署に届け出て、そして残業したら割増賃金を払わなければなりません。企業にとっては、わずらわしくてたまらないわけです〉
そこで、財界は安倍政権下の産業競争力会議で、議員をつとめる長谷川閑史経済同友会代表幹事(武田薬品工業社長)と榊原定征経団連会長(当時は東レ会長)、2つの経済団体トップが、残業代ゼロ法案をはたらきかけ始めた。
安倍政権はこうした財界の強い要望を受け、それを実現するため「働き方改革」「一億総活躍」などという耳障りキャッチフレーズをひねり出し、前述の有識者会議「働き方改革実現会議」を設立し、法案づくりにと歩みはじめた。
実際、同会議のメンバーを見ても、先の榊原経団連会長を筆頭に、りそなホールディングス人材サービス、イトーヨーカ堂、日本総研理事長、全国中小企業団体中央会会長、日本商工会議所会頭など、財界の幹部ばかりがずらりと顔を揃えている。
安倍首相は今月13日行われた第1回「働き方改革に関する総理と現場との意見交換会」で電通女性社員の過労自殺についてこう発言している。
「先般、電通の社員の方の過労死では、働き過ぎによって、貴い命を落とされたわけでございます。こうしたことは二度と起こってはならない、このように思っているわけでありますが、働く人の立場に立った働き方改革をしっかりと進めていきたいと、こう思います」
こうした詐欺師のような安倍首相の発言に決して騙されてはいけない。その行き着く先は、労働者が残業代ゼロという奴隷労働に駆り立てられ、過労死が続発する世界なのだから。