韓国キリスト教の巫俗化

近年の祈禱院においてみられる巫俗(シャーマニズム)化したキリスト教は、前述したような古代朝鮮の仙教と祈禱仏教が流入した、20世紀初頭の朝鮮キリスト教に由来するものであったと思われる。1970 年代以降、韓国のキリスト教界において「キリスト教の仏教私設庵子化運動」と称されるような「祈禱院運動」が発生してきた背景には、そうした宗教的伝統によって形成されてきた韓国の人々の意識形態が係わっていたと思われる[卓明煥 1974.9:50-59]。韓国の人々の宗教心の根底にあるのは、祈福信仰や接神に重きの置かれる巫俗信仰であり、神癒・恩賜・異言・預言・入神といった教会では叶えられない巫俗的要求の充足や神秘主義的接神体験を渇望する信徒達が、祈禱院に赴いて「祈禱院運動」に没入したことが、結果として韓国教会の復興を促し、聖霊の降臨を唱えるペンテコステ派キリスト教の急成長を成し遂げることになった。そして、そのようなキリスト教の巫俗化を促した 1970 年代の「祈禱院運動」が、シャーマン的女性牧会者が神癒を手がける「祈
禱院」の簇生につながっていったと思われる。

(4)第四期(1980 年代初頭~1990 年代後半):女性牧会者による神癒

女性院長の登場

汝矣島純福音中央教會に代表される韓国のペンテコステ教会は、同教会の趙鏞基牧師(Cho, Yong-Gi:1936~)のようなシャーマン的牧師による神癒を中心として、世界の宣教史上稀に見る驚異的急成長を成し遂げてきた[徐洸善 1984:9-232,渕上 1991:1-9,FUCHIGAMI:18-43]。1970 年代の韓国教会の急成長期にあって、神癒を担っていたのはそうしたシャーマン的な霊力を備えた大型教会の牧師達であった。ところが、ペンテコステ派キリスト教が韓国で急成長を遂げ、韓国教会が既成教団化してゆく 1980 年代にさしかかった頃から、教会周辺の「祈禱院」に「ハナニムから神癒の『能力(ヌンニョク)』を授かった」と語る女性達が出現し始め、それ以降、神癒の担い手が、教会の牧師から「祈禱院」の女性院長へと移ってゆくことになった[渕上 1993:118-119]。
その主な理由として、当時牧師達が教会で行っていた「鬼神祓い」(鬼神:怨恨を抱いた死者の霊や悪霊)による神癒が異端とみなされるケースが増え始め、そうした神癒を牧師達が敬遠するようになったことがあげられる。
1980 年代の初頭に教会の周辺に「祈禱院」が出現するようになったもうひとつの理由として、祈禱院を取り巻く当時の韓国の社会環境の変化が考えられる。前述した 1970 年代の韓国教会の復興期にあって、教会付属祈禱院の設立が相次いでいた頃は、人里離れた山中に祈禱院を建設するのが一般的であった。その一方で、1980 年代にさしかかった頃から、2010/10/15 宗文研懇話会10 ソウルを皮切りに都市交通網の整備が開始され、地下鉄の路線が拡張されてくると、立地条件のよい街中の方に祈禱院が開設されるようになり、雑居ビルの地下室、アパートやマンションの一室等、都会の雑踏にも「祈禱院」が目につくようになった[張운철 2004:
91-94]。都市周辺のこうした「祈禱院」の中には、「神癒福音祭壇」、「民族祭壇」、「救国祭壇」等を自称する、「祈禱祭壇」と称されていたものも見受けられた。神癒・入神・異言・預言を行うその類の「祈禱祭壇」は、当時名前が判っていたものだけでもソウルに 100 以上あったと推定されており[卓明煥 1975:33-34;1989:65,現代宗教社 1982:179]、それらの中から後に神癒に特化してゆく「祈禱院」が出現するようになった。
韓国教会の既成教団化に伴い、牧師が神癒から手を引くようになるのと時期を同じくして、教会の周辺で出現が相次ぐようになったこれらの「祈禱院」は、当初は、既存の教団や教会に所属していない私設神癒集団であった[卓明煥 1974.9:52;1975:34,1989:66,現代宗教社 1982:184,渕上 1993:118]。それらの「祈禱院」の院長の多くは、正規の神学教育を受けることなく[李玄 1883:318,閔경설 1994:99-103,許일찬
1994:93]、教団や教会の後ろ盾のない一牧会者として[卓明煥 1989:66]、あるいは既成教会の名目上の伝道師や勧士(クォンサ:年配の女性信者に与えられる一種の名誉職)として、「祈禱院」を公認する教会(15)とのゆるやかな協働関係の下で「神癒・恩賜集会」を開催して回っていた[渕上 1993:118-120;1994:232-253]。
こうした女性院長等が、教会の周辺で神癒の事役を行うようになった 1980 年代初頭から、韓国のキリスト教は「祈禱院」出現の第四期に入ってゆき、シャーマン的な女性院長による神癒が「祈禱院運動」の主軸をなしてゆくこととなった[渕上 1993:117-126]。
そういった「祈禱院」(16)が教会から公認されてゆくことによって、教団や教会に把握される祈禱院数(17)が大幅に伸びてゆき、1979 年は 123 であった祈禱院数(韓國福音文書研究會編『祈禱院住所録』掲載)が、1980 年には 253(基督教視聴覚研究所編『全國祈禱院住所録』掲載)に[李玄 1983:309]、1982 年には 285(1982 年 9月の國際宗教問題研究所の調査による)になり、1988 年の『クリスチャンライフ』誌に登録された祈禱院数は 374、1997 年の韓国国会報告資料に掲載された祈禱院数は 806 に達することとなった[盧봉옥 2000:70]。(参考までに、1998 年のセンサス集計による韓国のプロテスタント信徒数は 8,760,336 人(総人口比 19.7%)、教会数は 58,046、教団数は 168、教職者数は 98,905 人となっている[文化觀光部 1998:7])。
ハレルヤ祈禱院の「按手・按擦聖霊手術」 韓国のキリスト教史における第四期の「祈禱院」を代表するのは、1981 年 2 月にソウル市城北区で、金桂花(Kim,Gay-Hwa)院長牧師(後述)によって創立されたハレルヤ
祈禱院である[國際宗教問題研究所 2000:76-77,異端似而非対策委員会 2007:256-261](注:以下、金桂花氏の呼称を「院長」とする)。2010 年 10月現在、国内外に京畿道の抱川ハレルヤ祈禱院をはじめとする 8 か所の祈禱院支部、6 か所の地域教会、26の祈禱院傘下教会、ハレルヤ愛の家、ハレルヤ修養館、ハレルヤ禁食祈禱の家、ハレルヤ学舎の家、ハレルヤ考試院、ハレルヤ街の家、ハレルヤ天使の家、ハレルヤ所望の家、ハ2010/10/15 宗文研懇話会11 レルヤ幸福の家等の 24の祈禱院教育・福祉施設、ロサンゼルスを含む 28か所の集会地を保有し、12,000 人を超える教職者と信者を擁している同祈禱院は[國際宗教問題研究所2000:76,ハレルヤ祈禱院 HP(www.hallelu.net)]、韓国キリスト教界最大の単立祈禱院として今日までの「祈禱院運動」を牽引してきた。
ハレルヤ祈禱院の神癒集会は、ペンテコステ教会の復興會からその基本パターンを踏襲しており、復興會形式の礼拝に沿って、熱狂的雰囲気の中で金桂花院長の「神癒」が進められてゆく。同祈禱院の神癒集会では、骨髄炎、股関節異常、甲状腺喉癌、直腸癌、ヘルニア、瘤、腹水、皮膚病、火傷、交通事故の後遺症、子宮癌、リンパ腺腫瘍、肝癌、脳性麻痺、脳神経炎、脳腫瘍、喉癌等、ありとあらゆる不治の病や難病奇病が、金桂花院長の「按手・按擦聖霊手術」によって劇的に治療される。
ハレルヤ祈禱院の最大の支部である抱川ハレルヤ祈禱院には、1984 年 12月に同地から吹き出した、ハナニム(キリスト教の神)の神癒の力の漲る「能力の生水」という聖水が湧いており、水を汲んで帰る信徒達でいつもごったがえしている。同祈禱院の敷地内には禁食祈禱窟、各種の入院施設、運動施設等が立ち並んでいて、金桂花院長の神癒集会が行われない時も、(1990 年代当時)3,000 人を超える信徒や患者達が祈禱院に常住して信仰生活を送っている。また、ハレルヤ祈禱院には随所に人工的なキッチュが溢れているが、それらは同祈禱院の深層構造に組み込まれていて、病気を克服するための気力を患者等に植え付けている。
ハレルヤ祈禱院の各支部での「聖霊手術」を希望する者は、事前に 1カ月から 6カ月位祈禱院に「入院」して信仰生活を送り、気合いを入れて「聖霊手術」に臨まなければならない。同祈禱院への「入院」に際しては、既存の教会に信徒登録していなければならず、教会に登録しないと「聖霊手術」は受けられない(注(15)参照)。また、病院治療が可能な者は「聖霊手術」は受け付けないことが、同祈禱院の決まりとなっている。
ハレルヤ祈禱院の神癒集会に参加する者は、患者も観衆も前の晩から会場にこもって、徹夜祈禱に引き続いて早天祈禱を行う。神癒集会の開始時間が近づいてくると、金桂花院長の「聖霊手術」の前座として、同祈禱院専属の福音歌手による演歌調にアレンジされた福音聖歌や、パンソリ(韓国の伝統芸能)の節回しでの福音聖歌のメドレー、韓国の民族舞踊風の「聖霊舞」が始まる。前夜からの徹夜祈禱によるシャーマニスティックな忘我境の後の、しばらくの間のエンターティンメントが繰り広げられ、シャーマニスティックな霊的覚醒とエンターティンメントがセットになって礼拝に盛り込まれているというペンテコステ教会の特徴が、ここハレルヤ祈禱院においても見受けられる。しばしのエンターティンメントの後、会場が福音聖歌で盛り上がってきたところに金桂花院長が現れ、院長の祈禱でもって神癒集会の開始が告げられる。
神癒集会の礼拝は、ペンテコステ教会のそれと同様、復興會の形式に沿って福音聖歌の大合唱とエクスタティックな舞踏、通聲祈禱の繰り返しのうちに、熱狂的な雰囲気の中で進められてゆく。何百何千人もの信者が歌い踊り熱狂する中、病人が難病・奇病にむしばまれた患部を観衆の目の前に晒してステージに上がってくると、「按手・按擦聖霊手術」の始まりである。
派手なドレスを身にまとった金桂花院長が、信者達の福音聖歌の大合唱に合わせて踊り2010/10/15 宗文研懇話会12 ながら、病人の患部を力まかせに数回たたく。院長の手のひらには、目には見えないけれど聖霊の火が燃えていると言われる。院長の手のひらと病人の患部は、たちまち血で真っ赤になり、ステージは血の海となる。患者はこの間、どんなに痛くても絶対に痛いと言わないように言い渡されており、金桂花院長から「聖霊手術」をほどこされる間中、「アーメン!ハレルヤ!!」、「アボジ(天にいまします我らの父)、ありがとう!」と絶叫し続けなければならない。「アーメン!ハレルヤ!」と叫んで笑うと痛くないとのことで、笑う者は癒され、笑っている間に病魔が消え失せてゆき、笑いと喜びのうちに多くの患者の霊的問題が解決される奇蹟が起こる。金桂花院長の手のひらが当たった所から患者の体に穴があき、そこから患者の体をむしばんでいた病巣が血の塊となって体外に取り出され、観衆に血の塊が披露される。長年治らなかった難病・奇病が、神癒の奇蹟でこの瞬間に治ったことを金桂花院長が観衆に告げ、場内は興奮のるつぼと化す。後日、この患者は、神癒集会時にハレルヤ祈禱院の「聖霊手術」によって病気が治ったことの証しを行うことになる。
金桂花院長によれば、「聖霊手術」の成敗(18)は、その人の信仰心にかかっている。病気を治す瞬間だけハナニムを信じても駄目で、御言葉が継続的にその人に植え付けられていかなければ、完治したものも途中で駄目になる。ハナニムに対する信仰心が足りなかったり、手術に対して疑いを持っていたりすると、「聖霊手術」で取りだしたはずの病巣が元の所に戻ったり、さらには「聖霊手術」成功後に死んだりすることもあるという[渕上 1993:119-121;1997:165-177]。
金桂花院長の半生と「祈禱院運動」 ハレルヤ祈禱院の金桂花院長の「聖霊手術」は、1980年代から 1990 年代にかけて隆盛を極めた第四期「祈禱院」の神癒の代表格となって、韓国キリスト教の「祈禱院運動」の一時代を築いてきた。金桂花院長がハナニムから「聖霊手術」の「神癒の恩賜」を授かるまでの信仰歴は、ハレルヤ祈禱院での証しにおいて語られてきた同院長の生活史とともにあざなわれてきた[金桂花 1989:18-151;1992]。
金桂花院長は 1947 年に大韓民国全羅北道沃溝郡に生まれ[國際宗教問題研究所2000:76-77]、23 歳の時(報告者注:1970 年)、現在ハレルヤ祈禱院の執事の職に就いている李仁柱氏のもとに嫁いで行き、夫の故郷である忠清道のオトンニ村で結婚生活を送っていた。金桂花院長夫婦は取り嫁取り婿で、婚家での人間関係はうまくいっていたが、いつになっても胎氣(妊娠の兆候)が訪れないことを、金桂花院長は常々気に病んでいた。
李家は代々跡取りに恵まれない家系で、姑は子供を産めず、そのうえ舅が後継ぎを得るための後妻を何人迎えても誰も妊娠しなかったため、甥である金桂花院長の夫を養子に迎えて家を継がせた。そのため、嫁である金桂花院長に対する跡取り出産への期待は、結婚当初から大変なものであった。
金桂花院長は元々イエス・キリストを信じる人間ではなく、木魚の音と線香のにおいの中で少女時代を過ごし、圓佛教(韓国の新宗教教団)の中学・高校を出て、仏教修練過程を修了していた[現代宗教社 1983:68]。結婚後、夫の生母が教会の勧士(クォンサ:前述)であったことにより、義母が奉仕するオトンニ教会の日曜礼拝に退屈しのぎに夫と2010/10/15 宗文研懇話会13一緒に出席していたが、金桂花院長はその頃はキリスト教には別に関心はなく、いつもひやかし半分で教会に行っていただけだった。
結婚して 2 年、3 年と経っても依然妊娠の気配がなく、焦りが生じて、結婚 3 年目のある日の早天祈禱会の折に、金桂花院長はオトンニ教会に子授け祈願に行き、「ハナニム・アボジ!、子供を授けてくれるのですか!、どうなのですか!」と詰めよった。ハナニムから「應答(ウンダプ)」があるかどうか考える余裕もなく、ただ無茶苦茶に叫んだだけの祈禱が聞き入れてもらえ、金桂花院長に待ちに待った胎氣が訪れた。夫の仕事の関係で妊娠3・4 ヶ月目にソウルに引っ越した後、金桂花院長は玉のような男児を出産し(注:1973
年)、また続けて女児を 2人産んで、一家で幸せな日々を過ごしていた。
ところが、待ちに待った子供で自分の人生の全てであった息子が 7 歳の時(注:1980年)、煮えたぎる湯の釜に落ちて大火傷を負い、金桂花院長の全人生が転覆した。金桂花院長は、この時はまだハナニムを知らなかった。苦しがる息子を抱えて病院を転々とし、ありとあらゆる手を尽くしたにも拘らず、火傷をした所からばい菌が入って破傷風になって敗血症にかかってしまい、25日間苦しんだ末に息子は死んでしまった。跡取り息子を死なせたことで、親類縁者等から責め立てられた金桂花院長は、自分も死ななければならないと気も狂わんばかりに嘆き悲しんでいた。
息子を埋めて 15 日たった時のこと、金桂花院長は、自分でも知らないうちに、どうした訳か腕利きの巫堂(ムダン:韓国のシャーマン)の家に行っていた。その巫堂から、「お宅には死者が 3人いる。お宅で初喪(チョサン:折れ口、人の死に目)が 3回起こる」と言われた。息子が死んだとなると、あと 2人は誰だろうか。息子が煮え湯に落ちる 1ヶ月前に舅が死んでいたので、あと 1人ということになるが、死ぬのは一家の主であるとのことだった。となると今度は夫が死ぬことになり、息子を失くした上夫も失い、三代続けて跡取りが死ぬことになる。何とか厄を逃れることはできないものかと、金桂花院長が巫堂にすがったところ、藁でかかしをこしらえて川の水に浮かべ、服を着せて焼いて船を流し、どこかへ行ってクッ(韓国巫俗の巫儀)をしなければならないとのことであった。その費用として当時のお金で 50 万ウォン必要で、契約金として巫堂に 5 万ウォンを支払わねばならなかった。夫を失うことを思えばお金にはかえられなかったし、またそれまで息子の命を救いたい一心で、一回の治療に何 10 万ウォンというお金をはたき続けてきて金銭感覚が麻痺していたので、5万ウォン位は何ともなかった。
金桂花院長がお金を取りに家に帰ったところ、壁にイエス様の肖像画がかかっていた。
「イエス様が私を見つめている!」。目を疑って肖像画をもう一度見たら、確かにイエス様が金桂花院長を見つめていて、ふたつの目が生きていて動いていた。
これ以上耐えられず、巫堂の家に走ってゆき巫堂に怒鳴った。騙されたと思った。巫堂に鬼神(クウィシン:この世に怨恨を抱いたまま死んだ者の霊)を怒らせると大ごとだと言われたが、子供を失った今となってはこれ以上の不幸はあるものかと思って、巫堂の言うことを聞き入れなかった。
息子が死んで 1ヶ月経ったとき、今度こそ死のうと思って、金桂花院長が薬を飲もうとした瞬間、天から大きな声が聞こえてきた。
「お前は何が欲しいんだ!」。金桂花院長がハナニムと出会った瞬間のことだった。何も2010/10/15 宗文研懇話会14 見えないけれど、確かに大きな声が聞こえてきた。自分でも知らないうちに、「赤ちゃんが欲しい!」という答えが口を突いて出てきた。その瞬間、「ここにある!」という声と一緒に手の中に色々な産着が降ってきた。金桂花院長の心の中に、なんとも言い様のない喜びが湧いてきた。「他に欲しい物はないか!」「これで十分です」 「そんなことはない」と天の声が言った。「私がお前に大きな喜びをあげよう!」という声と一緒に天から大きな袋が投下され、金桂花院長の目の前に落ちてきた。中を見ると拳のように大きななつめが一杯入っていた。そのなつめの袋がころころ転がって行くので、転がる方について行ったら、なつめの袋は門の中に入っていった。金桂花院長がその中に入ってみると、何だかこの世のものではない、こうこうとまばゆいばかりに輝く光に満ちあふれていた。なつめの袋を服の中にしまうと、その瞬間から言葉では言い表せない喜びが湧いてきた。
翌日、昨夜のなつめの袋が何だったのか、金桂花院長がハナニムに聞いてみると、「結婚するとき舅姑がなつめを投げてくれただろう。子供をたくさん産めということだ。これからは福音で霊の子供をたくさん産め」ということだった。伝道者の使命が与えられ、痛くないように診察し治療する仕事を金桂花院長に任せようということだった。
それからというもの、ハナニムから授かった「神癒の能力」による奇蹟の病気治しに明け暮れる日々が始まる。金桂花院長の「神癒祈禱」と按手により、病める人々がたちまち癒され、噂を聞きつけた人々が押し掛けて来て、金桂花院長は「伝道師」と呼ばれるようになる。ところがそれまで一番の理解者であった夫から、最愛の息子を失って気が狂ったとそしられ、次第に夫と気まずくなってゆくが、自分はハナニムの僕であるという一念で病気治しに専念する。
金桂花院長の「神癒」の方法は、それまで基本的にはイエス・キリストの御名による神癒祈禱と按手であったが、ある時、「お前は鍼治療ができるではないか。」というハナニムの声が聞こえてきた。その声の意味は翌日わかった。近所の婦人が、食もたれを治すおばさんの家を教えて欲しいと言って院長の所にやってきた。金桂花院長はその家のことをよく知っており、自分でも時々利用していて多くの人に紹介していた。鍼治療に関しては、以前ちょっと金儲けでもしてみようかと思って、鍼の専門学校に一日か二日通っただけであったが、その時、我知らず、鍼をうってあげるからいらっしゃいと言っていた。鍼をうつごとに心の中で「アーメン!」と叫んで祈禱していた。すると 10 年患っていた食もたれが治っており、思わぬことから鍼による福音の伝播が始まった。
金桂花院長は、患者の手をとって祈禱をすると何の病気かがわかるというハナニムの恩賜をたまわった。肝臓癌、胃癌、脳癌、骨髄癌等の各種の癌、パーキンソン氏病、ウィルソン氏病、筋肉無力症、各種の皮膚病等々医学博士も顔負けするほどだった。
ハナニムは伝道する金桂花院長にさらなる知恵と恩賜を与えてくれた。透視の恩賜で伝道する相手に祈禱をすると、その人に関して知らなければならないことがわかるようになった。透視の能力を駆使して病気を治す院長を、人々は巫堂(韓国の降神巫)にたとえた。
金桂花院長が鍼をさす度に「アーメン!」と言うように患者に指示し、主を迎接する心の扉を開いてゆく。鍼を全部さすと聖書を開く。聖書の御言葉が入ると治療の効果があらわれる…。2010/10/15 宗文研懇話会15 ハナニムは金桂花院長の信仰心をいろいろなことで試してみながら、その度に院長に新たな「神癒の恩賜」を与えた。鍼による「神癒の恩賜」を金桂花院長に与えたハナニムは、続いて院長のハナニムに対する従順、そして謙遜を試しながら金桂花院長を鍛え上げ、「神癒」の基礎を固めてくれた。いろいろ試されるなかで、何よりも大切なものが愛だった。患者に愛情がもてるかどうか試されてから、金桂花院長に「神癒の能力(ヌンニョク)」が与えられた。
金桂花院長が神癒集會を開いていた時、半身不随の 50 歳の中風病患者が連れて来られた。その患者たるや糞尿にまみれた生きる屍も同然で、とても人間とは思えなかった。患者を見つめる金桂花院長の胸は、ハナニムの限りない哀れみと涙で一杯になった。金桂花院長は患者を手厚く介護し、祈禱をして患者を送りだした。それからまた、金桂花院長の所に中風患者が連れて来られた。患者を見つめていたところ、金桂花院長は突然患者の足に手を当てていた。その瞬間、「あっ、熱い」と言って患者が院長の手を払いのけた。金桂花院長の手に火がついた時のことだった。患者の足が黒く焼けていた。
「これは誰の技ですか?主よ、あなたは誰ですか?」
「私はイエス。汝のために十字架にかかって血を流したイエスだ。」
その日より、ハナニムから金桂花院長に患者の病巣の塊を取り出す「聖霊手術」の火が与えられた。金桂花院長の按手を受けた所に、ありとあらゆる病気の要素が集まってきて血となって溢れ出て、病気のもとが塊となって出てくる奇蹟が起こった。「神癒」を始めて8年目にして(注:1989 年)、ハナニムが金桂花院長に聞かせてくれ、見せてくれ、知らしめてくれた「聖霊手術」の恩賜であった[渕上 1993:121-126]。
金桂花院長の神癒歴を同院長の生活史に照らして跡づけてみると、金桂花院長がハレルヤ祈禱院を創立し、ハナニムから「神癒の能力」が与えられて「聖霊手術」を手がけるようになったいきさつには、韓国のキリスト教が巫俗等の民俗宗教や他の伝統宗教と習合し、シャーマニズム化していった過程が集約されていることがうかがわれる。そして、金桂花院長がキリスト教徒になっていった過程には、韓国の女性に対する儒教規範の圧迫、院長の婚家での二度にわたる父系血統の断絶、韓国におけるキリスト教と祖先崇拝の相克、キリスト教信仰と巫俗信仰との葛藤、巫堂との確執、巫堂との絶縁とハナニムへの帰依、韓国の民間療法から「神癒」への転換、「神癒祈禱」から「聖霊手術」の「神癒の能力(ヌンニョク)」へといった、いわば朝鮮時代から現代までの韓国の民俗宗教とキリスト教の流れが集約されているのが見て取れる。金桂花院長が主の導きを受けた 1980 年、「祈禱院」の第四の時代が幕を開け、「祈禱院運動」が新たな段階に入って行こうとしていたと思われる。

ハレルヤ祈禱院の行路

1981 年 2 月に金桂花院長が「神癒の役事」を開始して以来、ハレルヤ祈禱院は教勢拡大を遂げ続け、本節の冒頭で述べたような莫大な資産を有する巨大組織に膨れ上がっていった。ハレルヤ祈禱院での「神癒」を続ける傍ら、金桂花院長は 1986 年に全羅北道全州市内のイエス教長老會(聯合側)総會神學校を卒業し、1997 年に牧師按手を受けて「院長牧師」となった。だがその間も、韓国のキリスト教界ではハレルヤ祈禱院の「神癒」に対2010/10/15 宗文研懇話会16 する疑念が絶えず、1991 年にイエス教高神側が、1993 年に統合側が、各々の総会で同祈禱院を「不健全祈禱院」と規定して、ハレルヤ祈禱院の集会への参与禁止令を議決した。
そして 2000 年 12月 4日、韓國基督教総聯合會が同日付けでハレルヤ祈禱院を異端と規定するにいたった[國際宗教問題研究所 2000:77-78]。
金桂花院長が「神癒の事役」を開始してから今日に至るまで、ハレルヤ祈禱院に対しては、キリスト教界のみならずマスコミからも度々疑惑が提起されてきた。1993 年 3 月に韓国文化放送局の『PD手帳』が同祈禱院での梅毒感染疑惑を報じた「MBC事件」を始めとする数々の紛争によって、マスコミとハレルヤ祈禱院との対立が深まっていき、1997年に金桂花院長の親戚の元使命者によって、ハレルヤ祈禱院の内幕を暴いた告発本が刊行
されるに及んだ[金정희 1997:23-199]。キリスト教界とマスコミからの絶えざる批判の中で、牧師按手を受け、1997年にはれて「牧師」となった金桂花院長は、自身に対する批判勢力を封じ込め、ハレルヤ祈禱院を「教会」に発展させることを目論んで、1998 年10月に「ハレルヤ総会」という教団組織を設立し、自らの権力と財力を結集して、全国各地の系列教会を同総会の傘下に組み入れていった[ハレルヤ祈禱院 HP(同上)2010:祈禱院沿革]。
ハレルヤ祈禱院に対する世間の批判に抗して、これまで自身が手に入れてきた地位と権力を武器に、ひたすら祈禱院の教勢拡大を図ってきた金桂花院長であったが、いつしかその「神癒の能力」には陰りが見え始めていた。1990 年代後半以降の韓国の本格的な経済発展によって、ハレルヤ祈禱院の設立当初とは比較にならないほど医療保険制度が発達した結果、「神癒」全般に対する社会の関心が低下してゆくこととなった。また、韓国が現在よりもはるかに貧しかった 1980 年代当時、ハレルヤ祈禱院が非公式に担っていた、病人、老人、障害者等の社会的弱者の「収容所」としての役割が、韓国社会が豊かになった今となってはもう通用しなくなり、同祈禱院に対する社会の目は一段と厳しいものになっている。金桂花院長の代名詞であった「聖霊手術」に、今ではかつてのような霊力は見られなくなっており、「神癒の能力」を取り戻そうと図る金桂花院長が、1990 年代末より済州島の巫堂のところに密かに通い始めていたことも判ってきた[金정희 1997:31-34]。
教派間のあくなき対立や際限のない教団の分裂等、これまで「祈禱院」と連携してきた教会を取り巻くキリスト教界の構造的問題点が浮き彫りになり、韓国のキリスト教の教勢が頭打ちになっている現在、第四期「祈禱院運動」は終りにさしかかっており、「祈禱院」の全盛時代を築いたハレルヤ祈禱院の「神癒」も、終焉の日を迎えようとしているようである。

おわりに:キリスト教の土着化と「祈禱院運動」

本報告において、韓民族の激動の歴史を背景に韓国・朝鮮のキリスト教史に出現してきた「祈禱院」の変遷過程を、「祈禱院運動」を担ったキリスト者の人生に関わってきた諸宗教の考察を交えて跡づけてきた。同国のキリスト教史において、「祈禱院」の出現は何を意味しており、「祈禱院運動」は韓国・朝鮮のキリスト教のどのような性格を示唆してきたのであろうか。2010/10/15 宗文研懇話会17 「祈禱院」とは、韓国・朝鮮のキリスト教の神とされる「ハナニム」に導かれた者の霊感を通して、同国のキリスト教の中にその姿を現してきたものであった。韓国・朝鮮のキリスト教史において「祈禱院」で生じてきたことは、後日にあっても同国のキリスト教の周辺で、絶え間なく繰り返されていることである。また「祈禱院運動」には、キリスト教が韓国に定着してゆく過程で直面する問題が、異端キリスト教、似而非新興宗教(カルト)、さらにはシャーマニズム化するキリスト教に集約されて示されており、それらの行き着く先が暗示されているように思われる。1970 年代に「韓国教会の宣教奇蹟」と謳われたペンテコステ教会の驚異的復興が実現された後、危険な異端の臭いが漂い、とかく怪しげな似而非新興宗教のイメージがつきまとっていた「祈禱院」が、1980 年代に教会の周辺で異端キリスト教を思わせる「神癒」となって再び生起し、隆盛を極めたことをどのように理解すべきであろうか。神秘主義的異端キリスト教も、北朝鮮由来の似而非新興宗教も、はてはシャーマニズム化するキリスト教も、それらのすべてが、韓国の地にキリスト教が土着化していく過程で直面せざるを得ない宿命のようなものなのであろうか。
韓国のキリスト教は、激動の民族史を背景に、朝鮮民族の民俗宗教をひきずりながら、「祈禱院」をフロンティアとしてその信仰形態を作り上げてきた。韓国のキリスト教が今なお引きずっている問題も、今後直面する事態も、キリスト教のフロンティアである「祈禱院」において先取りされ、再現されてゆくものと思われる。



(1) 朝鮮にプロテスタントが伝来したのは 1885 年であったが、異端キリスト教が発生し
始めたのは 1910 年代に入ってからのことであった。それ以降、朝鮮キリスト教史に
現れてくる異端キリスト教には、①1910 年から 1920 年代までの、教権主義に対する
反発として現れたもの、②本稿で取り上げる、1930 年代の神秘主義運動として現れた
もの、③異端キリスト教への転換をもくろむ偽のキリスト教の三つの類型が見られる
[姜문석・金일천 1991:142]。
(2) 日本を意識する宗教学者のグループを除けば、韓国では一般に日本でいう「新宗教」
は「新興宗教」と称されており、カルト宗教という意味の込められた「似而非(サイ
ビ)宗教」の名で呼ばれることもある。
(3) 朝鮮の地にキリスト教が伝来したのは、カトリックが 1784 年、プロテスタントが
1885 年のことであった[柳東植 1975:年表,趙載國 1998:200-201]。本報告で
韓国のキリスト教史を取り上げるにあたって、朝鮮時代と日本植民地時代のキリスト
教にも議論が及んでくる。本報告では、日本植民地時代のこと、および朝鮮時代から
解放後の韓国に至る歴史的・文化的な概念を指す場合は「朝鮮」としている。
(4) 韓国のシャーマニズムは現地の固有語では「巫俗(ムソク)」というが、アメリカ人2010/10/15 宗文研懇話会
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宣教師のアンダーウッド(Horance G. Underwood,1859~1916)が、1910 年に“The
Religion of Eastern Asia”の第 3章において、巫俗信仰のことを「シャーマニズム」
(‘The Shamanism of Korea’)と称したのが、朝鮮巫俗がシャーマニズムと言われ
るようになった端緒であるという[崔吉城 1978:137-138]。
(5) 1933 年、文鮮明が 10 代の頃、「血分け教」の始祖李龍道の「イエス教會」に出入り
していた[卓明煥 1992:52]。黄國柱の弟子の中に、後に文鮮明の弟子となった女
性信者の丁得恩等がいた[卓明煥 1986:103]。
(6) 「祈禱院」の初期の名称は、「祈禱處」、「修養館」、「祈禱團」、「修道院」といい、そこ
では木の根や岩等の自然物のそばに小屋を立てて祈禱生活を営む信徒達の姿が見られ
た。そうした祈禱場として、日本植民地時代の 1920 年代に北朝鮮地域にあった「山城
祈禱處」、「金剛山祈禱處」、「オゴドン祈禱處」等が有名であった[盧봉옥 2005:44,47]。
(7) ソウルの北漢山系に連なる三角山には、キリスト教、仏教、巫俗、新興宗教等、諸宗
教の修行場がひしめきあっている。三角山は朝鮮新興宗教のメッカである忠清南道の
鶏龍山に例えられて、「ソウルの鶏龍山」とも言われており、「血分け教」の開祖の黄
國柱が 1930 年代に「祈禱院」を構えた山としても知られている[卓明煥 1974b:
215;1974.9:51;1975:27;1986:102;1989.7:56]。三角山には 1969 年の時点
で 37 の祈禱院があったと報告されており、現在でも多数の教会付属祈禱院や私設祈
禱院が存在する、ソウル地域の祈禱院のメッカとなっている[卓明煥 1989:56-67]。
(8) 「血分け教」で豚の頭を拝み、巫女(韓国のシャーマン)と雑神(巫俗で祭られる神々)
を祭る、「血分け師」が仏教に帰依し、大刹を巡訪し仏陀に誠心を捧げ、萬神(巫女の
尊称)に師事する、「御成婚」と称した「冥婚」を行う等々[卓明煥 1978a;1978b]。
(9) 國際宗教問題研究所が設立年代別に韓国内の祈禱院数を調査したところ、1945 年以
前に設立されたものは 2、1945 年~1955 年のものは 2、1956 年~1965 年のものは
49、1966 年~1975 年のものは 146、1982 年のものは 289で、1989 年現在の韓国内
の祈禱院数は 360に達していた[現代宗教社 1982.10:176,卓明煥 1989:58-59]。
(10) 1975年の祈禱院数は新興宗教問題研究所の調査によるもの、1978 年の祈禱院数は当
時の韓国内務部の祈禱院寺刹庵寺調査資料によるもの、1983 年の祈禱院数は『1989
年教會住所録』の付録の祈禱院一覧表を参考にしたものである[卓明煥 1989:57]。
(11) その他の代表的なものとして、ソウル永楽教会の永楽祈禱院、大聖教會の大聖修養館、
ソウル中央教会のエルサレム祈禱院、城北教會のハンオル山祈禱院等がある。
(12) キリスト教が朝鮮に伝来した時、中国を通して入ってきたカトリックは漢字語で「天2010/10/15 宗文研懇話会
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主教」と翻訳され、キリスト教の神は、朝鮮民族が古来より信じ続けてきた天神を意
味する「ハヌニム」という語に訳された。それから百年後にプロテスタントが伝来し
た時、キリスト教の神がハングルの固有語である「ハナニム」という言葉に訳され、
朝鮮民族の古来からの神観念が唯一神であるキリストを受容する素地となって、朝鮮
の地にキリスト教が受け入れられていった。朝鮮民族の伝統宗教がキリスト教によっ
て新しく蘇り、キリスト教が民族の伝統宗教につながっていく契機となったのである
[柳東植 1987:52]。
(13) 禁食(断食)祈禱をすると、速達を受け取るごとく「應答(ウンダプ)」が速く得ら
れると考えられている[金상수 2004:79]。
(14) 査經會とは聖書研究会を兼ねた一種のリバイバル・ミーティングで、聖書の一節を暗
誦し復唱してゆくうちにリバイバルの熱狂に導かれる[琴章泰・柳東植 1986:218]。
(15) こうした教会には、祈禱院と協力して登録信者を獲得することを目論む大韓イエス教
長老會の群小教会が多い。また信徒の中にも、祈禱院に通いたいがためにこうした群
小教会に便宜的に登録している者がみられる。1998 年現在、韓国のプロテスタント
には 168 の教団と 58,046 の教会があり[文化観光部 1998:7]、教団間の対立故
にキリスト教界全体を統括する機構が不在となっている。そうした中で、祈禱院を教
勢拡張に利用するために問題のある所をも公認する教会があっても、それらの末端の
教会にまで教団の監視の目が行き届かないといった韓国のキリスト教界の構造的な
問題が、「不健全祈禱院」を生みだす原因になっている[月刊牧會編集部1984:22-37]。
(16) ハレルヤ祈禱院の他、そうした祈禱院(所在地、創立年)として、太白祈禱院(現
「所願の港」祈禱院、江原道寧月郡、1978 年)、大福祈禱院(慶州市、1990 年)、
大邱ミラル祈禱院(大邱市、1993 年)、サランの祈禱院(ソウル市東大門区、1991
年)、世界神癒福音宣教会(京畿道光明市、1989 年)等がある[渕上 1994:232-253,
國際宗教問題研究所 2000:75-85,張운철 2004:90-94,具수현 2004:87-88]。
(17) 韓国の現行法には、祈禱院の設立に際しての申告制度や登録制度が存在しておらず、
国内に現存するすべての祈禱院を把握することは事実上不可能である。現在公式に
把握されていない祈禱院まで含めると、その数は 1,000 を超えると推定されている
[盧봉옥 2005:44,51]。
(18) 報告者が 1989 年から 1997 年にかけて抱川ハレルヤ祈禱院で「聖霊手術」を受けた
人達の追跡調査を行ったところ、その大半が手術後数か月以内に再発するか死亡して
いた。なお極少数ながら「聖霊手術」によって治った者も、女装癖がつく等のアブノ
ーマルとなって、病気が治ったら祈禱院から一生出られなくなることが明らかになっ
た[渕上 1997:165-177]。2010/10/15 宗文研懇話会
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