・韓国のペンテコステリズムにおける「祈禱院運動」の展開
南山宗教文化研究所懇話会 2010.10.15.(金)
―キリスト教土着化論の考察―
報告:渕上恭子(Fuchigami Kyoko)
※はじめに―「祈禱院」とは何か
韓国のキリスト教界には、キリスト教を掲げてはいるが、教会でも教団でもない、「祈禱院(기도원:キドウォン)」と称される信仰集団がある。「祈禱院」は、韓国・朝鮮のプロテスタントの 120余年にわたる歴史の中で、教会の周辺に断続的に出現しながら独自の信仰形態を形成し、神秘主義的異端キリスト教(1)、北朝鮮起源の新興宗教(2)、ペンテコステ教会の祈禱場、シャーマン的女性牧会者による神癒を指し示すものへと変貌を遂げて今日に至っている。本報告において、韓国・朝鮮のキリスト教史に出現してきた「祈禱院」の類型を整理し、それらの「祈禱院」から発生してきた信仰運動が、韓国へのキリスト教の定着(土着化)をどのように方向づけてきたか考察してゆきたい。
1.韓国キリスト教の信仰形態の形成―大復興會運動と「祈禱院運動」
朝鮮(3)の地にプロテスタントが伝来したのは 1885 年のことであった(注:キリスト教が朝鮮に伝来して以来、カトリックは「天主教」、プロテスタントは「改新教」と呼び慣わされてきたが、今日に至ってプロテスタントは「基督教(キドッキョ)」と称されるようになった。これに倣って本報告では、プロテスタントを「キリスト教」と表記している)。
朝鮮のキリスト教史にあって、民族の受難の歴史を背景に、熱烈なリバイバル運動が展開されてきた背後で、「祈禱院」において神秘主義に傾倒した異端キリスト教が出現してきた。
朝鮮キリスト教史の表舞台で、民族の霊的救済を訴えるリバイバルの炎が燃え上がっていた一方で、「祈禱」では、亡国の不安と鬱憤を内向させながら、朝鮮の民俗宗教と巫俗信仰(シャーマニズム)(4)がくすぶり続けていた。
韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。2010/10/15 宗文研懇話会2
2.韓国のキリスト教史における「祈禱院」の変遷
朝鮮時代も含めた韓国のプロテスタントの 120 余年の歴史において、「祈禱院」が出現してきた時期は 4回見受けられ、各々の時期によってその類型が移り変わってきているのが見て取れる。
「祈禱院」が出現した第一期は、1930 年代の朝鮮において神秘主義的キリスト教の流れをくむ信仰運動が起こった時期で、後の韓国のキリスト教系新興宗教のルーツにあたる「血分け教」の開祖として知られる、李龍道・黄國柱といった復興師達が現れた時期であった。
「祈禱院」の出現がみられた第二期は、1950 年代、朝鮮動乱によって北のキリスト教徒が南へ下り、韓国で北朝鮮起源のキリスト教系新興宗教が群生した時期であった。
「祈禱院」が出現してきた第三期は、1970 年代、ペンテコステ派キリスト教が韓国で急成長を遂げて空前の教会復興が成し遂げられ、信徒達の心霊復興のための道場として、教会付属の祈禱院が設立された時期であった。
そして「祈禱院」出現の第四期となったのが、1980 年代初頭から 1990 年代後半にかけて、ペンテコステ教会の周辺にシャーマン的女性院長が神癒を手がける「祈禱院」が簇生した時期であった。
韓末期から今日に至るまで、朝鮮民族の伝統宗教や民俗宗教が「祈禱院」にどのように投影されて、韓国キリスト教の信仰形態が形成されてきたのか。「祈禱院」から発生してきた「祈禱院運動」と称される信仰運動は、韓国・朝鮮の地へのキリスト教の土着化にあたって、いかなる問題が生じることを示唆してきたのか。韓国のキリスト教史における「祈禱院」の変貌の足跡を辿りながら探ってゆきたい。
(1)第一期(1930 年代):神秘主義的異端キリスト教
1930 年代、日本の植民地支配下で国権が失われ、朝鮮教会が存亡の危機に瀕していた時、平壌を本拠地として、朝鮮キリスト教史における「祈禱院」のはしりとなる、忘我状態に至る神人合一の法悦を説く神秘主義的キリスト教が出現してきた。それは李龍道、黄國柱といった復興師等によって創始された、「血分け教」と言われる異端キリスト教で[정행업1999:106-108]、両者の門下生であった「血分け師」(5)を介して、後の韓国のキリスト教系新興宗教に繰り返し出現してくることになった。
朝鮮のキリスト教史における「祈禱院運動」の出発点となったのは、1907 年に平壌の教会から起こった大復興會運動であったと考えられている。1907 年、朝鮮長老派の父と仰がれる吉善宙牧師をリーダーとして、平壌を中心に大復興會運動が起こり、リバイバルの波が朝鮮全土に波及していった。この大復興會運動は、亡国の渦中にあって絶望に打ちひしがれた民衆に、黙示録的な希望と力を与えた終末論的な信仰運動であった。
この 1907 年の第一のリバイバル運動に次いで、1930 年、メソジストの若い牧師である李龍道をリーダーとして全国的なリバイバル運動が起こった[閔庚培 1991:337-343,金동수 1994:78-79]。この第二のリバイバルは、神秘主義に基づいた愛の実践を称揚する信仰運動で、いつ終わるとも知れない植民地支配の下で生き延びている民衆が教会の中2010/10/15 宗文研懇話会3 に安住の場を求めたのに対して、既存の教会を批判し、超越的神との神秘的合一と隣人への愛を訴えようとした運動であった。李龍道の率いたこのリバイバルは、朝鮮教会の土着化の実験となるはずの信仰運動であった。だがそれは、朝鮮キリスト教史における「祈禱院」の源流となる異端キリスト教となった。
「血分け教」の元祖李龍道(Lee,Yong-Do:1901~1933)は、1901 年に黄海道の琴川郡に生まれたメゾジストの牧師で、苦難を受けたキリストの姿に従って、三一独立運動以降三度も投獄され、肺病で死に瀕しながら全国に伝道に赴いて、教派の別なく復興會を催して回った著名な復興師(リバイバリスト)であった[金光洙 1978:161-170,宋吉燮 1980:215-250,柳東植 1982:120-132;1987:100;1993:229-238]。1928 年、李龍道は奇岩絶壁の幾重にも折り重なる金剛山麓のペクチョン峰に登って入山修練し、10日間にわたる断食祈禱を行った末に、大いなる「能力(ヌンニョク)」を得てリバイバル運動を主導し始めた。復興會を通して李龍道は「イエスに狂え」と主張し、当時の朝鮮キリスト教界から「熱狂主義者」と呼ばれた。
李龍道は山中祈禱の折にイエスとひとつになるという神秘体験を得て、神との霊的合一という神秘主義の境地を、新郎に対する新婦の性愛という比喩で語った。神との愛の融合を通じての主との「血管的連結」を「血分け」と説くようになった李龍道は、自らをキリストと同一視するに至り、キリストの化身である自分との合一、即ち「霊體交換」を説くようになった[閔庚培 1975:152,姜문석・金일천 1991:314]。こうして李龍道は、朝鮮における「血分け教」の開祖となって、数名の信奉者とともに「平壌祈禱團」(6)を結成し、1932 年にその聖なる教会として同祈禱團を前身とする「イエス教會」を創設した[國際宗教問題研究所2000:17-29]。接神女劉明花が、「イエス曰く、龍道よ、汝が我の教會を建てよ」との神言を、憑依状態のうちに語ったのに従ってのことであった[閔庚培1972:291-294;1975:153;1993:440-442,卓明煥 1986:99,姜문석・金일천 1991:32,陳부생 1996:261-268,魚춘수 2009:165-179:194-198]。
李龍道の信仰運動は土着教団を生み出したほど強力なものであったが、当時の既存の教会からは異端視された。長老派の拠点であった黄海老會は、1932 年に禁足令を出して李龍道を処罰し、平壌教會もまた李龍道の復興會を断罪した。1933 年、李龍道は自らが所属していたメソジスト教會からも休職処分を言い渡され、同年 10月、持病の肺病により 33歳の若さで孤高に声をあげつつ世を去って行った[閔庚培 1972:287-294;1975:148-154;1993:434-444,南永煥 1988:185-197]。
1930 年代の平壌で「血分け教」を開いたもう一人の元祖に黄國柱(Hwang, Kuk-Ju:生没年不詳)がいた[金南植 1987:105-111,金동수 1994:80,陳부생 1996:269-272,崔중현 1999:103-136,魚춘수 2009:206-210]。北朝鮮の黄海道に生まれ、1935 年前後に間島(朝鮮と中国が国境を接している中国東北地区)に移民して行った黄國柱は、百日祈禱を通じて髭を長く伸ばし、イエスのように髪を長く伸ばしてうろつき回っては、「我こそはイエスの化身である」と説いて回った[金光洙 1978:171-173]。黄國柱は、自身の体にはイエス・キリストの血が分けもたれており、首もキリストのものと取り換えたと異言を語った。黄國柱が図們江を渡って間島から平壌へ姿を現すと、イエスの化身を一目見ようと無数の群衆が集まってきた。後に黄國柱がソウルへ向かうと、彼につき従っ2010/10/15 宗文研懇話会4 て来る者が、家庭を捨ててきた人妻や水腫をわずらった未婚の女性等60人にもおよんだ。
1930 年代後半、黄國柱はソウルの三角山(7)に「祈禱院」を作り[閔庚培 1982:296,異端似而非対策委員会 2007:114-119]、「血分け」、「首換え」を教理として「霊體交換」を行った[閔庚培 1982:399,卓明煥 1986:102,國際宗教問題研究所 2000:30-35]。
黄國柱の「血分け教」は、その後も 1940 年代の中頃まで勢力を誇り続けていた[閔庚培1972:295-300;1993:445-448]。
李龍道・黄國柱の信仰運動は、多くの醜聞を残しながらも、後の韓国のキリスト教系新興宗教のひとつの系譜となっている[南永煥 1988:198-200]。「血分け教」の流れをくむ新興宗教集団は、1945 年の解放後南へ下って行ったが、その後も韓国キリスト教の周辺に断続的に現れては、巫俗信仰の断片をその秘儀の中に散りばめた「血分け」儀式(8)を再現し[卓明煥 1978a;1978b]、「血分け教」の再生をはかっている。世界基督教統一神霊協会のルーツはこの時代の「祈禱院」に遡るものである。
(2)第二期(1950 年代):北朝鮮起源の新興宗教
1945 年の解放による、36年間におよんだ日本の植民地支配からの独立の喜びも束の間、1950 年 6月、今度は同胞相撃つ悲惨な朝鮮戦争が勃発する。1953年 7月、人類史上最も悲惨な戦争のひとつと言われる朝鮮戦争が終結したが、国土は荒廃を極め、不安と窮乏のただ中で人々は廃墟の町をさまよっていた。既存の秩序は爆撃された市街地のように崩壊し、荒廃だけが人々を支配した。このような社会の混乱はキリスト教会にも及んだ。荒廃した社会の秩序再建の支柱となるべき教会は分裂を繰り返し、無条件に独裁政権の支持に回った。混乱極まる社会に生きながら宗教的救いを求める民衆と、無能化した教会との断層から、復興師と呼ばれる一部牧師と平信徒によるリバイバリスムが沸き起こり、国の隅々にまで復興會運動がおよんでいった。
このような復興會運動を背景に、「祈禱院運動」呼ばれる 1950 年代の新興宗教集団の簇生が始まるのであるが、この時期に出現した「祈禱院」として、1954 年に羅雲夢長老(Na,Un-Mong:1914~)によって創立された龍門山祈禱院と[金동수 1994:80,國際宗教問題研究所 2000:80-81,李進亀 2008:74-103,魚춘수 2009:226-230]、1955 年に朴泰善(Park, Tae-Sun:1917~)によって設立された傳道館があげられる[柳東植 1987:144,姜문석・金일천 1991:197,金동수 1994:82-83,國際宗教問題研究所 2000:113-116,魚춘수 2009:231-235]。
龍門山祈禱院の設立者羅雲夢は、1914 年に現在の北朝鮮の平安北道博川に生まれ、日本、満州、シベリアを転々として帰国した後、1940 年に慶尚北道金川の龍門山に入山した。羅雲夢は元々仏教徒であったが、キリスト教に改宗した後に 1945 年の解放をむかえ、ソウルへ上京して長老となった。朝鮮戦争時、羅雲夢長老は共産軍に逮捕され危うく死ぬところだったが、九死に一生を得て生き残った。その後、羅雲夢長老はイエス・キリストにすべてを捧げ、修道生活を通して入神・異言・預言・幻想・震動・神癒等のありとあらゆる神秘体験を得るようになった。羅雲夢長老の説教は多くの病者を癒し、その集会時には多くの信者に入神と異言の恩賜が現れた。龍門山祈禱院は現在も龍門山下に 38 の分院を有2010/10/15 宗文研懇話会5 しており、韓国内の祈禱院数の約 3分の 2を占める龍門山系と呼ばれる祈禱院の系列を形づくっている[國際宗教問題研究所 2000:81]。
龍門山祈禱院は、その神秘主義的教理の故に韓国のキリスト教界では異端視される向きもあるものの、キリスト教的民族主義の精神が認められ、1970 年代以降の韓国キリスト教の復興につながる「祈禱院運動」として一応の評価を得てきた[卓明煥 1989:61,李進亀 2008:75-78]。だが、朴泰善派の方は、同時期に出現した世界基督教統一神霊協会等、先述の「血分け教」の流れをくむ韓国の新興宗教集団と関係しあうことになる[朱瑛欽 1975:132-136,金명희 1987:363-367,異端似而非対策委員会 2007:222-246]。
1950 年代には、朝鮮戦争の勃発によって北から南へ流れていった多数の「失郷民」が生み出されたが、このことは韓国のキリスト教界の教勢地図を大きく塗り替えることになった。解放前の朝鮮におけるキリスト教の拠点は、かつて東洋のエルサレムと言われていた平壌を擁する平安道であった。当時の平壌は、市内に数十メートルおきに教会が立ち並び、日曜日ともなれば街全体が教会の鐘の音でうずもれるほどであった。だが、朝鮮動乱後の南北分断により、北のキリスト教徒が南へ渡ってくることとなったため、解放時には 20万人であった韓国のプロテスタント信徒数は、1953 年の朝鮮戦争の終結時までに 50万人に急増した。韓国のキリスト教は南北分断の時が教勢拡大の一つのピークになっているが、それは、解放以前は北の側にあった朝鮮キリスト教の拠点が失われ、北に集中していたキリスト教徒が南へ流れてきたという民族の受難の歴史によるものであった。
この時期に出現した「祈禱院」には、このような南北分断が影を落としている。1945年の解放当時、平壌の神霊集団の一員であった丁得恩が、「南へ行って伝道せよ」という啓示を受けて韓国に渡り、1953 年、李龍道・黄國柱の神秘主義に傾倒した新興宗教集団の大聖心祈禱院を開いた。この大聖心祈禱院もまた、後に「血分け教」の新興宗教の群れに身を投じることになり[朱瑛欽 1975:132-136,國際宗教問題研究所 2000:48-54]、南北分断を境に、北を拠点としていた朝鮮の新興宗教も南へと流れてくることになった。
朝鮮動乱の終結後も「4.19」、「5.16」事件等の政治的混乱が続く中、1956 年から 1965年にかけて韓国全土で 49 の祈禱院(9)が出現した[卓明煥 1974a:319]。さらに 1966年から 1975 年の間に 146 に上る祈禱院が出現し、その数は 1975 年の時点で韓国内に存在していた祈禱院数の 69%を占めるものとなった[卓明煥 1974b:215;1975:28-29,1989:58]。これらの祈禱院には、社会からの脱出や隠世といった性格が色濃くみられるものが目立っており、混乱しきった社会からの避難所を求めて祈禱院に身を隠した信者等が、「祈禱院」を名乗る新興宗教に身を投じていった[卓明煥 1974.6:25-26; 1989:58]。あるいは、病気治療と称して信者を収容し、得体の知れない万病治療薬を飲ませる等して死亡させた末に暗埋葬したり、女性信者等と姦淫し財産を収奪するといった似而非宗教集団(カルト)のような祈禱院も後を絶たなかった[卓明煥 1972:144-150;1974.6:23-25;1974.9:52-58;1975:29-31;1989:60-62,李一男 1981:172-181]。また「祈
禱院」を名乗りながら、異教的入神やチョムジェンイ(占い師)の卜占のような預言祈禱を行い、巫堂(降神巫)の呪文のような異言を発して聖霊の恩賜を体験しようとする等の非キリスト教的信仰にふけっていたものも、この時期に多数出現しては消えていった[卓明煥 1974a:319;1975:29-35;1989:62-67,現代宗教社 1982:180-182]。朝鮮動乱2010/10/15 宗文研懇話会6 以後の韓国社会の混乱期に出現した「祈禱院」が、荒廃しきった社会からの逃避の場になるとともに、似而非宗教集団(カルト)の温床となり、「祈禱院運動」に禍根を残すこととなった。
(3)第三期(1970 年代):ペンテコステ教会の祈禱場
教会付属祈禱院の設立
朝鮮戦争終結後の社会の混乱の中で、1950 年代の韓国では「祈禱院」を名乗るキリスト教系新興宗教集団が群生した。一方、この時期の韓国おける教会の動きに目を転じると、1950 年代とは、福音派キリスト教を代表するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の韓国宣教が開始された時期で[純福音教育研究所 1989:149]、1958 年に信徒数 5 人の天幕(テント小屋)教会として出発し、後に 80 万人の信徒を擁する世界最大の教会となった汝矣島純福音中央教會(Yoido Full Gospel Church)の誕生に象徴される、韓国の教会復興の胎動が始まっていた時期であった[徐洸善 1984:9-232,純福音教育研究所 1989:205-209]。
韓国教会の福音化が本格化するのは、1970 年代に入ってからのソウルへの急激な人口集中を背景とした教会復興が成し遂げられてからのことであるが[渕上 1991:1-9,FUCHIGAMI 1992:18-43]、「聖霊の第三の波」という世界的なリバイバルの潮流に呼応しての韓国教会の福音化に伴って、「祈禱院」もまた大きく様変わりすることになった。それ以前の「祈禱院」といえば、キリスト教の名を借りた新興宗教が連想されていたが、
1970 年代以降、ペンテコステ派に属する福音派教会が急成長を遂げ、それらの教会が、信徒達の心霊復興のための道場として、「祈禱院」の名を冠した自前の祈禱場を設立するようになったことから[渕上 1993:112-113]、カルト宗教というかつてのイメージは薄れ、教会の付属祈禱場という新たな祈禱院像が定着してゆくこととなった。1970 年代以降の教会復興によって、こうした教会の付属祈禱院が増えてゆくのに伴って、韓国全土の祈禱院数(10)は着実に伸びてゆき、1975年には207か所、1978年には239か所[卓明煥 1989.7:
56-59]、そして 1982 年には 289か所を数えることになった[卓明煥 1982.10:176]。
汝矣島純福音中央教會の悟山里禁食祈禱院に代表される教会の付属祈禱院は、既存の教会や教団が運営するものであるが、これらの祈禱院には、各人の所属する教会や教派の別なく自由に通えるようになっている。そのため、祈禱院では教派や教会の枠を超えた牧会者と信徒達の交流が実現され、そのことが献金の増収をもたらす等、教会の復興ひいては韓国キリスト教の成長に大いに寄与してきたと考えられる。祈禱院において開催される修練会等のイベントには、有名教会の牧師達が講師として招請され、信徒達は祈禱院に居ながらにして、スター牧師の「能力(ヌンニョク)」にあやかって各人の抱える問題の解決をはかることができる。ところが、そうした祈禱院の開放性によって、当初信徒達の心霊復興のための道場であった「祈禱院」は、神癒・異言・預言といった「能力(ヌンニョク)」の市場と化してゆき、「能力の恩賜」を求めて祈禱院詣でを行う信者層をターゲットとしたマーケッティングが展開される場となっていった[卓明煥 1974.9:58;1975:28-29;2010/10/15 宗文研懇話会7 1989:59,現代宗教社 1982:177-179,許일찬 1994:91-93,閔경설 1994:99-101]。
韓国のキリスト教における祈禱―聖霊との交霊
韓国のペンテコステ派キリスト教において、祈禱の占める位置は際だって大きく、祈禱は韓国のキリスト教徒の信仰生活の中心をなす営みとなっている。韓国のキリスト教では、祈禱をすることによって諸願が成就し、霊的問題が解決され、カリスマ的な霊力が獲得されてそれに磨きをかけることができると信じられており、韓国のキリスト教徒は祈禱に余念がない。
韓国のキリスト教では、通常の礼拝の式次第に盛り込まれている祈禱の時間の他にも、早天祈禱会、徹夜祈禱会、禁食(断食)祈禱会等において祈禱が行われており、その種類は、異言祈禱、聖霊充満祈禱のように、聖霊との交霊や霊力の鍛錬のためになされるものから、神癒祈禱、預言祈禱、結婚祈禱、受験合格祈願祈禱、事業成功祈願祈禱、オリンピック勝利祈願祈禱、救国祈禱、民族統一祈願祈禱等々、現世利益の追求や所望の実現を願って行われるものに至るまで多岐にわたっている。
通常、韓国の教会では、復興會形式の祈禱會が定期的に催されているが、さらに祈禱に没頭しようとする場合、信者達は教会から祈禱院に赴いて行く。先に述べた 1970 年代の教会復興以降、教会の付属祈禱院の設立が相次いだが、京畿道坡州郡に位置する純福音中央教會の悟山里禁食祈禱院(1974 年設立)のような、都市周辺の教会本部から遠く離れた山の中にある大型教会の付属祈禱院(11)が、「能力(ヌンニョク)」のある祈禱院とされて多くの信徒を引きつけている[鄭鎮弘 1984:126]。祈禱院を訪れる信徒は、ハナニム(하나님:キリスト教の神)(12)の「應答(ウンダプ)」をより早く受けるべく、その間 3日から 1週間ほど禁食(断食)(13)し、徹夜で祈禱に専念して心霊復興をはかる[現代宗教社 1989:68-73]。先の李龍道牧師が 1930 年代に山中祈禱をして「能力(ヌンニョク)」を授かり、リバイバルを成し遂げたことにも見られるように、山中に奥深く入って行って祈禱をすると心霊と交わることができるという、古代朝鮮の神仙思想に由来する入山修練の修行法が、韓国キリスト教にも取り入れられているのが見て取れる。
こういった韓国キリスト教の独特の祈禱とされるのは、「通聲祈禱(トンソンキド)」と呼ばれているもので、「主よ!アボジ・ハナニム(天にいまします我らの父よ)!!」と天も裂けんばかりに大声を張り上げ、異言を発するうちに神懸かりのようになって聖霊を受け、ハナニム(キリスト教の神)の「應答(ウンダプ)」を得ようとするシャーマニスティックなものである。教会の礼拝の式次第の中にも「通聲祈禱」の時間は何度も設けられており、韓国教会にシャーマニスティックな忘我境が繰り返し現出してくる。
朝鮮のキリスト教史に「通聲祈禱」が現れたのは、1907 年 1 月のある土曜日、ブレイアー(W.N.Blair)牧師が長老派とメソジストの合同査經會(14)の席上で、コリント前書の 11 章 27節を読み上げた時のことであった[閔庚培 1975:147]。ブレイアー牧師が、「我々はキリストの身体である」と説教し、「我が父よ!」と唱えるや、信徒達は強力に迫ってくる聖霊に圧倒されて、涙と感激の徹夜の祈りが幾日も続き、「通聲祈禱」の声が神秘的な余韻を残していった。この査經會はリバイバルの炎となって燃え上がり、同年の大復2010/10/15 宗文研懇話会8 興會運動につながっていった。このようにして、民族の宗教心の底に流れているシャーマニスティックな潜在意識に訴えかけながら、リバイバルは世界の教会史上稀にみる韓国のキリスト教化を達成する原動力となったのである。
韓国キリスト教の早天祈禱―祈禱仏教と仙教のキリスト教への流入
今日の韓国のキリスト教で行われている早天祈禱(새벽기도:セビョクキド)の起源は、韓国長老派の父と仰がれており、先の大復興會運動の主導者となった吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869~1935)によって始められた早天祈禱會に遡るものである[金光洙 1974:141,趙載國 1998:212,許호익 2009:136-142]。1906 年、吉善宙牧師によって朝鮮初の早天祈禱會が行われたことが直接の契機となって、翌年の 1907 年に平壌のチャンデヒョン教會を中心に大復興會運動が起こり朝鮮全土に波及していったのであるが、この大復興會運動の時の一週間にわたる礼拝において、毎日夜明け前に教会で早天祈禱會が開かれたことにより、早天祈禱が朝鮮各地の教会に広がっていった。言うならば、大復興會運動を契機に朝鮮キリスト教の信仰形態が形成されることになったのであるが、韓国のキリスト教にのみ見られると言われる早天祈禱の起源を遡ると、大復興會運動の立役者吉善宙牧師の宗教遍歴に行き着く。
1869 年に現在の北朝鮮の平安南道に生まれた吉善宙は、少年時代に漢学を勉強してから、21歳の時入山し、3年間仏道に修道した後、朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教に入門した[許호익 2009:25-37]。吉善宙はその後有名な道士になったが、李ギルハム(GrahamLee)宣教師と出会ったことにより、キリスト教に改宗するに至った[金光洙 1974:137-146,宋基植 1993:70-77]。その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。
1907 年の大復興會運動によって朝鮮全土に広まり、今日の韓国の教会や祈禱院で行われている早天祈禱は、前述した仙教の早天祈禱とともに、朝鮮仏教の早天礼仏に由来するもので、その原型は、新羅時代から高麗時代にかけて、朝鮮の民衆の間で除災招福のための祈禱を中心に広まっていた祈禱仏教に見出される。朝鮮の仏教は一種の祈禱仏教で、日常生活での厳しい宗教的・倫理的責任を問うことよりは、祈禱による人生の諸問題の解決の方に信仰が傾いていた。今日の韓国のキリスト教徒の信仰生活の中心となっている祈禱は、そうした朝鮮仏教の伝統に由来するもので、祈禱の対象に応じて細分化されている朝鮮仏教の祈禱の種類もまた、今日の韓国のキリスト教に流入しているのが見て取れる。朝鮮の祈禱仏教には、現世での福楽のための諸願成就を祈願する各種の祈禱が見受けられる。それらの祈禱には、子授け・延命長寿を祈願する七星祈禱、事業の成功と繁栄を祈願する山神祈禱、財福を祈願する獨聖祈禱、福楽・治病を祈願する觀音祈禱、治病と祈福を祈る竜
王祈禱、災難の除去と病魔の退散を祈願する神衆祈禱、冥福を祈る地蔵祈禱、死後の福楽を祈願する阿弥陀仏祈禱がある[李勲求 1991:126]。これらの祈禱は、現代の韓国の寺2010/10/15 宗文研懇話会9院でも、現世での諸願成就を祈願する祈禱會で行われており、「キリスト教が仏教の私設庵子と化したもの」と称される今日の「祈禱院」で行われている各種の祈禱と重なり合うものとなっている[卓明煥 1974.9:59]。
南山宗教文化研究所懇話会 2010.10.15.(金)
―キリスト教土着化論の考察―
報告:渕上恭子(Fuchigami Kyoko)
※はじめに―「祈禱院」とは何か
韓国のキリスト教界には、キリスト教を掲げてはいるが、教会でも教団でもない、「祈禱院(기도원:キドウォン)」と称される信仰集団がある。「祈禱院」は、韓国・朝鮮のプロテスタントの 120余年にわたる歴史の中で、教会の周辺に断続的に出現しながら独自の信仰形態を形成し、神秘主義的異端キリスト教(1)、北朝鮮起源の新興宗教(2)、ペンテコステ教会の祈禱場、シャーマン的女性牧会者による神癒を指し示すものへと変貌を遂げて今日に至っている。本報告において、韓国・朝鮮のキリスト教史に出現してきた「祈禱院」の類型を整理し、それらの「祈禱院」から発生してきた信仰運動が、韓国へのキリスト教の定着(土着化)をどのように方向づけてきたか考察してゆきたい。
1.韓国キリスト教の信仰形態の形成―大復興會運動と「祈禱院運動」
朝鮮(3)の地にプロテスタントが伝来したのは 1885 年のことであった(注:キリスト教が朝鮮に伝来して以来、カトリックは「天主教」、プロテスタントは「改新教」と呼び慣わされてきたが、今日に至ってプロテスタントは「基督教(キドッキョ)」と称されるようになった。これに倣って本報告では、プロテスタントを「キリスト教」と表記している)。
朝鮮のキリスト教史にあって、民族の受難の歴史を背景に、熱烈なリバイバル運動が展開されてきた背後で、「祈禱院」において神秘主義に傾倒した異端キリスト教が出現してきた。
朝鮮キリスト教史の表舞台で、民族の霊的救済を訴えるリバイバルの炎が燃え上がっていた一方で、「祈禱」では、亡国の不安と鬱憤を内向させながら、朝鮮の民俗宗教と巫俗信仰(シャーマニズム)(4)がくすぶり続けていた。
韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。2010/10/15 宗文研懇話会2
2.韓国のキリスト教史における「祈禱院」の変遷
朝鮮時代も含めた韓国のプロテスタントの 120 余年の歴史において、「祈禱院」が出現してきた時期は 4回見受けられ、各々の時期によってその類型が移り変わってきているのが見て取れる。
「祈禱院」が出現した第一期は、1930 年代の朝鮮において神秘主義的キリスト教の流れをくむ信仰運動が起こった時期で、後の韓国のキリスト教系新興宗教のルーツにあたる「血分け教」の開祖として知られる、李龍道・黄國柱といった復興師達が現れた時期であった。
「祈禱院」の出現がみられた第二期は、1950 年代、朝鮮動乱によって北のキリスト教徒が南へ下り、韓国で北朝鮮起源のキリスト教系新興宗教が群生した時期であった。
「祈禱院」が出現してきた第三期は、1970 年代、ペンテコステ派キリスト教が韓国で急成長を遂げて空前の教会復興が成し遂げられ、信徒達の心霊復興のための道場として、教会付属の祈禱院が設立された時期であった。
そして「祈禱院」出現の第四期となったのが、1980 年代初頭から 1990 年代後半にかけて、ペンテコステ教会の周辺にシャーマン的女性院長が神癒を手がける「祈禱院」が簇生した時期であった。
韓末期から今日に至るまで、朝鮮民族の伝統宗教や民俗宗教が「祈禱院」にどのように投影されて、韓国キリスト教の信仰形態が形成されてきたのか。「祈禱院」から発生してきた「祈禱院運動」と称される信仰運動は、韓国・朝鮮の地へのキリスト教の土着化にあたって、いかなる問題が生じることを示唆してきたのか。韓国のキリスト教史における「祈禱院」の変貌の足跡を辿りながら探ってゆきたい。
(1)第一期(1930 年代):神秘主義的異端キリスト教
1930 年代、日本の植民地支配下で国権が失われ、朝鮮教会が存亡の危機に瀕していた時、平壌を本拠地として、朝鮮キリスト教史における「祈禱院」のはしりとなる、忘我状態に至る神人合一の法悦を説く神秘主義的キリスト教が出現してきた。それは李龍道、黄國柱といった復興師等によって創始された、「血分け教」と言われる異端キリスト教で[정행업1999:106-108]、両者の門下生であった「血分け師」(5)を介して、後の韓国のキリスト教系新興宗教に繰り返し出現してくることになった。
朝鮮のキリスト教史における「祈禱院運動」の出発点となったのは、1907 年に平壌の教会から起こった大復興會運動であったと考えられている。1907 年、朝鮮長老派の父と仰がれる吉善宙牧師をリーダーとして、平壌を中心に大復興會運動が起こり、リバイバルの波が朝鮮全土に波及していった。この大復興會運動は、亡国の渦中にあって絶望に打ちひしがれた民衆に、黙示録的な希望と力を与えた終末論的な信仰運動であった。
この 1907 年の第一のリバイバル運動に次いで、1930 年、メソジストの若い牧師である李龍道をリーダーとして全国的なリバイバル運動が起こった[閔庚培 1991:337-343,金동수 1994:78-79]。この第二のリバイバルは、神秘主義に基づいた愛の実践を称揚する信仰運動で、いつ終わるとも知れない植民地支配の下で生き延びている民衆が教会の中2010/10/15 宗文研懇話会3 に安住の場を求めたのに対して、既存の教会を批判し、超越的神との神秘的合一と隣人への愛を訴えようとした運動であった。李龍道の率いたこのリバイバルは、朝鮮教会の土着化の実験となるはずの信仰運動であった。だがそれは、朝鮮キリスト教史における「祈禱院」の源流となる異端キリスト教となった。
「血分け教」の元祖李龍道(Lee,Yong-Do:1901~1933)は、1901 年に黄海道の琴川郡に生まれたメゾジストの牧師で、苦難を受けたキリストの姿に従って、三一独立運動以降三度も投獄され、肺病で死に瀕しながら全国に伝道に赴いて、教派の別なく復興會を催して回った著名な復興師(リバイバリスト)であった[金光洙 1978:161-170,宋吉燮 1980:215-250,柳東植 1982:120-132;1987:100;1993:229-238]。1928 年、李龍道は奇岩絶壁の幾重にも折り重なる金剛山麓のペクチョン峰に登って入山修練し、10日間にわたる断食祈禱を行った末に、大いなる「能力(ヌンニョク)」を得てリバイバル運動を主導し始めた。復興會を通して李龍道は「イエスに狂え」と主張し、当時の朝鮮キリスト教界から「熱狂主義者」と呼ばれた。
李龍道は山中祈禱の折にイエスとひとつになるという神秘体験を得て、神との霊的合一という神秘主義の境地を、新郎に対する新婦の性愛という比喩で語った。神との愛の融合を通じての主との「血管的連結」を「血分け」と説くようになった李龍道は、自らをキリストと同一視するに至り、キリストの化身である自分との合一、即ち「霊體交換」を説くようになった[閔庚培 1975:152,姜문석・金일천 1991:314]。こうして李龍道は、朝鮮における「血分け教」の開祖となって、数名の信奉者とともに「平壌祈禱團」(6)を結成し、1932 年にその聖なる教会として同祈禱團を前身とする「イエス教會」を創設した[國際宗教問題研究所2000:17-29]。接神女劉明花が、「イエス曰く、龍道よ、汝が我の教會を建てよ」との神言を、憑依状態のうちに語ったのに従ってのことであった[閔庚培1972:291-294;1975:153;1993:440-442,卓明煥 1986:99,姜문석・金일천 1991:32,陳부생 1996:261-268,魚춘수 2009:165-179:194-198]。
李龍道の信仰運動は土着教団を生み出したほど強力なものであったが、当時の既存の教会からは異端視された。長老派の拠点であった黄海老會は、1932 年に禁足令を出して李龍道を処罰し、平壌教會もまた李龍道の復興會を断罪した。1933 年、李龍道は自らが所属していたメソジスト教會からも休職処分を言い渡され、同年 10月、持病の肺病により 33歳の若さで孤高に声をあげつつ世を去って行った[閔庚培 1972:287-294;1975:148-154;1993:434-444,南永煥 1988:185-197]。
1930 年代の平壌で「血分け教」を開いたもう一人の元祖に黄國柱(Hwang, Kuk-Ju:生没年不詳)がいた[金南植 1987:105-111,金동수 1994:80,陳부생 1996:269-272,崔중현 1999:103-136,魚춘수 2009:206-210]。北朝鮮の黄海道に生まれ、1935 年前後に間島(朝鮮と中国が国境を接している中国東北地区)に移民して行った黄國柱は、百日祈禱を通じて髭を長く伸ばし、イエスのように髪を長く伸ばしてうろつき回っては、「我こそはイエスの化身である」と説いて回った[金光洙 1978:171-173]。黄國柱は、自身の体にはイエス・キリストの血が分けもたれており、首もキリストのものと取り換えたと異言を語った。黄國柱が図們江を渡って間島から平壌へ姿を現すと、イエスの化身を一目見ようと無数の群衆が集まってきた。後に黄國柱がソウルへ向かうと、彼につき従っ2010/10/15 宗文研懇話会4 て来る者が、家庭を捨ててきた人妻や水腫をわずらった未婚の女性等60人にもおよんだ。
1930 年代後半、黄國柱はソウルの三角山(7)に「祈禱院」を作り[閔庚培 1982:296,異端似而非対策委員会 2007:114-119]、「血分け」、「首換え」を教理として「霊體交換」を行った[閔庚培 1982:399,卓明煥 1986:102,國際宗教問題研究所 2000:30-35]。
黄國柱の「血分け教」は、その後も 1940 年代の中頃まで勢力を誇り続けていた[閔庚培1972:295-300;1993:445-448]。
李龍道・黄國柱の信仰運動は、多くの醜聞を残しながらも、後の韓国のキリスト教系新興宗教のひとつの系譜となっている[南永煥 1988:198-200]。「血分け教」の流れをくむ新興宗教集団は、1945 年の解放後南へ下って行ったが、その後も韓国キリスト教の周辺に断続的に現れては、巫俗信仰の断片をその秘儀の中に散りばめた「血分け」儀式(8)を再現し[卓明煥 1978a;1978b]、「血分け教」の再生をはかっている。世界基督教統一神霊協会のルーツはこの時代の「祈禱院」に遡るものである。
(2)第二期(1950 年代):北朝鮮起源の新興宗教
1945 年の解放による、36年間におよんだ日本の植民地支配からの独立の喜びも束の間、1950 年 6月、今度は同胞相撃つ悲惨な朝鮮戦争が勃発する。1953年 7月、人類史上最も悲惨な戦争のひとつと言われる朝鮮戦争が終結したが、国土は荒廃を極め、不安と窮乏のただ中で人々は廃墟の町をさまよっていた。既存の秩序は爆撃された市街地のように崩壊し、荒廃だけが人々を支配した。このような社会の混乱はキリスト教会にも及んだ。荒廃した社会の秩序再建の支柱となるべき教会は分裂を繰り返し、無条件に独裁政権の支持に回った。混乱極まる社会に生きながら宗教的救いを求める民衆と、無能化した教会との断層から、復興師と呼ばれる一部牧師と平信徒によるリバイバリスムが沸き起こり、国の隅々にまで復興會運動がおよんでいった。
このような復興會運動を背景に、「祈禱院運動」呼ばれる 1950 年代の新興宗教集団の簇生が始まるのであるが、この時期に出現した「祈禱院」として、1954 年に羅雲夢長老(Na,Un-Mong:1914~)によって創立された龍門山祈禱院と[金동수 1994:80,國際宗教問題研究所 2000:80-81,李進亀 2008:74-103,魚춘수 2009:226-230]、1955 年に朴泰善(Park, Tae-Sun:1917~)によって設立された傳道館があげられる[柳東植 1987:144,姜문석・金일천 1991:197,金동수 1994:82-83,國際宗教問題研究所 2000:113-116,魚춘수 2009:231-235]。
龍門山祈禱院の設立者羅雲夢は、1914 年に現在の北朝鮮の平安北道博川に生まれ、日本、満州、シベリアを転々として帰国した後、1940 年に慶尚北道金川の龍門山に入山した。羅雲夢は元々仏教徒であったが、キリスト教に改宗した後に 1945 年の解放をむかえ、ソウルへ上京して長老となった。朝鮮戦争時、羅雲夢長老は共産軍に逮捕され危うく死ぬところだったが、九死に一生を得て生き残った。その後、羅雲夢長老はイエス・キリストにすべてを捧げ、修道生活を通して入神・異言・預言・幻想・震動・神癒等のありとあらゆる神秘体験を得るようになった。羅雲夢長老の説教は多くの病者を癒し、その集会時には多くの信者に入神と異言の恩賜が現れた。龍門山祈禱院は現在も龍門山下に 38 の分院を有2010/10/15 宗文研懇話会5 しており、韓国内の祈禱院数の約 3分の 2を占める龍門山系と呼ばれる祈禱院の系列を形づくっている[國際宗教問題研究所 2000:81]。
龍門山祈禱院は、その神秘主義的教理の故に韓国のキリスト教界では異端視される向きもあるものの、キリスト教的民族主義の精神が認められ、1970 年代以降の韓国キリスト教の復興につながる「祈禱院運動」として一応の評価を得てきた[卓明煥 1989:61,李進亀 2008:75-78]。だが、朴泰善派の方は、同時期に出現した世界基督教統一神霊協会等、先述の「血分け教」の流れをくむ韓国の新興宗教集団と関係しあうことになる[朱瑛欽 1975:132-136,金명희 1987:363-367,異端似而非対策委員会 2007:222-246]。
1950 年代には、朝鮮戦争の勃発によって北から南へ流れていった多数の「失郷民」が生み出されたが、このことは韓国のキリスト教界の教勢地図を大きく塗り替えることになった。解放前の朝鮮におけるキリスト教の拠点は、かつて東洋のエルサレムと言われていた平壌を擁する平安道であった。当時の平壌は、市内に数十メートルおきに教会が立ち並び、日曜日ともなれば街全体が教会の鐘の音でうずもれるほどであった。だが、朝鮮動乱後の南北分断により、北のキリスト教徒が南へ渡ってくることとなったため、解放時には 20万人であった韓国のプロテスタント信徒数は、1953 年の朝鮮戦争の終結時までに 50万人に急増した。韓国のキリスト教は南北分断の時が教勢拡大の一つのピークになっているが、それは、解放以前は北の側にあった朝鮮キリスト教の拠点が失われ、北に集中していたキリスト教徒が南へ流れてきたという民族の受難の歴史によるものであった。
この時期に出現した「祈禱院」には、このような南北分断が影を落としている。1945年の解放当時、平壌の神霊集団の一員であった丁得恩が、「南へ行って伝道せよ」という啓示を受けて韓国に渡り、1953 年、李龍道・黄國柱の神秘主義に傾倒した新興宗教集団の大聖心祈禱院を開いた。この大聖心祈禱院もまた、後に「血分け教」の新興宗教の群れに身を投じることになり[朱瑛欽 1975:132-136,國際宗教問題研究所 2000:48-54]、南北分断を境に、北を拠点としていた朝鮮の新興宗教も南へと流れてくることになった。
朝鮮動乱の終結後も「4.19」、「5.16」事件等の政治的混乱が続く中、1956 年から 1965年にかけて韓国全土で 49 の祈禱院(9)が出現した[卓明煥 1974a:319]。さらに 1966年から 1975 年の間に 146 に上る祈禱院が出現し、その数は 1975 年の時点で韓国内に存在していた祈禱院数の 69%を占めるものとなった[卓明煥 1974b:215;1975:28-29,1989:58]。これらの祈禱院には、社会からの脱出や隠世といった性格が色濃くみられるものが目立っており、混乱しきった社会からの避難所を求めて祈禱院に身を隠した信者等が、「祈禱院」を名乗る新興宗教に身を投じていった[卓明煥 1974.6:25-26; 1989:58]。あるいは、病気治療と称して信者を収容し、得体の知れない万病治療薬を飲ませる等して死亡させた末に暗埋葬したり、女性信者等と姦淫し財産を収奪するといった似而非宗教集団(カルト)のような祈禱院も後を絶たなかった[卓明煥 1972:144-150;1974.6:23-25;1974.9:52-58;1975:29-31;1989:60-62,李一男 1981:172-181]。また「祈
禱院」を名乗りながら、異教的入神やチョムジェンイ(占い師)の卜占のような預言祈禱を行い、巫堂(降神巫)の呪文のような異言を発して聖霊の恩賜を体験しようとする等の非キリスト教的信仰にふけっていたものも、この時期に多数出現しては消えていった[卓明煥 1974a:319;1975:29-35;1989:62-67,現代宗教社 1982:180-182]。朝鮮動乱2010/10/15 宗文研懇話会6 以後の韓国社会の混乱期に出現した「祈禱院」が、荒廃しきった社会からの逃避の場になるとともに、似而非宗教集団(カルト)の温床となり、「祈禱院運動」に禍根を残すこととなった。
(3)第三期(1970 年代):ペンテコステ教会の祈禱場
教会付属祈禱院の設立
朝鮮戦争終結後の社会の混乱の中で、1950 年代の韓国では「祈禱院」を名乗るキリスト教系新興宗教集団が群生した。一方、この時期の韓国おける教会の動きに目を転じると、1950 年代とは、福音派キリスト教を代表するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の韓国宣教が開始された時期で[純福音教育研究所 1989:149]、1958 年に信徒数 5 人の天幕(テント小屋)教会として出発し、後に 80 万人の信徒を擁する世界最大の教会となった汝矣島純福音中央教會(Yoido Full Gospel Church)の誕生に象徴される、韓国の教会復興の胎動が始まっていた時期であった[徐洸善 1984:9-232,純福音教育研究所 1989:205-209]。
韓国教会の福音化が本格化するのは、1970 年代に入ってからのソウルへの急激な人口集中を背景とした教会復興が成し遂げられてからのことであるが[渕上 1991:1-9,FUCHIGAMI 1992:18-43]、「聖霊の第三の波」という世界的なリバイバルの潮流に呼応しての韓国教会の福音化に伴って、「祈禱院」もまた大きく様変わりすることになった。それ以前の「祈禱院」といえば、キリスト教の名を借りた新興宗教が連想されていたが、
1970 年代以降、ペンテコステ派に属する福音派教会が急成長を遂げ、それらの教会が、信徒達の心霊復興のための道場として、「祈禱院」の名を冠した自前の祈禱場を設立するようになったことから[渕上 1993:112-113]、カルト宗教というかつてのイメージは薄れ、教会の付属祈禱場という新たな祈禱院像が定着してゆくこととなった。1970 年代以降の教会復興によって、こうした教会の付属祈禱院が増えてゆくのに伴って、韓国全土の祈禱院数(10)は着実に伸びてゆき、1975年には207か所、1978年には239か所[卓明煥 1989.7:
56-59]、そして 1982 年には 289か所を数えることになった[卓明煥 1982.10:176]。
汝矣島純福音中央教會の悟山里禁食祈禱院に代表される教会の付属祈禱院は、既存の教会や教団が運営するものであるが、これらの祈禱院には、各人の所属する教会や教派の別なく自由に通えるようになっている。そのため、祈禱院では教派や教会の枠を超えた牧会者と信徒達の交流が実現され、そのことが献金の増収をもたらす等、教会の復興ひいては韓国キリスト教の成長に大いに寄与してきたと考えられる。祈禱院において開催される修練会等のイベントには、有名教会の牧師達が講師として招請され、信徒達は祈禱院に居ながらにして、スター牧師の「能力(ヌンニョク)」にあやかって各人の抱える問題の解決をはかることができる。ところが、そうした祈禱院の開放性によって、当初信徒達の心霊復興のための道場であった「祈禱院」は、神癒・異言・預言といった「能力(ヌンニョク)」の市場と化してゆき、「能力の恩賜」を求めて祈禱院詣でを行う信者層をターゲットとしたマーケッティングが展開される場となっていった[卓明煥 1974.9:58;1975:28-29;2010/10/15 宗文研懇話会7 1989:59,現代宗教社 1982:177-179,許일찬 1994:91-93,閔경설 1994:99-101]。
韓国のキリスト教における祈禱―聖霊との交霊
韓国のペンテコステ派キリスト教において、祈禱の占める位置は際だって大きく、祈禱は韓国のキリスト教徒の信仰生活の中心をなす営みとなっている。韓国のキリスト教では、祈禱をすることによって諸願が成就し、霊的問題が解決され、カリスマ的な霊力が獲得されてそれに磨きをかけることができると信じられており、韓国のキリスト教徒は祈禱に余念がない。
韓国のキリスト教では、通常の礼拝の式次第に盛り込まれている祈禱の時間の他にも、早天祈禱会、徹夜祈禱会、禁食(断食)祈禱会等において祈禱が行われており、その種類は、異言祈禱、聖霊充満祈禱のように、聖霊との交霊や霊力の鍛錬のためになされるものから、神癒祈禱、預言祈禱、結婚祈禱、受験合格祈願祈禱、事業成功祈願祈禱、オリンピック勝利祈願祈禱、救国祈禱、民族統一祈願祈禱等々、現世利益の追求や所望の実現を願って行われるものに至るまで多岐にわたっている。
通常、韓国の教会では、復興會形式の祈禱會が定期的に催されているが、さらに祈禱に没頭しようとする場合、信者達は教会から祈禱院に赴いて行く。先に述べた 1970 年代の教会復興以降、教会の付属祈禱院の設立が相次いだが、京畿道坡州郡に位置する純福音中央教會の悟山里禁食祈禱院(1974 年設立)のような、都市周辺の教会本部から遠く離れた山の中にある大型教会の付属祈禱院(11)が、「能力(ヌンニョク)」のある祈禱院とされて多くの信徒を引きつけている[鄭鎮弘 1984:126]。祈禱院を訪れる信徒は、ハナニム(하나님:キリスト教の神)(12)の「應答(ウンダプ)」をより早く受けるべく、その間 3日から 1週間ほど禁食(断食)(13)し、徹夜で祈禱に専念して心霊復興をはかる[現代宗教社 1989:68-73]。先の李龍道牧師が 1930 年代に山中祈禱をして「能力(ヌンニョク)」を授かり、リバイバルを成し遂げたことにも見られるように、山中に奥深く入って行って祈禱をすると心霊と交わることができるという、古代朝鮮の神仙思想に由来する入山修練の修行法が、韓国キリスト教にも取り入れられているのが見て取れる。
こういった韓国キリスト教の独特の祈禱とされるのは、「通聲祈禱(トンソンキド)」と呼ばれているもので、「主よ!アボジ・ハナニム(天にいまします我らの父よ)!!」と天も裂けんばかりに大声を張り上げ、異言を発するうちに神懸かりのようになって聖霊を受け、ハナニム(キリスト教の神)の「應答(ウンダプ)」を得ようとするシャーマニスティックなものである。教会の礼拝の式次第の中にも「通聲祈禱」の時間は何度も設けられており、韓国教会にシャーマニスティックな忘我境が繰り返し現出してくる。
朝鮮のキリスト教史に「通聲祈禱」が現れたのは、1907 年 1 月のある土曜日、ブレイアー(W.N.Blair)牧師が長老派とメソジストの合同査經會(14)の席上で、コリント前書の 11 章 27節を読み上げた時のことであった[閔庚培 1975:147]。ブレイアー牧師が、「我々はキリストの身体である」と説教し、「我が父よ!」と唱えるや、信徒達は強力に迫ってくる聖霊に圧倒されて、涙と感激の徹夜の祈りが幾日も続き、「通聲祈禱」の声が神秘的な余韻を残していった。この査經會はリバイバルの炎となって燃え上がり、同年の大復2010/10/15 宗文研懇話会8 興會運動につながっていった。このようにして、民族の宗教心の底に流れているシャーマニスティックな潜在意識に訴えかけながら、リバイバルは世界の教会史上稀にみる韓国のキリスト教化を達成する原動力となったのである。
韓国キリスト教の早天祈禱―祈禱仏教と仙教のキリスト教への流入
今日の韓国のキリスト教で行われている早天祈禱(새벽기도:セビョクキド)の起源は、韓国長老派の父と仰がれており、先の大復興會運動の主導者となった吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869~1935)によって始められた早天祈禱會に遡るものである[金光洙 1974:141,趙載國 1998:212,許호익 2009:136-142]。1906 年、吉善宙牧師によって朝鮮初の早天祈禱會が行われたことが直接の契機となって、翌年の 1907 年に平壌のチャンデヒョン教會を中心に大復興會運動が起こり朝鮮全土に波及していったのであるが、この大復興會運動の時の一週間にわたる礼拝において、毎日夜明け前に教会で早天祈禱會が開かれたことにより、早天祈禱が朝鮮各地の教会に広がっていった。言うならば、大復興會運動を契機に朝鮮キリスト教の信仰形態が形成されることになったのであるが、韓国のキリスト教にのみ見られると言われる早天祈禱の起源を遡ると、大復興會運動の立役者吉善宙牧師の宗教遍歴に行き着く。
1869 年に現在の北朝鮮の平安南道に生まれた吉善宙は、少年時代に漢学を勉強してから、21歳の時入山し、3年間仏道に修道した後、朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教に入門した[許호익 2009:25-37]。吉善宙はその後有名な道士になったが、李ギルハム(GrahamLee)宣教師と出会ったことにより、キリスト教に改宗するに至った[金光洙 1974:137-146,宋基植 1993:70-77]。その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。
1907 年の大復興會運動によって朝鮮全土に広まり、今日の韓国の教会や祈禱院で行われている早天祈禱は、前述した仙教の早天祈禱とともに、朝鮮仏教の早天礼仏に由来するもので、その原型は、新羅時代から高麗時代にかけて、朝鮮の民衆の間で除災招福のための祈禱を中心に広まっていた祈禱仏教に見出される。朝鮮の仏教は一種の祈禱仏教で、日常生活での厳しい宗教的・倫理的責任を問うことよりは、祈禱による人生の諸問題の解決の方に信仰が傾いていた。今日の韓国のキリスト教徒の信仰生活の中心となっている祈禱は、そうした朝鮮仏教の伝統に由来するもので、祈禱の対象に応じて細分化されている朝鮮仏教の祈禱の種類もまた、今日の韓国のキリスト教に流入しているのが見て取れる。朝鮮の祈禱仏教には、現世での福楽のための諸願成就を祈願する各種の祈禱が見受けられる。それらの祈禱には、子授け・延命長寿を祈願する七星祈禱、事業の成功と繁栄を祈願する山神祈禱、財福を祈願する獨聖祈禱、福楽・治病を祈願する觀音祈禱、治病と祈福を祈る竜
王祈禱、災難の除去と病魔の退散を祈願する神衆祈禱、冥福を祈る地蔵祈禱、死後の福楽を祈願する阿弥陀仏祈禱がある[李勲求 1991:126]。これらの祈禱は、現代の韓国の寺2010/10/15 宗文研懇話会9院でも、現世での諸願成就を祈願する祈禱會で行われており、「キリスト教が仏教の私設庵子と化したもの」と称される今日の「祈禱院」で行われている各種の祈禱と重なり合うものとなっている[卓明煥 1974.9:59]。