すごくためになるので無断転載

 

・ソ連にクリスマスは存在しなかったけどお正月はあった

 
http://osoroshian.com/archives/51287960.html

 

 
ソ連&ロシアのクリスマス事情、そしてお正月との関連性を紹介したいと思います。
 
 
 
 

ロシアとクリスマス

 
まず、現在のロシアにはクリスマスを祝う習慣があまりありません。
そもそも、ロシア正教のクリスマスは1月7日です。12月25日ではないのです。これはロシア正教がユリウス暦を使っているため。ユリウス暦の12月25日がグレゴリオ暦の1月7日となります。
 
1月7日のクリスマスに何をするのかといいますと、熱心なロシア正教信者は教会へ行きミサに参加します。
大多数のちょっとした信者はTVでその様子を見たりもするのですが、ほとんどの人は何もしません。
12月25日の我々がよく知るクリスマスも何もしません。世界中がお祭りムードとなるこの日、宗教的に関係のない日本人のようにお祭りとして楽しむことも基本的にはありません。
 
しかし、この時期にロシアへ行くと、クリスマスツリーやサンタクロースをよく見かけます。ですが、実はこれ、全くの別物なのです。
 
ГУМ-Каток и новогодняя ёлка - panoramio
クリスマスツリーのような「ヨールカ」
 
Father Frost and Family (5402389976)
サンタクロースのような「ジェット・マロース」
 
この、「ヨールカ」と「ジェット・マロース」はクリスマスではなく、ロシアのお正月に関係するものなのです。
 
 
 

ヨールカ

 
始まりは1700年、ピョートル大帝がロシアのヨーロッパ化を進めていた時代。ピョートル大帝はドイツのクリスマスツリーをロシアに持ち込み広めようとしました。
しかし、当時のロシアではもみの木は死の象徴であり、もみの木を飾るといった行為は理解できないし、まして家の中に入れるなど以ての外でした。
 
ピョートルによってはじめてロシアにツリーが持ち込まれてから100年以上が経ち、ようやくロシアにもツリーが広まり始めます。
個人の家でツリーを飾るようになったのは1840年以降。まだ珍しいものでしたが、じわじわと広がっていきます。これは当時のロシアで流行っていたドイツ文学の影響ともいわれています。
この時代の家庭用ツリーはとても小さく、テーブルの上におけるサイズでした。これも当時のドイツの影響らしいです。
ツリーに飾られるオーナメントは現在のようなものではなく、お菓子やナッツ類、りんごなどが飾られました。
最初は小型だったツリーですが、ロシアで広がっていくにつれてサイズがどんどん大きくなっていきます。人々は大きさを競い合ったということです。
また、公の場にツリーがはじめて飾られたのは1852年。サンクトペテルブルクのエカテリーナ駅(現在のモスクワ駅)に飾られました。
 
この時代のヨールカはドイツのマネなのでクリスマスのために飾られており、お正月のためではありませんでした。
12月24日頃から1月6日までヨールカが飾られていたらしく、新年のためではないのですが1月1日にもヨールカが飾られていたことになります。
 
 
 

ジェット・マロース

 
Дед(ジェット)はお爺さん、 Мороз(マロースは)厳寒、極寒という意味。元々は冬の神様、冬の精のような存在でした。
19世紀後半、「ロシアにもサンタクロースのような存在を!」ということでジェット・マロースに白羽の矢が立ちました。
ここでサンタクロースとジェット・マロースの見分け方を説明します。
 
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まず…
 
 
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かぶっている帽子が違います。ジェット・マロースの帽子にはボンボンはついていません。毛皮の暖かい帽子です。
 
 
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ジェット・マロースの髭はストレートで床に届くくらいの長さが特徴です。
 
 
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サンタクロースはブーツを履いていますが、ジェット・マロースはバレンキというロシア伝統のフエルトでできた防寒靴を履いています。
 
 
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ジェット・マロースは分厚い毛皮のロングコートを着ます。ベルトは使わず帯を使うのがオシャレポイント。
 
 
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サンタもマロース爺さんもプレゼントの袋を持っています。子どもたちはこの袋には底がないと信じています。
ちなみにサンタは煙突から家へ侵入しますが、マロース爺さんは普通にドアを開けて侵入してきます。
 
 
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サンタにはない特徴として、マロース爺さんは魔法の杖を持ち歩いています。深い深い雪を歩く際の助けとなるこの杖。ロシアのお正月のシンボルになる前、森の精時代にはこの魔法の杖を使い人間を凍らせたりもしたとか。
 
ちなみにこの私の描いたイラストだとそもそも色が違うので見分けは簡単につくのですが、下のイラストのような赤いジェット・マロースも存在します。
 
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もともとは白い毛皮のコートだったのですが、20世紀のはじめに青くなり、ソ連時代に入ると革命の色である、この赤いコートを着るようになりました。
現在では白か青が認められているとのこと。
 
 
Дед Мороз
1885年に描かれた白いマロース爺さん(ヴィクトル・ヴァスネツォフ作)

 
また、サンタクロースはトナカイのソリに乗りますが、ジェット・マロースはロシア伝統のトロイカに乗ります。三頭立ての馬車です。
 
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ロシアのお正月の歴史

 
話はクリスマスからお正月へ。もともとロシアでは15世紀までは3月1日、15~17世紀は9月1日が元旦でした。
1700年にヨーロッパ化を進めていたピョートル大帝が1月1日を新年と定めました。
 
※ロシアはこのときからユリウス暦を採用した。それまでは世界創造紀元を使用。グレゴリオ暦はソ連時代から。
 
しかし、急にお正月が夏から冬に変わったためロシア国民は戸惑い、嫌がりました。
ピョートル大帝は1701年から花火をあげたりして無理やり新年を演出し、その後ピョートル大帝の娘であるエリザヴェータ女帝が派手なダンスパーティーや無料のフェスティバルなどを開催してなんとか国民へ浸透させることに成功したのです。
 
 
 

クリスマス終了のお知らせ

 
ソ連時代の特徴の一つとして宗教の禁止があります。ソ連時代に入り、宗教行事であるクリスマスはもちろんのこと、お正月を祝うことも禁止されます。このときからヨールカとジェットマ・ロースもソ連から消え去りました。
 
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ソ連時代に描かれた子どもたちとヨールカの周りで楽しむレーニン。
 
しかし、クリスマスと新年のお祝いの終了にレーニン本人が関わっています。
つまり、実際にはこうだったはずです。
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これも実際には
 
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こう!
 
 
 

お正月の復活

 
1918年から35年までの間、クリスマスとお正月を祝うことは禁止されましたが、1935年、子どもたちのために新年を祝おう!と政治家のパーヴェル・ポスティシェフによってお正月がソ連に復活します。
お正月復活と同時にヨールカとジェット・マロースも政府公認で復活。さらにマロース爺さんの横には彼の孫娘であるスネグーラチカの姿も!
 
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スネグーラチカ

 
スネグーラチカはマロース爺さんの孫娘という設定ですが、元々はロシア民話に登場する雪でできた女の子(雪娘)です。マロース爺さんと同じくロシアに伝わる雪の精のような存在でした。
 
Снегурочка
1885年に描かれたスネグーラチカ(ヴィクトル・ヴァスネツォフ作)
 
 
19世紀末から20世紀初頭にかけて、子どもたちが新年に演じる芝居に登場するようになり、ヨールカに人形が飾られるようになります。このときはまだただの新年のキャラクターであり、マロース爺さんとの直接的な関係はありませんでした。
お正月復活後の1936年、マロース爺さんとスネグーラチカはモスクワの「同盟の家」にて初共演をし、このときからこのコンビは新年のシンボルとして現在まで活躍をしています。
 
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ヨールカとヨールカ

 
新年のために飾るツリーのヨールカとは別のヨールカが存在します。これはお正月に行われる子供のためのパーティーのことです。
なぜ同じ名前なのかといいますと、元々ドイツから持ち込まれたヨールカ。ドイツ語でクリスマスツリーはWeihnachtsbaum。この言葉にはクリスマスツリーの他にも「ツリーの日」という意味もあるそうです。そこで、ロシアではこれを真似て新年のパーティーも「ヨールカ」と呼ぶようになりました。
 
ヨールカを初めて行ったのは1817年、ニコライ1世皇后であるアレクサンドラ・フョードロヴナです。ただしこのときは自分の家族向けのパーティーとして開催。公的なヨールカは1852年から。
 
1935年、政治家のパーヴェル・ポスティシェフの「子どもたちの楽しみを奪うべきではない。コムソモールはヨールカをやるべき。」という発言が新聞「プラウダ」の記事として掲載されました。この正月復活宣言のヨールカは、ツリーではなくパーティーの方のヨールカです。
 
ソ連時代、各地でヨールカが行われましたが、一番豪華だったのがモスクワのクレムリンで行われていたもの。当時の子供達はクレムリののヨールカに参加することが夢でした。
 
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ソ連にクリスマスは存在しなかったけどお正月はあった!
 
以上、簡単にですがジェット・マロースとヨールカからみる、ロシア、ソ連のクリスマスと正月の関係についての解説でした。
 

 

 

※世界創造紀元

 

世界創造紀元(せかいそうぞうきげん)は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で公式に使用された紀年法ビザンティン暦(英語:Byzantine calendar)とも呼ばれる。988年に皇帝バシレイオス2世により導入され、1453年の帝国滅亡まで使用された(それ以前のレオーン6世の時代から一部では使用されていた)。

 

東ローマではいわゆる「西暦」は使用されておらず、当初は古代ローマ時代からの伝統を受け継いで、その年の執政官の名で年を呼んでいた。しかし、541年に官職としての執政官が廃止され名誉称号になってしまうと、15年周期の会計年度であるインディクティオを使用するようになった。ただし、インディクティオは15年周期であるために単に「第3インディクティオ」などとすると、どの年のことなのか分からなくなってしまう可能性があった。そこでこの世界創造紀元が導入されたのである。

 

実質的にはユリウス暦であるが、名がラテン語からギリシア語に翻訳されており、また1年の開始が9月1日に置かれていた(ちなみに、インディクティオは9月始まりであった)。世界創造紀元元年は西暦に直すと紀元前5509年~5508年にあたり、旧約聖書の『創世記』にある天地創造についての年を逆算して設定された[1]

 

東ローマ帝国における1年の開始は462年頃に9月1日に変更され、537年には公式に9月1日が新年の始まりと制定された。しかし10世紀に至るまで、東ローマ帝国の歴史家たち、たとえば告白者マクシモス告白者フェオファネスゲオルギオス・シュンケロスらは、3月25日を新年の始まりとして使い続け、紀元前5508年を元年として年を数えていた。またローマ帝国が東地中海世界を支配して以来、ラテン語の月名はギリシア語に直して用いられていた。

 

は元来のユリウス暦と同様閏年に、3月1日の6日前を二回にすることで設けられた。すなわち2月24日が二回設けられる。

重要な年

東ローマ人の世界観によれば、ローマはその建国から東ローマ帝国の滅亡まで約2000年続いたことになる。

東ローマ帝国の国教であった正教会では、この紀年法が帝国の滅亡後も長く使用された。ロシアでは西暦1700年まで世界創造紀元を使用していた。正教会の幾つかの少数の教会では、現在も使用されている(日本ハリストス正教会は基本的に西暦を用いている)。

脚注

  1. ^ この算定に使用されたのは、ヘブライ語聖書ではなく、ギリシア語七十人訳聖書である。ヘブライ語本文に基づく算定と七十人訳に基づく算定では1000年以上の開きが生じる。