・王政ローマ、サトゥルヌス神殿建立(紀元前497年)
※古代ローマではサトゥルヌス(Saturnus)という土星を象徴する神が崇拝されており、今日に至るまで曜日(Saturday)にその名を刻んでいる。惑星記号♄はこのサトゥルヌスが持っている鎌を象ったもので、これは同神が農耕を司っている事に由来している。
サトゥルヌスとローマの関わりはその起源当初に遡り、ユピテルに逐われた彼がラティウムに逃れてくるとそこで土着民によって匿われ厚遇された事に感謝し、未開人であった住民らに文明を授け黄金時代を齎したという伝説が残っている。英語の「Saturnian days=黄金時代」という表現にもその面影を残している。
ウェルギリウスは『牧歌』第四節で「…新たな世紀の大いなる秩序が生まれる。旧きサトゥルヌスの御代も還る。…」と詠っている。
王政ローマ最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブスによって紀元前497年(または501年)に建立されたと言われるサートゥルヌス神殿(Temple of Saturn)は今日でもローマ西部にその遺構を見る事が出来る。神殿内には大鎌を持ったサートゥルヌスの木像が祀られており、例年12月17日から23日(25日とも)まで開催されたサトゥルナリア祭のときだけベールが解かれたという。
サトゥルナリア祭は過激といわれたクベレ祭を幾らか穏和にしたもので、クベレに対する祭祀では去勢した男性司祭達が女装するなどの儀式を行っていたが、サトゥルナリアでは家畜の性器を奉納する事で代わりとした。
クロノスと多くの性質が共通している事から、ローマ社会ではサトゥルヌスとクロノスは同一視されるようになる。
紀元前5世紀にアテネで造られた赤絵式には四頭の馬に牽かれた馬車に乗って天を駆けるヘリオスの姿が描かれているが、デナリウス銀貨にもサトゥルヌスの姿を象ったものが今日に伝わっている。そこで彼はクアドリガに乗った姿で描かれており、"SATVRN"の刻印と共に彫り込まれている。これはギリシャでヘリオスが四頭の馬に牽かれた馬車に乗っている姿と共通であり、両者の同一性を偲ばせる。
サトゥルヌスはミトラ教でも重きを置かれた神格であり、信徒の7位階の内最上位に当たる「パテル」の守護星である土星と共にその象徴とされた。
(上)サートゥルヌス(Sāturnus)
※サートゥルヌスはローマ神話に登場する農耕神。英語ではサターン。ギリシア神話のクロノスと同一視され、土星の守護神ともされる。妻はオプス、あるいはレアーとされる。
概要
農耕が時を刈り取るという意味も持ち農耕神のクロノスが時の神として混同されて扱われる時があるようにサートゥルヌスにも同様の傾向が見られる。農耕神とも時の神とも、または農耕と時の両方を司ると扱われている時もあり文献によって扱いが異なっている。ただし古代から農耕の収穫などの周期は重要であり、農耕神は時を司る神として扱われていたという説もある。
彼を祀る神殿(サートゥルヌス神殿)は、ローマの七丘の一つカピトリヌスの丘のふもとのフォルム・ロマヌムの西端にあり、ここにはローマの国庫が置かれ、また法文や元老院決議が保管されるなど、政治的にもきわめて重要な神殿だった。
彼の祝祭はサートゥルナーリア(Sāturnālia)と呼ばれ、毎年12月17日から7日間執り行われた。 その間は、奴隷にも特別の自由が許され、楽しく陽気に祝われた。
後世への影響
サートゥルナーリアでは、人々はろうそくや小さな人形を贈物として交換した。 この風習は、のちにキリスト教におけるクリスマスに受け継がれたという。
ギリシャ神話との関係
クロノスと同一視された後の神話では、ユーピテルにオリンポスを追放された彼は地上に降り立ち、カピトリヌスの丘に一市を建設してイタリアの王となった。
そして当時、未開の民だった人々に農業やブドウの木の剪定などを教え、法を発布して太古の黄金時代を築いたという(文化英雄)。
一説によると、彼をイタリアに迎えたのはヤーヌスだったという。
※オプス(Ops)は、古代ローマ神話において、サビニ人が起源の繁殖の女神、地球の女神である。
神話
夫はサートゥルヌスである。サートゥルヌスは、ギリシア神話のクロノスと同一視されるが、オプスはクロノスの妻レアーと同一視される。像や硬貨に描かれる際には、地底の神々が通常そうであるように座った姿で描かれ、象徴として王笏か穂を持つ。地底の神は、ガイア等、地母神であることの明示である。
当時のローマの文学では、Opsという単数形が用いられることはなく、Opisという複数形のみが用いられた。ラテン語でOpsという単語は、「裕福さ、物、豊かさ、才能、贅沢さ」等を意味する。また、この言葉は「労働」、特に農作業を意味するopusと関係がある。この活動は神聖なものとみなされ、しばしばオプスやコーンスス等の地底の神の意思を得るために宗教の儀式に取り入れられた。また、サンスクリット語で「物、所有」を表すapnasという言葉とも関係がある。
ローマの伝承によると、オプスへの信仰は、サビニ人の王ティトゥス・タティウスによって始められたという。オプスはすぐに裕福さ、豊かさ、繁栄の守護神となった。キャピトリウムにはオプスの神殿があり、もともとは、オプスを称える祭りは8月10日に行われていたが、さらに12月19日(12月9日という人もいる)も加わった。この祭りは、夫のクロノスの祭りでもあった。
オプスがギリシア神話に取り入れられると、サートゥルヌスの妻であるだけではなく、彼の姉妹で、カエルスの娘であるとされた。彼女の子供は、ユーピテル、ネプトゥーヌス、プルートー、ユーノー、ケレース、ウェスタである。さらに、彼女は神々の女王とされ、地位の高い女神であるとされた。
※コーンスス(Consus)は、ローマ神話の穀物の神。例祭のコーンスアーリア祭は8月21日、12月15日。
サビニ人の女たちの誘拐は8月21日の祭の日に行われたという。ロムルスはローマ人に妻となる女性が不足していたため、コーンスス神の祭にサビニ人を招待し、女たちをさらった。これが原因でローマ人とサビニ人との間に長い戦争が起こったとされる。
パラティヌス丘の麓の大円形競技場キルクス・マクシムスの中央地下にコーンススの祭壇があり、祭の日のみ掘り出された。祭ではウェスタの巫女とクゥイリーヌスのフラーメンが犠牲を捧げ、初穂の奉納と競技、ラバによる競馬が行われ、祭のあいだ馬とロバには休みが与えられた。
またコーンスアーリア祭で競馬が行われたため、コーンススはネプトゥーヌス(つまり馬の神ポセイドーン)と同一視された。
※ノヴス・オルド・セクロールム (Novus ordo seclorum) は、「時代の新秩序」を意味するラテン語の成句で、アメリカ合衆国の国璽の裏面に書かれている。 1782年に国璽のデザインに取り入れられ、1935年以降は1米ドル紙幣の裏面にも印刷されている。
この成句は、ウェルギリウス『牧歌』第4歌を踏まえている。 その5-8行目に、次のような表現がある。
Ultima Cumaei venit iam carminis ætas; 今やクーマエの巫女の歌が予言した最後の時代が到来した
Magnus ab integro sæclorum nascitur ordo. 時代の大いなる秩序が新たに生まれる
iam redit et Virgo, redeunt Saturnia regna, 今や女神ヴァルゴが戻り、サートゥルヌス神の王国も甦った
iam nova progenies cælo demittitur alto. 今や新しい血統が高き天より遣わされる
中世のキリスト教徒は、ウェルギリウスの詩をキリスト降誕を予言したものと解釈した。アウグストゥス帝時代は紀元前ではあるが、世の中がキリスト降誕に向けて準備を始めた黄金時代とみなされた。この時代の偉大な詩人は、キリストの秘蹟がもたらす啓示や霊光の源と考えられた。
※クーマエ(ラテン語: Cumae)は、現在のイタリア・ナポリ北西に築かれた古代ギリシャの植民市。イタリア半島に初めて建設された古代ギリシャ植民市である。
クマエ、クマエー、クーマイ等とも表記される。ウェルギリウスの『アエネーイス』に登場する「クマエのシビュラ(巫女)」でも有名。また、この都市で使われたギリシャ文字の一種(クマエ文字)からは、ラテン文字が派生した。
ティレニア海に面したこの都市は、エウボイア島のギリシャ人によって建設された。
エウボイアの人々は、標準的なギリシャ文字(東方ギリシャ文字)とは異なる字形を持つ文字(西方ギリシア文字)を使っており、クマエでもこれが用いられた。この系統のギリシャ文字からは、エトルリア文字をはじめとする古イタリア文字やラテン文字が派生したことが特筆され、特に「エウボイア文字」(Euboean alphabet)、「クマエ文字」(Cumaean alphabet)とも呼ばれる。
※クマエのシビュラはローマ神話に登場する女性で、アポローンから予言の才と1000年の命を与えられたが、若さを保てるようにしてもらうことを忘れたため、年老いて萎んでいったとされる。
ウェルギリウスには、アエネアスの冥界への旅路に同伴した女性として描かれた。
ほかに、ウェルギリウスは『牧歌』において、クマエのシビュラの予言として神童と黄金時代の到来を歌い上げた。この予言は、古代から中世のキリスト教社会では、キリストの降誕を予言したものとして広く知られた。
さらに、ハリカルナッソスのディオニュシオス、ウェルギリウス、ラクタンティウスなどは、『シビュラの書』をローマに持ち込んだのがクマエのシビュラだったとして、以下のように伝えている。
クマエのシビュラがローマ王タルクィニウス(タルクィニウス・プリスクスないしタルクィニウス・スペルブス)に、9巻本の託宣を900ピリッポスで売ろうと持ちかけた。タルクィニウスがその法外な高さを理由に断ると、彼女は3巻分を焼き捨てて残りを再び900ピリッポスで売ると言い出した。それも断られると彼女はさらに3巻分を焼き、残りを900ピリッポスで売ると言った。王はその提案に興味を持ち(あるいは動転のあまりに)、それを受け入れ3巻分を言い値で買い取った。
・淡路島で銅鐸(紀元前4世紀~紀元前2世紀)
※淡路島の銅鐸、紀元前4世紀ごろ埋めたか 付着植物片で判明(日本経済新聞 2017年6月6日)
※兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。
銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。
銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。
松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。
4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。
銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。
かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。
※仮説:銅鐸=鐘=金(かね)。鐘=鈴は音楽を奏でる道具。銅鐸は御神体=「神」そのもの。
おそらく普段は土中に埋めて、一年に一回、年末(もしくは収穫後)から新年(=新春、もしくは田植え前)にかけて、掘り出して、ピカピカに磨いて黄金色に輝かせて、音を鳴らしたり拝んだりして、豊猟や豊作の感謝や祈願をして、祀ったものと想像する。祭祀が終わったらまた土中に埋める。
可能性として銅鐸は(おそらくその背景にある宗教思想とともに)中国大陸の「越」国から直接伝わったとも。3世紀頃に日本に統一王権が誕生すると、銅鐸祭祀はその役割を終える。
※『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸(たく)が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』(朝日新聞 2006年3月7日)
(上)中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸
※古代中国の貨幣、淡路島で出土 交通の要衝示す(神戸新聞 2017年5月18日)
紀元14〜40年にかけて中国古代国家の「新」「後漢」で鋳造されたとされる貨幣「貨泉」3枚が、兵庫県南あわじ市八木入田の入田稲荷前遺跡で見つかった。同市教育委員会が18日発表した。弥生時代に日本へ流入したとみられ、一度に出土した数量としては全国で3番目の規模となる。
貨泉は九州や近畿、瀬戸内海沿岸などの遺跡で計約180枚が見つかり、兵庫県内でも7遺跡10枚に上るが、複数がまとまって出土するのは珍しい。市教委は「海上交通の要衝だった淡路島が弥生時代の流通で果たした役割を考える上で重要な史料」としている。
ほ場整備に伴う調査で、昨年12月に3枚が重なった状態で出土した。直径約2・3センチ、厚さ約1〜1・3ミリ、重量約1・5〜2・5グラム。中央に一辺7〜8ミリの四角い孔(穴)が開いており、片側の面に「貨」と「泉」の文字がある。新代の規格と異なるため、後漢の初期に鋳造されたとみられる。
入田稲荷前遺跡の3枚出土は、岡山県の高塚遺跡の25枚、福岡県の元岡・桑原遺跡群の8枚に次ぐ規模。一般的に貨泉は沿岸での発見例が多いが、入田稲荷前遺跡は島南部の内陸に広がる三原平野の河岸段丘にある。讃岐・阿波地方から搬入された土器も出土したほか、周辺に弥生時代の拠点集落跡もあり、吉備地方や四国を経由した交易などで流入したと推測される。
南あわじ市では15年4月に祭祀道具「松帆銅鐸」7点が見つかるなど、弥生時代の青銅器が集中出土。弥生時代最大級の鉄器工房である五斗長垣内遺跡や、中国鏡片が発見された舟木遺跡(いずれも淡路市)とは同時代に当たる。南あわじ市教委は「渡来人との交易もうかがわせ、畿内への玄関口となる淡路島の重要性を示す遺物」と評価する。
森岡秀人・関西大大学院非常勤講師(考古学)の話 弥生時代は物品貨幣の社会で、実用の貨幣だったとは考えがたく、交易拠点にもたらされた小型青銅器の一つではないか。近畿の中央部と変わらない段階で中国の銭貨が伝わっていたことを示す例で、大陸系文物への求心力が淡路島南部にあったのだろう。出土地近辺には有力な弥生遺跡もあり、因果関係を十分に考えてよい。銅鐸を使わなくなった淡路島の弥生社会が次の活性期に入る時期。邪馬台国発展など大きな国造りの過程で中枢を担う有力者が存在した可能性がある。
【貨泉】古代中国で前漢と後漢の間に新(8〜23年)を建国、統治した王莽が流通させた貨幣。鋳造期間が新以後の後漢時代の40年まで約20年間と短く、年代決定の重要な指標となっている。最初は直径2・35センチ、重量3・19グラムと規格が決まっていたが、後漢では民間も生産したため規格が異なる。貨幣ではなく、交易品、権勢を示す「威信財」、国産青銅器の材料など使途は諸説ある。
・ディプロストーン虐殺(38年?)
※ブログ主注:下記引用サイトは「hexagon.inri.client」(hexagonは六芒星、INRI はラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語であり「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という意味)となっていることからキリスト教(もしくはユダヤ)系謀略サイトの可能性が高い。またBCとADの取り違えなど記述に間違いも多い。キケロは紀元前の人物。
※キリスト教確立以前にも起きていたユダヤ人虐殺事件(ブログ主注:時系列など改変修正)
http://hexagon.inri.client.jp/floorA1F/a1f1302.html
なぜ、ユダヤ人は迫害され、差別され続けてきたのか?
その理由として、キリスト教側がユダヤ人を「イエスをメシア(救世主)と認めずに殺した、永遠に呪われた民族」として断罪したことが挙げられよう。
例えば、“キリスト教会史の父”と言われる4世紀のエウセビオスは、ユダヤ人に「主イエスを殺した者たち」「キリスト殺しども」というレッテルを貼り、悪しきイメージ作りに狂奔した。また、同世紀のアウグスティヌスもユダヤ人を「悪霊に憑依された破壊者」と断じ、そのため「神により離散の刑を科せられている」と言ってはばからなかったのである。
このようにして、キリスト教社会では反ユダヤ主義の正当性が“神学的”に承認されるようになった。
(中略)
だが不思議なことに、ユダヤ人は「イエス殺しの民族」という、キリスト教サイドの単純な宗教的偏見だけで迫害される民族ではないようだ。なぜならば、キリスト教が確立する以前の時代から、ユダヤ迫害事件が起きているからだ。
例えば、紀元前167年、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世・エピファネスが、ユダ州とサマリア州の全面的なギリシア化(ヘレニズム化)を宣言し、エルサレムを完全制圧すると、彼は「ソロモン第二神殿」にゼウスの偶像を置き、ユダヤ人にゼウス崇拝を強要。そして反抗するユダヤ人を徹底的に弾圧。その結果、8万人のユダヤ人が虐殺され、4万人が捕囚となり、さらに4万人の女・子供が奴隷として売り払われてしまったのである。
イエス誕生前の古代ローマ帝国において、ユダヤ人の存在は無視できないものになっていたのだが、古代の歴史家たちはこの特異な“ユダヤ集団”に注目し、それについて意見を述べていた。
ギリシアの歴史家であり地理学者であったストラボン(BC63~AD21)は、以下のような記述を残している。
「キレネ(アフリカ北部リビア東部にあった地中海に臨む古代都市)には4つの階級がある。1番目は市民、2番目は農民、3番目は外国人居住者、そして4番目がユダヤ人である。このユダヤ民族は、既にあらゆる都市に入り込んでいる。そして、およそ人の住める世界でユダヤ人を受け入れていない場所、その力を感じさせない所を見つけることは容易ではない。」
ローマの歴史家ディオドロス(BC1世紀生まれ/著書『世界史』)は、以下のような記述を残している。
「あらゆる民族の中でただユダヤ人のみは、他のどのような民族ともうまくやっていくことをことごとく拒絶し、他の全ての人間を敵とみなしている」
ローマの偉大な歴史家タキトゥス(AD55~120年)は、以下のような記述を残している。
「ユダヤ人の習慣は卑しく忌まわしく、ユダヤ人がその習慣に固執するのは、彼らが腐敗堕落しているからである。ユダヤ人はユダヤ同士では極端に忠実であり、いつでも同情を示す用意ができているが、異民族に対しては、憎悪と敵意しか感じない。民族として激しやすい。ユダヤ人同士の間では、合法的なものは何もない。」
BC59年頃、ローマ貴族で前アジア総督であったルシウス・バレリウス・フラックスは、ユダヤ人による黄金積み出しに対する禁止令を強制しようとした。
が、その結果、ローマのユダヤ人に解任される羽目になり、デッチ上げの横領罪に問われてしまった。そこで、ローマの偉大な執政官キケロは、陪審員の前でフラックスを弁護する演説を以下のように展開した(BC59年10月)。
「さて我々は、黄金、それもユダヤ人の黄金にまつわる名誉棄損問題に取り組むわけであります。(略)ユダヤがどんなに大きな集団であるか、またユダヤが政治にいかに影響力があるかということは、ご承知の通りです。私は声をひそめて、陪審員の方々に聞こえるだけの大きさでお話ししよう。というのも、私をはじめあらゆる善良なローマ人を妨害すべく、あれらのユダヤ人を扇動する者が大勢いるからであります。その者たちに少しでも手助けになることは、私の意図せざるところであります」
「毎年、黄金が定期的にユダヤ人の名において、イタリアおよび全ての我が属州からエルサレムに輸出されたため、フラックスはアジアからの黄金輸出を禁じる布告を出したのであります。陪審員諸君で、誰がこの行動を心から誉めないでおれましょう? 黄金の輸出は、以前にも再三再四にわたって、そして私の執政官在任中には最も厳しく、元老院から禁じられていたのであります。それに加えて、フラックスがこのユダヤの迷妄行為に反対したことは、彼が強い個性を持っている証拠であります。また政治集会において、ユダヤ人のやじ馬連中の強引さをたびたび封じ込めては国を守ったことは、彼の強い責任感の証拠であります」
裁判の結果、フラックスの横領罪の嫌疑は晴れた。しかし、元老院による黄金積み出し禁止令は解除されてしまった。
テキサス大学のハリー・J・レオンは著書『古代ローマのユダヤ人』の中で、ローマ帝国におけるユダヤ人の力について述べている。ちなみにこの本はユダヤ出版協会から出ている。
「……ローマ市内のユダヤ人は既にローマ政治における侮りがたい要素となった。政治的野心のあるユリウス・カエサルはユダヤの力を認識した。『人民党』すなわち自由民主党もしくは民衆党のユダヤ人は、カエサルを支持した。ユダヤから受けた支援に対する見返りとして、カエサルは目にあまるほどユダヤびいきを示した。そして運よくヨセフスによって記録されたユダヤの利益のためのカエサル法令は、ユダヤのマグナ・カルタと呼ばれてきた。
カエサルは徴兵からユダヤ人を免除し、エルサレムの神殿に黄金を船で積み出すことを許可した。そしてユダヤの特別法廷(サンヘドリン)の権威を承認した。しかし、ローマの元老員の中には、これを面白くないと感じる者がいた。 〈中略〉 カエサルの暗殺ののち幾晩も、ユダヤ人集団はカエサルの火葬用の薪の積み重なった場所に来て嘆き悲しんだ。……結局、ローマ帝国を受け継いだアウグストゥス帝は、ユダヤ人の特権を回復させた。」
しかし、そんな特権を享受していたユダヤ人たちは、ローマ帝国支配下のエジプト・アレキサンドリアで、「ディプロストーンの破壊」という悲惨な事件に遭遇する。
かの有名なアレキサンダー大王はユダヤ人を重く用い、彼が新設したアレキサンドリアの町では、ユダヤ人にマケドニア・ギリシア人と同じ特権を与えていたと言われている。“同じ”といっても、実際上の政治の特権はギリシア人が握っていて、支配階級はギリシア人によって構成されており、その一級下で経済機構を運営するのがユダヤ人の役目となっていたという。
アレキサンダーは、地中海の制海権を握るために南下してシリアを奪い、さらにシドン、ツロ、
ガザをくだして、BC332年、ついにエルサレムに至った。同地のユダヤ人たちは、ラビ(ユダヤ教指導者)も民衆も皆、アレキサンダーを「大王」と称して歓迎し、恭順の礼を尽くした。
これは彼らの聖なる文書『ダニエル書』の中に、その出現が預言されていたからだという。
アレキサンダー大王の死後、エジプトのプトレマイオス家とシリアのセレウコス家が パレスチナ地方の支配をめぐって対立。そして抗争するに及んで、ユダヤ人はパレスチナを捨てて続々エジプトに移住を開始。その多くがアレキサンドリアに集中した。そのため、アレキサンドリアは「ユダヤ人居留地」に指定されるに至った(BC320年頃)。もちろん、パレスチナに居残り続けたユダヤ人も多くいた。
しかし、プトレマイオス王朝滅亡後(BC30年)、ローマ帝国領となると、天賦の才能に恵まれるユダヤ人は、いつしか全エジプトの経済を握り、今の言葉で言えば「国立銀行総裁」や「輸出入公団総裁」のような地位まで占めるようになった。そして“ユダヤ商人ギルド連合事務所”ともいうべき「ディプロストーン」が設けられたのだが、これには付属工場と倉庫群があり、その威容は全東方を圧するほどで、「ディプロストーンを見ずに、壮大なものを見たというな!」という言葉さえあったという。
だが、来るべきものが来た。AD38年、ディプロストーンは破壊され掠奪され、全市にユダヤ人の血が流れたのである。
・マヤ文明古典期後期(7~8世紀)
※闘う運命の兄弟(ナショナルジオグラフィック日本語版 2007年8月号)
7世紀の初め、ティカルで薄幸の運命を背負った二人の王が生まれた。バラフ・チャン・カウィールは幼いうちに、交易の拠点ドス・ピラスを支配すべく現地に送られ、もう一人はティカルの王となる。ティカルの敵国カラクムルは、ドス・ピラスを征服し、その王を捕らえてティカルに立ち向かわせた。ドス・ピラスはティカルを打ち負かし、バラフ・チャン・カウィールは自分の兄弟を含む血縁者を生け贄に捧げた。ドス・ピラスの階段には、「頭蓋骨の山が築かれ、血の川が流れた」と刻まれている。しかし、ティカルとカラクムルの覇権争いは続き、暴力の連鎖は古典マヤ文明に破滅的な結末を招いた。
※仮説:カラクルム=太陽、ティカル王=月、ドス・ピラス王=金星
中米の神話では、「太陽=支配者の座」をめぐって、月と金星(の兄弟)が争い、交互に「王位につく=太陽になる」。合理的な神話の構造。
※カラクムル(Calakmul)は、メキシコ・カンペチェ州にある先古典期後期から古典期にかけて繁栄したマヤ「中部地域」の大都市。その規模は30km2に及び、ティカル(Tikal)と並ぶ古典期最大級の「都市」であった。
旧名はオシュテトウン(3つの石)と呼ばれ、「蛇(カーン)」王朝という強大な国の首都であった。紋章文字は蛇の頭で表現された。
1931年に発見され、マヤ遺跡では最多の117基もの記念碑が確認されている。
・三途の川信仰が日本で普及(平安時代末期。12世紀後半?)
・賽の河原信仰が日本で普及(室町時代中期。15世紀?)
※三途川(さんずのかわ、さんずがわ)は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は仏典に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。
ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教からギリシャ神話にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。
伝承の起源
三途川の出典は『金光明経』1の「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」である。この地獄・餓鬼・畜生を三途(三悪道)といい、これが広く三悪道を指して三途川と称する典拠であるといわれる。
しかしながら俗に言うところは『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称:地蔵十王経)の「葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡」に基づいて行われた十王信仰(閻魔大王は十王のうちの1人)による。
この十王経は中国で成立した経典であり、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われるが、信仰として広まったのは平安時代末期とされる。
正式には「葬頭河」といい、また「三途の川」・「三途河」(しょうずか、正塚)・「三瀬川」・「渡り川」などとも呼ばれる。
一説には、俗に三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるともいわれる。これは善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。
伝承
渡し舟
平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方に変形する。
三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いており、現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭「冥銭」が使われることが多いようである。
懸衣翁・奪衣婆
三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、盛んに信仰された。
賽の河原
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる(「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして、日本各地に存在する)。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。
賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。
中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった。
女性の渡河
10世紀中頃の日本の俗信として、「女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった。また、『蜻蛉日記』の作者は、三途の川を女が渡る時には、初の男が背負うて渡る—といった意味の歌を詠んでいる。こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる。
※奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。
江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目があるといわれた。
※懸衣翁(けんえおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆の隣にいるといわれる老人である。
奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。
罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという。
※賽の河原(境界の手前)で、親(神)に先立って死んだ子供(神の子)が、積み石による塔(バベルの塔)を完成させると親(神)の供養になるが、完成する前に鬼(悪魔)が現れて、塔を破壊し、何度、塔を築いてもその繰り返しになってしまう。しかし最終的には、子供は[[地蔵菩薩]](聖母)によって救済される。
・室町時代、床の間に「鏡餅」を供えるようになる(14~16世紀頃?)
※鏡餅(かがみもち)とは、日本の伝統である、餅を神仏に供える正月飾り(床飾り)であり、 穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり、「年神(歳神)」の依り代である。
平安時代には既に存在し、現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降である。
武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えた。鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれた。
鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされる。
一般的には、大小2つの平たい球状の餅とダイダイが使用されるが、地域によっては違いがあり、餅が三段のもの、二段の片方を紅く着色して縁起が良いとされる紅白としたもの(石川県で見られる)、餅の替わりに砂糖で形作ったもの、細長く伸ばしたものを渦巻状に丸めてとぐろを巻いた白蛇に見立てたものなど様々である。
また、三方に半紙を敷き、その上に裏白(羊歯の一種)を載せ、大小2つの餅を重ね、その上に串柿・干しするめ・橙・昆布などを飾るようになっている。鏡餅の飾り方には地域によって様々であり、串柿が無い地域や、餅と餅の間に譲葉を挟む地域、昆布とスルメを細かく切ったものを米に混ぜて半紙でくるんだ物を乗せる地域などもある。
神仏に捧げる鏡餅を飾る場所として、床の間が最もふさわしいが、無い場合は、玄関から遠い、奥まった位置にするのがふさわしいとされる。
神様への供え物なので、松の内に下げたり食べたりせず飾っておく。
松の内が終わりお供えが終了した後は、飾ったままにせず下げる。
正月が終わって下げた餅は「鏡開き」を行い、餅を食することになる。鏡は円満を、開くは末広がりを意味し、また刃物で切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で餅を食べやすい大きさに分ける。正月をすぎた鏡餅は硬く乾燥しひび割れているため、主に汁粉や雑煮や焼餅などにして食する。
※年神(歳神、としがみ)は、神道の神である。
来方神
毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。
現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝わる年神は、トシドンとよばれる。
また陰陽家では、娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、女神・頗梨采女(はりさいじょ)のことを年神といい、元旦に来訪する神霊という。のちに、これに先祖霊が加えられ、習合した。
穀物神
「年(とし)」は稲の実りのことで、穀物神である。本居宣長は「登志とは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり」と述べ、穀物、農耕神であるとした。
祖霊
年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたためである。
柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
年徳神
中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされた。
暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。
正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという伝承がある。
大年神・御年神
日本神話では、スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
古語拾遺における記載
『記紀』には系譜以外の事績の記述がないが、『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。
大歳神社
大年神は大歳御祖神社(静岡県静岡市葵区)、飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)などで祀られている。また、特に西日本で大歳神社・大歳様として田の畔の祠などに祀られている。葛木御歳神社(奈良県御所市)が全国の御歳神(御年神)を祭る神社の総本社とされる。
・任意団体「伊勢三宮奉賛献灯会」、伊勢神宮に六芒星の灯篭を献納し始める(1955年設立、1964年解散)
※ユダヤと伊勢神宮 ★ガセ情報にご注意★
http://ameblo.jp/hex-6/entry-10726769320.html
伊勢新宮灯篭に刻まれたダビデの星
ユダヤのシンボル六芒星が伊勢神宮の灯篭に彫られている、というのは有名です
天皇家の十六弁菊花紋とダビデの星(ユダヤ王の紋章)が刻まれていて日ユ同祖の証拠としてよく取り上げられる灯篭です
実は、この灯篭、伊勢神宮とは別の団体が昭和30年に寄進として建て始めたもので、伊勢神宮の管理物ではありません
しかもその団体は、建立寄進後、解散してます
建立後約50年を経て老朽化が目立ち、問題になり始めました
伊勢市議会では、東海地震対策として対震性がないことから、危険と判断され撤去を決め、2007年から新しい灯篭に交換作業をはじめました
順次古いものは撤去され、交換されます
------------伊勢市会議議事報道--------------------------------------------------------
平成19年度 伊勢市第1回経営戦略会議 会議結果の概要
○開催日時
平成19年4月23日(月)午後3時~午後5時
○開催場所
本庁東庁舎4-2会議室
○出席者
市長、副市長、会計管理者、総務部長、財務政策部長、生活部長、環境部長、健康福祉部長、産業部長、観光交通部長、都市整備部長、上下水道部長、二見総合支所長、小俣総合支所長、御薗総合支所長及び市立伊勢総合病院事務部長
http://www.city.ise.mie.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1179374741060&SiteID=0
この灯ろうは、昭和30年(1955年)に設立された「伊勢三宮奉賛献灯会」という任意団体が、当時、伊勢神宮に奉献することを目的として、御幸道路と市道に三重県知事と伊勢市長の道路占用許可を得て建てたものであり、その後には、国道23号の拡幅工事等に伴って、一部が宇治浦田街路広場に移設されている。
・昭和39年(1964年)に「伊勢三宮奉賛献灯会」が解散した後は、灯ろうの所有者が明確でない状態となり、また、灯ろう自体の経年による劣化や耐震強度の点から安全性に問題があることから、東海地震等の発生が危惧されている今日においては、灯ろう問題の解決を図ることは、喫緊の課題となっている。
・懇話会では、市民アンケートの結果も踏まえて検討した結果、今後も灯ろうのある風景は「伊勢らしい良好な風景」として残していくべきであり、その方法については、安全性の確保の観点等から現在のものを撤去し、更なる良好な景観を形成していくため、新たな灯ろうを設置することが適当であるとの結論となり、.....
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ハッキリ明記されている
伊勢神宮とは何の関係もない、昭和の製作物である
・アメリカ、アンドリュー・ジャクソン・デービス、「自然の原理、自然の神的な啓示、および人類への声」出版(1846年)
(上)アンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis, 1826年8月11日 - 1910年1月13日)
※米国の霊覚者。
思想的にスピリチュアリズムを先取りした哲学書を出版して後のスピリチュアリズムに多大な影響を与え、「スピリチュアリズムのヨハネ」と言われた。奴隷制度廃止運動家、女性解放運動家、禁酒運動家でもあり、スピリチュアリズムの思想によって社会に影響を与えた最初の人と言える。
来歴・思想
ニューヨーク州のオレンジ郡ブルーミングローブ生まれ。家が貧しく、教育はほとんど受けていない。成長すると、靴屋の徒弟となった。生まれつき霊視能力があったらしく、母が死去したときに輝くような野原に美しい家のビジョンを見て、母が行ったところだと思ったという。
1843年、17歳で近くの町の講演会に出かけて催眠術にかけられ、催眠状態で透視能力や読心能力を発揮できることに気づく。さらに実験を続けるうち、特殊な能力が発達した。
この能力を生かすべく最初は病気の治療を始め、「ポキプシーの千里眼」として評判になった。しかし、催眠状態に入ると演説することが多くなり、入神講演と出版がライフワークであることを認識して治療院を閉鎖した。
1846年、20歳で入神講演の内容をまとめ、800ページの大著「自然の原理、自然の神的な啓示、および人類への声」として出版した。これは大反響を呼び、当時の米国の知識階級に大きな影響を与えたといわれる。
第1部「自然の原理」では、万物の進歩という普遍的な原理、その原理に従った、物質とその内的な原理の進歩、物質の完全態で実在である霊、精神の死後存続、第1原因たる神の属性などが述べられている。第2部「自然の神的な啓示」では、宇宙の形成、太陽系の形成、太陽系の惑星の様子や居住者、地球の形成、人間に至るまでの地球の進歩について書かれている。また、聖書の起源、完全な人間の模範たるイエスの真の姿、神の王座である霊的な太陽と、その周りの6つの霊界の様子や居住者についても語られている。そして、第3部「人類への声」では、現在の社会における悪の構造的な原因と、自然の原理に基づいた理想的な社会構成について述べられている。
後にスピリチュアリストたちの活動が盛んになってくると喜んで支持し、自らを「スピリチュアリスト」とした。しかし、哲学的思想をなおざりにして物理的現象にばかり夢中になる傾向がスピリチュアリズムに出てくるとこれを嫌い、1880年には自分の哲学は「調和哲学」だと宣言して、スピリチュアリズムと袂を分かってしまった。その後も精力的に出版を続け、1910年に死去。
A・J・デービスは1848年のハイズビルのフォックス家事件以降に起こったスピリチュアリズムの勃興を予告した人物としても知られている。
※古代ローマではサトゥルヌス(Saturnus)という土星を象徴する神が崇拝されており、今日に至るまで曜日(Saturday)にその名を刻んでいる。惑星記号♄はこのサトゥルヌスが持っている鎌を象ったもので、これは同神が農耕を司っている事に由来している。
サトゥルヌスとローマの関わりはその起源当初に遡り、ユピテルに逐われた彼がラティウムに逃れてくるとそこで土着民によって匿われ厚遇された事に感謝し、未開人であった住民らに文明を授け黄金時代を齎したという伝説が残っている。英語の「Saturnian days=黄金時代」という表現にもその面影を残している。
ウェルギリウスは『牧歌』第四節で「…新たな世紀の大いなる秩序が生まれる。旧きサトゥルヌスの御代も還る。…」と詠っている。
王政ローマ最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブスによって紀元前497年(または501年)に建立されたと言われるサートゥルヌス神殿(Temple of Saturn)は今日でもローマ西部にその遺構を見る事が出来る。神殿内には大鎌を持ったサートゥルヌスの木像が祀られており、例年12月17日から23日(25日とも)まで開催されたサトゥルナリア祭のときだけベールが解かれたという。
サトゥルナリア祭は過激といわれたクベレ祭を幾らか穏和にしたもので、クベレに対する祭祀では去勢した男性司祭達が女装するなどの儀式を行っていたが、サトゥルナリアでは家畜の性器を奉納する事で代わりとした。
クロノスと多くの性質が共通している事から、ローマ社会ではサトゥルヌスとクロノスは同一視されるようになる。
紀元前5世紀にアテネで造られた赤絵式には四頭の馬に牽かれた馬車に乗って天を駆けるヘリオスの姿が描かれているが、デナリウス銀貨にもサトゥルヌスの姿を象ったものが今日に伝わっている。そこで彼はクアドリガに乗った姿で描かれており、"SATVRN"の刻印と共に彫り込まれている。これはギリシャでヘリオスが四頭の馬に牽かれた馬車に乗っている姿と共通であり、両者の同一性を偲ばせる。
サトゥルヌスはミトラ教でも重きを置かれた神格であり、信徒の7位階の内最上位に当たる「パテル」の守護星である土星と共にその象徴とされた。
(上)サートゥルヌス(Sāturnus)
※サートゥルヌスはローマ神話に登場する農耕神。英語ではサターン。ギリシア神話のクロノスと同一視され、土星の守護神ともされる。妻はオプス、あるいはレアーとされる。
概要
農耕が時を刈り取るという意味も持ち農耕神のクロノスが時の神として混同されて扱われる時があるようにサートゥルヌスにも同様の傾向が見られる。農耕神とも時の神とも、または農耕と時の両方を司ると扱われている時もあり文献によって扱いが異なっている。ただし古代から農耕の収穫などの周期は重要であり、農耕神は時を司る神として扱われていたという説もある。
彼を祀る神殿(サートゥルヌス神殿)は、ローマの七丘の一つカピトリヌスの丘のふもとのフォルム・ロマヌムの西端にあり、ここにはローマの国庫が置かれ、また法文や元老院決議が保管されるなど、政治的にもきわめて重要な神殿だった。
彼の祝祭はサートゥルナーリア(Sāturnālia)と呼ばれ、毎年12月17日から7日間執り行われた。 その間は、奴隷にも特別の自由が許され、楽しく陽気に祝われた。
後世への影響
サートゥルナーリアでは、人々はろうそくや小さな人形を贈物として交換した。 この風習は、のちにキリスト教におけるクリスマスに受け継がれたという。
ギリシャ神話との関係
クロノスと同一視された後の神話では、ユーピテルにオリンポスを追放された彼は地上に降り立ち、カピトリヌスの丘に一市を建設してイタリアの王となった。
そして当時、未開の民だった人々に農業やブドウの木の剪定などを教え、法を発布して太古の黄金時代を築いたという(文化英雄)。
一説によると、彼をイタリアに迎えたのはヤーヌスだったという。
※オプス(Ops)は、古代ローマ神話において、サビニ人が起源の繁殖の女神、地球の女神である。
神話
夫はサートゥルヌスである。サートゥルヌスは、ギリシア神話のクロノスと同一視されるが、オプスはクロノスの妻レアーと同一視される。像や硬貨に描かれる際には、地底の神々が通常そうであるように座った姿で描かれ、象徴として王笏か穂を持つ。地底の神は、ガイア等、地母神であることの明示である。
当時のローマの文学では、Opsという単数形が用いられることはなく、Opisという複数形のみが用いられた。ラテン語でOpsという単語は、「裕福さ、物、豊かさ、才能、贅沢さ」等を意味する。また、この言葉は「労働」、特に農作業を意味するopusと関係がある。この活動は神聖なものとみなされ、しばしばオプスやコーンスス等の地底の神の意思を得るために宗教の儀式に取り入れられた。また、サンスクリット語で「物、所有」を表すapnasという言葉とも関係がある。
ローマの伝承によると、オプスへの信仰は、サビニ人の王ティトゥス・タティウスによって始められたという。オプスはすぐに裕福さ、豊かさ、繁栄の守護神となった。キャピトリウムにはオプスの神殿があり、もともとは、オプスを称える祭りは8月10日に行われていたが、さらに12月19日(12月9日という人もいる)も加わった。この祭りは、夫のクロノスの祭りでもあった。
オプスがギリシア神話に取り入れられると、サートゥルヌスの妻であるだけではなく、彼の姉妹で、カエルスの娘であるとされた。彼女の子供は、ユーピテル、ネプトゥーヌス、プルートー、ユーノー、ケレース、ウェスタである。さらに、彼女は神々の女王とされ、地位の高い女神であるとされた。
※コーンスス(Consus)は、ローマ神話の穀物の神。例祭のコーンスアーリア祭は8月21日、12月15日。
サビニ人の女たちの誘拐は8月21日の祭の日に行われたという。ロムルスはローマ人に妻となる女性が不足していたため、コーンスス神の祭にサビニ人を招待し、女たちをさらった。これが原因でローマ人とサビニ人との間に長い戦争が起こったとされる。
パラティヌス丘の麓の大円形競技場キルクス・マクシムスの中央地下にコーンススの祭壇があり、祭の日のみ掘り出された。祭ではウェスタの巫女とクゥイリーヌスのフラーメンが犠牲を捧げ、初穂の奉納と競技、ラバによる競馬が行われ、祭のあいだ馬とロバには休みが与えられた。
またコーンスアーリア祭で競馬が行われたため、コーンススはネプトゥーヌス(つまり馬の神ポセイドーン)と同一視された。
※ノヴス・オルド・セクロールム (Novus ordo seclorum) は、「時代の新秩序」を意味するラテン語の成句で、アメリカ合衆国の国璽の裏面に書かれている。 1782年に国璽のデザインに取り入れられ、1935年以降は1米ドル紙幣の裏面にも印刷されている。
この成句は、ウェルギリウス『牧歌』第4歌を踏まえている。 その5-8行目に、次のような表現がある。
Ultima Cumaei venit iam carminis ætas; 今やクーマエの巫女の歌が予言した最後の時代が到来した
Magnus ab integro sæclorum nascitur ordo. 時代の大いなる秩序が新たに生まれる
iam redit et Virgo, redeunt Saturnia regna, 今や女神ヴァルゴが戻り、サートゥルヌス神の王国も甦った
iam nova progenies cælo demittitur alto. 今や新しい血統が高き天より遣わされる
中世のキリスト教徒は、ウェルギリウスの詩をキリスト降誕を予言したものと解釈した。アウグストゥス帝時代は紀元前ではあるが、世の中がキリスト降誕に向けて準備を始めた黄金時代とみなされた。この時代の偉大な詩人は、キリストの秘蹟がもたらす啓示や霊光の源と考えられた。
※クーマエ(ラテン語: Cumae)は、現在のイタリア・ナポリ北西に築かれた古代ギリシャの植民市。イタリア半島に初めて建設された古代ギリシャ植民市である。
クマエ、クマエー、クーマイ等とも表記される。ウェルギリウスの『アエネーイス』に登場する「クマエのシビュラ(巫女)」でも有名。また、この都市で使われたギリシャ文字の一種(クマエ文字)からは、ラテン文字が派生した。
ティレニア海に面したこの都市は、エウボイア島のギリシャ人によって建設された。
エウボイアの人々は、標準的なギリシャ文字(東方ギリシャ文字)とは異なる字形を持つ文字(西方ギリシア文字)を使っており、クマエでもこれが用いられた。この系統のギリシャ文字からは、エトルリア文字をはじめとする古イタリア文字やラテン文字が派生したことが特筆され、特に「エウボイア文字」(Euboean alphabet)、「クマエ文字」(Cumaean alphabet)とも呼ばれる。
※クマエのシビュラはローマ神話に登場する女性で、アポローンから予言の才と1000年の命を与えられたが、若さを保てるようにしてもらうことを忘れたため、年老いて萎んでいったとされる。
ウェルギリウスには、アエネアスの冥界への旅路に同伴した女性として描かれた。
ほかに、ウェルギリウスは『牧歌』において、クマエのシビュラの予言として神童と黄金時代の到来を歌い上げた。この予言は、古代から中世のキリスト教社会では、キリストの降誕を予言したものとして広く知られた。
さらに、ハリカルナッソスのディオニュシオス、ウェルギリウス、ラクタンティウスなどは、『シビュラの書』をローマに持ち込んだのがクマエのシビュラだったとして、以下のように伝えている。
クマエのシビュラがローマ王タルクィニウス(タルクィニウス・プリスクスないしタルクィニウス・スペルブス)に、9巻本の託宣を900ピリッポスで売ろうと持ちかけた。タルクィニウスがその法外な高さを理由に断ると、彼女は3巻分を焼き捨てて残りを再び900ピリッポスで売ると言い出した。それも断られると彼女はさらに3巻分を焼き、残りを900ピリッポスで売ると言った。王はその提案に興味を持ち(あるいは動転のあまりに)、それを受け入れ3巻分を言い値で買い取った。
・淡路島で銅鐸(紀元前4世紀~紀元前2世紀)
※淡路島の銅鐸、紀元前4世紀ごろ埋めたか 付着植物片で判明(日本経済新聞 2017年6月6日)
※兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。
銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。
銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。
松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。
4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。
銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。
かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。
※仮説:銅鐸=鐘=金(かね)。鐘=鈴は音楽を奏でる道具。銅鐸は御神体=「神」そのもの。
おそらく普段は土中に埋めて、一年に一回、年末(もしくは収穫後)から新年(=新春、もしくは田植え前)にかけて、掘り出して、ピカピカに磨いて黄金色に輝かせて、音を鳴らしたり拝んだりして、豊猟や豊作の感謝や祈願をして、祀ったものと想像する。祭祀が終わったらまた土中に埋める。
可能性として銅鐸は(おそらくその背景にある宗教思想とともに)中国大陸の「越」国から直接伝わったとも。3世紀頃に日本に統一王権が誕生すると、銅鐸祭祀はその役割を終える。
※『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸(たく)が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』(朝日新聞 2006年3月7日)
(上)中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸
※古代中国の貨幣、淡路島で出土 交通の要衝示す(神戸新聞 2017年5月18日)
紀元14〜40年にかけて中国古代国家の「新」「後漢」で鋳造されたとされる貨幣「貨泉」3枚が、兵庫県南あわじ市八木入田の入田稲荷前遺跡で見つかった。同市教育委員会が18日発表した。弥生時代に日本へ流入したとみられ、一度に出土した数量としては全国で3番目の規模となる。
貨泉は九州や近畿、瀬戸内海沿岸などの遺跡で計約180枚が見つかり、兵庫県内でも7遺跡10枚に上るが、複数がまとまって出土するのは珍しい。市教委は「海上交通の要衝だった淡路島が弥生時代の流通で果たした役割を考える上で重要な史料」としている。
ほ場整備に伴う調査で、昨年12月に3枚が重なった状態で出土した。直径約2・3センチ、厚さ約1〜1・3ミリ、重量約1・5〜2・5グラム。中央に一辺7〜8ミリの四角い孔(穴)が開いており、片側の面に「貨」と「泉」の文字がある。新代の規格と異なるため、後漢の初期に鋳造されたとみられる。
入田稲荷前遺跡の3枚出土は、岡山県の高塚遺跡の25枚、福岡県の元岡・桑原遺跡群の8枚に次ぐ規模。一般的に貨泉は沿岸での発見例が多いが、入田稲荷前遺跡は島南部の内陸に広がる三原平野の河岸段丘にある。讃岐・阿波地方から搬入された土器も出土したほか、周辺に弥生時代の拠点集落跡もあり、吉備地方や四国を経由した交易などで流入したと推測される。
南あわじ市では15年4月に祭祀道具「松帆銅鐸」7点が見つかるなど、弥生時代の青銅器が集中出土。弥生時代最大級の鉄器工房である五斗長垣内遺跡や、中国鏡片が発見された舟木遺跡(いずれも淡路市)とは同時代に当たる。南あわじ市教委は「渡来人との交易もうかがわせ、畿内への玄関口となる淡路島の重要性を示す遺物」と評価する。
森岡秀人・関西大大学院非常勤講師(考古学)の話 弥生時代は物品貨幣の社会で、実用の貨幣だったとは考えがたく、交易拠点にもたらされた小型青銅器の一つではないか。近畿の中央部と変わらない段階で中国の銭貨が伝わっていたことを示す例で、大陸系文物への求心力が淡路島南部にあったのだろう。出土地近辺には有力な弥生遺跡もあり、因果関係を十分に考えてよい。銅鐸を使わなくなった淡路島の弥生社会が次の活性期に入る時期。邪馬台国発展など大きな国造りの過程で中枢を担う有力者が存在した可能性がある。
【貨泉】古代中国で前漢と後漢の間に新(8〜23年)を建国、統治した王莽が流通させた貨幣。鋳造期間が新以後の後漢時代の40年まで約20年間と短く、年代決定の重要な指標となっている。最初は直径2・35センチ、重量3・19グラムと規格が決まっていたが、後漢では民間も生産したため規格が異なる。貨幣ではなく、交易品、権勢を示す「威信財」、国産青銅器の材料など使途は諸説ある。
・ディプロストーン虐殺(38年?)
※ブログ主注:下記引用サイトは「hexagon.inri.client」(hexagonは六芒星、INRI はラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語であり「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という意味)となっていることからキリスト教(もしくはユダヤ)系謀略サイトの可能性が高い。またBCとADの取り違えなど記述に間違いも多い。キケロは紀元前の人物。
※キリスト教確立以前にも起きていたユダヤ人虐殺事件(ブログ主注:時系列など改変修正)
http://hexagon.inri.client.jp/floorA1F/a1f1302.html
なぜ、ユダヤ人は迫害され、差別され続けてきたのか?
その理由として、キリスト教側がユダヤ人を「イエスをメシア(救世主)と認めずに殺した、永遠に呪われた民族」として断罪したことが挙げられよう。
例えば、“キリスト教会史の父”と言われる4世紀のエウセビオスは、ユダヤ人に「主イエスを殺した者たち」「キリスト殺しども」というレッテルを貼り、悪しきイメージ作りに狂奔した。また、同世紀のアウグスティヌスもユダヤ人を「悪霊に憑依された破壊者」と断じ、そのため「神により離散の刑を科せられている」と言ってはばからなかったのである。
このようにして、キリスト教社会では反ユダヤ主義の正当性が“神学的”に承認されるようになった。
(中略)
だが不思議なことに、ユダヤ人は「イエス殺しの民族」という、キリスト教サイドの単純な宗教的偏見だけで迫害される民族ではないようだ。なぜならば、キリスト教が確立する以前の時代から、ユダヤ迫害事件が起きているからだ。
例えば、紀元前167年、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世・エピファネスが、ユダ州とサマリア州の全面的なギリシア化(ヘレニズム化)を宣言し、エルサレムを完全制圧すると、彼は「ソロモン第二神殿」にゼウスの偶像を置き、ユダヤ人にゼウス崇拝を強要。そして反抗するユダヤ人を徹底的に弾圧。その結果、8万人のユダヤ人が虐殺され、4万人が捕囚となり、さらに4万人の女・子供が奴隷として売り払われてしまったのである。
イエス誕生前の古代ローマ帝国において、ユダヤ人の存在は無視できないものになっていたのだが、古代の歴史家たちはこの特異な“ユダヤ集団”に注目し、それについて意見を述べていた。
ギリシアの歴史家であり地理学者であったストラボン(BC63~AD21)は、以下のような記述を残している。
「キレネ(アフリカ北部リビア東部にあった地中海に臨む古代都市)には4つの階級がある。1番目は市民、2番目は農民、3番目は外国人居住者、そして4番目がユダヤ人である。このユダヤ民族は、既にあらゆる都市に入り込んでいる。そして、およそ人の住める世界でユダヤ人を受け入れていない場所、その力を感じさせない所を見つけることは容易ではない。」
ローマの歴史家ディオドロス(BC1世紀生まれ/著書『世界史』)は、以下のような記述を残している。
「あらゆる民族の中でただユダヤ人のみは、他のどのような民族ともうまくやっていくことをことごとく拒絶し、他の全ての人間を敵とみなしている」
ローマの偉大な歴史家タキトゥス(AD55~120年)は、以下のような記述を残している。
「ユダヤ人の習慣は卑しく忌まわしく、ユダヤ人がその習慣に固執するのは、彼らが腐敗堕落しているからである。ユダヤ人はユダヤ同士では極端に忠実であり、いつでも同情を示す用意ができているが、異民族に対しては、憎悪と敵意しか感じない。民族として激しやすい。ユダヤ人同士の間では、合法的なものは何もない。」
BC59年頃、ローマ貴族で前アジア総督であったルシウス・バレリウス・フラックスは、ユダヤ人による黄金積み出しに対する禁止令を強制しようとした。
が、その結果、ローマのユダヤ人に解任される羽目になり、デッチ上げの横領罪に問われてしまった。そこで、ローマの偉大な執政官キケロは、陪審員の前でフラックスを弁護する演説を以下のように展開した(BC59年10月)。
「さて我々は、黄金、それもユダヤ人の黄金にまつわる名誉棄損問題に取り組むわけであります。(略)ユダヤがどんなに大きな集団であるか、またユダヤが政治にいかに影響力があるかということは、ご承知の通りです。私は声をひそめて、陪審員の方々に聞こえるだけの大きさでお話ししよう。というのも、私をはじめあらゆる善良なローマ人を妨害すべく、あれらのユダヤ人を扇動する者が大勢いるからであります。その者たちに少しでも手助けになることは、私の意図せざるところであります」
「毎年、黄金が定期的にユダヤ人の名において、イタリアおよび全ての我が属州からエルサレムに輸出されたため、フラックスはアジアからの黄金輸出を禁じる布告を出したのであります。陪審員諸君で、誰がこの行動を心から誉めないでおれましょう? 黄金の輸出は、以前にも再三再四にわたって、そして私の執政官在任中には最も厳しく、元老院から禁じられていたのであります。それに加えて、フラックスがこのユダヤの迷妄行為に反対したことは、彼が強い個性を持っている証拠であります。また政治集会において、ユダヤ人のやじ馬連中の強引さをたびたび封じ込めては国を守ったことは、彼の強い責任感の証拠であります」
裁判の結果、フラックスの横領罪の嫌疑は晴れた。しかし、元老院による黄金積み出し禁止令は解除されてしまった。
テキサス大学のハリー・J・レオンは著書『古代ローマのユダヤ人』の中で、ローマ帝国におけるユダヤ人の力について述べている。ちなみにこの本はユダヤ出版協会から出ている。
「……ローマ市内のユダヤ人は既にローマ政治における侮りがたい要素となった。政治的野心のあるユリウス・カエサルはユダヤの力を認識した。『人民党』すなわち自由民主党もしくは民衆党のユダヤ人は、カエサルを支持した。ユダヤから受けた支援に対する見返りとして、カエサルは目にあまるほどユダヤびいきを示した。そして運よくヨセフスによって記録されたユダヤの利益のためのカエサル法令は、ユダヤのマグナ・カルタと呼ばれてきた。
カエサルは徴兵からユダヤ人を免除し、エルサレムの神殿に黄金を船で積み出すことを許可した。そしてユダヤの特別法廷(サンヘドリン)の権威を承認した。しかし、ローマの元老員の中には、これを面白くないと感じる者がいた。 〈中略〉 カエサルの暗殺ののち幾晩も、ユダヤ人集団はカエサルの火葬用の薪の積み重なった場所に来て嘆き悲しんだ。……結局、ローマ帝国を受け継いだアウグストゥス帝は、ユダヤ人の特権を回復させた。」
しかし、そんな特権を享受していたユダヤ人たちは、ローマ帝国支配下のエジプト・アレキサンドリアで、「ディプロストーンの破壊」という悲惨な事件に遭遇する。
かの有名なアレキサンダー大王はユダヤ人を重く用い、彼が新設したアレキサンドリアの町では、ユダヤ人にマケドニア・ギリシア人と同じ特権を与えていたと言われている。“同じ”といっても、実際上の政治の特権はギリシア人が握っていて、支配階級はギリシア人によって構成されており、その一級下で経済機構を運営するのがユダヤ人の役目となっていたという。
アレキサンダーは、地中海の制海権を握るために南下してシリアを奪い、さらにシドン、ツロ、
ガザをくだして、BC332年、ついにエルサレムに至った。同地のユダヤ人たちは、ラビ(ユダヤ教指導者)も民衆も皆、アレキサンダーを「大王」と称して歓迎し、恭順の礼を尽くした。
これは彼らの聖なる文書『ダニエル書』の中に、その出現が預言されていたからだという。
アレキサンダー大王の死後、エジプトのプトレマイオス家とシリアのセレウコス家が パレスチナ地方の支配をめぐって対立。そして抗争するに及んで、ユダヤ人はパレスチナを捨てて続々エジプトに移住を開始。その多くがアレキサンドリアに集中した。そのため、アレキサンドリアは「ユダヤ人居留地」に指定されるに至った(BC320年頃)。もちろん、パレスチナに居残り続けたユダヤ人も多くいた。
しかし、プトレマイオス王朝滅亡後(BC30年)、ローマ帝国領となると、天賦の才能に恵まれるユダヤ人は、いつしか全エジプトの経済を握り、今の言葉で言えば「国立銀行総裁」や「輸出入公団総裁」のような地位まで占めるようになった。そして“ユダヤ商人ギルド連合事務所”ともいうべき「ディプロストーン」が設けられたのだが、これには付属工場と倉庫群があり、その威容は全東方を圧するほどで、「ディプロストーンを見ずに、壮大なものを見たというな!」という言葉さえあったという。
だが、来るべきものが来た。AD38年、ディプロストーンは破壊され掠奪され、全市にユダヤ人の血が流れたのである。
・マヤ文明古典期後期(7~8世紀)
※闘う運命の兄弟(ナショナルジオグラフィック日本語版 2007年8月号)
7世紀の初め、ティカルで薄幸の運命を背負った二人の王が生まれた。バラフ・チャン・カウィールは幼いうちに、交易の拠点ドス・ピラスを支配すべく現地に送られ、もう一人はティカルの王となる。ティカルの敵国カラクムルは、ドス・ピラスを征服し、その王を捕らえてティカルに立ち向かわせた。ドス・ピラスはティカルを打ち負かし、バラフ・チャン・カウィールは自分の兄弟を含む血縁者を生け贄に捧げた。ドス・ピラスの階段には、「頭蓋骨の山が築かれ、血の川が流れた」と刻まれている。しかし、ティカルとカラクムルの覇権争いは続き、暴力の連鎖は古典マヤ文明に破滅的な結末を招いた。
※仮説:カラクルム=太陽、ティカル王=月、ドス・ピラス王=金星
中米の神話では、「太陽=支配者の座」をめぐって、月と金星(の兄弟)が争い、交互に「王位につく=太陽になる」。合理的な神話の構造。
※カラクムル(Calakmul)は、メキシコ・カンペチェ州にある先古典期後期から古典期にかけて繁栄したマヤ「中部地域」の大都市。その規模は30km2に及び、ティカル(Tikal)と並ぶ古典期最大級の「都市」であった。
旧名はオシュテトウン(3つの石)と呼ばれ、「蛇(カーン)」王朝という強大な国の首都であった。紋章文字は蛇の頭で表現された。
1931年に発見され、マヤ遺跡では最多の117基もの記念碑が確認されている。
・三途の川信仰が日本で普及(平安時代末期。12世紀後半?)
・賽の河原信仰が日本で普及(室町時代中期。15世紀?)
※三途川(さんずのかわ、さんずがわ)は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は仏典に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。
ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教からギリシャ神話にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。
伝承の起源
三途川の出典は『金光明経』1の「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」である。この地獄・餓鬼・畜生を三途(三悪道)といい、これが広く三悪道を指して三途川と称する典拠であるといわれる。
しかしながら俗に言うところは『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称:地蔵十王経)の「葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡」に基づいて行われた十王信仰(閻魔大王は十王のうちの1人)による。
この十王経は中国で成立した経典であり、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われるが、信仰として広まったのは平安時代末期とされる。
正式には「葬頭河」といい、また「三途の川」・「三途河」(しょうずか、正塚)・「三瀬川」・「渡り川」などとも呼ばれる。
一説には、俗に三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるともいわれる。これは善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。
伝承
渡し舟
平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方に変形する。
三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いており、現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭「冥銭」が使われることが多いようである。
懸衣翁・奪衣婆
三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、盛んに信仰された。
賽の河原
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる(「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして、日本各地に存在する)。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。
賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。
中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった。
女性の渡河
10世紀中頃の日本の俗信として、「女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった。また、『蜻蛉日記』の作者は、三途の川を女が渡る時には、初の男が背負うて渡る—といった意味の歌を詠んでいる。こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる。
※奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。
江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目があるといわれた。
※懸衣翁(けんえおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆の隣にいるといわれる老人である。
奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。
罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという。
※賽の河原(境界の手前)で、親(神)に先立って死んだ子供(神の子)が、積み石による塔(バベルの塔)を完成させると親(神)の供養になるが、完成する前に鬼(悪魔)が現れて、塔を破壊し、何度、塔を築いてもその繰り返しになってしまう。しかし最終的には、子供は[[地蔵菩薩]](聖母)によって救済される。
・室町時代、床の間に「鏡餅」を供えるようになる(14~16世紀頃?)
※鏡餅(かがみもち)とは、日本の伝統である、餅を神仏に供える正月飾り(床飾り)であり、 穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり、「年神(歳神)」の依り代である。
平安時代には既に存在し、現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降である。
武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えた。鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれた。
鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされる。
一般的には、大小2つの平たい球状の餅とダイダイが使用されるが、地域によっては違いがあり、餅が三段のもの、二段の片方を紅く着色して縁起が良いとされる紅白としたもの(石川県で見られる)、餅の替わりに砂糖で形作ったもの、細長く伸ばしたものを渦巻状に丸めてとぐろを巻いた白蛇に見立てたものなど様々である。
また、三方に半紙を敷き、その上に裏白(羊歯の一種)を載せ、大小2つの餅を重ね、その上に串柿・干しするめ・橙・昆布などを飾るようになっている。鏡餅の飾り方には地域によって様々であり、串柿が無い地域や、餅と餅の間に譲葉を挟む地域、昆布とスルメを細かく切ったものを米に混ぜて半紙でくるんだ物を乗せる地域などもある。
神仏に捧げる鏡餅を飾る場所として、床の間が最もふさわしいが、無い場合は、玄関から遠い、奥まった位置にするのがふさわしいとされる。
神様への供え物なので、松の内に下げたり食べたりせず飾っておく。
松の内が終わりお供えが終了した後は、飾ったままにせず下げる。
正月が終わって下げた餅は「鏡開き」を行い、餅を食することになる。鏡は円満を、開くは末広がりを意味し、また刃物で切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で餅を食べやすい大きさに分ける。正月をすぎた鏡餅は硬く乾燥しひび割れているため、主に汁粉や雑煮や焼餅などにして食する。
※年神(歳神、としがみ)は、神道の神である。
来方神
毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。
現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝わる年神は、トシドンとよばれる。
また陰陽家では、娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、女神・頗梨采女(はりさいじょ)のことを年神といい、元旦に来訪する神霊という。のちに、これに先祖霊が加えられ、習合した。
穀物神
「年(とし)」は稲の実りのことで、穀物神である。本居宣長は「登志とは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり」と述べ、穀物、農耕神であるとした。
祖霊
年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたためである。
柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
年徳神
中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされた。
暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。
正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという伝承がある。
大年神・御年神
日本神話では、スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
古語拾遺における記載
『記紀』には系譜以外の事績の記述がないが、『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。
大歳神社
大年神は大歳御祖神社(静岡県静岡市葵区)、飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)などで祀られている。また、特に西日本で大歳神社・大歳様として田の畔の祠などに祀られている。葛木御歳神社(奈良県御所市)が全国の御歳神(御年神)を祭る神社の総本社とされる。
・任意団体「伊勢三宮奉賛献灯会」、伊勢神宮に六芒星の灯篭を献納し始める(1955年設立、1964年解散)
※ユダヤと伊勢神宮 ★ガセ情報にご注意★
http://ameblo.jp/hex-6/entry-10726769320.html
伊勢新宮灯篭に刻まれたダビデの星
ユダヤのシンボル六芒星が伊勢神宮の灯篭に彫られている、というのは有名です
天皇家の十六弁菊花紋とダビデの星(ユダヤ王の紋章)が刻まれていて日ユ同祖の証拠としてよく取り上げられる灯篭です
実は、この灯篭、伊勢神宮とは別の団体が昭和30年に寄進として建て始めたもので、伊勢神宮の管理物ではありません
しかもその団体は、建立寄進後、解散してます
建立後約50年を経て老朽化が目立ち、問題になり始めました
伊勢市議会では、東海地震対策として対震性がないことから、危険と判断され撤去を決め、2007年から新しい灯篭に交換作業をはじめました
順次古いものは撤去され、交換されます
------------伊勢市会議議事報道--------------------------------------------------------
平成19年度 伊勢市第1回経営戦略会議 会議結果の概要
○開催日時
平成19年4月23日(月)午後3時~午後5時
○開催場所
本庁東庁舎4-2会議室
○出席者
市長、副市長、会計管理者、総務部長、財務政策部長、生活部長、環境部長、健康福祉部長、産業部長、観光交通部長、都市整備部長、上下水道部長、二見総合支所長、小俣総合支所長、御薗総合支所長及び市立伊勢総合病院事務部長
http://www.city.ise.mie.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1179374741060&SiteID=0
この灯ろうは、昭和30年(1955年)に設立された「伊勢三宮奉賛献灯会」という任意団体が、当時、伊勢神宮に奉献することを目的として、御幸道路と市道に三重県知事と伊勢市長の道路占用許可を得て建てたものであり、その後には、国道23号の拡幅工事等に伴って、一部が宇治浦田街路広場に移設されている。
・昭和39年(1964年)に「伊勢三宮奉賛献灯会」が解散した後は、灯ろうの所有者が明確でない状態となり、また、灯ろう自体の経年による劣化や耐震強度の点から安全性に問題があることから、東海地震等の発生が危惧されている今日においては、灯ろう問題の解決を図ることは、喫緊の課題となっている。
・懇話会では、市民アンケートの結果も踏まえて検討した結果、今後も灯ろうのある風景は「伊勢らしい良好な風景」として残していくべきであり、その方法については、安全性の確保の観点等から現在のものを撤去し、更なる良好な景観を形成していくため、新たな灯ろうを設置することが適当であるとの結論となり、.....
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ハッキリ明記されている
伊勢神宮とは何の関係もない、昭和の製作物である
・アメリカ、アンドリュー・ジャクソン・デービス、「自然の原理、自然の神的な啓示、および人類への声」出版(1846年)
(上)アンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis, 1826年8月11日 - 1910年1月13日)
※米国の霊覚者。
思想的にスピリチュアリズムを先取りした哲学書を出版して後のスピリチュアリズムに多大な影響を与え、「スピリチュアリズムのヨハネ」と言われた。奴隷制度廃止運動家、女性解放運動家、禁酒運動家でもあり、スピリチュアリズムの思想によって社会に影響を与えた最初の人と言える。
来歴・思想
ニューヨーク州のオレンジ郡ブルーミングローブ生まれ。家が貧しく、教育はほとんど受けていない。成長すると、靴屋の徒弟となった。生まれつき霊視能力があったらしく、母が死去したときに輝くような野原に美しい家のビジョンを見て、母が行ったところだと思ったという。
1843年、17歳で近くの町の講演会に出かけて催眠術にかけられ、催眠状態で透視能力や読心能力を発揮できることに気づく。さらに実験を続けるうち、特殊な能力が発達した。
この能力を生かすべく最初は病気の治療を始め、「ポキプシーの千里眼」として評判になった。しかし、催眠状態に入ると演説することが多くなり、入神講演と出版がライフワークであることを認識して治療院を閉鎖した。
1846年、20歳で入神講演の内容をまとめ、800ページの大著「自然の原理、自然の神的な啓示、および人類への声」として出版した。これは大反響を呼び、当時の米国の知識階級に大きな影響を与えたといわれる。
第1部「自然の原理」では、万物の進歩という普遍的な原理、その原理に従った、物質とその内的な原理の進歩、物質の完全態で実在である霊、精神の死後存続、第1原因たる神の属性などが述べられている。第2部「自然の神的な啓示」では、宇宙の形成、太陽系の形成、太陽系の惑星の様子や居住者、地球の形成、人間に至るまでの地球の進歩について書かれている。また、聖書の起源、完全な人間の模範たるイエスの真の姿、神の王座である霊的な太陽と、その周りの6つの霊界の様子や居住者についても語られている。そして、第3部「人類への声」では、現在の社会における悪の構造的な原因と、自然の原理に基づいた理想的な社会構成について述べられている。
後にスピリチュアリストたちの活動が盛んになってくると喜んで支持し、自らを「スピリチュアリスト」とした。しかし、哲学的思想をなおざりにして物理的現象にばかり夢中になる傾向がスピリチュアリズムに出てくるとこれを嫌い、1880年には自分の哲学は「調和哲学」だと宣言して、スピリチュアリズムと袂を分かってしまった。その後も精力的に出版を続け、1910年に死去。
A・J・デービスは1848年のハイズビルのフォックス家事件以降に起こったスピリチュアリズムの勃興を予告した人物としても知られている。