第8部 米国とイスラエル   


["絶対者"イスラエル]

イスラエルという国は現代世界はもちろん歴史上例を見ない極めてユニークな存在である。イスラエルは単なる「米合衆国の同盟国」などではない。もちろんだが米国(あるいは欧州)の植民地国家とも異なる。意外に思えるかもしれないが、このイスラエルという国こそ、米合衆国にとって(あるいは欧州各国にとって)"絶対者"なのだ。

我々は、米国がこの国の建国以来そこに自国民の税金を使って膨大な額の有償・無償の援助を行い、イスラエルの防衛と発展のためにあらゆる犠牲を払ってきたことを知っている。日本の外務省が発表している建前だけの金額ですら1948年から1998年までにすでに800億ドル弱に達し、特に1981年(レーガン=ブッシュ父政権誕生)以降は全額が無償援助となっている。また近年では特にその援助はより「軍事化」している。しかしこのような数字に表れない私的企業や銀行の活動を通しての資金の移動、個人的な「献金」、ほとんど利益の上がらないイスラエル国債の買い取りなどを通して流入する資金がどれほどにのぼるのか、誰も知ることはできない。実質的にはおそらく先ほどの数字を大幅に書き直さねばなるまい。イスラエルは米国からの「無条件の貢ぎ」が無ければ1年たりとも存在できない国家なのだ。

そのうえで我々は、米国内にイスラエルのスパイが好き放題に出入りし、わずかの例外を除いてほとんど咎められることもないどころか、国家機密をイスラエルに渡し続けた者たちが堂々と国家の指導的地位に就くことを知っている。あの国が国際社会を無視して行った核開発に対して米国に一切文句を言わせなかった事実も知っている。さらに、いわゆるユダヤ・ロビーや各種ユダヤ人団体による議員への買収と恫喝、イスラエル系シンクタンクによる米国の政策立案、ユダヤ人経営・運営の各種メディアと出版による世論操作、果てには「クリスチャン・シオニスト」の全面協力による精神的支配、等々、米国社会のあらゆる側面がイスラエルに対する貢献度でその地位と存在を確保している状態である。これもまた周知の事実だ。

米国にとってイスラエルはまさに"絶対君主"である。決して米国が中東に作った「植民地国家」などではありえない。まして、かつて日本がでっち上げた満州という植民地国家などと同列に置くことは断じて不可能である。この米国とイスラエルという世にも珍しいコンビについて、我々はもう少し突っ込んで見ていく必要があるだろう。


[米国、ナチス・ドイツ、そしてイスラエル]

私はナチス・ドイツこそがイスラエル創設のための「雌型」、このユダヤ人国家誕生の最大の秘密を握る場であったことを明らかにした。そしてそのナチス・ドイツを準備し創り上げた決定的な要素として、ハリマン、ブッシュ、ウォーカー、ダレス兄弟、ロックフェラーといった米国経済・政治の中枢部にいる人物達やワーバーグ家などユダヤ系の大資本家達が存在したことも知った。さらにシュレーダー(シュローダー)やブラウン・ブラザーズなどのロンドン・シティを支える金融機関(当然だがロスチャイルド家とも提携している)がこれと密接につながり、それらがティッセンやクルップといったドイツの大財閥と提携してナチスを産み育て、そしてヒトラーを政権に就かせて戦争準備と非シオニスト・ユダヤ人への大弾圧を行わせたのだ。第2次世界大戦が勃発する直前まで米国は最大の親独国家だったのである。

ヒトラーが政権を握るのが1933年1月であり、その半年と少したって結ばれたのが、ユダヤ人国家建設最大の鍵となった「ハアヴァラ協定 」だった。私は、このようなヒトラーの政策がパトロンの許可(あるいは命令)無しにできると考えるほど御人好ではないし、またこのような対内政策とも密接に関連する外交政策がわずかの期間で準備できると信じるほど非常識でもない。分かりきったことだが、このハアヴァラ(パレスチナへのユダヤ人の移送計画)の資金を支えたのは米国や英国から回ってきたカネである。そのお膳立てをしたのが以前からパレスチナの地に「聖なるシオン」を建設する動きを開始していたロスチャイルド家であることは想像に難くない。

ナチスと同様にこのシオニスト国家は米欧大資本家が総力を挙げて築き上げ、その後に用が無くなった「雌型」としてのナチス・ドイツは米国軍とソ連軍によって取り壊された。そして「迫害を受ける民」として神聖化されたユダヤ人が「約束の地」に創出した国家として、イスラエルが誕生したわけである。

米国を支配する権力亡者と拝金教徒どもが欧州の同類と共に全力でこの国を作りだしたのだ。米国大統領など単なる彼らの小間使いか代弁者に過ぎない。彼らに逆らえばケネディやリンカーンのように消されるしかないのである。この者達が単なるロマンや人間主義で動くなどと考えるのは歴史に対する冒涜だろう。彼ら欧米にまたがる権力亡者と拝金教徒どもにとって、イスラエルは世界完全支配の鍵を握る「特別な国」であり、英国や米国といった普通の国家とは全く異なった意味を持っているのである。

単純にその領土と国民を持ち法体系と社会機構を備えた通常の国家など、この者達にとっては動かし利用しいずれは取り払いすげ替えるべき「コマ」にすぎない。イスラエルだけは別である。地政学的にも哲学的にも、そこは彼らの完全なる世界支配に向けた「扇の要」なのだ。その前には米合衆国などという一介の連邦国家の権利など簡単に消し去られてしまう。

その誕生に決定的な役割を果したナチス・ドイツとスターリン・ソ連という恐怖政治・独裁国家は共に消滅し、それらのノウハウを一身に受けたこのシオニスト国家が将来の普遍的ファシズムによる世界全面支配の中心として君臨しているのである。


[普遍的ファシズム]

異色のネオコン・イデオローグ、マイケル・レディーンは1972年に「普遍的ファシズム(Universal Fascism)」を著した。彼はその中でヒトラーとムッソリーニによって不完全・不徹底に終わらざるを得なかった過去のファシズム運動を批判し、それを乗り越え革命的ファシズムを完結させる道を指し示した。

彼は1982年にアレクサンダー・ヘイグ国務長官の補佐としてレーガン政権入りし、CSIS(戦略国際研究センター)でヘイグとヘンリー・キッシンジャーの下で働き始めた。以来、彼は「ファシズム」を「自由と民主主義」に置き換えた。レディーンが大きな影響を与えるG.W.ブッシュの言う「自由と民主主義」が「革命的ファシズム」の言い換えであることは、現在までにその政権が自国と世界で実行している事実を見れば明らかであろう。またブッシュの上級顧問で選挙参謀、戦争政策の屋台骨を支えたカール・ローブの最も信頼する相談相手がこのユダヤ・ファシストであった。

レディーンは、元トロツキストやレオ・シュトラウスの弟子である他のネオコンとはやや異なり、ウイスコンシン大学でユダヤ人のドイツ・ナチズム研究家であるジョージ・モシェに、またローマ大学ではイタリア・ファシズムの研究家レンツォ・ジ・フェリーチェに学んだ。

彼は同時にイタリアP2メーソン・ロッジのメンバーであり、モサドの重要なエージェントと見なされる。また80年代後半に米国を震撼させたイラン・コントラ事件の主犯格の一人であり、最近明らかにされたところでは、ブッシュ米国政権のイラク侵略を正当化した「ニジェール・ウラン文書」捏造を指揮したのがこのレディーンである。

しかしこの現代のメフィストフェレスを捕らえ罰することの出来る者はいない。この普遍的ファシストは米国の真の支配者集団に連なっている。そして他のユダヤ人ネオコン・メンバーが活躍できる土壌を整えていった重要な力の一つが、アメリカン・エンタープライズ研究所を取り仕切り国家安全保障ユダヤ人協会(JINSA)の発起人・相談役であるこのファシズム革命家マイケル・レディーンなのである。

対テロ戦争を標榜する米国と英国の最近の動きは、彼の言葉に倣って言うならば「普遍的テロリズムとの戦い」ともいうべき様相を帯びている。一人一人の顔写真まで公表してアルカイダを名指しした9・11とは異なり、マドリッド3・11、ロンドン7・7と「テロ」が進行するに連れて、次第にアルカイダの影の輪郭がぼやけて溶けて流れ出し、イスラム教社会のみならず欧米一般市民社会の中に深く広がり染み込みつつある、そのような演出が為されている。

つまり彼らの言う「テロリズム」は世界のあらゆる場所に「見出すことが可能な」ものであり、「テロとの戦い」を否が応でも社会の隅々に、一つの国家から個人の家庭に至るまで、浸透させることが可能なのだ。子供のジュースからコンタクトレンズ洗浄液まで取り上げて捨ててしまう空港国際線を見るがよい。このブレアー政権の発明による空港の状態が、街や学校や職場の中に、果てはアパートと家庭の中にまで徹底させられるとき、普遍的ファシズムは完成するのである。

普遍的ファシズムは、近年のレディーンが盛んに口にする転倒した用語「イスラモファシスト」「テロの首領たち(the Terror Masters)」との「普遍的な」戦いを通して実現される手はずなのであろう。


[レオ・シュトラウスの素顔とユダヤ・ファシズム]

合衆国憲法を「忌まわしい紙切れ」と罵るG.W.ブッシュは、ワイマール憲法を憎悪したヒトラーの姿にもつながる。シカゴ大学でポール・ウォルフォヴィッツやウイリアム・クリストルなど後の有力なネオコン・メンバーの師となったレオ・シュトラウスは、リベラルな民主主義を実現させたワイマール体制こそがナチス勃興の主たる原因である、と説いた。まさにその通り! リベラルな民主主義を掲げてきた米国社会は、現在彼の弟子たちが実現させつつある普遍的ファシズムの培養基となったのである。

ドイツ生まれのユダヤ人レオ・シュトラウス(1899-1973)は周知の通りニーチェ、ハイデッガーの影響を強く受けたと言われるが、彼のシオニストとしての態度は2転3転したようである。しかし1920年代に、彼がユダヤ・ファシストの元祖ウラジミール・ジャボチンスキーによって組織されたシオニスト・リヴィジョニストの活動に所属し、ジャボチンスキー自身とも接触を持ったことが明らかになっている。

このユダヤ・ファシスト集団の一員としては当然のことだが、彼はナチズムに深い共感を覚えていた。彼は、ナチの法哲学者でドイツ国会議事堂放火事件後のヒトラー政権を支え続けたカール・シュミットとは特別に深い関係にあった。シュトラウスはそのシュミットの尽力によってロックフェラー基金奨学金を受け1932年から英国とフランスに留学する。そしてシカゴ大学の研究員に応募して1937年に米国に移住した。ドイツ敗北後もシュトラウスは、戦犯としての刑を逃れたシュミットと1973年に彼が死亡するまで深い交際を続けた。この哲学詐欺師は言葉巧みにその正体を隠しながら、米国社会で主にユダヤ青年を対象としてファシズム革命家を育てていたのである。

マイケル・レディーンが師事したジョージ・モシェにしても同様であり、ヨーゼフ・ゲッベルスやヘルマン・ゲーリングといったナチ幹部と親交を暖めていたのである。モシェは、ドイツとイタリアで「反ユダヤ主義に悪用された」点を批判しつつも、生き生きとした人間精神の復活としてファシズムとナチズムを評価しレディーンにその「科学的研究」を推奨したと言われる。

彼らの「ファシズム研究」にとって、一般に「ナチスの犠牲者」と固く信じられているユダヤ人としての立場が、どれほど有効なカモフラージュとなったかは容易に想像がつくだろう。1999年にシャディア・B.ドゥルーリィの著作「レオ・シュトラウスと米国右翼(Leo Strauss and the American Right)」によってシュトラウス主義の危険な本質が一般に伝えられ、ネオコンに率いられるブッシュ政権の暴虐性が広く認められるようになった今日になってさえ、イスラム教徒を除く世界の大多数の人にとって《ユダヤ人》と《ファシズム》を結び付けることは至難の業である。ドゥルーリィですらシュトラウスが「ナチに追われた哀れな亡命者である」という視点から逃れることが出来ない。ファシストどもにとって《ユダヤ人であること》以上に好都合な隠れ蓑は存在しないのだ。

明確にしておかねばならない。レオ・シュトラウスやジョージ・モシェなどの人物はファシズムの「師」として米国に招かれたのである。まさしくシュトラウスの見抜いたとおりなのだ。ワイマール憲法下のドイツと合衆国憲法下の米国の類似点は、そのリベラルさがファシズムにとって最良の温床となる、という点であった。経済的にも軍事面でも人材面でも米国ほどその条件に恵まれていた国はあるまい。

シュトラウスの愛弟子であるポール・ウォルフォヴィッツは、シカゴ大学在学中にネオコンのシンクタンクであるCommittee to Maintain a Prudent Defense Policyにリチャード・パールと共に参加している。その後イェール大学で教鞭を執り(彼の学生の一人がルイス・"スクーター"・リビィ)、1972年にニクソン政権の下で国防総省に勤務し始めた。そしてCIA長官であったジョージ・H.W.ブッシュの承認によって組織されリチャード・パイプス(ネオコンの中東研究家ダニエル・パイプスの父親)に指揮される、俗に「チームB」と呼ばれた反共主義の組織に加わっている。

ナチの再来を防ぐために米国の社会改革が必要であるとの詭弁を弄した哲学詐欺師シュトラウスの弟子たちは他のユダヤ・ファシストの系譜に合流しながら、1980年代レーガン=ブッシュ父政権のあたりからネオ・リベラル経済の本格化と共に彼らの社会改造、ファシズム革命に着手し始めたと思われる。(愚かにも彼らに合流した日系のフランシス・フクヤマは2006年にユダヤ系ネオコンを「レーニン主義者」と呼んで決別した。)

そしてこれらの「革命家」たちの活動母体となっているのがウラジミール・ジャボチンスキーのユダヤ・ファシズムの後継者たち、すなわち米・欧・イスラエルのシオニスト集団であることは論を待たない。ジャボチンスキー自身が今日の状況を予想していたとは思わないが、一つの強力な「意思の流れ」が20世紀初頭から今日まで貫かれているのである。ジャボチンスキーの愛弟子メナヘム・ベギンの率いるリクードがスターリン・ソ連の流れを汲む労働党政権を倒してイスラエルの実権を握ったのが1977年(ベギンは1983年まで首相)であり、それ以降の米国ではレーガンの狂信的な反共主義の中で例のファシスト集団が順調に育っていくことになる。この点もまた、リベラルなワイマール憲法の中で反共を唱えてすくすくと成長したナチスに相似しているだろう。

一方で彼らが攻撃目標とした「左翼」「リベラル」はどうだろうか? 今日の目から見るとまさしく茶番劇のお手本だろう。米国リベラルと左翼がシオニストの「左手」に過ぎないことは、イスラエル・ロビーの使い走りでしかない米国民主党、シオニストの「左のガードマン」を勤めるチョムスキーなどの米国左翼知識人の無様な姿から、もはや誰の目にも明らかである。「スターリンとヒトラーの掛け合い漫才」が舞台と趣向を変えつつ延々と繰り返される。


[ファシズム国家へと変身する米国]

米国とイスラエルの関係が次第にはっきりと浮かび上がってくる。欧米にまたがる権力亡者と拝金教徒どもにとって、米合衆国は、彼らの世界完全支配体制の実現である普遍的ファシズムの不可欠な温床であると同時に、"絶対者"たるイスラエルによって支配・誘導されるべき道具に他ならないのだ。その比類なき軍事力と技術力、ブルドーザーで他のあらゆる要素を踏み潰すような文化支配力は、全地球を治めるべき普遍的ファシズム現実化のための必須条件である。

9・11事件後の米国で、あるいは7・7事件後の英国で起こっている事態について、過去のイタリア・ファシズムやドイツ・ナチズム、日本的ファシズムを批判的に研究してきた(主に左翼系の)研究者と知識人達が見せる、精々が「市民的自由擁護」しか言えない無様な逃げ腰は、彼らを支配してきた《ニュルンベルグ=トーキョー史観》の正体を明らかにするものだろう。

米国ファシズムは、2001年の「愛国者法」から始まって徴兵制復活への動き、そして2007年に議会を通過した「思想犯罪防止法案」に至るまでのことごとくが、ナチスのたどった道をはるかに凌駕した形で歩んでいるのだ。しかし、このような9・11事件演出以後の「対テロ戦争」を口実にした法制度・社会制度の変化を深く追求して批判すると、左翼知識人によって『陰謀論者=ネオナチ』にすらされかねない。

過去のファシズムは現在建設中の普遍的ファシズムの雛形、実験に過ぎず、ニュルンベルグ=トーキョー裁判によって巧みにその正体を覆い隠されてきただけなのだ。既定の理論に沿って過去ばかりを穿り回し現代の事実を見ようとしないこの種の知識人たちは、真のファシストの姿を隠す煙幕であり、若い知性を誤誘導させる役目を果すことでその存在を保証されている「第5列」「別働隊」に他ならない。

本物のネオナチはワシントンとロンドンとテルアビブをつなぐ空間にいる。彼らに国境や国籍は無意味である。この権力亡者と拝金教徒どもの、ユダヤ・シオニストを実行部隊にした普遍的ファシズム世界の建設は、優に百年単位のサイクルをもつものだ。(「ユダヤ長老の議定書」なる怪しげな書物はその作業をユダヤ人一般とフリーメーソンの仕業にすり替えているが、私は、この書物の作者はロンドンあたりの豪邸に住む人種ではないかとにらんでいる。)どんなに胡散臭い作業でも、ユダヤ人を表に立てて進めるならば実に都合よく現実化できる。シオニスト・ユダヤ人たちも十分にそれを理解しながら積極的にその中心を担っているのだ。

米国資本家のナチスに対する肩入れは、やがて訪れるであろう普遍的ファシズムの実験場としてのナチ国家建設、および、地理的にも精神的にもその特別な中心地となるべき「聖なるシオン」の実現に向けた、壮大な計画の一部分をなすものであった。だからこそ彼らの誰一人として事実上罰せられることなく米国経済を支え続けまた政府高官となってその後の道を整える役を果し、さらにはその子と孫が米国大統領として普遍的ファシズム実現の具体的作業に取り組むこととなったのである。


第9部 近代十字軍


[「近代十字軍」とオスマン帝国]

2001年9月11日の「同時多発テロ」後に、米国大統領ジョージ・W.ブッシュは「十字軍」を口にした。しかし19世紀後半以後の世界史を教科書的な視点から離れて眺めなおしてみるならば、この「十字軍」は大英帝国によるオスマン帝国転覆・解体謀略から本格的にスタートしたように思える。「アルメニア人虐殺問題」は単なる民族紛争ではない。それはまさしくこの「近代の十字軍」による中東制圧支配計画の中で起こった出来事であるに違いない。

現在のトルコ東部にあるアナトリア地方では何百年もの間イスラム教徒であるトルコ人とキリスト教徒であるアルメニア人が平和共存してきた。イスラム教徒たちはどこでも他の宗教を禁圧する道を選ばなかったのだ。たとえばイベリア半島では彼らは数百年間にわたってキリスト教徒やユダヤ教徒と共存してきた。イスラム教徒はその「姉妹宗教」を攻撃せず支配地域を「一色に塗りつぶす」ことをしなかった。それを行ったのはイスラム帝国滅亡後のキリスト教徒たちであった。

大英帝国のみならず支配者たらんとする者にとって「支配するためには分割せよ」は鉄則である。英国や米国が地政学的にも資源確保にとっても世界の最重要地域である中東地域を支配するために用いた手段も例外ではない。彼らはオスマン帝国支配地域に住むキリスト教徒たちに手を差し伸べ援助し、彼らに帝国内での経済的・社会的高位を確保させた。アルメニア人がその最大のターゲットになったことは言うまでもない。次第に長年平和裏に共存してきたイスラム教徒のトルコ人たちと彼らとの間に亀裂が生じ多くの反感が生まれたことは当然に帰結である。しかしそれでもトルコ人たちはアルメニア人との共存の意思を捨てなかったし、アルメニア人たちもオスマン帝国から自分達を切り離そうとはしなかった。

オスマン帝国の解体を目論んだのは大英帝国ばかりでなく北方の巨人ロシアも同様であった。ロシアは積極的にロシア在住のアルメニア人をオスマン帝国に送り込み、民衆を扇動し暴動を組織するようになった。それはロシア帝国内のイスラム教徒たちに対する弾圧と軌を一にしたものだった。彼らは1890年代からオスマン帝国内に武器を密輸し過激なアルメニア民族主義を焚き付け武力による「革命」を叫んでオスマン帝国を内部から崩しにかかった。この時点でアルメニア人の存在はオスマン帝国にとって非常に危険なものになり始めたのである。

特に大活躍したのはマルクス主義者たちである。主要なグループが二つあり、一つは1887年にスイスのジュネーブで結成されたフンチャック(Hunchak)と呼ばれるフンチャキアン(Hunchakian)革命党、他はダシュナック(Dashnak)と呼ばれるアルメニア革命会議である。後者は1890年に結成されロシアに資金援助を受けていた。彼らはイスラム教徒との共存を維持しようとする教会の神父たちや商人達を次々と殺害し、アルメニア人を反イスラム、反オスマンに囲い込んでいった。経済破綻と政治腐敗に苦しむオスマン帝国と一般のトルコ民衆にとってアルメニア人の存在がどのようなものであったのか、容易に想像がつくだろう。

しかし、アルメニア人たちの弱点は、その最も密集した居住地域においてさえも人口の20%を超えないという分散した状態であった。扇動家たちの動きが活発になればなるほど一般のアルメニア人民衆におよぶ危険が飛躍的に大きくなったのは当然のことである。悲劇は始めから予想されたことだった。

繰り返すが、これらの全ては欧米国家を支配する者たちがこのイスラム帝国解体のために仕組んだ策略だったのだ。彼らにとってアルメニア人は一つの「コマ」に過ぎなかったのである。この点は第1次大戦中に大英帝国のスパイであるロレンスに扇動されたアラブ人たちも同様であった。そしてついにオスマン帝国では内患外憂のなかで劇的な体制変革が行われることとなる。


[「青年トルコ」とパルヴスとジャボチンスキー]

1908年に起こった「青年トルコ人革命」は「統一と進歩委員会」に主導される政治運動であり、1878年にわずか2年足らずで効力を停止させられた憲法とそれに基づく政治の復活を叫んで、スルタン・アブデュルハミト2世を追放した政治変革であった。この「統一と進歩委員会」は「青年トルコ党」と訳されることもある。しかしこの政変を起こした「青年トルコ運動」は多くの集団の動きから成り立っており「統一と進歩委員会」がその最大党派であった。オスマン帝国を掌握した「青年トルコ運動」は次第に過激な民族主義の色彩を帯びるようになり、第1次世界大戦中に「アルメニア人大虐殺」を実行したのも彼らの政府であった。

不思議なことにこの「青年トルコ運動」は決して人種的な意味のトルコ人だけで成り立っていたものではなく、オスマン帝国内のさまざまな民族の出身者が参加していた。彼らの多くは英国などに留学して近代の西欧から多くの近代化に関する手法を十分に学んだ者達であった。しかしそれだけではなかったようである。

ここに不思議な人物がいる。名はアレクサンダー・パルヴス。本名はイスラエル・ゲルファンドで、英語読みでは普通ヘルファンドと呼ばれる。ロシア生まれのユダヤ人で、日本ではあまり知られていないようだが、レオン・トロツキーらとともにマルクス主義者としてロシア革命を推進した中心的な人物の一人である。そしてそのパルヴスはこの「青年トルコ人革命」の期間に5年間イスタンブールに滞在し、この間にそこを拠点としてバルカン半島の紛争に対する武器商人として暗躍し相当な収益を手にした。そして彼は「青年トルコ運動」のパトロンの一人となり同時に政治アドバイザーともなった。

しかし奇妙な話である。彼は武器の製造と販売でドイツのクルップ財団と手を組み、さらに英国から「サー」の称号を受け取った悪名高いギリシャ系武器商人ベイシル・ザハロフが経営するヴィッカーズ株式会社(英国)のビジネス・パートナーでもあった。そしてその一方で彼は共産主義者としてロシア革命を導き、同時に「青年トルコ運動」を支えていたのである。このパルヴスを英国諜報機関のエージェントと見なす人もいるがそのように思われても無理からぬ面を持っているのだ。

そして同じイスタンブールにもう一人の奇妙なユダヤ人の姿を認めることができる。ウラジミール・ジャボチンスキー。彼は一般的にパルヴスとは逆に反共主義者だったとみなされるが、トルコでの動きは一致している。ジャボチンスキーは「青年トルコ革命」直後にイスタンブールに到着し、すぐに新聞「青年トルコ」の編集長となった。

リンドン・ラルーシュとその運動の歴史家によれば、この新聞は当時のトルコ政府の閣僚にいた人物によって所有されていたが、立ち上げたのはロシアのシオニスト団体、そしてブナイ・ブリスによって運営され、その編集はシオニストでオランダ王家の銀行家であるジャコブ・カーンによって監督されていたという。イスラエル「建国の祖」の一人であるジャボチンスキーはまずトルコの政治改革に関わっていたのである。

共産主義者であるパルヴスと反共主義のシオニストであるジャボチンスキーの両方がこのときにトルコにいた。そしてその一方で同じ共産主義者たちがアルメニア人を自殺行為にも等しい過激民族主義運動に駆り立てていたのだ。その背後には西欧支配者とそれに連なるシオニストの姿が見え隠れする。そしてアルメニア人たちは「青年トルコ」政府による強制移住と弾圧の後に米国など世界各地に散らばり、現在アナトリア地方にはほとんど住んでいない。文字通り「国無き民」となってしまった。

その後オスマン帝国にとってまさに《自殺》としか言いようのない第1次世界大戦参加を経て、小アジアに限定された国家のすべてを西欧化した「トルコ建国の父」ムスタファ・ケマル・アタテュルクを初代大統領とする「欧州の一部」トルコ共和国が誕生する。このアタテュルクは当然のごとくこの「青年トルコ運動」に参加してきた人物だった。この運動が、西欧勢力がオスマン・イスラム帝国に放った《最後の刺客》であったことに疑いの余地はない。

そしてその帝国から「解放すべき」パレスチナの土地を巡って、ロスチャイルド卿と英国外相バルフォアとの間で密約が結ばれたことが「イスラエル建国」の直接の開始を告げるものであった。そこにシオニストおよびユダヤ人組織と縁の深い共産主義運動が絡んでいたことに何の不思議もあるまい。現代のシオニスト・イスラエルとトルコ共和国との関係はすでにこの当時から根を植えつけられていたわけである。イスラム帝国を解体して生まれたトルコ「欧州」共和国と、そしてその同じプロセスで源流が作られ、ソ連、ドイツ、英国、米国の総力を挙げての中東イスラム国家破壊工作の結果として誕生したシオニスト・イスラエルは、元々からの「シャム双生児国家」だったといえるだろう。


[トルコとイスラエル]

ロシアのシオニストといえば、ジャボチンスキーのほかに、「シオン労働者(Poalei Zion)」党を率いたベル・ボロチョフやその党員で「ボルシェヴィキ」であったダヴィッド・ベン-グリオンなどが有名だが、同じ共産主義者のパルヴスがシオニストであったのかどうかは分からない。トロツキーとともに「永久革命論」を唱えて欧米のユダヤ組織から革命資金を集めていたパルヴスは、シオニズムの外側でそれを動かすもっと大きな勢力につながっていたのかもしれない。彼が英国ヴィッカーズのみならず後にナチスのパトロンとなるクルップ財団とのつながりを持ち、英国のエージェントとして動いていた可能性は十分にあるだろう。いずれにせよ西欧支配者念願のオスマン帝国つぶしと属領化に一役買ったことに間違いは無い。

なおそのパルヴスだが、同じユダヤ人であるローザ・ルクセンブルグの率いたドイツ革命を支持し、革命失敗後にはワイマール共和国を拒否した。にもかかわらず彼は特に処罰されるわけでもなく、逆にベルリンに程近いところに豪勢な住宅を与えられて隠棲生活を送り、1924年に57歳で死亡した。

そして一方のジャボチンスキーはパレスチナに渡って後のイスラエル国防軍となるハガナーを創設した。その後1923年に「鉄の壁」を著してシオニスト主流派と分かれ、東欧を中心にベタールを組織し、ムッソリーニの協力を得てそれをイタリアに広げ、そして1940年に米国でベタールを創設する最中に死亡した。これは今までの回で申し上げたとおりである。

この二人の共通点といえば、どちらもオデッサ生まれのユダヤ人であり、若いころにスイスで学んだことである。しかし彼らが接触を持った形跡は無い。パルヴスはジュネーブでマルクス主義を学び、ジャボチンスキーはすぐにイタリアに渡ってマッツィーニ風の過激な民族主義を学んで後にそれをシオニズムに導入した。しかしスイスといえば、例の過激なアルメニア民族主義運動を率いたフンチャックもジュネーブで結成されたし、第1回シオニスト会議が開かれたのは1897年のバーゼル、第1インターナショナルも1866年にジュネーブで最初の集まりを持った。そのほかにもナチス幹部の米大陸への救出など、この国は様々な国際的な秘密活動や謀略的活動の本拠地となってきた。

さらにラルーシュによれば、ジャボチンスキーもパルヴスも、ともにロシア帝国末期の悪名高い秘密警察オカラナの幹部であるセルゲイ・ツバトフに見出され抜擢されたということだ。そしてそのツバトフこそ大英帝国とシオニストの密偵であったそうだ。しかしその点の詮索は止めておこう。我々はもう一度、トルコとイスラエルの関係に戻らなければならない。

地理的な位置から見て、明らかにトルコは欧州と中東を結ぶ最重要拠点である。いまだに「ヒトラーの教皇」と呼ばれ続けるピオ12世の下で、バチカンのギリシャ・トルコ大使として派遣されたアンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ(後のヨハネス23世)は、ユダヤ人たちの一部を東欧からパレスチナに移送するために獅子奮迅の活躍をした。ヒトラーとピオ12世は悪役、このロンカッリは善玉を演じてはいるが、要は一方が「追い立て役」であり他方が「運び役」であっただけだ。そして当のパレスチナにはヒトラーとのハーヴァラ協定以来受け入れ態勢を整備しつつあったスターリニストたちが「選ばれたユダヤ人」たちの到着を待っていたのである。

イスラエル建国にとって、欧州と中東の橋渡しの位置にあるトルコ共和国が持つ重要性は測り知れない。トルコが、いまだに国民の大多数を占めるイスラム教徒の反対を押さえつけて、イスラエル成立後に一貫してその存在を支持し軍事同盟すら締結していることは言うまでもあるまい。この2国は始めから「姉妹」として作られた。当然のことながら軍事的には「欧州の一員」としてNATOに組み込まれ、スポーツなどの文化面ではイスラエルとともにすでに「欧州」である。両国は欧州が「近代十字軍第一次攻撃」の結果として中東に打ち込んだ「クサビ」なのだ。

現在、軍事的な同盟だけではなく、イスラエルにとってトルコは国家の存亡を左右するものとなっている。カスピ海沿岸の石油と天然ガスを運ぶパイプラインはもとよりトルコからイスラエルへの水輸送パイプが計画されている以上、もしトルコが反米反イスラエルの姿勢を明確にするなら、このシオニスト国家の命脈もそれで断ち切られてしまうだろう。イスラエルとしては他のあらゆる問題を棚上げにしてでもトルコ(穏健イスラム)政権を刺激してはならない。フォックスマンが米国の多くのユダヤ人の反発と指弾を覚悟してでも「アルメニア人虐殺問題」に蓋をせざるを得ないわけである。

またトルコの動向は米国とイスラエルの支配層が画策するイラン攻撃の成否を左右するものになるだろう。さらにはクルド人地域に対する攻撃によってイラク分割計画にも重大な影響を及ぼしかねない。さらに言えば、一応は19世紀後半以来の計略が成功し西欧型の世俗主義政権が確立しているとはいえ、やはりこの国の基盤はイスラム教徒なのだ。同様に世俗主義であったイラクのフセイン政権がイスラエルと米国のシオニストによって打ち倒され事実上の国土分割が行われていることを、トルコ国民がどんな複雑な思いで見ているだろうか。この100年以上にわたって「近代の十字軍」を押し進めている者達が、パレスチナやイラクのみならず、将来において再びトルコ国内に「線引き」を行わないという保証はどこにもないのだ。何百年間にもわたって中東の大帝国を築き上げてきたこの国の国民は決して馬鹿ではない。何が彼らを翻弄してきたのか十分に知っている。

そのようなときにこの「アルメニア人虐殺問題」はあらゆるレベルで最もデリケートなテーマとなる。それは西欧支配層による世界各地の分割・転覆・支配策謀の歴史の中で最も際立った残虐性を帯びるものの一つだからである。19世紀後半に、国際共産主義運動とほぼ同時期に現れ出たシオニズム運動もまた、単にユダヤ人の内部から自発的に生まれ出たものとは考えにくい。オスマン・イスラム帝国は「近代十字軍」の最初の餌食となった。その解体と再編成に共産主義とシオニズムの両方が関与している。そして文字通りの「国無き民」アルメニア人こそがその最大の犠牲者なのだろう。


[欧州へ]

トルコの情勢は将来EUにこの国を迎える可能性を持つ欧州にとってもまた重大な関心事とならざるを得ないのだが、現在のところ米国同様にどの国も「触らぬ神に祟りなし」を貫いているようだ。それどころか、ひところ盛んだった「反イラン・キャンペーン」も鳴りを潜めている。そのかわり現在各国国民の関心は中国に向けさせられており「中国のアルメニア」たるチベットを巡っての反北京キャンペーンが繰り広げられている。これがオリンピック絡みの汚染問題や食品衛生問題などに対する北京政府の無策ぶりと重なって、大きな「反中国ブーム」が作られつつある。

そして現在その流れと並行しその陰に隠れるように、特に英国、フランス、オランダ、北欧諸国、イタリアで、シオニスト勢力が着々とその支配の輪を固めつつある。英国ではネオコン子飼いのブレアーが去ってもやはり事情は一向に変わらないばかりか、国内のイスラム教徒に対する締め付けは厳しくなりつつある。フランスではサルコジ政権の登場以来、政治的にも文化的(マスコミ報道や出版など)にも親イスラエルの流れが強化されつつある。欧州各国国民は欧州の「米国化」に対して非常に強い抵抗感を抱いている。しかしそれを突き崩し、極少数派のシオニスト組織が全面支配する米国型システムとイスラモフォビア(イスラム嫌悪)が、一般の欧州人と欧州に多く在住するイスラム教徒との亀裂を徐々に生み出し一般社会を様々に揺り動かしながら、一歩一歩着実に侵入してきているのだ。

しかしその点の話は次回に回すことにしたい。欧州で始まったシオニズムは将来の何かの「巨大なショック」をきっかけにして新たなファシズムとして欧州を席巻することになるのだろうか。2001年以降の米国のように。