bischa日乗

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bischaが思ったことをテキトーな文章に綴ります。
AKB48グループや乃木坂46とアイドルグループPIP(http://ameblo.jp/pip-official/)についてのネタは割と多めになる予定です。

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先日、PLANETSチャンネルで配信された「欅坂シンドローム」というニコ生でした話をこちらでもう少し分かりやすく紹介させて貰いたい。

「キミガイナイ」という曲は、欅坂46の歌う「サイレントマジョリティ」所収の楽曲で唯一、MVが作成されていない。
しかし、そのフリは精緻に設定されている中々面白い曲だ。
そして、8分音符で刻み続けるミニマルな雰囲気が非常に魅力的な曲でもある。
更に歌詞へ着目点を移す。
序盤にこんな歌詞が出てくる。
「誰が聴いているのだろう マーラーの憂鬱な交響曲」
このワンフレーズ、秋元康氏の意図を勝手に考えると、専ら語感を当てたに過ぎない歌詞に思える。
何故なら、マーラーといえば、古今の数多のクラシック音楽の中でも、特筆すべきほど巨大な編成で巨大な音楽を書いた作曲家であり、彼の作品は「躁鬱」であることは多々あれど、「憂鬱」に終始する交響曲は存在しないからだ。
しかし、この「憂鬱」の形容が、フリと一体になって意味をなしているようにも私には思える。
渡辺梨加さんが担がれて出てくる冒頭。
あれが何を象徴しているか、ということである。
私はあれを見た瞬間、棺と葬列に見えた。
そして、棺、葬列、つまり強烈な死のイメージと親和するマーラーの交響曲といえば、作品は2つ。
死への思いを濃厚に吐露し、皮肉にも初演前に死へと導かれたかのような第9番。
もう1つは、第1楽章冒頭のトランペットのファンファーレから始まる部分が「葬送行進曲」と記された第5番である。
今回、棺と葬列、という直接的なイメージはから、この歌詞に出てくる「マーラーの憂鬱な交響曲」とは第5番と考えて良いのではないだろうか。

ところで、「サイレントマジョリティ」内の作品イメージについて、千葉大学教授の藤川大祐氏が、「パラレルワールド」という印象的な批評をしていた。
なるほど、他の一連の作品は、パラレルな渋谷、パラレルな山手線、そして蜂起するような苛烈な対立ではないマジョリティ、というパラレル、なんていう批評も説得力が出そうな気がする。
その流れで言えば、歌詞で、翌日の簡単な復縁が考え辛いようなカップルの破綻を提示している「キミガイナイ」は、パラレルやバーチャルな死を想起し、そのイメージを背負えるのは、ミステリアスな大人である渡辺梨加さん。
そんな解釈もできそうな気がする奥深さがあるのではないだろうか。