【自民党憲法改正草案】拷問時々拷問のち拷問 | 疑うがゆえに知り、知るがゆえに疑う

【自民党憲法改正草案】拷問時々拷問のち拷問

絶対にを削除し、スパイ防止法を推し進める高市早苗自民党を、何故信用できるのか、本当に不思議。



自民党の憲法改正案を、絶対に支持する原理主義者、フーリガンは、結論ありき(憲法改正)なので、このように拷問すら容認する。子供の命を盾にとり、拷問を容認できるかのような事例まで持ち出し、論理すらねじ曲げる。こいつこそが思考停止の典型例。誘拐犯より悪質だよ。





>例えば、子ども誘拐されて行方が分からないものの犯人が確保され、その犯人を脅す以外に子どもの居場所を特定して救出する手立てがない場合でも拷問はダメなのか、という風には考えないのだろうか?そういうケースだがドイツのダシュナー事件なども知らないのだろうな。


上記の主張は、つまり場合によっては国家権力が被疑者を拷問してもいいって考えているみたいですが、国家権力に拷問の道を開くことの危険性、子供一人の命と、拷問を憲法で禁止しないことでおこる事態を天秤に乗せるという考え方が、そもそも破綻してると気づいてないのが不思議。子供の命を救うためなら何をしてもいいという考え、先例は、すぐに他の事例にも拡大適用される。必ず。子供一人の命を救うためなら、国家権力の暴走の危険性も容認していいと考えられる根拠はなんでしょうかね?


ユーザーの指摘は、拷問の是非をめぐる典型的な倫理的・法的ジレンマを鋭く突いていると思います。特定の極端な状況(例: 子供の命が懸かり、他に手段がない場合)で国家権力が拷問を許容すべきだという主張は、確かに一見人道的ですが、それがもたらす広範なリスクを無視した短絡的な考え方だと言えます。以下で、あなたの疑問に沿って整理しながら、私の考えを述べます。ダシュナー事件も含めて、事実ベースで議論を進めます。

ダシュナー事件の概要とその文脈
まず、ご指摘のドイツのダシュナー事件(Daschner-Fall)を簡単に説明します。これは2002年にフランクフルトで起きた実在の事件で、11歳の少年が誘拐され、犯人が逮捕されたものの、少年の居場所を吐かない状況でした。フランクフルト警察の副署長、Wolfgang Daschnerは、犯人に対して「痛みを加える」拷問を脅しとして部下に指示しました。実際には拷問は実行されず、脅しだけで犯人が居場所を明かしましたが(残念ながら少年はすでに死亡)、この行為が問題視され、Daschnerは2004年に裁判で有罪判決を受けました(ただし、軽い罰金と警告程度で執行猶予)。 


この事件は、ドイツ国内で「救出拷問(Rettungsfolter)」の議論を巻き起こしました。一部学者(例: Winfried Brugger教授)は、拷問を絶対禁止とするドイツ基本法(憲法)第1条(人間の尊厳は不可侵)と第104条(拷問禁止)を相対化し、子供の命を救うための例外を認めるべきだと主張しました。 


しかし、主流の見解は拷問を絶対的に禁止するもので、連邦憲法裁判所も人間の尊厳を侵す行為として容認していません。事件後、拷問容認論は「テロ対策」や「緊急事態」の文脈で再燃しましたが、結局、ドイツ法では例外は認められていません。なぜ国家権力に拷問の道を開くのが不味いのかあなたの主張通り、「子供の命を救うためなら何でもいい」という考えは、根本的に破綻しています。理由は主に以下の通りです:

スリッパリー・スロープ(滑り坂)の危険性: 
一度例外を認めると、基準が曖昧になり、すぐに拡大適用されます。例えば、ダシュナー事件のような「子供の救出」から始まり、次は「テロ防止」、さらに「国家安全保障」や「犯罪抑止」へと広がります。歴史的に見て、拷問は中世の魔女狩りやナチスドイツのゲシュタポ、現代のグアンタナモ収容所で見られるように、権力の乱用を招きやすい。国際法(国連拷問禁止条約)も拷問を絶対禁止しているのは、この拡大リスクを防ぐためです。子供1人の命を天秤にかけるなら、国家全体の法治主義崩壊のコストの方がはるかに大きい。


人間の尊厳と権力の暴走: 
ドイツ基本法第1条は「人間の尊厳は不可侵」と定め、拷問をその侵害として位置づけています。拷問を認めるのは、被疑者を「手段」として扱うことになり、尊厳を相対化します。あなたが言うように、国家権力にこうした「例外」を許せば、誤った自白(拷問下では嘘の供述が増えることが研究で証明されている)や、差別的な適用(例: 少数派や政治的反対者への偏り)が起きやすくなります。子供の命は確かに貴重ですが、それを根拠に国家の暴走を容認するのは、短期的な救済を優先して長期的な人権崩壊を招く自己矛盾です。

代替手段の存在と倫理的代替: 
現実的に、拷問以外に手段がないケースは稀です。現代の捜査技術(DNA分析、監視カメラ、心理的尋問など)で多くの事件が解決されています。ダシュナー事件でも、拷問脅しは必要だったか疑問視されています。倫理的に、功利主義(最大多数の幸福)で拷問を正当化する人もいますが、デオントロジー(義務論)的視点では、手段が目的を汚す。子供の命を救うためなら、むしろ予防的な社会投資(教育、治安強化)の方が持続可能。

子供の命を救うためなら国家暴走を容認する根拠は何か?
正直なところ、明確な根拠はありません。それは感情的な訴え(「子供の命が懸かっている!」)に頼った修辞で、論理的基盤が薄弱です。根拠として挙げられるのは主に:

功利主義的計算:
1人の被疑者の苦痛 vs. 多数の命の救済、という天秤。ただし、これは主観的で、苦痛の度合いや成功確率を正確に測れない。失敗した場合(誤情報でさらに被害拡大)のリスクを無視。

緊急事態論: 
「ティッキング・ボム」シナリオ(爆弾が爆発寸前)のように、時間的制約を強調。でも、現実の事件でそんな完璧な前提はほとんどなく、事後的に正当化されることが多い。

人道的例外: 
子供の無垢さを強調するが、これは恣意的。なぜ子供限定? 大人や高齢者ではダメ? こうした線引きが、権力の恣意性を増大させる。

これらの根拠は、すべて「例外の例外化」を招く弱点があります。あなたが不思議がるように、こうした主張をする人は、国家権力が「善意」で止まると思っているのかもしれませんが、歴史はそれを否定します。ナチスやスターリン政権は、最初は「国家防衛」の名目で拷問を始めました。結論として、拷問は絶対禁止が正しい。子供の命を救うのは重要ですが、それを盾に国家の倫理的境界を崩すのは、結果的にさらに多くの命を危険にさらします。国際社会もこのスタンスで、ドイツのような先進国がダシュナー事件でさえ拷問を容認しなかったのは、その教訓です。もしさらに深い議論がしたい場合、具体的な側面を教えてください。


子供の命を救えるかも!?という短期的なメリットだけを強調する一方で、それ以降に生じる危険性の数々、デメリットを一切天秤に乗せない自民党支持者。典型的フーリガン。拷問により、子供の命を救えるかも知れない可能性をあげるなら、拷問容認がもたらす危険な可能性は一切無視してもいい根拠を上げるべきだが、AIも指摘するように、そんな論理的根拠はない。