【靖国神社】薩長のテロリスト達を“英霊”とする政治施設 | 疑うがゆえに知り、知るがゆえに疑う

【靖国神社】薩長のテロリスト達を“英霊”とする政治施設

薩摩長州のための愛国無罪施設、靖国神社(笑)。



これは確かにテロリストだわ・・・・。


【「靖国参拝」の問題はA級戦犯合祀ではない… テロリストも顕彰する“薩長に寄りすぎ”の史実
新潮社

靖国参拝の議論は本質に届いていない
 毎年、終戦の日の8月15日には、閣僚が靖国神社に参拝することの是非について議論が起きる。昨年は閣僚では、高市早苗経済安全保障担当大臣が参拝。岸田文雄総理大臣は参拝せず、自民党総裁として私費で玉串料を納めた。この日の参拝は、昭和60年(1985)に当時の中曽根康弘総理が公式参拝し、「内閣総理大臣」と記帳して以来、なにかと物議を呼んできた。

 中曽根総理の参拝に対しては、中国や韓国が激しく反発した。その最大の理由は、東条英機元総理ら東京裁判のA級戦犯14人が、昭和53年(1978)に合祀されたことだった。以後、A級戦犯の合祀については、メディアでも盛んに報じられ、彼らの合祀に違和感をいだく人は多い。

 それでも、あえて参拝した高市大臣は、「国策に殉じられたみなさまに、哀悼の誠をささげ、感謝の思いを伝えてきました」と述べた。おそらく、玉串料を納めた岸田総理も、同じ日に参拝した自民党の萩生田光一政調会長も、小泉進次郎元環境大臣も、尋ねられれば同様ことを答えたことだろう。

 平成17年(2005)のこの日、当時の小泉純一郎総理が靖国神社に参拝し、国内外からの強い批判を招いたとき、外務省のホームページに以下の文書が掲載された。高市大臣の言葉をより具体的にすればこうなる、という内容である。

「小泉総理は、今日の日本の平和と繁栄が、戦没者の尊い犠牲の上に成り立っているとの強い思いを抱いている。そして、祖国のために心ならずも戦場に赴き命を落とさなければならなかった方々に対し、心からの哀悼、敬意及び感謝の気持ちを捧げると共に、戦没者が目にすることができなかった今日の日本の平和と繁栄を守ることの重要性を自覚し、不戦の誓いを込めて、総理の職務としてではなく、一人の国民の立場で靖国神社に参拝している」

 一方、参拝に反対する側は、どんな理由を掲げているのか。たとえば、日本共産党はこう説明している。「明治維新からアジア・太平洋戦争までの戦没者240万人余をまつっていますが、いずれも“天皇のため”にたたかって死んだ軍人・軍属だけです。(中略)戦争遂行や侵略戦争美化の“道具”として人の死を利用することは、戦争犠牲者を冒とくするものではないでしょうか」(しんぶん赤旗HPより)。

 こうして並べると、双方の議論が並行してかみ合わないであろうことが容易に想像される。しかし、じつをいえば、私は双方に対して強い違和感をいだく。

暗殺犯は合祀され被害者はされない
 靖国神社の本質を考えるには、安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で大老の井伊直弼が暗殺された桜田門外の変を例にとるとわかりやすい。

 この事件は、井伊が勅許、つまり天皇の許可なしに日米修好通商条約に調印し、これに対し、朝廷が幕府の調印は遺憾だと水戸藩に伝えたこと(戊午の密勅)に端を発している。こうして尊王攘夷派の反発を招くと、井伊は安政の大獄で弾圧。これに対し、薩摩藩から井伊を暗殺すべきとの声が上がった。結果的に17人の水戸藩士と1人の薩摩藩士が脱藩のうえで、登城する井伊の駕籠に斬り込み、首をはねた。これを機に幕府の権威は大きく失墜することになった。

 問題は、井伊を殺害した浪士たちはみな、明治22年(1889)に靖国神社に合祀され、同35年(1902)には官位を追贈されたことである。片や、井伊は合祀も官位の追贈もされていない。

 桜田門外の変は、開国するか否かをめぐる幕府内の主導権争いを機に、外国勢力を追い払おうという尊王攘夷派が過激化し、白昼堂々と行われたテロ行為にほかならない。しかも最終的には、日本の国論は攘夷から脱し、井伊が主導した開国に向かったのだから、その方向を切り開いた井伊こそ讃えるべきだ、という言い方もできる。

 ところが、薩長政府によって井伊は極悪人に仕立てられた。一方、テロ行為の実践者たちは「烈士」と呼ばれ、その行為は「義挙」と讃えられた。理由は、薩長主導の政権樹立に貢献したからにほかならない。靖国神社に合祀される基準は、共産党がいうような天皇のために戦ったかどうかではなく、薩長のために貢献したかどうかだったのである。

長州藩に忠義を尽くせば合祀される
 同様の例は挙げ出せばキリがない。

 文久元年(1861)、イギリス公使オールコックが、仮公使館にしていた江戸高輪の東禅寺で襲われた。このときオールコックは無事で、水戸浪士ら12名の刺客は斬られたり、逃げられずに自決したりした。一方、警護に当たっていた幕臣らも2名が斬殺された。やはり許されざるテロだが、12名の刺客は明治22年(1889)に靖国神社に合祀され、その後、官位も追贈された。ところが、テロに襲われ命を落とした2人は、幕府側の人物だったので、無視されたままとなった。

 文久2年(1862)には老中安藤信正が、水戸藩士6人に襲われる坂下門外の変が起きた。安藤は軽傷で済んだが、浪士6人は斬り殺され、遅刻した1人は自決した。浪士たちの斬奸状によると、安藤が桜田門外の変ののちも悔い改めず、外国と親しくする「神州の賊」だから、殺す必要があったのだそうだ。そんな滅茶苦茶な理由でテロを起こした6人ばかりか、遅刻した1人までもが、明治になると靖国神社に合祀され、官位も追贈されている。

 坂下門外の変で幕府の権威がさらに失墜し、薩長政権の樹立に近づいたのが評価されたことはいうまでもない。しかし、安藤らも日本の将来を考え、苦渋の決断を重ねたに違いないのだが、それはまったく評価されない。

 文久3年(1863)、八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都から追放されたのち、尊攘派の中心だった長州藩は、薩摩藩などの民間の船を二度も砲撃する愚挙を犯した。このとき、長州の2人の下級武士が、おそらく無実であるのに藩を救うために腹を切った。このため長州では「大忠臣」とされたようだが、そんな2人も明治になると靖国神社に合祀されている。その理由は、長州藩に忠義を尽くしたこと以外、考えられない。

祖国のためでも薩長のためにならなければダメ
 その後、長州藩では内戦が起き、幕府への抗戦を主張する正義派と、恭順を主張する俗論派に藩論が分裂した。主として下級武士で構成されたこの正義派が、以後、倒幕の中心勢力になり、明治政府の主要メンバーになっていく。それにあたっては、中立派の藩士たちも鎮静会議員と称して、反政府から俗論派を追い出し、正義派に主導させるべく動いた。

 慶応元年(1865)2月、そんな鎮静会議員らが襲われ、3人が命を落とした。この暗殺事件は俗論派の仕業とされ、以後、反政府から俗論派が締め出されるきっかけとなった。したがってその3人は、長州藩内の主導権争いで、のちに明治の藩閥政府を構成する面々が浮上するきっかけをつくったことになる。

 その功績が讃えられてのことだろう、明治21年に靖国神社に合祀され、その後、3人とも正五位を贈られた。ところで、桜田門外の変でも、坂下門外の変でも、靖国に合祀されたのはテロの首謀者たちだったが、ここでは被害者が顕彰されている。一見、矛盾があるように感じられるが、基準は薩長政府の樹立に貢献したかどうかだと考えれば、すべて辻褄が合う。どんなに「祖国のため」の行為であっても、「薩長のため」になっていなければ、一切評価されないのである。

 明治元年(1868)に起きた、イギリス公使パークスが浪士2名に襲撃された事件を見るとわかりやすい。このときパークスは無事で、襲撃犯は1人がその場で斬り捨てられ、もう1人は捕らえられて首を斬られた。少し前なら、彼らは外国人を懲らしめた「烈士」と讃えられ、顕彰の対象になっただろう。ところが、すでに薩長が開国路線に転換したのちの事件だったので、彼らが靖国に合祀されることはなかった。

合祀の基準は濃厚なイデオロギーだった
 まだまだ例はいくらでもあるが、最後に1つを簡単に紹介する。戊辰戦争では周知のように、会津藩と庄内藩が新政府軍から朝敵視された。このとき仙台藩主と米沢藩主が総督府に赴き、会津藩が新政府軍に謝罪し恭順する旨を伝えたが、却下されている。その判断の中心にいたのが、天皇の権威をかざした高圧的な態度をとる総督府下参謀で長州藩士の世良修蔵だった。

 明治元年(1868)4月、世良は福島藩士や仙台藩士らに捕らえられ、斬首された。東北の人たちからみれば、到底許されない人物だったのだが、明治2年には早速、靖国神社になる前の東京招魂社に合祀された。

 薩長藩閥政府の樹立に貢献したと判断されれば、テロでさえ称揚する。残念ながら、靖国神社への合祀の基準を見ていると、そういわざるを得ない。井伊直弼に、国を思い天皇を尊重する姿勢がなかったとだれがいえるだろうか。しかし、彼は薩長が倒すべき対象だった旧政府の人間であった以上、評価されないのである。

 もちろん靖国神社には、高市大臣がいう「国策に殉じられたみなさま」も、共産党がいう「“天皇のため”にたたかって死んだ軍人・軍属」も祀られている。だが、祀られるための基準はそこにあったわけではない。これまで交わされてきた靖国神社への参拝をめぐる議論は、本質からズレている。

 ここまで述べたように、濃厚なイデオロギーが合祀の基準であることが靖国神社の最大の問題である。テロの首謀者も、その時点では公共の利益にかなうと信じた行動だったといえなくもない。時代の波に巻き込まれて過ちを犯した人物を、いまさら合祀の対象から外せとまではいわない。

 しかし、内乱によって命を落とした人物の、一方の側だけを称揚するようなことはあってはなるまい。いまからでも「国策に殉じられたみなさま」が広く祀られる神社となることを願わざるをえない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部】


>濃厚なイデオロギーが合祀の基準であることが靖国神社の最大の問題である。


政治屋が参拝する際、政教分離の観点から問題視されるが、そもそも靖国神社は、その創設からして、すでに政教分離の一線を踏み越えていた。あれは政治から分離した宗教施設ではない。薩摩長州のためのプロパガンダ施設。そこに政治家として参拝するのは、テロリストを賛美するのとかわらない。個人が、東アジア太平洋戦争の戦死者を慰霊するために参拝するのは自由だが、政治屋が参拝するを賛美したり支持したりするのは、自称愛国者(笑)達が嫌う、中国や韓国と同じレベル。


>テロの首謀者も、その時点では公共の利益にかなうと信じた行動だったといえなくもない。時代の波に巻き込まれて過ちを犯した人物を、いまさら合祀の対象から外せとまではいわない


いや外して欲しいよ。どうみてもテロリスト、凶悪な暗殺犯だよ。井伊とかのほうが、遥かに“英霊”だよ。どうやったら薩摩長州のテロリスト達が“英霊”なんだよ。せいぜいが反英雄だろ。