不登校の原因は本人(不登校当事者より) | 臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

いくら良い言葉を並べても、お金がからむと真実が見えない。こころを商品化する社会にも同じ不安を感じる。そんなこころの悩みを和ダンボがつぶやきます。豊後大野市共育塾(場所ココミオ)では、そんな問題をみんなで語り合っています。お問い合わせは美容室WAKOまで。

最近は不登校に対しての親の責任論が世の中を騒がせています。不登校が約30万人になり、文科省もかなり慌てているのは確かなようです。10年前の約10万人から3倍も増えていることになります。これは時代が変わった影響もかなりあると思います。


わたしもかつては不登校をしました。しかし50年前の話でまだ不登校という呼び方もありませんでした。かつての中学校は生徒数も多かったですが、学校に来ない子はほとんどいませんでした。その頃はまだ画一的なやり方にみんなが従っていました。


個性よりも集団を重んじるのが普通でした。わたしの不登校は高校に入ってからでした。寮に入っていたので学校を休んだりしたことを親は知りませんでした。中学校まではほぼ皆勤だったのに一気に本性が出てしまいました。


わたしはゆるい環境に弱かったのです。その高校は高専といって非常に校則もゆるかったのです。半分大学生のような自由さがありました。3年までは学生服は着るが、下は自由だったと記憶しています。代返も通用するしとにかくゆるかったのです。


それでも授業が楽しければ行ってますが、これがまったくついていけなくて苦痛でした。ことわざで「鶏口牛後」がありますが、まさにわたしは牛後になっていたのです。実力よりレベルの高い学校に入ると本当にあとで苦労します。


東大や京大に行った人からも聞いたことがあります。元々わたしは中卒で働きたいくらいでした。しかしせめて高校くらいはと周りがいうので行ったようなものです。しかしわたしのような甘えた人間が、中卒で働いてもどうなったかわかりません。


結局は4年で高専を中退しました。総務の人からは高卒の権利はあるので書類を作ろうかと尋ねられました。しかしわたしは中卒で結構ですと断りました。わたしのような甘えた人間は、今度は高卒の資格に甘えると思ったからです。


学歴の関係ない職人の世界を選びました。割と手仕事は好きだっので工業系に行ったのですが、同じ手仕事でも内容が合いませんでした。そこでたまたま美容師に誘われすぐに決断しました。兵庫県西宮市で働くことになりました。


もうあとがないということで、そこの店に住み込みのような形で働くことになりました。しかしそこも頑張ったのですが、半年ほどで辞めてまた期待を裏切ってしまいました。そしてその半年後に神戸市の大型店に就職しました。


もう学歴のないわたしは、美容師を辞めようとはまったく思いませんでした。そしてその大型店では3年半続きましたが、父親が急に亡くなり急遽大分に戻ることになりました。せめて母親だけでも面倒を見ないと死ぬに死にきれないと思ったからです。


わたしは次男でしたが、卒業もせず親にかなり無駄なお金を使わせたので、その当時福岡にいた長男にわたしが帰ると言いました。すると兄は家庭も持っていましたし「お前ならハサミ1本あれば全国どこででも仕事ができる」と賛成しました。


包丁とハサミを同じように考える兄でした(笑)。不登校を転機と考えれば、変わるチャンスでもありました。おかげでわたしは美容師になれました。もちろん美容師は誰でもなれるのですが、普通の親であればあまり賛成しないと思います。その気持ちもよくわかります。


わたしは不登校はその後が大事だと思っています。これまでの決められた路線からは一応外れるのです。良い会社に入るのが目的ではなくなり、良い自分をつくることが目的になるのです。不登校はその後が本当に大事なのです。


不登校もすぐになるものでもなく、それなりの年月がかかります。本人が将来を見極められれば良いですが、できない場合は親がアドバイザーになれればベストです。自分の子どもですから、感情が入るとは思いますが親も頭の切り替えが必要です。


これまでとは路線が変わったのです。いや変わる可能性が高いのです。もちろん学校復帰もありです。そこは一度ニュートラルにして、次の方向を焦らず決められればと思います。不登校という流れのあとは、また違った流れが必ず来ると思います。


そこを見逃さないように準備は必要かと思います。わたしの場合は「美容師にならないか?」という誘いの流れが来て、それに乗って良かったまでです。そこでも合わなければ学校と同じようにまた辞めたでしょうが、それもまたありだと思います。


紆余曲折があるのが人生で、今がいくら幸せであってもそれもずっと続くとは限りません。不登校もそんな人生のひとコマと、いずれは思えてくる日がきっと来ます。あまり過敏にならないようにしたいですね。ではまた明日。