凶悪事件も分断工作から起きると、昨日のブログにも書きました。分断工作は選別化ともいえます。デジタル化に伴いオール電気化も、広い意味での選別化です。収入は増えなくても、何事にもお金のかかる時代になります。
当然それに順応できない人たちも増えます。日本も高度成長期は良かったですが、それはその前が悪かったからです。でなければ高度成長などが起きるはずがありません。戦後からの復興ですから成長しかありません。
その途中で中流階級が増えたのですが、この頃が一番安定はしていました。しかしその安定はずっと続くものでもないのです。人間には欲があり、その欲が今度は格差を生み出す原因にもなりました。物が豊かになると心が貧しくなるのです。
「無条件幸福」の意味は、社会主義や宗教のように取られても困ります。この「無条件」にも、本人の努力だけは必要となります。それでは無条件ではないと突っ込まれそうですが、そこは「学問のすすめ」と同じと思って欲しいのです。
天であっても、人間を平等にはしていないのです。生まれながらに差がついているのです。ですからその差をカバーするのが本人の学ぶ努力です。生まれながらの差は、その後の努力によって逆転することもあります。学ぶ場はまずは学校です。
ここで基本的な読み書き計算を学びます。しかしその次が問題なのです。受験勉強になると記憶する学習が中心になり、本当の考える力はあまり身につきません。そして実社会では必要のないことを、かなりの時間を使って覚えさせられます。
しかし必要のないことは使わないので、いずれはすべて忘れてしまいます。そんなことに高校時代までは時間を使い、大学に入ってからは応用に入るはずですが、そこは経験がないのでわかりません。わたしは高校から社会人になりました。
社会で応用を学びました。今の子どもたちも「社会的自立めざす」の教育方針があります。しかしそれは社会にでなければ本当は身につきません。学生時代は練習試合のようなものです。社会に出てもまずは研修を受けますがこれも同じです。
研修は研修であって本番ではありません。本番で学ぶことをOJT、オン・ザ・ジョブ・トレーニングと呼びます。本番でそばで体験しながら学ぶのです。ここで学ぶ力が発揮されるのですが、それこそ自力での努力が試されます。
「無条件幸福」はただあるものではなく、自分の力で掴むものです。努力に差別はありません。本人次第なのです。これを早くに気づくことは大切と思います。でなければ学歴社会しかないように勘違いします。それ以外の社会も多いです。
凶悪事件を犯した犯人もただ恨むだけでなく、その解決法を学んで欲しかったです。しかしそのような学び方を知らなかったし、またアドバイスできる人間も周りにいなかったのでしょう。管理教育では学ぶ力や考える力はつきにくいです。
学ぶ努力に条件はつきません。幸福になるもならないも本人次第です。お金があるだけでも幸福ではありません。すべては学ぶ力や考える力で幸福を手に入れられます。それでも無理な場合は、公助を堂々と受ければ良いと思います。
「無条件幸福」をまずは知り、管理される自分でなく、自分で自分を管理できる人間になることです。敵は自分、そう思えば他人を襲うことはなくなります。戦争も他人を襲うことです。
「無条件降伏」ではなく「無条件幸福」を求めて、明るい未来をめざしたいです。ではまた明日。