不登校特例校を含め、学校の多様化に思うこと | 臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

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いくら良い言葉を並べても、お金がからむと真実が見えない。こころを商品化する社会にも同じ不安を感じる。そんなこころの悩みを和ダンボがつぶやきます。豊後大野市共育塾(場所ココミオ)では、そんな問題をみんなで語り合っています。お問い合わせは美容室WAKOまで。

不登校特例校という、新しい形の学校がいま全国にできつつあります。学習指導要領にとらわれず、不登校の児童生徒の実態に配慮した、特別の教育課程を編成して教育を実施する学校です。文部科学大臣が指定します。いま一番新しい学校名は、岐阜市立岐阜草潤中学校となっています。


草潤(そうじゅん)とはあまり耳にしませんが、「内に素晴らしいものがあれば、いつかは外に表れる」の意で荀子(じゅんし)の言葉だそうです。「嚢中の錐(のうちゅうのきり)」とほぼ同じ意味で、袋の中に入れたキリはすぐに突き出るという意味です。ここでは現れると表現します。(漢字が違う)


どちらにしてもかなりの才能がなければ、大勢の中からは現れることはできません。個人的な感想からいえば、学校という所は大勢を対象にする場だと思っています。特殊能力開発の場ではないはずで、学校に求め過ぎても無理があると思います。


学校はあくまでも集団でやれることの最低限の規律を、学ぶための場であって欲しいです。そしてそんな管理された中でも、才能のある子は目立ってくるものなのです。わたしは自由にさせるほうが、逆に本当の個性が出にくいのでは思います。勉強もするなと言われたらしたくなるのです。


わたしの今の親の会に対する気持ちと同じです。これは人によって感じ方はまったく違いますから、これはわたしだけの特性と思ってください。やっと変人の特性が出てきたと自分では思っています。この不登校特例校の話をお客さんとしていたら、突然質問を受けました。


お客さんが「それって行き出したらもう不登校じゃないですよね?」と言われ思わす笑ってしまいました。確かにフリースクールであればまだ不登校ですが、不登校特例校になれば登校でしょうね。一周回って振り出しに戻った感じです(笑)。こうなると今度は「学校って何?」となりそうです。


不登校特例校は、ひとつの問題提起だと思えば良いと思います。フリースクールから正式に学校になったところもあります。東京シューレ葛飾中学校などがそうです。現在は不登校特例校の中に入っているようです。フリースクールからそこに行くまでの道のりは、とても大変だったと思います。


今回の不登校特例校の新設は、東京シューレの影響も大きかったのではと推測します。創設者であった奥地圭子さんには、大変なご苦労があったと感謝したいです。また組織が大きくなれば、「自由」とは反対の「管理」も必要なことは確かです。この両輪がうまく機能しなければ、組織は正常には動きません。


経営者の器とは、管理できる人数と比例することを実体験しました。決まった人数などはわかりませんが、人は増えるほど管理は大事になってきます。その管理できる規模が、経営者の器と表現されます。そして管理をされながら学ぶ義務教育も、大切な役目とわたしは感じます。


人生では管理はする方とされる方の、どちらもほとんどの人が経験します。親になれば必然的に子どもの管理責任者になります。管理と一口にいっても、仕事やスポーツや子育てなど多岐にわたりますから、方法はそれぞれで違います。一時民間校長が流行ったときもありました。


わたしは正直うまくいかないと予想していました。仕事の管理と学校の中の管理はほとんど別物です。それをわかってなられた民間校長は、それなりの成果はあったと思います。問題が起きたとしてもやった意味はあったと思います。学校に民間の風を入れたことは悪くはないです。


学校の管理と社会での管理の違いも、先生方も知れて良かったと思います。元和田中校長の藤原和博さんのような突出した人も出ました。この方は民間の感覚をかなり入れて、多くの改革をしました。賛否両論もありましたがリクルート魂でやり抜きました。やはり特例だと思います。


時を戻そう。これまでの人生の総括で「人間は自由にすれば良いことも悪いこともする」という結論になりました。「人間だもの」ではないですが、人間に管理は必要とわたしは考えます。一番は自分に対してです。ここをしっかりと押さえておかなければ、自分も怖いものになります。


それこそ基本があっての応用のように、規制があっての自由なのです。規制の中には理性や思いやりなど情の部分も入ります。主に欲望のままに動かないようにするための、自己規制がとても重要に感じます。それは権力を持つ立場の人が、とくに自覚しなければならない注意点です。


偉そうなことを書いていますが、わたしも毎日自分と戦っています。自分をうまくコントロールできないのです。もちろんできる部分もありますが、本当にできていたらもう少し健康だったでしょう。やはり食生活などで甘さが出るのです。とにかくある程度の自己規制は必要です。


その自己規制を自由な雰囲気の教育の中で、どのように身につけさせるのかは大きな課題でしょう。当然として自由を望む人たちは、自己規制を嫌うかもしれません。そこが判断の分かれ道で、結果はいずれ出ると思いますが、こんな議論はもっとしたいですね。


今日は少し長くなりましたが、何でもありの時代になりつつあるのが怖いのです。規制から入るか自由から入るか、どちらも必要と考える和ダンボです。みなさんはどう思われますか?こんなテーマで話してみたいですね😉ではまた明日。