ちょうど、地球と同じ構造をしていること。
まず表層の地殻に当たる部分が「観念」、
つぎに中層のマントルに当たる部分が「業」、
そして深層の核に当たる部分が「真我(ハイヤーセルフ)」
という説明をしましたが、
今日のお話しは、中層に位置する部分「業」と
深層の核に当たる部分「真我(ハイヤーセルフ)」についてです。
前編の記事はコチラ

「心と地球の構造は似ている -前編-」
まず、最初に中層の業の部分です。
「観念」でどんなに前向きにしよう、
プラス思考で行こうと努力しても、
どうしてもそう思えない思いが湧き上がって
くるときがあります。
そのマイナスの思いの根源がまさに「業」なんですね。
「感謝しろったって、そう思えない」
「どうしても不安になってしまう」
「人を愛せったって、憎たらしいんだから、
しょうがないじゃないか!」
「業」とは、仏教用語で元々は「行為」を指す言葉です。
しかし、行為の結果生じた「記憶」を示す言葉ともなっています。
僕は、「業」を後者の意味で使っています。
「業」、すなわち記憶にも様々な種類があります。
一つに、生まれてから今までに様々な体験をする中で、
刻まれてきた記憶があります。
そして、先祖から受け継いだ遺伝情報も広い意味での
記憶と言えます。
さらに、前世の記憶もあると思われます。
また、意識に上る記憶もあれば、
無意識的な記憶もあります。
記憶の中で圧倒的多数を占めるのは、無意識的記憶です。
仏教における一学説である唯識学では、
多くの輪廻を経て生じた私達の大量の業は、
阿頼耶識という根底的意識の中に一つも漏らさず
蓄えられていると考えます。
また、精神分析の父ジグムント・フロイトは、
無意識において記憶記憶が抑制される構造を指摘し、
そこに神経症の原因を見出しました。
フロイトの弟子C・G・ユングは、複数の個人によって
共有される無意識的記憶を神話の分析等を根拠として指摘、
集合的無意識の存在を主張しました。
この無意識的記憶が、私達の思考や情動のあり方を
規定する、あるいは束縛するということが、僕が心の癖と
呼んでいるものの内容にほかなりません。
たとえば、身近な例で言えば、一度サバの刺身を
食べて中毒を起こすと二度とサバの刺身を食べられなくなる
というのは、典型的な例です。
より深刻な例をあげれば、
両親に虐待を受けて育った子どもが、
成長してからも人間不信から逃れられないというような
心的外傷体験もそれに当たります。
さらに、ある家系で皆が同じ病気になったり、
前世の因縁によって心霊に祟られたりというような
現象も、業、すなわち記憶の仕組みによって
説明すべきものです。
今、因縁という言葉を用いましたが、
記憶の仕組みとは、まさに因縁に他なりません。
因縁とは、今日の言葉で、
因と縁と果の連鎖のことを指します。
因とは、原因、縁とは環境、果とは結果
のことを指します。
ある原因は、ある環境をともなって、
ある特定の結果をもたらします。
そして、この結果は新しい原因となって、
さらなる結果をもたらします。
こうして、因と縁と果は永遠に連鎖していくのです。
あらゆる現象はこの因縁にしたがって起こります。
たとえば、花の種という因があって、
その種が土や太陽や水といった縁に恵まれると
芽を出し成長して花を咲かせることができます。
それと同様に、僕達の心の中には無数の記憶
の種があって、それが外界からの様々な刺激という
縁によって触発され、意識に現れてくるのです。
普段は忘れていても、心の中には無数お種が
ひしめいているのです。
このように僕達の心には、先祖からの記憶、
前世からの記憶、そして現世での記憶が詰まっていて、
僕達はまさに記憶の塊といえます。
では、僕達は記憶の呪縛から逃れられないかといえば、
ノーです。
僕達が、記憶の呪縛から逃れるための鍵となるのが、
最後の地球の核の部分、「真我(ハイヤーセルフ)」
です。
真我とは、インド哲学の言葉で、
「本当の自分」、「真実の自分」を指します。
真我は「宇宙意識」と言ってもいいですし、
「内なる神」と言ってもかまいません。
「内なる仏」でも「愛そのもの」でも
「実相」でも「光そのもの」でもかまいません。
真我という完璧で完全なる素晴らしい意識は、
心の奥に、そしてどんな人の心の奥にも
すでに存在しています。
この真我に目覚めることこそ本当の悟りであると
言われています。
この核の部分である真我に目覚めることによって、
あなたを生きにくくさせている記憶の呪縛から
自分自身を解放させることができるのです。
前回、引用したカウンセリングの父ロジャースが
述べた「その人自身になること」
とは、究極的には、この真我に目覚めることに他なりません。