同じ趣味だからといって必ずしも気が合うわけじゃない | 哲学的なひとりごとを書くだけのブログ

普段は割とカロリー高めな記事になりがちだ。
カロリーが高くなれば、文章の整合性を維持するのも難しくなる。
となれば書くのも次第に面倒になってくるので、「ひとりごと」も破綻しかねない。

そういう意味で、軽めの記事を書くってことも今後は必要と感じる。

さて今回は、趣味が合えば気が合うか?という話。

結論、ならない。
それどころか、争いを生むことすらある。

何故なら、自分がこだわりをもった分野ほど、他者の視点との細かい違いが許せなくなりがちだからだ。

例えば読書を趣味として考えた場合、人によって読み方だけでなく姿勢や理解にも差が出てくる。
本を読むということに対して自分なりの基準が明確になればなるほど、それを下回っている人間を見ると腹が立つ。

僕の場合、読む価値のある本は理解するのにそれなりの時間がかかると思っている。
逆に言えば、読むのに時間がかからず簡単な本は読む価値がない。
ここ最近はとくに、ゆっくり時間をかけながら読まなければ理解できなさそうな本を読むようにしている。
それはどういう本かとひと言で言えば、自分の内省を促すような本。
世界には一体どれだけの本があるだろう。
その中で、一生のうちに読める本は少ないし、限りある命の時間を読書だけに費やすわけにもいかない。

そこに、自称読書好きがやってくる。
「この本のめっちゃ勉強になった!面白かった!」

「具体的に、どの部分が勉強になりましたか?」

「〇〇について書かれてるところは勉強になった!」

「〇〇って、具体的にどういうことですか?」

「・・・なんだっけ!でも書いてあったから!とにかく勉強になった!」

ありえない。
信じられない。
心底腹が立った。
僕自身の器の狭さにも腹が立った。
控えめにいってむかつく・・・(笑)
でも人間というのはそういう生き物なんだろう。

そう、こんなことがここ最近何度かあった。

ただ情報を集めるだけなら本である必要はないし、ネットの情報を拾うだけでもこの程度の感想は思いつく。

まぁあと、これは僕自身の自己投影も働いている。

僕は元々本を読む方ではなかったし、読み始めた頃は理解も浅かったと思う。
子供の頃なんかは読書感想文もまともに書けなかった。
それでも、今では自分なりに「理解」を目指して追求し続けている自負はある。これまで満足したことは一度もない。

だから、中途半端に理解した気になり、それどころか無知を自覚せずに読書好きを自称する連中には我慢がならない。

僕はいつのまにか、「自分は読書が好き」と言わなくなっていた。
彼らと同類になるのを恐れたからかもしれない。
いや、同類だったのかもしれない。

ここ最近は、自分の心から湧き上がる疑問を解消するために本を読んでいる。
たとえ何の役に立たないとしても。
だからせめて、「この本はどういう本か?」みたいな全体像くらい説明できる程度には読み込む必要がある。

趣味が同じでも気が合うとは限らないことを示す例は他にもあるが、もうこれ以上の説明はいらないと思う。

むしろ趣味は合わない方が、相手を許せるし尊重できる。
己の器の小ささも露呈しなくて済む。

とはいえ、共通で知ってる本について話せる人がいたらいたで嬉しい。
人に本を貸したりすることもあるが、話がそして話が全く噛み合わなくてがっかりする。
そういう意味でも、同じ趣味であろうと期待はするべきじゃないと思う。

最後に、
どんな趣味でも、人によって姿勢、理解度、熱量は違って当たり前なので、仮にそういうことがあっても責めるべきじゃない。その人は何も悪くない。
読書にしたって、僕も他の読書好きの人から同じように見えているかもしれない。
それを忘れないようにしたい。