二・三日前に、庭石か何かの隙間から、眼鏡が見つかった、と言って、父が見せてきた。お前の眼鏡ではないか?と聞いてきたけど、たぶん、今はなき母のものだろうと思った。
それにしても、なぜ今頃になって見つかったのだろう?と考えてみるに、お盆前であるし、たぶん母が、このお盆に、自分も来ていることや、見つかったものが眼鏡であることから、いつも見ていることを知らせたかったのだろうと、私は解釈、直感した。
ホコリまみれだったけど、きれいに洗って、自分の祭壇に置いた。
daivamprema
2026.8.13

ただただ、皆さまの幸福と心の平安をお祈りいたします。
愛を込めて、daivamprema


たとえ他人があなたを悩ませ、問題を引き起こしたとしても、それはあなたにとって良いことになると信じて、耐え忍びなさい。五つの元素から成る肉体は、やがて朽ち果て、滅びる運命にあります。その肉体に宿る内在者は永久不滅であり、生まれることも死ぬこともなく、いかなる束縛の鎖にも縛られません。この内在者こそが神そのものです!物乞いが食べ物を求めて「バヴァティ・ビクシャーム・デーヒ!(食べ物をください)」と言うとき、 その人は実際にはあなたにではなく、デーヒ、すなわち内在者に乞うているのです。あなたの中にいる神に施しを求めているという真理を認識しなさい。あなたに物乞いをしてくると思うのであれば、それはあなたの無知です。それは傲慢に他なりません。神はすべての人の内に宿っています。王子であろうと物乞いであろうと。あなたは万人の内に宿るこの神性原理を崇敬し、彼らを愛さなければなりません。しかし、その愛は無私無欲でなければなりません。肉体への執着から解き放たれた愛は、万人に等しく注がれます。
- 2001年11月23日の御講話

この世界には、人間にとって二種類の状態があります。ヒタ(快適)かアヒタ(不快)かです。ある状態が快適か不快かは、あなたの心の奥深くにある心構えと見解によって決まります。同じ物が、ある時には快適に、別の時には不快になるのです! ある時には大いに気に入って受け入れた物が、別の時には憎たらしくなり、目を向けようとさえもしません。そのような乖離が発生する原因は、その時々の心(マインド)の状態にあります。ですから、誰もが常に快適な状態を保てるように、己の心(マインド)を訓練しなければなりません。山から湧き出た川の水は、谷へ流れ落ち、勢いよく峡谷(きょうこく)を抜けて行きます。加えて、さまざまな地点で支流が合流するため、水は濁り、汚れてしまいます。同様に、人生という水の流れにおいても、勢いや力が増したり減ったりします。こうした浮き沈みは、人生のいつの瞬間にも起こり得ます。これらから逃れることは誰にもできません。それらがやって来るのは、若い頃かもしれないし、年老いてからかもしれないし、中年時代かもしれません。ですから、しっかりと心に刻むべきことは、人生には浮き沈みがつきものであり、それらを恐れたり心配したりする必要はなく、むしろ歓迎すべきだということです。単にそう思うだけでなく、何が起ころうとも喜び、幸せでいなくてはなりません!そうすれば、どんな性質のものであれ、あらゆる困難は深刻化せず、素早く過ぎ去っていくことでしょう!
―Diyana Vahini 3章

神は愛の化身(プレーマ スワルーパ)です。神はすべてのものの中にいます。ですから、あらゆる生命の果実には、その神の愛(プレーマ)の甘さが詰まっているのです。ちょうど甘い果実の苦い皮が、中に詰まっている貴重な果汁を知られないよう、すっぽりと果汁を覆っているように、妬み、利己主義、憎悪、悪意、貪欲、情欲、自己顕示欲といった苦い皮は、その甘さがすべてのものに明らかになることを許しません。国籍、肌の色、信条、社会的地位にかかわらず、誰にもその愛(プレーマ)を食す権利があります。神と神の愛(プレーマ)がすべての原子を活性化しているとき、誰かに「立ち入るな」などとあえて言う者が誰かいるでしょうか? 「イーシャーヴァースヤムイダム サルヴァム」――このすべては、神であり、愛であるのです。この偉大な真実を明らかにするためにヴィヤーサ仙が灯した明かりが、薄暗くなっています。誰もそのランプにオイルを注いでいないのです。皆の興味が、偽りの理想とはかない喜びを追求することに行っています。ヴィヤーサ仙は、『マハーバーラタ』でダルマを教え、『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神とその化身の神話集〕でバクティ〔神への愛/信愛〕を教え、十八のプラーナ〔神話集〕で平安と愛(プレーマ)を教えました。ヴィヤーサ仙は『ブラフマスートラ』で「知識と知る者と知られるもの」という知識を教えました。ヴィヤーサ仙は、他人に害を及ぼすことは罪の種であり、他人に奉仕することは功徳の種であるということを強調しました。これは純粋でシンプルな愛(プレーマ)の教えです。
- 1967年7月21日の御講話
