泡沫の謳 -3ページ目

泡沫の謳

50代共働き主婦(子供なし)
凌玖(サイベリアン)
宵瑠・結稀(ノルウェージャンフォレストキャット)の3匹の猫と暮らしてます。自分のこと、猫さんたちのこと、徒然に記していきます。

もうお芝居からはは長く離れているのにこのテーマはどうかと思いますが。


春から朗読ワークショップへの参加を再開しようと思ってます。


会社での改善事例発表をきっかけに、自分の滑舌の悪化を痛感して始めた朗読ですが、昨年のあれこれでしばらくお休みをしていました。


もうさすがにお芝居には今更なかなか飛び込んでいけないし、ここからは自分的にも違うステージなのかな、と思います。


ちなみに今年も改善事例発表します。

先日の話です。


このところ、予防薬が効いているのか、ご無沙汰だった偏頭痛。昨年中はいろいろあって頭痛自体はない日はないくらいでしたが、ほとんどが市販の頭痛薬でなんとか治まっていました。


前までは、頭が痛くなっても偏頭痛なのか緊張性頭痛なのか、頭中が痛すぎていどこが根っこなのか自分でもよくわからないことがよくあった。


なんとなく蟀谷のあたりが痛いなぁ、吐き気がするなぁ…と思って偏頭痛薬を飲んで、全く効かなかった…なんてこともしょっちゅうでした。


久しぶりの偏頭痛は、もう明らかにそれとわかる、ここのところ仲良くなっていた頭痛とは一線を画す頭痛でした。


蟀谷あたりの痛み。過度に眩しく残像が残る視界。痛みに付随してくる吐き気。視線移動のたびに回る景色。パソコンの文字なんて見てられない。


速攻で急性期治療薬(いわゆる頓服)を飲むも、ちょっと飲むのが遅かったのか、まともに思考できるようになるのに半日かかりました。


あ~、しんどかった。←いまここPM15:00。


思い返せば…。


痛み自体は起きてしばらくしたころからあったんですが、主婦の朝は忙しい。ちょっと「ズキッ」としたくらいで手を止めていたら、お弁当作りも猫の世話もできません。


やっと落ち着くのは自分が朝ご飯を食べるタイミング。あ、頭痛薬飲まなきゃ。※


それも、すぐに洗濯機の「終わったよ~」のブザーで終了。洗濯物を干しながら足元に擦りつく猫をあやし、自分の出勤の準備をして、猫に「お留守番お願いね」のおやつを出して、車に乗ったらやっと一息(本当は気を抜いたらダメなんだけどね)。


を出るまではお目にかからなかった朝日を浴びて、その眩しさにまた蟀谷が痛む。


「あ、頭痛かったんや」と思い出すも、運転中に薬は飲めない。


車の運転にそこそこの集中力を使ううちにまた頭痛を押し込めて、なんとか会社に到着し、始業までに机にたどり着いて(やっとほんとの)一息。


そこで、待ってましたと襲い来る程よく育った頭痛と吐き気。


もうこの時点で時すでに遅し。遅くとも※あたりで飲まないといくら頓服といえど、ちっさい豆粒が、脳をぐわんぐわん言わせているモンスターを一撃で倒せるわけもない。


とは言え、時計が進めば始業チャイムが鳴る。チャイムが鳴ったらまた始まりという名の終了。


この月初のタイミング、逃げ道はありません。今日処理をしなければ、支払いが遅れます。


ああ、しんどかった。


本当にしんどかった。


なんとか一日乗り切れそうでよかった。


(投稿時間と内容の時間がかけ離れててすいません)

ぽつりぽつりと、ふとした時に親のことを思い出すようになった。


両親が生きていたころ、離れて暮らす両親を思う時とは少し違ってきている。


あの頃は、思い出せば思い出すほどに重かった。


介護施設や病院を見ると、将来を悲観した。そういった施設との関りをする前から煩わしく思った。手続きは煩雑だろうし、すぐには入れないだろうし、何かと呼び出されることも増えるだろうと、マイナスなことしかなかったけど、在宅介護ができない以上、それはしなければならないことだから。


今は、そういう物事を見聞きすると、一瞬あの頃の感情になってぎゅっと委縮してしまうが、次の瞬間には「あ、もういいんだっけ」と気が抜ける。


そして、父親の臨終の日を思い出す。


多分、誰もその日にそのまま逝ってしまうなんて思ってなかった。


看護師さんも、「今はもう落ち着かれてますから、家に帰られますか?」って聞いてくれた。


「いつ何が起きてもおかしくないから、ここにいてください」とは言われなかった。


母の死を告げて約1ヶ月病院から施設へ移って数日のことだった。


やっとの思いで病院を出られても、家には帰れない。帰っても母はいない。


あんなに帰りたがっていた家に、もうおそらく帰れないんだということが、父にもうっすら分かったのだろう。だから、もう頑張る気力が湧かなかったのだと思う。


そう言えば、父の最期の言葉は「おおきん(ありがとう」だったと思い出す


いつものテンプレ的に発せられるようなものではなく、もう冷たい手で私の手を握って、目を見て発せられた「ありがとう」だった。


亡くなったのは夕方だが、最後の会話は午前中だった。


施設から病院に移ったと聞いて、急いで駆けつけると、その時はまだベッドに座ることができていた。


それを思い出した自分の感情をどう表現していいのかわからない。


今更特別寂しいわけでも、罪悪感が湧くわけでもない。


確かに、タラればは言い始めたらきりがない。他人から見ればもっとできたことがあったかもしれないが、はあれ以上はできなかった。


ただ、事務的に死後のあれこれを片付けて落ち着いて、やっと休日に自分の予定を入れられる。やっと、将来両親のことでの不安がなくなる。


やっと、これからなら言えるかもしれない。

私から「ありがとう」を。


祖母が望んだ私、家のための私、両親のための私。


あの時、本当はこうしたかった。あんな道に進みたかった。


自分の人生の分岐点で自分以外を優先して決めてきたことはたくさんある。


それも、それに伴う罪悪感を避けた自分の判断だけれど。


その枷が切れて、やっと私はこれから私のために生きられる。


それでも今はまだ罪悪感みたいなものの方が勝っているけれど、そのことに幸せを感じられるようになったら、本当に心から生んでくれてありがとう」と言えるだろう。


私は今でも自分は親不孝な人間だと思っていけれど、そう思って罪悪感に苛まれているうちは多分本当の意味で心から「ありがとう」とは思えない気がする。

そんなことなど取っ払って、自分の生きたいように生きられて初めてそう言えるのであれば、なにか罪のようなものを背負うようにして生きるよりも、その方がいいのかもしれない。


そう思うのは自分に甘すぎるだろうか。