このブログは摂食障害の娘を持つ母親のつぶやきです。


2022年春娘はアメリカで摂食障害の診断を受け治療に挑みました。


治った訳ではありませんが、今は日本にいます。


娘のために書いてるのでなく、


自分の心の底の溜まっている辛い気持ちを

昇華しますようにと書いています。


闘病中の方、支える側の方が読んで、胸糞悪くなったら許してください。


この病気は闇が深いし、これだ!!っていう治療法なんて一生見つからないんじゃって思います。


でもね、それでも進んでいけます。

発見もあるし、意味があったなって思える時がきます。


何かしなきゃとか、できたんじゃないかって焦るのでなく、


起きたこと、事実に目が向けれればそれで十分だと

そう思って書いています。


アメリカの治療を中断して感じること


在米12年目。


娘が摂食障害の診断がついたのは1年9ヶ月前。


不眠、メンタルの不調、オーバードーズ、カウンセリング、強制帰宅、自宅療養、通院、ER入院、集中治療入院、ED専門施設入院、自宅療養、外来通院、アメリカの治療の中断と怒涛の入退院や治療の1年。摂食障害の娘のこと | BJママリンクameblo.jp



外来通院のFBTを行ってみて、

体調には少しの寛解が見えたけど、


なにかこれは違うという違和感を感じて、

アメリカの治療を中断、


日本に帰国させました。


アメリカで関わった先生やセラピストからは、

自分の子供を殺す気かって、

そうとう詰め寄られたけれど、


この決断は、

今の時点では正解だったと思っています。


娘はただただ、

この治療から逃げたかっただけかもしれません。


私自身が、このやり方では大切な娘が殺されると感じたから、やめさせたんです。


今は食べられるようになって、まだ8ヶ月くらい。


もしかすると、食べ過ぎた時とか、精神的に参っている時は吐いてるのかもしれないけれど、


生きるためにの過食嘔吐を使う時期があるって本に書いてあったから、


食に関しては深くは触れず、

今生きれていることだけにフォーカスする。


それしか私はしていません。


それでも

次女が日本で人との距離、親との適切な距離間を学べているんじやないかって、

自分のやりたいことをわかってもらえる環境にいられているんじゃないかって、


私は離れてアメリカに住んでいるけれど、

今はそう信じるようにしています。


頑張りすぎるのが怖いけれど、


本人が納得した乗り越え方を見つけるしかない。


とにかくいろいろやってみてください。


それでも、これおかしい?ということは溜め込まないことがいい。


そう思います。



海外生活の虚無感


この病気はダイエットの行き過ぎがきっかけって言われるけれど、


その子の生きてきた過程に、その病気の毒芽が散りばめられていると感じます。


前回は、

アメリカに来てからの小さい頃の次女の特性、

最初の2年間のお話しでしたね。



2年経った時、私は日本に帰りたかった。


留学の方も駐在の方も国際結婚も、

きっと一度は感じているんじゃないじゃいかなと思います。


海外での生活した時間は、

夢の中にいるような、

現実味のない

期間限定の特別な時間だって。


これが3年になってくると

こちらの生活、狭い視野の中で生きてきた現実を

思い知らされます。


感覚的で曖昧なのですが、


来ては日本に戻っていく人たちを見送る時の

取り残されたような感覚、


ゆめの続きをしていていいのかという焦り、


その回数が増えることで、心を無闇にアップダウンさせない無心感を取得する技



大人ならなんなくこなせて、あえて感じないようにできますが、


自分の立場を抗えない娘たちの姿を見てを見ると、自分の鏡だなぁと気付きます。


表面的な付き合いだけ、


だんだん仲良しの友人を作らなくなっていきました。



アメリカ生活の毒芽

渡米した小学3年生の学年で

次女は日本人が25人中3人いるというのクラスになりました。


来たばかりの娘と3年以上いる男の子と女の子のクラス


海外の小学校低学年3年目というと、

日本語が怪しくなるくらいのレベルで英語を吸収していきます。


次女は日本人の女の子に学校生活のフォローをしてもらっていました。


その子は近所だったこともあり、ママさんも協力してくれて、現地のお子さんと毎日でも遊べるようにはからってくれたんです。


すごくいい機会だと思って、日々お友達の家に訪問させていたんです。


一方で長女は来たばかり日本人がたくさんいるクラスに配属され、そちらのクラスメイトと日本語で遊んでいました。


それが1番次女を傷付けていたということに

気づくまで3ヶ月以上かかってしまった…。


子供達だけで遊ぶ空間には

親の目は必要ないと思っていたのですが、


英語はわかるけれど喋れない人がどのような仕打ちに合うかという事実を知り得ていなかった。


男の子やスポーツを介していればちょっと違っていたのかもと思います。


少ない単語で意思が表現できるし、スポーツはなんと言っても勝ち負けがはっきりすることで後腐れない、


女子だけの遊びには、トークが必須。


言葉尻にどうせ喋れないんだからと悪意が込められてくる。


その内容は全て理解できるのに反撃できない。


ともすれば、悪いことでも正論として論破されてしまう。


こんな状況であったとは、


よかれと思って送り出し、おしゃべり談義に花を咲かすママたちに辛いと言えないよね。


毎週金曜日は誰かのうちで遊ぶ約束で、

1ヶ月が過ぎ、

だんだん行きたくないと言い出しました。


それでも続けて、2ヶ月目は長女も一緒に同伴してもらったんです。英語の勉強のためって、


女の子たちも言葉の暴力は

長女がいればなんとなく緩むけど、その卑猥な感じがだんだん学校のクラスで露骨になってきて…。



結局口の達者な長女から、このプレイデートはママのために行ってやってるけど、私たちはあそこで英語なんか絶対しゃべってやらないよ。


と吐き捨てられ、


あーこれは誰にためにしてること???


って気付かされたんです。


学校での逃げ場は


次女の唯一の学校の楽しみはESL教室にいること。


算数と理科、音楽、体育は現地のこと一緒だけど、国語と社会はESL教室で授業が受けられたから、

3人の日本人の先生がいて、とっても助けられていたそう。



クラスルームでその露骨な仕打ちが見て取れたのか、

春先の親子面談ではベテランの担任の先生からは次女は長女と同じクラスにした方が良いと勧められたくらいなんです。


でもね、

私もそれはないよって思ってしまったんですね。


本人は本当はそうしたかったのかはわからないけれど、「それは嫌だ」って娘が言ったんです。


もしかすると、言わせたのかも…。


幼稚園のころから違うクラスで、生活してきた訳だし、

彼女自身、家で見せない学校での顔を今更曝け出すというのはできないって思ったのかなぁ。


渡米1年目の小さな毒牙


帰国子女、こんなことはよくあるんじゃない??


適応できなくても、時間が解決するから大丈夫くらいに思って

すぎさせてしまったんですね…。


人気の先生の仕打ち


そして渡米2年目


最初の1年目をたくさんの日本人と楽しく過ごした長女は、4年生の学年では逆にクラスメイトに日本人が誰もいないという極地に追い込まれした。


でもこれは後々、彼女にとって功を奏していくのですが、今は触れません。


そして次女はというと

またもや激動のクラスに配属になってしまったのです。


昨年度 いろいろやられた女子たちは、

帰国の途についたり、別の地区に引っ越こしていきました。


内心、ほっとしていました。


しかしながら、新任の女の先生が担任で、今度は彼女にことごとく自尊心を傷付けられることになってしまったのです。


若くて綺麗なやる気のあるアジア系の先生でした。


プライベートスクールの経験が何年かあったのか、

学力を上げるために課題の量が多く、母国語禁止を掲げていました。


そう、教室では英語のみ。


子どもたちの母校はアメリカでは珍しいと思いますが、コロナ前は授業が終わったら教室の入り口まで親が迎えに行って良い公立校でした。


朝も親が教室まで送ってこれるし、カフェで引き渡しとかスクールバス停で待っているというのではく、学校と親の距離の近い感じ。


また逆に高学年になると子どもだけの徒歩通学もして良いという、子どもの意思に任せる学校でもありました。


だから学校の先生と放課後、直にお話しできる機会が多いのは良いのですが、


案の定、次女は発言が少ない、読書の時間に日本語の本しか読まない、2年目なのだからもっと積極的に活動しろと日々呼び出されていました。


私も主人も対策を練っては娘に提案して、先生とも密に連絡を取っていました。


アメリカの公立校で私立校なみの勉強をつけてくれる先生は少ないので、クラスのほとんどの親がこの新任の先生を称賛、我が家もその一員でした。


そして、この時の友人関係は、次女にとって悪くはなくかったんです。


幼少期から住んでいる天真爛漫の日本人の友人が現地の子と繋ぐ役をかってくれ、たくさん友達ができました。


また好きな人形遊びを教えてくれたので、

英語でYouTubeをとったり英語の上達がかなりすすみました。


しかしながら、先生と次女の関係は悪化、


どんどん頑なになって最低限の課題しか行わず、ガラガラがらと心のシャッターを閉ざしていきました。


勉強はわかるけど、最低限。

必要じゃないことはしない。


やる気のある先生というのは、

学力でついてくる子、先生の言い分をすぐ聞き分けるこをとても好みますよね。


それについてくる子や親は、やる気のあるとても良い先生だ賞賛しますが、


その分クラスの中の一部は、蔑まれている子がいるということに気づいていないこともあります。


まさか、我が子がその立場になっているとは全く気づいていませんでした。


春先になり次の学年の希望を出す時期になります。


そう、先生との面談です。


新任の先生ということもあり、新5年生は持ち上がりを予定されていました。

もともとが高学年5ー8年生の担任を希望していたそうです。


英語力のない私が1人で面談に挑みましたが、

いい友達もいて、クラスの雰囲気もとっても良かったし、

娘も「それでいい」と言ったので持ち上がりを希望したんです。


これも、今思うと私が言わせたのかもしれません。



しかし、

8月に新しいクラスの発表の手紙が来た時、唖然とします。


娘だけが持ちあがりでなく別のクラスになっていました。


他のお友達はその先生のクラスのままです。


驚いて、主人が学校に連絡を入れると、


先生の方から

「彼女を教育できる気がしない」と次女の担任を降りたというのです。


日本の小学校では、先生の期待に応えるようクラスリーダーを買って出るような娘だったのに、

先生に教えたくないと言われる存在になっている???


焦りました。


何が起きているのか、全くわかりませんでした。


だいぶ後になって、彼女がメンタルを崩して始めた高校生になってから話してくれたのですが、


その新任の先生は「英語を積極的に身につけようとしない子は次女みたいになるよ」とみんなの前で笑いものにしたというのです。


そんな仕打ちにあっているとも知らず、いい先生に違いないとコンタクトを取り続けた自分を恨みました。


2年目に起きた事実。


毒牙を避けたいのに、親の私たちが仕向けてしまっていた訳ですから、ほんとにごめんとしか言えません。


こんなに辛くても日本に戻れば、

また自分らしく生きられるんだって淡い期待が少しは残っていた頃だったんじゃないかなぁ。


この2年で学んだのが虚無感って


泣けます。


親の顔色見てたから、きっと本当に日本に帰りたいのだって言えなかったんだろうな。


子ども同士のいざこざとは別の許し難い経験もさせてしまっていたこと、


私の中でこれをどう昇華させるか、

まだ課題です。


帰りたいけど帰れない。


存在を消しながらこの地で省エネで生きていくしかないと。


でも、親の期待は日本にいた頃のように大きくて

こんなんじゃ生きるの辛いよね。