今から書く内容は、人によっては、
「人の不幸を喜んでるんじゃない?」
と思われるかもしれませんが、
私にとってはそうではない、、、
という反面「ざまあみろ」という思いもあります。
そう思った出来事が2つありました。
1つ目は、叔母が認知症になり、
入居のグループホームに訪問したときのこと。
認知症の事実においては、ざまぁとは思いません。
誰でもなり得ることです。
この人は父の姉になります。
その娘の従姉妹から
「年齢的なことがあるから、
今のうちに逢わせるのはどうか?」
という提案があり、父を連れて行きました。
父の事は覚えてましたが、
私の事は覚えてませんでした
2人が逢えてよかったなという
気持ちがある前提で書きますが、
元気だったころ、、、いや、意地の悪いころの
叔母の面影がなく、優しい表情になっていました。
とはいえ、私の素直な気持ちは
「どうでもいい」「次の会うのは棺桶だね」
非常に冷酷かもしれませんが、
イジメられた側は、イジメる側がどうなろうと
許す気持ちは持てません。
そもそも従姉妹である自分の子供に
ネグレクトをしてましたから。
そのストレスによる糖尿病になった事実もあります。
私の兄も「もう行かへん」という気持ちでした。
私は、
おばちゃん、優しい表情になったね!
もともとそれなら好きになったのに。
私はやっぱり好きになれないわ~。
意地悪やったよね~。
みんな困ってたもん。
と、本人の前で言ってやったぜ。
タヒね!とまでは思いません。
けど、また会いたいなんて1㎜も感じません。
私は思いました。
これが「彼女がやってきた功績」なんです。
叔母には娘が二人、息子が一人いますが、
糖尿病になった娘だけ、用事があるときのみ
母(私にとって叔母)に会いにいきますが、
あとの二人は逢いに行かないそうです。
タヒぬ時は誰でも一人です。
「せーの!」で、好きな人とできるものではないです。
ですが、決して好かれていない状況での
老いは、人として寂しいものだな、
これが、”報い”だなと感じました。
二つ目は、前職の同僚(女性)です。
これは話が長くなるで第2部へ(笑)
とにかく、日ごろからの言動は
後に報いとなります。
身が引き締まる思いです