THE 夏。
 
毎年8月の前半は絵に書いたような酷暑に加えて、広島(6日)長崎(9日)と原爆忌をはじめ、普段より命について考える機会が増えますね。
 
さらに今年はコロナ禍の影響でお祭りのようなものも一切なく、僕個人としては脱スマホ依存の第1歩として極力長時間スマホ画面を見ないように努めていたので、午前中は夏の雲一つない青空を眺めながら、沖縄民謡を流し……ほぼほぼ爺さんみたいな時間を作ってます。
 
我ながら脱スマホぶりが極端すぎて、この後、露骨なデジタルリバウンドが来そうで怖い……!
 
 
 
そんな話と少しだけ関連することなのですが、6月の終わりにレコーディングで沖縄を訪れました。

 

読んで下さってる皆さんまでも自粛警察みたいな気持ちにさせないように最初に書いておくと、今は東京同様に沖縄もCOVID-19が流行しておりなかなか出向くことは難しいですが、僕が行った6月末は東京も陽性者が20人前後、沖縄に至っては0人と言われていたタイミング。
 
僕は直前に抗体検査を受け、過去に罹っていないこと、検査を受けたタイミングから遡って2週間何かしらの症状がないことも確認して……僕なりに最善を尽くしての訪沖(残念ながら、まだ無症状者のPCR検査が受けらないタイミングでした)。
 
先方のスタッフから「川口さん、チケット発券しなくても航空会社のクレジットカードで飛行機乗れますから」とご連絡を頂き早速挑戦。ピッ。わ、本当だ。凄い時代!
 
席について離陸前にウトウトし出したタイミングで、急に後ろの席の人から肩をトントンと叩かれました。
 
(このソーシャル・ディスタンシングが叫ばれてる今、何?僕、まだ席も倒してないし、注意されることもしてない筈なんだけど)
 
と思って振り向いたところ、マスクをした白髪の紳士が小声で言いました。
 
 
 
 
 
「あのー、クレジットカード、落としてますよ」
 
 
 
 
 
 
 
しーーん
 
 
 
 
 
クレジットカードで搭乗できたことに浮かれてそのままポケットにクレジットカードを入れて、寝て、そして落としてたみたい……。
 
ただただ丁重にお礼をお伝えして、余りの恥ずかしさに自分とも距離を置きたい=深い狸寝入りをして、何事も無かったかのようにシレッと沖縄入り⭐︎(もうマジで自分がやだ)
 
レコーディングは無事に1日で終え(本題ではあれど、内容はまだ書けぬ…)、その後少しだけ時間があったので、僕が懇意にしている首里のレストランCONTEの川口美保さんご夫妻のご助言もあり、ずっと先延ばしにしていたことをついに実行に移しました。
 
それは糸満にある平和祈念公園+資料館に出向くこと。
 
以前渡嘉敷(とかしき)島に行った際に泊まった民宿のオーナーさんに渡嘉敷島の歴史をたくさん教えて頂きました。
 
沖縄本島上陸の前に、まずは米軍は補給基地にするため渡嘉敷島のある慶良間(けらま)諸島を占領。逃げ場を失った島民の皆さんはパニック状態で、生きたまま捕虜になるのは恥、という当時の軍国主義の風潮のもと、手榴弾やカミソリ、武器の無い方は家族で首を絞め合ったりして自決をされたという大変凄惨で悲しい75年前の出来事。
 
それ以来、仕事でこんなに沖縄に携わらせて貰いながらどうしても勇気が出ず、一番の激戦地となった沖縄本島の糸満にある平和祈念公園、ひいては那覇空港より南側には出向けていませんでした。
 
ですが、僕が沖縄を訪れたのが6月末は、沖縄にとっては非常に大切な時期。沖縄で組織的な戦闘が終わったのが1945年6月23日で、それ以来沖縄ではこの日が「慰霊の日」と制定されており、その日から間もない6月末に沖縄に訪れたからには何が何でも平和祈念公園へ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平和祈念公園の資料館の展示物を全て見終って、外に出ると目の前には余りに穏やかな海が広がっていました(この建物の導線を考えられた方は天才だと思う)。
 
あああ。最初から分かっていたことだけど、何でもっと早く出向かなかったんだろう。
 
一番の激戦だったこの場所で、75年前も同じように海は穏やかだったんだろうか。命を落とす前にこんなに美しい海を眺めていたんだろうか。
 
知らないことが余りにたくさんありました。
 
まず第一に、沖縄戦とは僕の勝手な先入観で出向けていなかった沖縄の南だけで起きたことではなく、沖縄本島全土で起きたということ。
 
それどころか僕が普段滞在している北谷(ちゃたん)の街の近くに当時あった2つの飛行場ををまず米軍が占領するところからはじまって、そこから米軍は島の北部と南部、二手に分かれて最北端の辺戸岬、そして南はこの糸満まで、全島に渡って戦闘が繰り広げられたこと。
 
……そんな初歩的なことから詳細に関しては挙げ出せばキリがないですが、これだけ沖縄に足を運びながら、恥ずかしながら教科書だったら1ページほどにしか満たない記述や、映画等で余りに漠然としか沖縄戦を捉えていませんでした。
 
沖縄戦では当時県民の4人に1人、約10万人が亡くなったと言われており、さらに日本兵、連合軍兵を合わせると亡くなったのは20万人以上。
 
数字では頭の中に思い描けない部分もあったのですが、この公園にはそんな沖縄戦で亡くなった方の判明している限り全ての方のお名前が刻まれた膨大な数の石碑があります。
 
沖縄の民間の方々に限らず、日本各地から集められた日本兵、日本政府に徴用された朝鮮半島や台湾出身の方々、米兵や英兵など連合軍の兵……判明し次第現在進行形で随時アップデートもなされていました。
 
敵味方関係なく、戦争はこういうものだという考え方。
 

東京には靖國神社があります。太平洋戦争で家族を失ったご遺族やご戦友の方々にとっては特別な意義を持つ場所です。
 
同時に、戦後に国の管轄から神道の独立宗教法人になっており、祀られているのは日本の軍人・軍属という限定的な側面もあります。つまり敵国とされていた軍人はもちろん、亡くなった民間人も祀られているわけではありません。
 
また戦犯も合わせて祀るのか、それとも分けて祀るのかという問題も。神道では亡くなった方は全て平等に神さま、という考え方ですが、仮に靖國神社を平和祈念の象徴と考えるならば、多くの命を死に追いやった戦犯も宗教の名の下に一緒に祀っていいのか、という議論も当然あります。
 
そんな複雑な経緯もあってか、幼少期に学校で「戦争のことを知るために靖國神社に行く」ということはありませんでした。
 
そう思うと、戦争は敵味方関係なく全ての人が被害者という考えのもと、宗教を絡めず、ただ平和を祈念していこう、という糸満の平和祈念公園の理念は「戦争を知る」上で僕にとっては目から鱗でした。こういう発想があるんだ、と。
 
大半の皆さんはすでにご存知のことだとも思っていて、僕がただただこの年齢で知ったというだけのことなのですが、そんな大胆な無知や恥ずかしさも含めて記しておこうかと思います。それが直近の沖縄で感じたこと。
 
 
 
からの再び8月の東京。
 
先日NHKでやっていたTHE BOOMの宮沢和史さんの沖縄についてのインタビューにおける宮沢さんの非常にデリケートなアティチュードに大変なる感銘を受けて、人生何度目かの宮沢さん月間。

J-WAVEでやってる宮沢さんの番組で知った余りに素晴らしい宮古島の民謡「伊良部トーガニー」を聴きながら、小浜島の黒糖でクソ甘くしたチャイを啜る……見方によってはただのやばい沖縄かぶれですが、無理をしているわけではなく、いま実際に身体が欲してることだから欲してる間はその欲求に従ってみます。
 
終戦から75年。平和を切に願うことに加えて、学びを止めないように生きて行きたいです。あの平和祈念公園から見た穏やかな海の色を時々思い出しながら。