1987年。父の転勤でアメリカのロサンジェルスに引っ越した。小学校6年生だった。

小高い丘の街に住んだ。坂を上ると、霧の向こうに太平洋が広がっていた。国道を下って行くと飲み込まれそうなほど広大なLAの夜景が一望出来た。

テレビの中の言葉は分からなかった。公共の交通機関は危ないから乗るな、と言われていた。楽しみにしていた日本からのエアメールの代わりに、毎日ポストの中には行方不明の子供を尋ねるチラシが投函されていた。LAの中心部ではギャングたちが度胸試しに対向車線を走る無関係の一般市民を殺傷する事件が横行していた。年に数回しか雨が降らない典型的な砂漠気候で、眼下に広がるLAの街はいつも乾燥してスモッグで茶色く霞んでいた。片側3車線の大通りの横には、巨大な建物と駐車場が広がっていて、東京の街と比べると荒涼としていた。

中学受験から逃げられたのはラッキーだと思った。でも、英語で科学の授業を受けるくらいだったら、受験の方が遥かに楽だったんだろうな、とも思った。

父が時々連れて行ってくれるレストランのパンケーキの味に感激した。隣の家は毎日晩飯がポテトチップスとアイスクリームなのだと聞いて仰天したのと同時に少し羨ましかった。

学校では朝授業の前に、アメリカ人も、中国人も、フランス人も、インド人も、メキシコ人も、日本人も、一緒くたに国旗の前でアメリカという国に忠誠を誓わさせられた。アメリカという国自体が様々な移民の様々な価値観の集まりがゆえに、毎朝でも結束を確認する作業が必要なんだと知った。自分から何かしらのアプローチをしない限り、決して人から興味を持たれることはなかった。でも、僕が決めたシュートひとつで、ヒーローにもなれた。

街にはいつもホイットニー・ヒューストンの歌声が流れていた。

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あれから25年もの月日が経った。

迷いが生まれた時、自分を奮い立たせたい時、その都度何度も何度もホイットニーの歌声に勇気を貰ってきた。

彼女の歌は、どんな暗闇をも照らす希望。不安で揺れる人々の心を束ねてくれる温もり。どんな悲しい恋にも夜明けがあることを告げる柔らかな光。ふとよぎるほろ苦い郷愁の中でも、燦然と輝いているもの。

生きていくことを肯定してくれる。
彼女の歌声をあの日はじめて聴いた時から、この凛とさせられる気持ちは少しも変わらない。

亡くなる前日も彼女の歌声を聴いていた。ホイットニー、ありがとう。そして、これからも。