田舎と自然、月と星、かけらとテツガクのあいだ

田舎と自然、月と星、かけらとテツガクのあいだ

自然が大好きで田舎へ移住♪◎趣味のワークアウトを行うため、田園風景を眺めながら田舎とジムの往復が日課◎人生のテーマは「思い立ったら行動!!」

 もし、お金になる行動以外すべて無駄だと言われたら、あなたはどう思うか?タイパを始めとした、お金や時間を基準にした価値はアクセルとしては良い役割を果たすかもしれない。だったら家事はどうか?確かにお金は生み出さない。では、職場のデスク周りの整理整頓はどうか?これはさすがに効率に影響するから関係ないとは言えないだろう。SNSを見続けてしまうこと程、時間の無駄なことはないだろう。では、ついつい見てしまう子どもやペットの動画はどうだろう?公園で桜が咲いていたら、ぼんやりと眺めることだってあるだろう。もちろんお金にはならない。それじゃ、温泉はどうだろう?日本人は温泉が好きだ。むしろお金を払ってでも行くだろう。それらはブレーキなのだろうか?皆無意識にわかっている。「お金にならない行動の中にこそ、本当の自分が眠っている」と。それでは今日の問いかけです。

1.あなたの中で、意識してやっていることと、気づけばやっていることは何ですか?

2.あなたが無理なくできることが、たとえ前向きなことでなくても、しっかり受け入れていますか?

3.あなたにとっての心地よさと、世間の常識を無意識に天秤にかけてしまっていませんか?

 ある程度生きていると、日々トライアンドエラーを繰り返して生きているはずです。時には不甲斐ない自分に嫌気が刺し、自己啓発本を読んで変えようとするも、結局習慣化しないなんてこともあるのではないでしょうか?ただ、全てのことが続かなかったわけではなかったでしょうし、確実に変化しているはずなんです。そしてそれは、「お金になるか」とか「社会性があるか」などの基準には従わず、素直に身体が反応していることがわかると思います。例えば、「早起きはいい」とか「食事は3食食べることが大切」と言われても、自分がなんとなく違うなと感じたら、無意識に反発したり、受け入れていないはずなんです。この感覚って不思議だと思いませんか?現代のエビデンスを求めるようになった世の中で、周りには整合性がある最もらしいことを話すのに、自分自身は小さな反抗を続けている。
 そうであれば、習慣化できたことと、できなかったことの違いは何でしょうか?それは極論「あなたにとって必要なものか、そうでないか」なのかもしれません。習慣化できたことは、まるで前世でも取り組んでいたのではないかと感じる程「思い出す」といった感覚に近い親しみを感じます。逆に習慣化できなかったことは、まるで他人になろうとするような感覚になり、自己否定につながります。それはドラゴンクエストで、戦士に魔法を使わせようとしたり、魔法使いに魔法を使わず物理攻撃を行わせたりさせるようなものです。もし、SNSの動画をダラダラと見続けてしまうのであれば、あなたは情報からひらめきを導き出すのが得意な人かもしれません。食が細い人からすれば、たくさん食べられる人が、うらやましいものです。たくさん食べられること自体が才能だと思いますが、その食事への愛は、他者に食事の魅力を届ける才能に長けているといえます。夜にネットサーフィンを続けて、気づいたら朝になっていたなんて人。そんな人は夜勤が向いています。ぜひ介護業界へ(笑)
目的は何であれ、パソコンで何時間も情報を追い続けることができるのも才能です。僕なら、落ち着いて座っていられませんから。
 何かを変えようとする時って、無意識に「今の自分がダメだから変えたい」といった否定から入ってしまうことって多いと思うんです。例えば「太っているからダイエットをしなきゃ!」とか。けれど、その前に今の自分の良い部分をたくさん見つけた方がいいと思います。これは、変わる努力を怠っていいということではありません。けれど、自分の否定から取り組みを始めると、結局ナニモノかになろうとしてしまうんです。他人の真似をしても結局は自分のものにしていなければ、どこかで無理がかかります。だって、本当の自分はそんなことしたくないんですもん。
 命に関わることであれば、冷静に考える必要がありますが、ナニモノかになってあなたを隠す世界線から、自分をある意味甘やかし、それを認めてくれる世界線に飛んでしまうのもアリです。もちろん、ずっと自分を甘やかしていては人間として成長もできませんから、それは考え物です。しかし、あえてこんなことを言うのは、あまりにたくさんの人が自分自身を見ずに、ナニモノかになろうと必死になっているように見えるからです。だから、両方を知った上で「無理をして頑張るわけではないけれど、心地よい刺激がある」そんな環境を見つけていけばいいのではないでしょうか?
 妻が仕事をやめて、ゆったりとした時間を過ごしている。たくさんの家事をしてくれてプレッシャーに感じることもあるが「自分がやりたくてやっているから気にしないで」と言っていた。そうやってしっかりと自分と向き合うことで、自分がやりたくて無理なく続けられることをそのまま仕事にできたら幸せだと思う。これは「好きなこと」とは違うと思う。僕はたまたま好きなことを仕事にしているが、これは場合よっては「理想と違った。」と潰れかねない。僕は何度もそれで潰れかけている。だから、決して嫌いではないが、大好きとは違う。ただ没頭できたり、苦なくできること。それをそのまま仕事にできたらきっと枯れないのだろうなと思う。 さて今日の問いかけです。

1. あたたにとって、トラブル続きの毎日と、何もやる気にならない毎日。どちらが苦しいですか?

2.あなたは目の前で起きていることは、すべて自分が選んだ結果だと言われたらどう感じますか?

3.あなたは意識的に「動かない」つまり休む機会を持てていますか?

 人とペースを合わせるのは苦手で自由を求めるくせに、ケアマネのように個人でやりくりをするとクレームなど自己責任の重さを痛感します。「心豊かに過ごす」とは何を持って豊かなのでしょうか?少なからずお金の量ではないことは感じています。では、自由な時間でしょうか?心のゆとりや余白でしょうか?お酒やタバコを吸っていた時は感情の振れ幅が大きく苦しんでいました。今それらをやめて、ゆとりある時間を手にしました。しかし今度は、幼少期からある心の中の会話が止まらなくなってしまいました。こうしてブログで書くことで少しは解消できていますが。もしかしたら僕は本能的に、自己内観から目を逸らすためにお酒を飲んでいたのかもしれません。けれど、そこで気づいたんです。「心豊か」とは刺激を極力減らし「凪」のように感情の波を減らすことではなく、喜怒哀楽。楽しいことだけじゃなくて、悲しみや苦しみ、そして怒りさえもしっかり感じ切ること。それが本当の心豊かな生活だと。
 今回の苦い経験は無駄なことではなく、もし同じような思いをしている人がいるなら、それを共有すればいい。失敗があるからこそ、失敗した人に優しくできる。そう捉えるようにしました。だって、周りに呆れられようが、高い期待をかけられようが、あなたはあなたでしかなく、僕は僕でしかないんですから。そして、今回の経験から改めて「自己責任」について考えさせられています。とにもかくにも「他人のせいにするな!」と強く言われているように感じます。逃げたら、何度も何度もその課題が再浮上してくる。だからしっかりと向き合わないといつまでも終わらない。結局すべての結果を作り出しているのは自分自身なのだと。また、仮にそれが失敗だったとしても「やってみなければわからなかった=失敗という体験をすることができた」とも言えます。そうであれば、「過去」の積み重ねが「現在」の失敗という体験となり、それが「未来」へ繋がっていく。また、「未来」に理想をオーダーしたから「現在」失敗を体験し、その失敗に繋げるために「過去」が存在した。逆説的に考えると面白いものです。
 いずれにしても現実はすべて「自分が選んだ結果」と思うことができれば、愛おしく感じてきませんか?要は今自分が本当は何を感じたいのか?を素直に受け入れればいいのだと感じています。頭が「できる!」と考えれば、どうにかしてできる方法や、多少妥協しながらも似たような結果に繋がる行動を取るでしょう。頭が「できない」と考えれば、その課題から遠ざかり、一時的に先送りすることになるでしょう。そりゃ理想は頭で「できる」ビジョンを描き続けて変化していくことが望ましいと思います。その代わり乗り越えるためのミッションがどんどん降りかかってきます。けれど、「今は」できないと認め、ミッションから遠ざかり穏やかに過ごすことを自分が求めているのなら、それもまた必要な時間なのだと思います。
 「だから成果をあげられないんだ!」とゲキが飛んできそうですが、あなたがそうしたければ、すればいい。ただ、それがお金や不安に捉われてさせられていると気づいたならやめればいいんです。トレーニングをしているからわかります。人は永遠に成長はできません。とはいえ負荷を永遠にかけなければ衰退します。だから、負荷をかけることは大切です。けれど、休む勇気を持つことはもっと大切です。大丈夫です。優先順位が変われば、そもそもお金や不安に対する向き合い方も変わるはずですから。
 数年前、伊勢に旅行に行った時、伊勢神宮に行く直前でレンタカーのタイヤがパンクして沢山詰めていたスケジュールは全て流れてしまった。そのせいで、事前にたくさんのお店をリサーチし、現地でも気になるお店が目に入ったおかげ横丁は、ゆっくり見ることができなかった。けれど、その時、大切なことに気づいた。「伊勢に何をしに来たのか?」と。結局、元々ここだけは行きたい!と思っていた外宮、内宮、神社などをじっくりと巡ることができたのだ。そうだ、観光ではなく、神社参拝に来たのだったと。僕は昔、ドライブをする時、目的地まで一直線で、予定していた場所以外は寄り道しなかった。妻はその場で気になったお店に行きたいと、あれもこれも欲張るものだから、目的地到着時刻がギリギリになる。けれど、よく考えたら旅って「移動」が目的ではないんだよね。じゃあ、人生ってどうなんだろうね?それでは今日の問いかけです。

1.あなたにとって心地よい自由の形とはどんなものですか?

2.あなたに取ってお金を得るために必要なことはどんなことですか?

3.あなたは自分が輝ける場所に今立てていると感じていますか?

 2018年秋、北海道は胆振東部地震に見舞われました。自分の家族の安全さえ危うい時に、介護現場の特性上、職場に呼び出されたことに強い違和感を覚えました。また当時は30歳を超えても平社員である自分に劣等感を感じていました。だから、翌年副主任に任命された時はとても嬉しかったです。ただ同時にコロナが流行り始めたこと。自分が誰かに指導することに向いていないこと。長時間の会議によって自分の時間が持てないことで心が病みそうになったこと。そんな体験から、自分に正直に生きようと決心し、役職を捨て、転職しました。
 転職先ではしばらくは自由に過ごせていましたが、コロナが大流行し、施設でもクラスターになり、ホテルから出勤したり、自分自身もコロナに感染したり、休日に出勤を求められたり。そんな体験から、夢であったケアマネを始めて、シフト業務から解放されて、休日や夜の時間の自由を手に入れました。けれど、自由になったのは身体だけで、頭は休日の日でも利用者のことを考えていたり、せっかく休日が増えたのに、自分の仕事が回らないからと休日が多い月を素直に喜べなくなっていました。ケアマネの仕事を通して将来的にフリーで働くようになった時の「自由」の受け止め方を先取りしているような感覚があります。すべて自分で決められるということは、自分で管理する必要があるということ。それならば、副主任時代にシフトを作りながら、ある程度決められたパッケージの中で自由を求めていた頃の方が心は平和だったと感じています。
 コロナにかかったことでお酒をやめて、自分と向き合う時間が増え、もともと自分の中に持っていた哲学とスピリチュアルが融合し、それがブログを書くことに繋がりました。そして、ブログという外にアウトプットするという取り組みと、子供の頃に行っていたアートや写真、曲作りが繋がり、必要な環境が重なっていることもあり、音声配信などは抵抗なく始められました。そこにずっと続けている筋力トレーニングを通して、自分が何が好きなのか?介護の仕事を続けたいのか?お年寄りと関わりが好きなだけなのかを考えさせられました。またケアマネの仕事を通して、高齢者の最期の段階まげ見届けることに大きな負担を感じることに気づけました。そして、担当者会議を通して様々な職種や環境で働くスタッフを見ることで、自分と近い波長を持つ人はどこにいるのか?を知る良い機会となりました。デイサービスでの経験やジムでのシニアとの関わりで、やはり僕は高齢者と関わることは好きだけれど、運動などをして元気に自分を生きている段階の方と響き合うことができるのだと感じました。
 劣等感からキャリアアップを目指し、自分以外の責任を問われることに苦しさを感じ、夢を追って今度は自分の責任を問われ苦しさを感じ。今は意地やプライドを捨てて、それでも介護は好きであるという事実。それに気づけた時、働くとは、お金を稼ぐとは何なのか?をとても考えさせられる数年だったと感じています。少なからず僕にとっては、お金を稼ぐための対価が、必ずしも苦労や苦手を通してでなけば生み出せないものではないということ。「好き」で貢献して、お金を得てもいいのだと気付かされた期間でした。介護の中でも様々な働き方があります。デイサービス、特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、そしてケアマネ。たくさんの経験を通して、どれ一つ取っても介護士として同じ環境はありませんでした。昔は自分が利用者様を選ぶなんてとんでもないと思ってましたが、今回のケアマネでの経験を通して、「向いていない環境で相手に迷惑をかけてしまうくらいなら、自分が一番輝ける環境を選んだっていいじゃないか」と感じています。