田舎と自然、月と星、かけらとテツガクのあいだ

田舎と自然、月と星、かけらとテツガクのあいだ

自然が大好きで田舎へ移住♪◎趣味のワークアウトを行うため、田園風景を眺めながら田舎とジムの往復が日課◎人生のテーマは「思い立ったら行動!!」

 何か一つに絞らなくてもいい。全てやってもいいじゃないか。最近、色々なことに興味を持って、視野を広げていきたいという気持ちが溢れている。というのも、お金に対する向き合い方が、最近なぜか突然変化してきたのだ。今までも別にお金が嫌いなわけではなかった。ただ興味が持てないというのが本心だったのだ。けれど、この国、いや世界の構造を知れば知るほど、興味云々ではなく、知らないと損していることが多すぎる。「正直者は馬鹿を見る」「知らぬが仏」。自分以外の世界が幻想であると考えればそれで話は終わりだし、世界中の人が自分と同じ気持ちや考え方で生きているはずだという思い込みが盲目にさせているかもしれない。特定の人に搾取されるような世界がなくなること。それが僕の願いではあるが、生きている間にそうなるかはわからない。そうであれば、勤め人として働くことだけが安心であり、無難であり、正解であるという呪縛から解放されて、自由な発想で生きていこうと思う。それでは今日の問いかけです。

1.あなたは思いを外に出す時、無意識にフィルターにかけて補正していませんか?

2.あなたは自分の思いを形する前の段階で、あきらめてしまっていることがありますか?

3.あなたが自分のありのままの思いを外に出すことをためらう原因は何ですか?

 色々と興味を持った先で、気づくこと。それは、お金が欲しいというわけではなく、もっと自分の中から溢れ出る物を形にしてみたいという思いでした。ずっと哲学のような重いテーマでブログを書いていたので、気づきませんでしたが、自分はもっと肩の力を抜いた、ふざけた投稿も好きなんだと気づけたんです。ふらっと立ち寄った公園の遊具でどんなトレーニングができるか?「そんな記事誰も読まないよ」と言われそうですが、僕はかつてそんな記事を探して夜な夜なネットサーフィンしてたんです。例えば、公共の体育館のトレーニング室の器具について書いてくれているサイトを見つけて感動してました。たくさんのニーズがあるわけではないのはわかっているんです。けれど、そんな自分のユニークなアイディアを自分の中で持っているだけじゃもったいなって思ったんです。
 絵を描いたり、写真を撮ったり、曲を作ったり。トレーニングの体験、介護士としての20年の経験。これまで、そんなのAIが簡単に作ってくれるし、周りにもっとスゴイ人がいるしと思ってました。だから「わざわざ自分がやらなくても」とか「そんなの無駄」と思ってました。無意識に「お金にならないから」とジャッジしていたのです。お金に興味がないと言いながら、お金にならない趣味として扱っていたのです。けれど、僕がかつて読み漁っていたサイトの記事は、そんな「これ誰が読むの?」って言うくらいニッチな記事だったのです。
 そして、もっと大きな気づきがありました。それは「お金にならないから」という理由を盾に、趣味を外に晒すことを避けていたのです。それは良く言えば「自分のユニークなアジは自分が一番知っているから、誰かにわかってもらう必要なんてない」と言うことができますが、正直に言えば、自分の価値を否定されることを恐れていたのです。若い頃、自分が作った曲を楽器店のオーディションに応募してみようと思いました。けれど、他の参加者さんのクオリティの高さに、自分を卑下して諦めました。夢や自分自身を否定されたり拒絶されることを恐れるあまり、自分の殻にこもってしまったのです。
 周りから「あなたがやってることは普通じゃないよ!何か表現してみたらいいよ!」と前向きな意見をもらっても「いえいえ自分なんて」と謙遜していました。けれど、その内情は否定されることを恐れていたのです。つまり、人に嫌われること。拒絶されることを恐れていたのです。それはなぜか?僕はセールスをしてくる人が嫌いです。それは親がよく「自分が売りたくない物を売らなきゃいけないノルマがあって辛い」と毎日のように言っていたのを聞かされていたからです。親のその言葉には、拒絶される苦しみのエネルギーに包まれていました。だから「セールスは悪いこと!」という思いが染み付いているのだと思います。けれど、物は売らなくてくても、考え方一つとってもセールスだと言えるなら、僕は「自分が望まないものは勧めないけれど、自分が本当に好きなものであれば、すでに勧めていた」ということに気づいたのです。
 ブログを書くことを通して、すでに自分の思いや意見を述べることができていることに気づいたんです。不思議と「嫌われること」「拒絶されること」への不安はないのです。それはきっと「否定されたところで、自分の根っこの部分だからどうしようもない」という開き直りもあるのだと思います。だから、合う人には合うし、合わない人には全く合わないのだと思うんです。自ら外の世界を複雑していたことに気づけたことで、現実世界でも、開き直って生きられるようになったのです。僕にとって思考を滞らせず、循環させること。それが大切だったんです。
 もし、お金になる行動以外すべて無駄だと言われたら、あなたはどう思うか?タイパを始めとした、お金や時間を基準にした価値はアクセルとしては良い役割を果たすかもしれない。だったら家事はどうか?確かにお金は生み出さない。では、職場のデスク周りの整理整頓はどうか?これはさすがに効率に影響するから関係ないとは言えないだろう。SNSを見続けてしまうこと程、時間の無駄なことはないだろう。では、ついつい見てしまう子どもやペットの動画はどうだろう?公園で桜が咲いていたら、ぼんやりと眺めることだってあるだろう。もちろんお金にはならない。それじゃ、温泉はどうだろう?日本人は温泉が好きだ。むしろお金を払ってでも行くだろう。それらはブレーキなのだろうか?皆無意識にわかっている。「お金にならない行動の中にこそ、本当の自分が眠っている」と。それでは今日の問いかけです。

1.あなたの中で、意識してやっていることと、気づけばやっていることは何ですか?

2.あなたが無理なくできることが、たとえ前向きなことでなくても、しっかり受け入れていますか?

3.あなたにとっての心地よさと、世間の常識を無意識に天秤にかけてしまっていませんか?

 ある程度生きていると、日々トライアンドエラーを繰り返して生きているはずです。時には不甲斐ない自分に嫌気が刺し、自己啓発本を読んで変えようとするも、結局習慣化しないなんてこともあるのではないでしょうか?ただ、全てのことが続かなかったわけではなかったでしょうし、確実に変化しているはずなんです。そしてそれは、「お金になるか」とか「社会性があるか」などの基準には従わず、素直に身体が反応していることがわかると思います。例えば、「早起きはいい」とか「食事は3食食べることが大切」と言われても、自分がなんとなく違うなと感じたら、無意識に反発したり、受け入れていないはずなんです。この感覚って不思議だと思いませんか?現代のエビデンスを求めるようになった世の中で、周りには整合性がある最もらしいことを話すのに、自分自身は小さな反抗を続けている。
 そうであれば、習慣化できたことと、できなかったことの違いは何でしょうか?それは極論「あなたにとって必要なものか、そうでないか」なのかもしれません。習慣化できたことは、まるで前世でも取り組んでいたのではないかと感じる程「思い出す」といった感覚に近い親しみを感じます。逆に習慣化できなかったことは、まるで他人になろうとするような感覚になり、自己否定につながります。それはドラゴンクエストで、戦士に魔法を使わせようとしたり、魔法使いに魔法を使わず物理攻撃を行わせたりさせるようなものです。もし、SNSの動画をダラダラと見続けてしまうのであれば、あなたは情報からひらめきを導き出すのが得意な人かもしれません。食が細い人からすれば、たくさん食べられる人が、うらやましいものです。たくさん食べられること自体が才能だと思いますが、その食事への愛は、他者に食事の魅力を届ける才能に長けているといえます。夜にネットサーフィンを続けて、気づいたら朝になっていたなんて人。そんな人は夜勤が向いています。ぜひ介護業界へ(笑)
目的は何であれ、パソコンで何時間も情報を追い続けることができるのも才能です。僕なら、落ち着いて座っていられませんから。
 何かを変えようとする時って、無意識に「今の自分がダメだから変えたい」といった否定から入ってしまうことって多いと思うんです。例えば「太っているからダイエットをしなきゃ!」とか。けれど、その前に今の自分の良い部分をたくさん見つけた方がいいと思います。これは、変わる努力を怠っていいということではありません。けれど、自分の否定から取り組みを始めると、結局ナニモノかになろうとしてしまうんです。他人の真似をしても結局は自分のものにしていなければ、どこかで無理がかかります。だって、本当の自分はそんなことしたくないんですもん。
 命に関わることであれば、冷静に考える必要がありますが、ナニモノかになってあなたを隠す世界線から、自分をある意味甘やかし、それを認めてくれる世界線に飛んでしまうのもアリです。もちろん、ずっと自分を甘やかしていては人間として成長もできませんから、それは考え物です。しかし、あえてこんなことを言うのは、あまりにたくさんの人が自分自身を見ずに、ナニモノかになろうと必死になっているように見えるからです。だから、両方を知った上で「無理をして頑張るわけではないけれど、心地よい刺激がある」そんな環境を見つけていけばいいのではないでしょうか?
 妻が仕事をやめて、ゆったりとした時間を過ごしている。たくさんの家事をしてくれてプレッシャーに感じることもあるが「自分がやりたくてやっているから気にしないで」と言っていた。そうやってしっかりと自分と向き合うことで、自分がやりたくて無理なく続けられることをそのまま仕事にできたら幸せだと思う。これは「好きなこと」とは違うと思う。僕はたまたま好きなことを仕事にしているが、これは場合よっては「理想と違った。」と潰れかねない。僕は何度もそれで潰れかけている。だから、決して嫌いではないが、大好きとは違う。ただ没頭できたり、苦なくできること。それをそのまま仕事にできたらきっと枯れないのだろうなと思う。 さて今日の問いかけです。

1. あたたにとって、トラブル続きの毎日と、何もやる気にならない毎日。どちらが苦しいですか?

2.あなたは目の前で起きていることは、すべて自分が選んだ結果だと言われたらどう感じますか?

3.あなたは意識的に「動かない」つまり休む機会を持てていますか?

 人とペースを合わせるのは苦手で自由を求めるくせに、ケアマネのように個人でやりくりをするとクレームなど自己責任の重さを痛感します。「心豊かに過ごす」とは何を持って豊かなのでしょうか?少なからずお金の量ではないことは感じています。では、自由な時間でしょうか?心のゆとりや余白でしょうか?お酒やタバコを吸っていた時は感情の振れ幅が大きく苦しんでいました。今それらをやめて、ゆとりある時間を手にしました。しかし今度は、幼少期からある心の中の会話が止まらなくなってしまいました。こうしてブログで書くことで少しは解消できていますが。もしかしたら僕は本能的に、自己内観から目を逸らすためにお酒を飲んでいたのかもしれません。けれど、そこで気づいたんです。「心豊か」とは刺激を極力減らし「凪」のように感情の波を減らすことではなく、喜怒哀楽。楽しいことだけじゃなくて、悲しみや苦しみ、そして怒りさえもしっかり感じ切ること。それが本当の心豊かな生活だと。
 今回の苦い経験は無駄なことではなく、もし同じような思いをしている人がいるなら、それを共有すればいい。失敗があるからこそ、失敗した人に優しくできる。そう捉えるようにしました。だって、周りに呆れられようが、高い期待をかけられようが、あなたはあなたでしかなく、僕は僕でしかないんですから。そして、今回の経験から改めて「自己責任」について考えさせられています。とにもかくにも「他人のせいにするな!」と強く言われているように感じます。逃げたら、何度も何度もその課題が再浮上してくる。だからしっかりと向き合わないといつまでも終わらない。結局すべての結果を作り出しているのは自分自身なのだと。また、仮にそれが失敗だったとしても「やってみなければわからなかった=失敗という体験をすることができた」とも言えます。そうであれば、「過去」の積み重ねが「現在」の失敗という体験となり、それが「未来」へ繋がっていく。また、「未来」に理想をオーダーしたから「現在」失敗を体験し、その失敗に繋げるために「過去」が存在した。逆説的に考えると面白いものです。
 いずれにしても現実はすべて「自分が選んだ結果」と思うことができれば、愛おしく感じてきませんか?要は今自分が本当は何を感じたいのか?を素直に受け入れればいいのだと感じています。頭が「できる!」と考えれば、どうにかしてできる方法や、多少妥協しながらも似たような結果に繋がる行動を取るでしょう。頭が「できない」と考えれば、その課題から遠ざかり、一時的に先送りすることになるでしょう。そりゃ理想は頭で「できる」ビジョンを描き続けて変化していくことが望ましいと思います。その代わり乗り越えるためのミッションがどんどん降りかかってきます。けれど、「今は」できないと認め、ミッションから遠ざかり穏やかに過ごすことを自分が求めているのなら、それもまた必要な時間なのだと思います。
 「だから成果をあげられないんだ!」とゲキが飛んできそうですが、あなたがそうしたければ、すればいい。ただ、それがお金や不安に捉われてさせられていると気づいたならやめればいいんです。トレーニングをしているからわかります。人は永遠に成長はできません。とはいえ負荷を永遠にかけなければ衰退します。だから、負荷をかけることは大切です。けれど、休む勇気を持つことはもっと大切です。大丈夫です。優先順位が変われば、そもそもお金や不安に対する向き合い方も変わるはずですから。