気
と云う言葉は気功は勿論
合気系武道でもよく使われるが
結局それは何なのか?
と、云う定義はよくわからない
無論、辞書には幾つか載っているが
俺が欲しい言葉は本に書かれている知識としての言葉ではなく
俺と云う個人的感性のフィルターあるいはファインダーを通して抽出された
現段階での認識としての言葉である
しかし
今まで仕入れた知識の影響力は無視出来ないので
重複はあってもかまわない
としよう
とりあえず
忘れない内に書いておくのだ
俺の場合
気の巡りは温かみや血流のように何かが通る感覚、微弱な電気のようなチリチリした感覚として知覚される
そういう知覚が身体の中に生じているのを
面白いものだ
と、感じながら眺めているだけだ
俺がやっているのは自己観察
つまり内観であって
実は呼吸に関しては全くコントロールしない
ただ自然な呼吸に任せている
ぶっちゃけた話
気功そのものを厳密にやっていこうとしてる訳ではない
要するに
興味本位の暇潰しみたいなものだ
暇人が暇潰しに何か手芸でもやろうと思い
本と材料を買ってやり始めるのと同じようなものであり
それでどうにか
なんて事は思わない
気功革命に
気功の目的は不思議な力を身に付ける事です
なんて書いてあったらまずやらなかっただろう
それはともかく
気と呼ばれているものは
やはり
生命力
もしくは
自然と呼ばれている総称の構成要因
もしかすると
不確定性原理のような不可思議な現象の説明の一つとしてある
素粒子
または
素粒子間に在る
知性もしくは意志や意識を持つエネルギー
そのものを指しているのかもしれない
と考える
さて
この身体を通じて流れたり留まったりする気
これは
私の身体を流れているのだから
私の気と呼ぶのが相応しいのだろうか
仏教的観点から見れば
私の気
と、云うものはない
ただ
私の気
と、云う想念があるのみである
結局
気功と云うのもあらゆるトレーニングと同じであると考えられる
何も特別な事はない
それは例えば泳ぐと云う事を知らない人がいたと考えた場合
泳ぐ練習をする人は泳げるようになるし続ければ蓄積の度合いに応じて上達もするが
最初から練習しない人は何冊本を読んでも、どんな実践者の話を聞いても、どんなに多くの知人と沢山の議論を重ねても
泳ぐと云う事を知らないままである
気功も同じであった
そこにあるのは
何を目的とした、どんなやり方があるか
と云う鍛練法群の一つがあるだけである