さて、僕らのいた中学のサッカー部の顧問は生物担当のM先生であったのであるが、
当時には珍しく家庭菜園を作っていて、部の活動にはほとんど顔を出した事がなかった。
というか、何か新しい品種の開発をしていたらしいのだが、
とにかく、そっちに夢中で、顧問らしい事をしてくれた事がなかったのだ。
その一つの結果として、僕らのひとつ上の先輩たちは、
日野二中で行われた公式戦に顧問が来なくて失格になった。
遅れて来たM先生は、さすがに悪いと思ったのか?
僕ら低学年にお金を渡して、駅から日野二中までの商店街にあった
肉屋に買い物に行かせたのであった。
そこの肉屋ではコッペパンも売っていて、僕らはコロッケパンを30個も
買って来たのであったが、もちろんそんな事でM先生の名誉が回復されるものでもなかった。
だから、僕らは僕らで練習方法を考えた訳だ。
僕は、前述のように中学生ながら当時の一番最先端のサッカー関係者と関わりがあった訳で、
電話でサカマガおよびイレブンの編集部に聞いてみた訳である。
その時、誰が対応してくれたかまでは覚えていないが、
ベースボールマガジン社からは、数冊の入門書を送ってもらい、
さらに新しく出るデトマール・クラマー氏のトレーニング本を紹介してくれた。
僕らは図書室に行って、早速その本を取り寄せてもらった。
多くは覚えていないが、カバーが緑色であった事は明確に覚えている。
イレブン編集部からは、僕らの地域にあった早稲田のサッカー部のグラウンドに
見に行く事を勧められた。中大も近かったので何度か見に行った。
**拙著「原小キッズ」の中に出てくるエピソードは上記の事を基にしている。
拙著の批評をしてくれた方の批評の中に、
「そんな本見つけて来れる訳ないじゃん!」という記述があったが、
事実、あったので仕方ないじゃん。***
当時はちょうど西ドイツワールドカップが行われた年で、
かつ早稲田にはキラ星のような選手が多く在籍していた。
すなわち碓井さん、田島さん、西野さんの3人を始め、
練習も非常に興味深いものだった。練習後、遊んでもらった事も何度かある。
(後に草サッカーでチームメイトになる数人もいたのだが、
ニュースになる程の人たちではなかったようだ)
僕らは昼休みには、出来たばかりの視聴覚教室で映像を見たり(ビデオの時代はもう少し後)
練習日でない日は雨でも早稲田の練習を見に行き、帰宅して夕食後に再び集まって
練習した。
休みの日はJSLの永大のオッカケしたり、早稲田のオッカケもしていた。
(小学生の水島武蔵君を良く見かけた。マイナーチームの永大ながら
ジャイール、ジャイロ、アントニオ・ペレというブラジル人3人がいて、
彼らの個人技は素晴らしいものがあった)
当時のこの地区(三鷹・武蔵野)での強敵は隣の武蔵野一中と成蹊中学であり、
(現在のブロックとは少し異なっているようだが)
それは大変失礼な言い方かも知れないが、後は、正直言うと大した事なかった。
少なくとも僕らは武蔵野・三鷹地区で3位以下になった事はない。
要するにWM74の西ドイツ&オランダによって、極端に変わった新しいサッカーの考え方を
キチンと取り入れていたのが、我が校含め3チームだけで、
後は旧態依然の「蹴って、走れ!当たって砕けろ!」でしかなかったからだ。
成蹊と武蔵野一中には「正しいコーチ」がいた。
僕らには「誰もいなかった」だから尚更、自由であったと同時に
「これで良いのか?」という疑問も隣り合わせて持っていた。
僕は当時、一所懸命にリフティングにも取り組んだが、
マックスでも100回前後がやっとであった。
チーム戦術は、なんとなく「それなり」の事が出来るのだが、
個々の能力は、今の弱っちい息子たちと比べても非常に低いのが現実であったと思うのだ。
僕らは選手でありながら、コーチでもある事が必要であった訳だ。
僕は自分で言うのもなんだが、大して巧くなかった。
体は小さいし、体力は然程なかったし・・・。
が、情報収集力と、メニュー作りには自信があった。
僕が自分自身でチームの戦力に成れたと思えたのは、西ドイツのサイドバックであった
ベルティ・フォクツばりのスライディング・タックルをモノにした時からであった。
続く。