CX系列で放送された「剣客商売」を観た。
偶然とはいえ、実は原作を何百回目か分からんが読んでいたので
ちょっと楽しみにしていた。
でも、結論から言うと、かなりガッカリした。
何だろうなあ?画像は鬼平とおなじスタッフだからか?問題はないのであるが、
脚本の設定に無理がある。というか、強引と言うか?
本当に美味しい所を端折っちゃっている気がするのである。
人物設定や背景設定に制限がある事はよく分かる。
登場人物に限りがあるし、背景だってそう多くの場面は設定できないんだろう。
でもね、原作を諳んじられる程読んでる人間にとっては、
やっぱり、残しておきたい場面や設定が多過ぎた。
(いや、個人的意見だと言い切っておくけれどね)
設定をスムーズにするために原作では死んでしまっている真犯人の親が出て来たりする。
「晩年の子だから、不幸な生い立ちの子だから・・・」
こんな言葉が出てくる。
ウ~~~~ム、少なくとも池波作品ではそんな感傷的な剣客は出てこないんじゃない?
真犯人であると判った時点で、「親自らが始末を付ける」
そういう始末の仕方が、その時代のその手の人なら、
あるいは池波作品なら、しごく当たり前だと思うのであるが・・・。
あまりに現代的な価値観じゃないの??
金王八幡で傘徳が張り込みをする。誰が止めても言う事を聞かず、
苔の一念で張り込みを止めない。
原作では、その傘徳の執念が実を結び、真犯人の居所を突き止める。
その傘徳の心根に秋山小兵衛が涙ぐむ。
というのが読者にとっては大事な場面なのであるが、
オンエアでは、傘徳を秋山小兵衛が慰労している間、
傘徳の代わりを務めた桶太次(原作には出ていない。別の話に出てくる)が
真犯人を見つけてしまう。
台無しじゃん!
岡場所の女郎が出てくる。
原作では、誰でも一目見たら、今時で言う「チェンジ」を申し出ちゃうような
ゴボウのようなやせこけて色が黒くて肉付きの悪い女である。
でも、その女郎からは
「まんじゅうは食べてみなけりゃ、餡の味は分からないよ」
なんてセリフが出てくる。そこが美味しいのである。
端から「いい女」じゃ、味も素っ気もないじゃん。
しかもその女は、真犯人に抱かれるのは本当は嫌なんだけれど、
イカされちゃうし、金離れもいいので離れられない。のが原作の設定。
それなのに真犯人は女郎に惚れちゃってるし、
女郎は真犯人に対して
「嬉しい」なんて台詞が出て来ちゃうと
ちょっと、興ざめは否めないよ。
脚本っていうのは、いろんな縛りがあって、いくつかの原作のストーリーから
ピックアップして新しい物語にしている事は理解できるんだけれどさ、
たとえば落語や歌舞伎や映画のように、捨てちゃいけない「小さな種」ってモノが
あると思うんだよね。
少なくとも「春の嵐」の原作で、ウ~~~ム、さすが池波作品。
ウマイ!と思っていた
そういう「小さな種」は、ほとんどカットされていた。
これはね「鬼平」では感じなかった事。「剣客商売」ではいつも感じていた事なんだよね。
さっき気になって、調べてみたら「剣客商売」の脚本の人は同じ人なんだね。
ウ~~~~ム、大変な仕事ではあると思うのですが、
原作を知っている一人の読者としては、
この脚本には「ダメ出し」させていただきます。
何だかなあ。寂しいなあ。