7月2日 告知の前夜

父は6月下旬に肺がんの疑いのため各検査を行い7月3日に結果を聞くための通院に行きました。

その前日は私だけ実家に向かい両親と夕食を摂りそのまま実家に泊まりました。

父も母も精神的に凹んでないかな?と思って泊まって翌日一緒に病院へ向かおうと考えてのことでしたが2人とも思いのほか元気はありました。

コープが配送してくれたお惣菜がメインながら私がそれほど手伝わなくても母が手際よく夕食の準備をしてくれて食事の後はあれこれ話をしました。

当然翌日の結果が[がんです]と告知されることは父も想定していました。

父の考えは『大変な手術ならしたくない。自然のまま逝かせてもらえればいちばんありがたい』と言いました。

私は父が死に対してわりと冷静だなと思いました。ひとつは男性の平均寿命まで生きていることでの達成感があるのかなと。

もうひとつは知り合いや近所で寿命を迎え旅立った方がだいぶ増えているのもあり[自分もそろそろ順番かな]と思っているふしもありました。

実家は私が小学校3年の時に引っ越したので途中リフォームはしましたが両親は40年以上住んでいます。私や妹の同級生の親御さん、近所のおじさんおばさん、母の民生委員時代の訪問宅の方々も徐々にお迎えが来てお別れ機会が増えている現実もあります。

同じ地に住み続けて近所付き合いが盛んな地域だと死やお別れを肌で感じるところもあるのでしょう。


7月3日告知の午前

当日の通院時間は午後。

午前はゆったりと過ごし父は日課にしているという高齢者用の脳トレドリルに励んでいました。あとはメジャーリーグの放送を見たり。

父にとっていつもと同じルーティンで午後、私の運転で病院へ向かいました。


7月3日 午後 通院し肺がんの告知を受ける

病院には両親と私が一緒に向かい院内で私の妻と妹も合流。診察室には5人で入りました。

その後担当医から組織検査の説明があり『肺がん 肺扁平上皮癌ステージ2B』の告知を受けました。

腫瘍は5センチと大きめだが肺の中にとどまっているので近隣のリンパ節と腫瘍を切除する手術が可能です。と説明がなされました。


父[手術でお腹を開くのはできれば避けたい。経過観察してもらい腫瘍が進まない場合は手術せずにいれないでしょうか?]と医師に質問。


担当医『手術するしないは患者さんの意思も尊重されます。ただこのタイプの腫瘍は手術で取らなければさらに大きくなり他臓器に転移することもあります』


父[ひとまず手術の結論は一度持ち帰らせてください]


こんなやりとりでこの日の通院は終わりました。


一夜明け手術を決断した父

その後私から[手術できるのは幸運なこと。術後の痛みは進行したがんの痛みよりは快方の見込みがある分受け入れられるはず。痛み止めも今のがん治療は充実している。できれば手術を受けてほしい]と話しました。

母と妹も同じ考えで説得してくれました。


7月4日に父から電話をもらい[手術してもらうことにした]と話をもらいました。

私や妹の説得が奏功したようです。

こんな時にがんサバイバーである自分の経験が役立つとは思いませんでした。

手術も腹腔鏡でできれば痛みは軽減されるし開腹でも開くのは8センチ位と聞いているのでやらない手はないと思っていました。


父は7月10日に再度病院受診をして手術に耐えれる体力か?の検査をして(肺活量測定値や血液検査の数値が体力判断の材料か?)無事クリア。

総合病院の紹介状を出してもらい肺がん切除手術への道すじができてきました。


私はホッとしたのと同時に術後に再発予防で化学療法をやる場合はつらい治療にはしないであげたいとも思いました。



今回は父の肺がんが発覚するまでの経緯を書いてみます。


前提として

父は会社や団体には所属していない年金生活者+病院嫌いのため直近10年はまともな健康診断を受けていないです。

これまでの病歴は50代の時に胃潰瘍になったぐらいで他の大病歴はなしです。

父は母と自宅で2人暮らし。

息子の私と妻は車で30分の同市内に住んでおり半年に1〜2回は実家に顔を出す関係です。私の妹も市内に住んでいます。私の膀胱がん治療の時両親はこまめに連絡してくれました。


父の肺がん発覚までの経緯

2026年

5月頃

・咳をする機会が増える。


・道を歩くペースが遅くなる


・道路を歩行中に転倒。手をついたため大怪我はせず。


6月

・咳が止まらないことが増える。同居の母が心配し父に病院に行くよう強く進めて父はやむなく自宅近くの病院を受診。


・私が父と母から話を聞いたところでは吐き気、血痰、体重減少は見られていない。


6月下旬

・病院で血液検査、レントゲン撮影をしたところ右肺に5センチの影が確認される。


・後日、CT検査と部分麻酔下での組織採取検査を行う。


7月3日

・家族同席で呼吸器内科を受診し肺がんの告知を受ける。


がんを見つけるきっかけとなった初期症状は[断続的に続いた咳こみ]でした。

私は素人ながら血痰がでていないこと、吐き気や体重減少がないとのことから末期まで進行している可能性は低いかなと予想していました。



83歳の父のこれまで

実は父はがん告知の受診に行く前日の時点で[男の平均寿命までは生きられたからもうそこまで積極的には治療したくない]と話していました。

もちろん父も母もがんの知識はほとんど持っていません。

しかし私は違います。膀胱がんにかかった時からここまで3年半、がん治療の実体験、本、ネット、動画、患者会を通してがんに対しかなりの知識を蓄えられました。

私ががん治療から学んだ[がんは痛みとの闘い]ということは父にも当てはまるでしょうから無治療だけにはさせたくない。

無治療だとがん細胞は増殖、転移して正常細胞をどんどん傷つけて痛みが増すからです。

そんな思いを息子として持ちながらこれまでの父の生きざまも下に洗い出してみました。


若い人たちのがん、私のような中年世代のがんは時に未来を奪い仕事を奪い当たり前だった日常が一変するようなやっかいな病気です。

では父のような後期高齢者のがんはどうか?

長生きすると様々ないいこともあったでしょうが昭和の時代を猛烈に働いて支えてきた年代の方々だってがんを放置していいはずはなく若い世代と同じように命は尊い。

この年代の人たちが2度と戦争を起こさなかったからこそ日本は軍事より経済に特化して戦後の復興を果たし豊かな国に立て直せたのだと思います。

そして日本人の平均寿命は男性83歳、女性89歳。世界のトップを維持しています。これは医療の進歩と国民皆保険制度の賜物。

昭和、平成、令和と時代ごとに翻弄されながらも平均寿命まで生きている父には痛みなく天寿を全うしてほしい。そんな願いが私にはあります。


【ここに父の簡単なプロフィールを紹介します】

父 昭和17年に生まれる。戦後が幼少期。高校卒業後に車営業の仕事に就く。22歳の時に当時23歳の母と結婚。仕事を営業職から母の兄弟が経営する車の部品工場に転職。義兄が社長、父は工場長として共同経営者となる。

工場長といっても横浜の下町にある大手メーカーの下請け子会社なので父自ら工場の機械を動かし部品の製造に従事していた。

母は専業主婦。昭和48年、51年に私と妹が生まれる。夫婦仲はよかったと思うが父は日本が高度成長からバブルに向かう時代に20代30代を送っていたので[働けば働くほど報われた]時代。そのため平日は仕事人間となり7時に出勤したら夜9時10時まで帰ってこず。土曜も当時は半ドンが主流のはずだが夕方まで働き6時か7時に帰宅。

会社勤めの人とは違い飲み会や接待はほとんどなく純粋に遅くまで工場で仕事をして帰ってきていたので家族と工場の社長(義兄)以外に交流する場はそれほどなかった。

その分、日曜祝日は家族サービスに全振りしてくれてドライブや私とのキャッチボールや夏休みの家族旅行をしてくれた。

趣味は帰宅後の晩酌、休日のスポーツ番組を見ることなど。

父は工場で65歳まで働き定年退職する。私が大学、妹が専門学校を卒業するまで父親として経済的な勤めを果たしてくれた。

母は数年間だけパート勤務をしていたことがあるがほほ専業主婦で子育てをして地域の民生委員も引き受け社交的な性格。


夫婦ともに仲が良く健康だったこともあり父の定年退職後は横浜市の実家を離れて山梨県八ケ岳山麓の北杜市(中央本線の特急あずさで行くと小淵沢駅の近く)の別荘地域に居を移して2007年〜2022年まで15年間のセカンドライフを送った。私と妹はそれぞれ実家を離れて独立していたので八ケ岳では父母2人の生活になっていた。

私や妹をはじめ横浜時代の友人、親戚も八ケ岳には遊びに行った。

そこで父は趣味を兼ねて野菜畑を開き地元の農家に教わりながら野菜作りをしていた。

ただ、ここでの野菜作りは労働というより趣味の一環なので父は畑仕事を終えてタバコで一服するのが生きがい、母は畑で収穫した野菜で料理づくりするスローライフだった。八ケ岳の地域コミュニティも盛んで近所付き合いもあった。父の野菜畑で作る長ネギがおいしいと認められ、道の駅に出店するほどになった。しかしながら農業で稼ぐのは大変らしく道の駅の長ネギがどんなに売れても利益はそれほど出なかったそうだ。

それでも70代を全て八ケ岳山麓ですごした父にとっての野菜作りはこれ以上ないぐらいの生きがいになった。


八ケ岳での夫婦セカンドライフも母が心臓疾患(冠動脈狭窄)にカテーテル手術を要することから2023年に八ケ岳の別荘は売りに出しセカンドライフは終了。野菜畑ともお別れして横浜の実家に戻ることになった。

横浜に戻り母の治療は奏功したが年齢も80歳を超えてきたので足腰が少しずつ衰えてきた。私のほうも膀胱がんに罹り手術とBCG治療をしていた時期に母は何度か転倒してその時は父がトイレまでの歩行介助やトイレ内での介助もしてくれたという。

明らかな老々介護だが昭和の働け世代で仕事一筋だった父が母の介護をするのはすごいことだと私は子供として感じた。


やはり高齢でも夫婦が一緒に生活するのはよいらしい。

2人はよく会話するので記憶力がそこまで衰えておらず認知症の気配はみられない。

私たち夫婦は3〜4カ月に一度実家に顔を出す関係ではあったので親子仲もまあまあ。妹は仕事が忙しいのでたまにしか顔は出せないがそれでも親子関係が親80代、子50代でも破綻することなく続いていたのは父の中年期、壮年期にきちんと定職を持ち家族のために遅くまで働いたことに依るところは大きかったと思う。

母も専業主婦として毎日の食事、洗濯、私と妹の学校のことや親同士の付き合いから私たちの卒業後は地域の活動に至るまで持ち前の社交性で家庭を守ってくれた。


上記生活を経て現在は…

そして2026年の夏を迎えた現在、父の肺がん告知となりました。[昭和のお父さん]を絵に描いたようなこれまでの歩みですがプロフィールをふまえるとがんの手術・治療を受けて痛みなく余生を送ってほしい、あわよくば寛解してほしいと思わずにはいられません。





皆さんこんにちは。

膀胱がんサバイバー4年目のダイスです。


タイトルを見て驚かれた方もいらっしゃるかと思いますが83歳の私の実父にがんが見つかりました。


親子キャンサーという言葉があるのか?わかりませんが事実そうなってしまったので現実を受け止めます。


父が告知を受けたのは肺がんです。正式名称は肺扁平上皮癌。ステージングは術前検査の見立てでステージ2B、5年生存率は50%というデータがあります。


父のがん治療についてブログにアップしようか迷いましたが私の膀胱がんほど詳しくなくても経過報告の形でならアップしてよいかなと思いました。


理由としては【高齢の親ががんになる】というのは超高齢社会の日本ではよくある事例ですし親の手術、治療、治療中の日常生活がどのようになっていくのか?そこに子どもである私や妻や私の兄弟がどう関わるか?を高齢の親御さんがいらっしゃる読者の皆さまにお伝えすることには意味があるのではないか?

と考えた結果、私の膀胱がんダイアリーがおかげさまで大きなトピックがなく開店休業状態になっている今、【親ががんに罹患した】こと、【罹患後】のことをブログ記事にしてみようと思います。


[父の肺がん原因に理不尽さはない]

父の肺がんは肺扁平上皮癌でした。

喫煙との関係性が高く中高年男性の40%がこのタイプ。

父はタバコが大好きな人生を送っており20代から60年タールの強いハイライトを吸っていました。

特に仕事をしていた頃はハイライトを1日1箱か2箱。

今回の診断が肺がんというところからも必然だと思います。

むしろ働き盛りだった30代40代の頃に発症しなくてよかったんじゃないかと息子の私は思います。

私の膀胱がん罹患ははっきりした原因がいまだに不明なので父に関しては喫煙との関係が明らかになって家族も父も納得できそうです。

喫煙者はタバコを吸わない人の4.5倍も発症リスクがあるのが肺がんです。


【手術ができることが幸運】

今回父が診断された肺がんはいわゆる末期がんではありませんでした。

つまり手術で腫瘍を取り、術後の化学療法で再発予防をすれば寛解も期待できるタイプです。しかしながら楽観はできず。肺がんはそもそも5年生存率は他臓器のがんよりも低く再発や転移が繰り返されれば一気に命の危険が出てきます。


赤い線が父が告知を受けたステージ2です。2年後で70%、5年後で50%となっています。


そのため、手術をお願いする病院に丸投げしないで術後の経過や化学療法(おそらく抗がん剤)の副作用や体調、体力のチェックは家族である私たちの役目と考えます。


今回は初回報告としてざっくりとまとめてみました。

次回は初期症状や告知の日、父のがん治療に対する希望などもお伝えします。


ご拝読ありがとうございます。