今年は猛暑であった。
そして8月の下旬になってもヒグラシの音がしなかった。
思い返してみれば、みんみん蝉の鳴き音も今年はあまり耳にしなかった気がする。
もしかしたら、日常の忙しさに追われて虫の音に耳を傾けている余裕がないのかもしれない。
さすがに秋分の日を過ぎて涼しくなってきた。
自分の寝室で寝ていると、夜、夜中、朝方と断続的に外から音が聞こえる。
最初は時計のデジタル音かと、眠気の中で考えた。
でもそんな音が夜中に外から聞こえるはずもない。
考えを巡らし、その音は虫の音に違いない、と思い至った。
それを境にそのデジタル音は虫の音として聞き分けることができるので、
ずっと鳴き続けられても、イライラすることはなくなった。
自分にとって秋の虫の音の代表は、鈴虫と松虫である。
リーンリーンと鳴く鈴虫、チーンリリと鳴く松虫の鳴き音は今でも心地よい。
しかし、目覚まし時計のデジタル音に似ている虫とは何なのだろうか。
それとも自分の方が虫の音をデジタル音のように聞き取るようになってしまったのだろうか。
自分が虫の音とデジタル音との区別がつかない感性になっている、という仮説はありうる。
日本人と西洋人は、虫の音を聞き取る脳が違うそうである。
日本人は言語脳である右脳で虫の音を聞き取るが、
西洋人は音楽を聞き取る左脳で虫の音を聞き取る。
そして左脳で聞いた虫の音は雑音として脳処理されるそうである。
デジタル音は雑音と同類の音とするならば、
自分は西洋人のように虫の音を左脳で聞くようになってしまった、とも考えられる。
でも、まさかね。
英語もしゃべらず、英文も読まない生活をしていて、
脳の使い方が変わるとは考え難い。
そうではないだろう。
ここからは、大胆な仮説である。荒唐無稽と言っても良い。
自分は相変わらず、虫の音を右脳で聞いている。
右脳は言語脳なので、相変わらず虫の音を言語的に聞いている。
しかし自分の言語処理がアナログ処理からデジタル処理に変化した。
デジタル処理とは、1か0、ONかOFF、YESかNOの処理である。
自分の言語処理が、知らず知らずのうちにそういうデジタル処理になってしまっているのではないか。
賛成か反対かという単純な二項対立構造で思考するようになった。
言語処理がデジタル化したので、虫の音もデジタル音に聞こえるようになった。
日本語はアナログ的言語であり、言葉がどう展開されるのかわかりにくい言語である。
わかりにくいが、言葉の使い手の個性が出る言語である。
しかし、現代は個性のない言葉が広くまかり通っている。
一国の首相の言葉も個性がない。
原発ゼロ化も誰の発言内容なのか文章から読み取ることはできない。
何故言葉に個性がなくなったのか。
コミュニケーションが活発な社会では発せられる言葉に個性が感じられる。
コミュニケーションは、誰と誰が応答しているかが重要な要素なので、
聞き手にとって言葉の発し手の個性はとても重要である。
若い母親と子どもとのコミュニケーションを思い浮かべてもらえればわかりやすいだろう。
「眠いの?じゃあ私の横で寝ていいよ」と母親に言われれば安心して寝ることができる。
子供にとって、唯一無二の母親の言葉であることが大切なのである。
そういう深いコミュニケーションが減り、人と人とのつながりが希薄になっているようである。
首相は、言うことが全て、と思っているから言いっぱなしになる。
ソーシャルメディアでもコミュニケーションよりも主張が主体になっているから、
言いっぱなしである。
そういう現代社会に生きていれば、虫の音の感じ方も変わってくるのである。
この仮説は違うだろう。
でも言いっぱなしの言語化、は蔓延していると思う。
これではいかん。
心も脳も遊び、虫の音に耳を傾け虫たちの生命力に感じなければ。
秋もはや其の蜩(ひぐらし)の命かな
そのヒグラシの儚い命のように、
その日暮らしの自分の命(生活)。
儚さが生活の潤いにつながる、
そういう脳を持ち続けたいのである。
そして8月の下旬になってもヒグラシの音がしなかった。
思い返してみれば、みんみん蝉の鳴き音も今年はあまり耳にしなかった気がする。
もしかしたら、日常の忙しさに追われて虫の音に耳を傾けている余裕がないのかもしれない。
さすがに秋分の日を過ぎて涼しくなってきた。
自分の寝室で寝ていると、夜、夜中、朝方と断続的に外から音が聞こえる。
最初は時計のデジタル音かと、眠気の中で考えた。
でもそんな音が夜中に外から聞こえるはずもない。
考えを巡らし、その音は虫の音に違いない、と思い至った。
それを境にそのデジタル音は虫の音として聞き分けることができるので、
ずっと鳴き続けられても、イライラすることはなくなった。
自分にとって秋の虫の音の代表は、鈴虫と松虫である。
リーンリーンと鳴く鈴虫、チーンリリと鳴く松虫の鳴き音は今でも心地よい。
しかし、目覚まし時計のデジタル音に似ている虫とは何なのだろうか。
それとも自分の方が虫の音をデジタル音のように聞き取るようになってしまったのだろうか。
自分が虫の音とデジタル音との区別がつかない感性になっている、という仮説はありうる。
日本人と西洋人は、虫の音を聞き取る脳が違うそうである。
日本人は言語脳である右脳で虫の音を聞き取るが、
西洋人は音楽を聞き取る左脳で虫の音を聞き取る。
そして左脳で聞いた虫の音は雑音として脳処理されるそうである。
デジタル音は雑音と同類の音とするならば、
自分は西洋人のように虫の音を左脳で聞くようになってしまった、とも考えられる。
でも、まさかね。
英語もしゃべらず、英文も読まない生活をしていて、
脳の使い方が変わるとは考え難い。
そうではないだろう。
ここからは、大胆な仮説である。荒唐無稽と言っても良い。
自分は相変わらず、虫の音を右脳で聞いている。
右脳は言語脳なので、相変わらず虫の音を言語的に聞いている。
しかし自分の言語処理がアナログ処理からデジタル処理に変化した。
デジタル処理とは、1か0、ONかOFF、YESかNOの処理である。
自分の言語処理が、知らず知らずのうちにそういうデジタル処理になってしまっているのではないか。
賛成か反対かという単純な二項対立構造で思考するようになった。
言語処理がデジタル化したので、虫の音もデジタル音に聞こえるようになった。
日本語はアナログ的言語であり、言葉がどう展開されるのかわかりにくい言語である。
わかりにくいが、言葉の使い手の個性が出る言語である。
しかし、現代は個性のない言葉が広くまかり通っている。
一国の首相の言葉も個性がない。
原発ゼロ化も誰の発言内容なのか文章から読み取ることはできない。
何故言葉に個性がなくなったのか。
コミュニケーションが活発な社会では発せられる言葉に個性が感じられる。
コミュニケーションは、誰と誰が応答しているかが重要な要素なので、
聞き手にとって言葉の発し手の個性はとても重要である。
若い母親と子どもとのコミュニケーションを思い浮かべてもらえればわかりやすいだろう。
「眠いの?じゃあ私の横で寝ていいよ」と母親に言われれば安心して寝ることができる。
子供にとって、唯一無二の母親の言葉であることが大切なのである。
そういう深いコミュニケーションが減り、人と人とのつながりが希薄になっているようである。
首相は、言うことが全て、と思っているから言いっぱなしになる。
ソーシャルメディアでもコミュニケーションよりも主張が主体になっているから、
言いっぱなしである。
そういう現代社会に生きていれば、虫の音の感じ方も変わってくるのである。
この仮説は違うだろう。
でも言いっぱなしの言語化、は蔓延していると思う。
これではいかん。
心も脳も遊び、虫の音に耳を傾け虫たちの生命力に感じなければ。
秋もはや其の蜩(ひぐらし)の命かな
そのヒグラシの儚い命のように、
その日暮らしの自分の命(生活)。
儚さが生活の潤いにつながる、
そういう脳を持ち続けたいのである。