先週は姪の結婚披露宴で飲んだくれていました。金沢は桜が満開で、朝方降っていた雨も午前中には晴れて清々しい気候の中での披露宴になりました。
披露宴は爽やかに進行したと思います。
ところがそんな披露宴の空気をかき消すかのように新婦のおじさん(僕)はしゃしゃり出て、歌を歌った上にご来賓の方々から(聞いていただく時間をもらった上に)とてもとても暖かい拍手をもいただいたのです。
自分勝手ながらとても楽しい披露宴でした。
そんなことがあろうとは知らずに来られたご来賓の皆様、本当にすいませんでした。
そういう楽しいことはあったものの、この二週間、どうしてこんなかね?と思うことがたくさんありました。
先日縁あって大学のF先生とお話することがありました。議論の中心は企業経営についてでしたが、先生が「今の日本はAかBかの意見対立ばかりでとても憂慮すべき状況です」とおっしゃたのです。
おお先生もそう思われますか!いやいや僕もずっとそれを感じてまして・・・・とリレーションしたい気持ちを抑え(脱線大好き人間だけど、「仕事」モードでは結構理性先行型なんです)たのです。
うーん、残念。
先生の指摘はとても大事なことです。
今ニギヤカなのは原発再稼働問題でしょうか。この問題は行き着くところ「電力の安定供給」を果たすために原発の再稼働が必要か必要でないか、にあるはず。
しかしどういうわけかその問題を掘り下げることなく、原発絶対反対と原発推進の綱引にすり変わっていく。電力の安定供給を果たすためにはなんて言おうものなら、「お前はそういうことを言って再稼働は止むを得ないと言うが、なし崩しに原発を推進しようとしているんだ。お前は隠れ原発推進派だ」となるんです。
今流行りのスギちゃん風にいうなら「原発反対だぜー。スギちゃんち電気止められてるから電気なくてもへいきだぜー。ワイルドだろう!」ってこと。スギちゃんが言うと笑えるが、一般人が同じ論理を展開したら笑えない。
さて、AかBかの選択しかしないことを二項対立といいます。
でも、選択とは実はもっと幅広いものでダイナミックなもの。
少しでも思考の立ち位置を変えてみれば、選択肢は別のものになります。
賛成と反対の間の意見というものがあります。
原発問題にも賛成と反対の間の意見があってしかるべし。
丁寧に思考して行けば、選択肢は常に3つ以上あるものです。
だから、二項対立というものに陥ること自体が思考の幅を狭め、それが逆に「生きる力」を弱めて行く。
生命とはわけのわからない世界を生きるために、そもそも多様性を持っています。
その多様性を自己否定することは生きる力を削ぐことになる。
今の日本は二項対立で選択を迫る風がどんどん広がっています。日本が弱くなっているのは経済成長が伸び悩んでいることだけが理由ではない。日本国民が好んで使っている二項対立が日本を弱くしています。
どれくらい広がっているかというと、自分がそういう二項対立で語っていると気づかないほど浸透している。そうとしか思えません。
何故こういう状況になったのかは社会学の専門家に任せます。
僕は、二項対立を使っている人の心象について考えてみたい。
二項対立を好んで使う人は相手を抑え込むため。明らかに戦術的です。
本来ならいろいろな選択肢があるが、その議論をしていると自分が不利となるので敢えて二項対立に持ち込む。嘗て小泉元総理が郵政選挙に持ち込んだ郵政選挙がこれです。
当時の日本国民はこの小泉戦術にまんまとハマった。
前回の総選挙でも民主党は同じ戦術を使いました。「自民党かノン自民党か」と国民に二項対立を迫った。
ただ小泉元総理ほど戦術徹底がなかった(自信がなかったか?)ので、サブ戦術としてマニュフェストで約束をばら撒いた。
総選挙の場合、小選挙区制が二項対立戦術を選びやすくしている面はあります。
でも、不思議なのはマスコミがこの戦術に何回も乗ってしまうこと。
今は、橋下大阪市長がこれを使っている。そしてまたしてもマスコミがそれについていく。
むしろ二項対立を望んでいるようにも見えます。
こうなると「二項対立は戦術である」と片付けられないと思います。
マスコミに、そして日本国民に二項対立を(無意識に)好む心理状況にあると考えざるを得ない。
その心象とは何か?
一つは、先にも触れたけど、「生命とはわけのわからない世界を生きるために、そもそも多様性を持っている。」ということをどうも認めたくないらしい。そんな煩わしいことは考えたくないらしい。
中には就カツとか婚カツとかのノウハウを教えてもらって生きていければいいと思っています。
もっと突き詰めてしまうと二項対立すら煩わしいと、本音のところでは思っている人もいるのではないでしょうか。
更に、実はAかBかどちらか一つでいいと思っている。
「答え」は一つしかないんでしょネエ先生、と思っている(思わされているとも)。
そういう風に思っている人が多いのではないでしょうか。
それから、自分は自分でもう出来上がっていると思っている人。
そういう人にとって、Aという答えを選択したことは自分にとって必然となります。
でもこれでいいのでしょうか。
人間の細胞のかなりの部分は三ヶ月で入れ替わり、6年も経てば全てが入れ替わっているそうです。
今日の自分は昨日の自分とは別人。
でも昨日の自分と今日の自分は同一であり変わらないと思っている人は多い。
これを養老孟司氏は次のように指摘する。
「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目を覚ますはずである。ところがそのつど、
『私は誰でしょう』
と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいということになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」
朝起きたら、「アレ今の自分は昨日の自分と何処か違うぞ」と考えなければならないとすると、毎日毎日変化した点を探すとなるとさすがに厳しいですが、自分の中に常にズレを持った自分がいることを意識することが人間の本来の姿です。
このズレた自分を自分の中の他者という。
そして主体的とは、このズレを認識しつつその都度その時の答えを出していくことをいう。
決して固まった自分を言うのではありません。
話がややこしくなって申し訳ないです。
昨日の自分と今日の自分とはとりあえず違う(きっと違うんだよねーぐらいの気分)と考えればいいのです。
しかし昨日の自分と今日の自分とは寸断されておらず継続性を持っている。この 継続性には責任を持たなければならない。
昨日言ったことややったことは今日の自分であれば言わないしやらないことだと言えるけれども言ったことややったことに対しては責任を持ちます、という態度を取ればいいのです。
そして言おうとすることやろうとすることについて、自分の中の他者と相談していけばいいのです。
固まった自分に固執する人に、自分の中の他者はいません。
自分の主張する世界(例えば原発問題)にも他者はいません。
だからその人にとって、そもそも他者の声など存在しません。
Aという考えに固執しているというよりもBが聞こえないということでしょう。
「Aしかないだろ、当たり前じゃないか」と言っているように思えます。
だからAの他に別の考えがあるだろうと示唆されたことそのものが、自己を否定されたように受け取ります。
二項対立は相手を抑えるための戦術であると書きましたが、自己の中に他者がいない人にとっては心理学でいうところの「抑圧」です。
他者を排除するとは他者がいるという認識があって可能な行為ですが、心理的「抑圧」では他者は存在しないか闇の中なのです。
自分の中に他者を見出してみませんか。
それが難しいなら、昨日の自分と今日の自分とは少し違うと思ってみませんか。
そういうズレを感じていかないと主体的な生き方はできないようです。
披露宴でご来客に喜んでもらおうと思った自分、
披露宴で目立とうとした自分、
振り返ってみてそんな自分を反省している自分、
こういう風な考え方をしていれば、抑圧は起こらないし他者を受け入れられるし二項対立思考にはならないと思うのです。
披露宴は爽やかに進行したと思います。
ところがそんな披露宴の空気をかき消すかのように新婦のおじさん(僕)はしゃしゃり出て、歌を歌った上にご来賓の方々から(聞いていただく時間をもらった上に)とてもとても暖かい拍手をもいただいたのです。
自分勝手ながらとても楽しい披露宴でした。
そんなことがあろうとは知らずに来られたご来賓の皆様、本当にすいませんでした。
そういう楽しいことはあったものの、この二週間、どうしてこんなかね?と思うことがたくさんありました。
先日縁あって大学のF先生とお話することがありました。議論の中心は企業経営についてでしたが、先生が「今の日本はAかBかの意見対立ばかりでとても憂慮すべき状況です」とおっしゃたのです。
おお先生もそう思われますか!いやいや僕もずっとそれを感じてまして・・・・とリレーションしたい気持ちを抑え(脱線大好き人間だけど、「仕事」モードでは結構理性先行型なんです)たのです。
うーん、残念。
先生の指摘はとても大事なことです。
今ニギヤカなのは原発再稼働問題でしょうか。この問題は行き着くところ「電力の安定供給」を果たすために原発の再稼働が必要か必要でないか、にあるはず。
しかしどういうわけかその問題を掘り下げることなく、原発絶対反対と原発推進の綱引にすり変わっていく。電力の安定供給を果たすためにはなんて言おうものなら、「お前はそういうことを言って再稼働は止むを得ないと言うが、なし崩しに原発を推進しようとしているんだ。お前は隠れ原発推進派だ」となるんです。
今流行りのスギちゃん風にいうなら「原発反対だぜー。スギちゃんち電気止められてるから電気なくてもへいきだぜー。ワイルドだろう!」ってこと。スギちゃんが言うと笑えるが、一般人が同じ論理を展開したら笑えない。
さて、AかBかの選択しかしないことを二項対立といいます。
でも、選択とは実はもっと幅広いものでダイナミックなもの。
少しでも思考の立ち位置を変えてみれば、選択肢は別のものになります。
賛成と反対の間の意見というものがあります。
原発問題にも賛成と反対の間の意見があってしかるべし。
丁寧に思考して行けば、選択肢は常に3つ以上あるものです。
だから、二項対立というものに陥ること自体が思考の幅を狭め、それが逆に「生きる力」を弱めて行く。
生命とはわけのわからない世界を生きるために、そもそも多様性を持っています。
その多様性を自己否定することは生きる力を削ぐことになる。
今の日本は二項対立で選択を迫る風がどんどん広がっています。日本が弱くなっているのは経済成長が伸び悩んでいることだけが理由ではない。日本国民が好んで使っている二項対立が日本を弱くしています。
どれくらい広がっているかというと、自分がそういう二項対立で語っていると気づかないほど浸透している。そうとしか思えません。
何故こういう状況になったのかは社会学の専門家に任せます。
僕は、二項対立を使っている人の心象について考えてみたい。
二項対立を好んで使う人は相手を抑え込むため。明らかに戦術的です。
本来ならいろいろな選択肢があるが、その議論をしていると自分が不利となるので敢えて二項対立に持ち込む。嘗て小泉元総理が郵政選挙に持ち込んだ郵政選挙がこれです。
当時の日本国民はこの小泉戦術にまんまとハマった。
前回の総選挙でも民主党は同じ戦術を使いました。「自民党かノン自民党か」と国民に二項対立を迫った。
ただ小泉元総理ほど戦術徹底がなかった(自信がなかったか?)ので、サブ戦術としてマニュフェストで約束をばら撒いた。
総選挙の場合、小選挙区制が二項対立戦術を選びやすくしている面はあります。
でも、不思議なのはマスコミがこの戦術に何回も乗ってしまうこと。
今は、橋下大阪市長がこれを使っている。そしてまたしてもマスコミがそれについていく。
むしろ二項対立を望んでいるようにも見えます。
こうなると「二項対立は戦術である」と片付けられないと思います。
マスコミに、そして日本国民に二項対立を(無意識に)好む心理状況にあると考えざるを得ない。
その心象とは何か?
一つは、先にも触れたけど、「生命とはわけのわからない世界を生きるために、そもそも多様性を持っている。」ということをどうも認めたくないらしい。そんな煩わしいことは考えたくないらしい。
中には就カツとか婚カツとかのノウハウを教えてもらって生きていければいいと思っています。
もっと突き詰めてしまうと二項対立すら煩わしいと、本音のところでは思っている人もいるのではないでしょうか。
更に、実はAかBかどちらか一つでいいと思っている。
「答え」は一つしかないんでしょネエ先生、と思っている(思わされているとも)。
そういう風に思っている人が多いのではないでしょうか。
それから、自分は自分でもう出来上がっていると思っている人。
そういう人にとって、Aという答えを選択したことは自分にとって必然となります。
でもこれでいいのでしょうか。
人間の細胞のかなりの部分は三ヶ月で入れ替わり、6年も経てば全てが入れ替わっているそうです。
今日の自分は昨日の自分とは別人。
でも昨日の自分と今日の自分は同一であり変わらないと思っている人は多い。
これを養老孟司氏は次のように指摘する。
「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目を覚ますはずである。ところがそのつど、
『私は誰でしょう』
と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいということになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」
朝起きたら、「アレ今の自分は昨日の自分と何処か違うぞ」と考えなければならないとすると、毎日毎日変化した点を探すとなるとさすがに厳しいですが、自分の中に常にズレを持った自分がいることを意識することが人間の本来の姿です。
このズレた自分を自分の中の他者という。
そして主体的とは、このズレを認識しつつその都度その時の答えを出していくことをいう。
決して固まった自分を言うのではありません。
話がややこしくなって申し訳ないです。
昨日の自分と今日の自分とはとりあえず違う(きっと違うんだよねーぐらいの気分)と考えればいいのです。
しかし昨日の自分と今日の自分とは寸断されておらず継続性を持っている。この 継続性には責任を持たなければならない。
昨日言ったことややったことは今日の自分であれば言わないしやらないことだと言えるけれども言ったことややったことに対しては責任を持ちます、という態度を取ればいいのです。
そして言おうとすることやろうとすることについて、自分の中の他者と相談していけばいいのです。
固まった自分に固執する人に、自分の中の他者はいません。
自分の主張する世界(例えば原発問題)にも他者はいません。
だからその人にとって、そもそも他者の声など存在しません。
Aという考えに固執しているというよりもBが聞こえないということでしょう。
「Aしかないだろ、当たり前じゃないか」と言っているように思えます。
だからAの他に別の考えがあるだろうと示唆されたことそのものが、自己を否定されたように受け取ります。
二項対立は相手を抑えるための戦術であると書きましたが、自己の中に他者がいない人にとっては心理学でいうところの「抑圧」です。
他者を排除するとは他者がいるという認識があって可能な行為ですが、心理的「抑圧」では他者は存在しないか闇の中なのです。
自分の中に他者を見出してみませんか。
それが難しいなら、昨日の自分と今日の自分とは少し違うと思ってみませんか。
そういうズレを感じていかないと主体的な生き方はできないようです。
披露宴でご来客に喜んでもらおうと思った自分、
披露宴で目立とうとした自分、
振り返ってみてそんな自分を反省している自分、
こういう風な考え方をしていれば、抑圧は起こらないし他者を受け入れられるし二項対立思考にはならないと思うのです。