貫井徳郎さんの本は、
25年前、デビュー作の「慟哭」を
読んだ時の衝撃の大きさから、
その後、何を読んでも、ちょっと、
物足りないような、
そんな感じをいつも覚えていました。
これは「慟哭」以来の、宗教を扱ったもの、
ということで、少し期待して読みました。
主人公の雪藤は、
交通事故で、目の前で、妻子を失い、
それ以来、生きる意味を失ったような
絶望の毎日を送っていた。
ある日、雪藤の落とした定期券を、
拾ってくれた若い女性が、
「可哀想」と呟いて泣きながら、
それを渡してくれる。
どうして、自分の悲しみが、
見ず知らずのその女性にわかったのか?
だけど、その女性が、自分の悲しみを
共有してくれて、そして泣いてくれたことで、
雪藤は初めて、救われた思いをしていた。
雪藤はそれから、その場所で女性を待ち伏せし、
見つけ、そして、その女性、天美遙は
人の持ち物から、その持ち主の感情を
読み取ることができる、超能力を持っている
ということを知る。
すでに遙は、
占いがよく当たる、と評判になっていて
働いている喫茶店にも、時々、
相談に訪れる人が来るようになっていた。
救われた思いの雪藤、
そして、同じように遙に相談したことで、
助けられたいろいろな人が、
遙の元に集まり始め、
ただの人生相談のボランティアのような
つもりでいた遙の思いを超えて、
まるで新興宗教の教祖のような扱いを
受けるようになる。
今の新興宗教というものが、
どういう発祥の経緯なのかは、
わからないけど、
こんな遙のように本人には、
全くそんな意思はなくても、
集団になり、組織化されてくると、
いくら善意の人の集まりでも、
いろいろな考え方の人がいて、
揉め事も多くなり、歪みも出てくる。
遙の持っている力で、
自分のように、苦しんでいる人が
救われて欲しい、
そのためには、よりたくさんの人に、
遙のことを知ってもらうことだ、と思って
いた雪藤も、だんだん違和感を
覚えるようになっていって…。
読んでいる私も
宗教?それはないだろう🤫
どうしてそっちにいくのかな?と
流れに疑問を持っていたので、
最後に、
事件に巻き込まれて、やむを得ず、
にしても、遙が、そういう所から、
解放されることは良かった!と。
雪藤も、きっと遙と共に、立ち直ることが
できるだろう、と、明るい気配の
終わり方になりました。
やはりちょっと物足りなかったかな🤪
25年前に読んだ「慟哭」にあれ程の衝撃を
受けたのは、たぶん、
初めてのトリックだったから?
あれを一度読んでしまうと、
なかなかそれを超えられないかも?です。
最近は、時々、そういうトリックのお話しも
出てくるようになりましたね。
3日前、
以前ブログで、紹介した友達、
ご主人のレスバイト入院中に、
遊びに来てくれた友達のご主人が
亡くなりました。
突然の急変だったので、まだ実感もないのか、
明るくしっかりと
お葬式も取り仕切っていました。
難しい病気で、
先日、安楽死の問題で裁判もあり、
話題にもなっていました。
呼吸も困難になるため、
いつかは人工呼吸器をつけなければ
ならなくなるのですが、
人工呼吸器をつけてしまうと、
外すことはできず、
身体は動かないままで、
ずっと生きていく、ということになり、
今、人工呼吸器をつける選択をする人は、
その病気の3割程度の人しか
ないそうです。
そんなこともあり、発病当時から、
本人と先のことを、いろいろ話し合って
人工呼吸器はつけない、と決めて
いたようですが、
いざとなった時、どう思うか?
本人は、ともかく、
それで友達は、後々、ずっと
後悔したりしないだろうか?
と、少し不安に思っていました。
今回は、突然でしたが、
だからこそ、考える暇もなく、
悩む暇もなく、亡くなってしまったことは、
もしかすると、お互いにとっても、
良かったのかもしれません。
(良くはないですね)
病気になる前の元気な頃の
笑顔のご主人の遺影に、
「いい奥さんで幸せだったね」
と、話しかけてきました。
私が知っている夫婦の中では、
いちばん仲良しの円満な家庭だったのに、
どうしてこうなるかな、と。
人間って弱っちいな💦とも。
この「夜想」の本の中でもそうですが、
大事な人を亡くした後の喪失感、
孤独、悲しみ、苦しみ、というのは、
どうやって乗り越えたらいいんでしょうね。
そこで宗教を頼る、という気持ちも、
充分理解できます。
「夜想」の最後の部分で、
妻子を亡くした雪藤が、
「この世には、決して癒えない悲しみ、
というものもあります。癒えない悲しみを、
無理に癒そうとするのは、より傷口を
深くしてしまう危険性があります。
悲しいことに、立ち向かわなくてもいい。
乗り越えなくてもいい。
みんなそれを分かっているから、その人が、
その悲しみから少しずつ意識を逸らすことが
できるようになるまで、待っています」
という部分があります。
私も、そう思って、その友達を、
もう少ししたら、
「ご飯食べようよ」と
誘ってみようと思っています。