「じっと手を見る」

今まで、何度このセリフを、言ったか!

会社のロッカーで同僚達との雑談で、

子供達との食卓で、

「ホントに、じっと手を見る、だわ」と。

何のこと?とポカンとされたり、

またか、とため息つかれたり😜


石川啄木の

はたらけどはたらけど

なお我が生活楽にならざり

ぢっと手を見る


学生の頃に覚えた

この石川啄木の詩は、

30代の頃には、やたらにいろんな場面で

思い出されて、その生活のちょっとした苦しさを

このセリフを言うことで、

なんだか高尚に誤魔化せてる気分に

なっていました。

ここ10年近くは、

この言葉も思い出さなくなったのは、

もう自分のためだけに、

生きていったらよくなったからですね。


「じっと手を見る」

富士山を望む地方都市で、介護士として働く

若い日菜と海斗。

日菜は、東京からきた編集者の宮澤に

夢中になってしまう。

海斗は、日菜への思いは断ち切れないまま

同僚の畑仲との関係が深くなっていく。

日菜、海斗、畑中、宮澤、

それぞれの、モノローグの7章で

物語はできています。


介護士という仕事の実状、

その厳しさ、苦労、も

詳しく書かれています。

ちょうど今日の新聞に

高齢化するヘルパーの問題の記事が

ありました。

低賃金で不安定。

若い人はとても暮らすことができない、と。

だけど、日菜と海斗、は、

介護士になれば、

この土地で生きていける、と考え、

そして畑中は、

介護士なら、どこへ行っても仕事はある

とこの仕事を選んでいます、


じっと手を見る

の意味は、生活のお金の苦労、

という訳ではなく、

日菜も海斗も、宮澤も畑中も、

それぞれの抱える自分の中の歪み

欠落部分、を

じっと見つめているのではないか

と思います。


宮澤は

裕福な家庭で一人息子として

育ちながらも、

両親の愛情を全くかけられず、育ったため

他人との濃密な関係を持つことができない。


畑中は、

自分の子供をどうしても愛することが

できない。

離婚し、子供は、もと夫に引き取られて

いるけど、月に一度の面会さえ

苦痛に思っている。


海斗は、

父親が、商売の失敗で、自殺をはかり、

それ以来、母や弟の生活も支えている。

介護士として働き、いずれ大学にいって

社会福祉士になるという、

将来の夢が、だんだん遠くなってきている。


日菜は、

両親を、幼い頃、車の事故で、同時に

亡くし、それ以来ずっと、

ひとりで育ててくれた祖父が、 

突然亡くなったことで、

精神的に不安定になる。

その欠落感を埋めるように、宮澤の存在は、

日菜の中に深く入ってくる。


けれども、

宮澤は東京の妻の元に帰っていき、

畑中も東京の会社社長と結婚し、

結局、富士の麓にあるその土地には、

海斗と日菜が、またふたり残されてしまう。

ふたりがこれからどうなっていくのかは

わからないけど、

とにかく4人とも、とりあえず、先へ

歩き出した、という、

少しの明るさを感じられる終わりでした。


窪美澄さんが、

どう思って、何を象徴して

「じっと手を見る」

という題名をつけたのか?

は、わかりませんが

やはり

じっと手を見る、という行為は、

生活の苦労をみるのではなく、

自分の内面を、見つめ直しているような

そんな感じがします。

石川啄木も、そんなに真面目な勤勉な人

だったわけではなく、

かなり遊び人だったという話もあります💦


イチョウももう散り急いでます。


今日は、28時から、いよいよ
ワールドカップ、スペイン戦。
28時で良かった、
とても起きてはいられない、と
自分で自分に、見ない理由の言い訳が
つけられるから🤣
ただ、いつも4時位に、1度目が覚めるんだよね😅
それが怖いな💦
見るだろうな、きっと😎
4年前もそうだったもんね。