多くの人がより良い人生を求められる、

そんな世の中は、良い世の中だと思います。

 

自分で選択して行動し、いろいろと試し、

そのプロセスから自分を知ることもできる

その経験がまた新しい自分を作ってくれる。

 

二度と立ち直れないと思い込んで、

長くくすぶった日々を送っていても、

このままでは何も変わらないと、

 

自分にダメ出しばかりする日々をあらため、

自己を啓発し、

あるいは自らを鍛え直そうとする。

 

そういう方を見ていると

素直に凄いな、と思います。

 

ただ、21世紀に入ってから、

ずっと気にかかっていたこと、

目についてしまうことがあって、

 

ある時、

なけなしの気力を総動員して、

 

ようやく自分を取り戻し始めた、

あるいは取り戻そうと何とか動き出した人が、

次の言葉に遭遇してしまって、

 

かけがえのない自分を生きるための道のりが

かえって険しいものになってしまう、

と感じることがあります。

 

それは、

ワクワク・ドキドキして生きる、

というフレーズ。

 

自分の願いを実現して生きる人

いつも何かにワクワクし、

そしてワクワクを追いかけて、

楽しく生きています。

 

人もお金も集まり、

豊かな人生を送っています』

 

本やWeb、宣伝なんかで見かけた表現を

ガラガラポンして文章にすると、

こんな感じになるでしょうか。

 

嘘ではないと思います。

 

これを実践して実際に幸せになった人も

いらっしゃるからこそ、

一定程度受け入れられている言葉なのでしょう。

 

私はと言えば、

この表現がどうにも受け入れられなくて、

今も受け入れがたいというのが本音です。

 

自分でも試してみたし、

周囲の試してみた人の話も聞いてみての

実感としてそう思うんですね。

 

何でだろう、と考えてみたのですが、

理由はそれほど難しくないんです。

 

 

大好きなユーミンの曲『守ってあげたい』に、

次に様な歌詞があります。

 

「遠い夏、息を殺し、トンボを取った。

もう一度あんな気持ちで夢をつかまえてね」

 

「日暮れまで、土手に座りレンゲを編んだ。

もう一度あんな気持ちで夢を形にして」

 

優しいメロディにのって、

愛する人に向けた想いが伝わってくる歌で、

今聞いても名曲だなと思います。

 

先に述べた

『自分の願いを実現して生きている人は…』

というフレーズに集まる人は、

今の人生を変えたい、と切に願っています。

 

今の人生を変える、とは、

しっかり本音を認めることができれば、

 

収入の多寡とか社会的な地位だけでなく、

自分の内側から湧き出る力を感じ取り、

それに沿って生きられるようにする、

 

ということではないでしょうか。

 

言い換えれば、

もっと自分らしいと感じられる生き方の

方向性を求めることとなるかもしれません。

 

このとき、ワクワク、という表現は

とてもわかりやすいと思います。

 

少なくとも子供時代には、

多くの人が一度は抱いた感覚だから、

共感もしやすい。

 

あのワクワク感を思い出して、

今のあなたが羽ばたけるようにするのです、

といったような。

 

ワクワクして生きるようにしましょう、

ワクワクを見つけましょう、

 

人が集まってきてみんなと楽しく

生きる世界を目指しましょう、

 

などと言われると、

確かにそうかもなあ、と、

半ばその場の臨場感にもほだされて、

 

自分にとってのワクワクを探す旅に

出かけるようになったりします。

 

その一方で、

 

「具体的にどんな状況でどんなことに

どのようにワクワクするのか、

きちんとイメージできなければなりません」

 

などと書かれている問いに答えようと

そんな世界をイメージするうちに、

 

いつの間にか自己との対話のはずが、

求めるものとは別の方向にずれていき、

 

こういうものがワクワクであるはずだ、

などと、

半ば自らを思い込ませるような結末を

作り上げかねないことがあります。

 

イメージのしやすさと

自分の一端とのつながりの感じやすさから

そこに自分を合わせこんでしまうのですね。

 

本来、自分の内側から湧き出てくる世界を、

あらかじめ、

目指すものと特定されてしまうことで、

 

自分とは何か、という問いの結論が

とても狭小な世界に抑え込まれてしまう、

ということが起こってしまっているわけです。

 

繰り返しますが、

 

ワクワク・ドキドキした人生を望んで

探すことはおかしいとは思わないし、

悪いことではないと思います。

 

それがうまくいった場合の生き方は

素晴らしいと思うからです。

 

ただ、そのやり方で、

どれだけの人がうまくいくのか、

という疑問が、

 

耳にする意見と

自分の経験とから感じるのも事実です。

 

ワクワク、とは、

 

その人が自分の果てしない内面世界を

見つめた末にたどり着く場合がある

ほんの一例に過ぎないと考えています。

 

あるいは、

仮にこの世界にたどり着くとしても、

その手前に、

 

肯定すべき多くの自分と出会うことが

大前提ではないのかなと感じるのです。

 

私もあなたも

幸せに生きることを願っていて、

そのための方策として、

 

幸せを具体的に描こう、

 

とも言われているわけですが、

 

「だからワクワクできるイメージを

しっかり持とう」というところへ

一気にいく流れがあるとすれば、

 

その間には絶大なるギャップを

感じてしまうんですね。

 

なぜかと言うと、

 

ワクワクという胸のときめきは、

自分が自分と世界に受け入れられている

ということが当然である状況下で

 

自然に湧きあがってくる

ドーパミンを大量放出して得られる

興奮の感覚です。

 

自分が見失ったもの、

失くしたと思い込んだもの、

無視しているもの、

 

そういった本来自分の大切な一部を

一体化することなく、

目をそらしたまま、

 

いえ、

目をそらせてワクワクを追いかけている、

そんな図式があちこちで見られるのです。

 

ワクワクは本来、

自分の内側が充実して湧き上がる

自分の標となる感覚なのです。

 

いずれにしても、

実際にワクワクを求めてうまくいかず、

 

どうにも感覚的になじめない、

感情が空回りしてしまう、

自分の中に妥当なものを見出すのが難しい、

 

などで、

結局、苦しいばかりの日常に

戻ってしまう方の話を聞いたりもします。

 

幸せの形はいろいろとあります。

ワクワクと併存した他の感情に重きを置いて、

感じている方もいます。

 

・こうやっているとなんか落ち着く
・この関係はじんわりとあたたかくて、

ずっとこのままならいいな
 

・自分のこの能力がこれだけの人を

助けられるのなら、

この仕事に携わっていこう

 

・こんな落ち着いた素敵な風景の中に

いられるなら、ここに住みたいな

 

・あたたかい人たちに包まれて

生きられるなんて幸せだな
 

・こんなに自分が好きなことを仕事にして

お金もらえるなんてラッキーだな

 

求めるものは自分の内側に見出したもので、

継続してそうであってほしいもので、

千差万別です。

 

幸せとして見出したものが、

 

何気ない没頭やちょっとした邂逅だったり、

蘇った懐かしい心の原風景をもとに

やってみたいことを見つけた人にとっては、

 

ワクワクとか高揚感とは別の

平安と落ち着きをもたらしてくれるでしょう。

 

世に幸せという人は、

サイレントマジョリティ(物言わぬ一般大衆)が

多数を占めているはず。

 

伝わってこない幸せな生き方を

洞察することこそが

今の私たちに求められることなのかもしれません。

 

もっと言うなら、

 

ワクワクとかドキドキは、

一時は高揚するかもしれませんが、

それはあなたにとっての幸せを洞察した後、

 

結果としてついてくるものではないかと

私は考えています。

追い求めるものではない、と。

 

私たちは自分と大切な人々が

幸せに生きることを願っています。

 

求める世界は自分の内側から

滲み出てきたものでありたいと思います。

 

だからこそ、

結果に感情を合わせこむことは本末転倒で、

 

それがわかっている人には

なじめない目標でもあるのかもしれません。

 

そういった人はワクワクが見つからなくとも

実はとても正常な心の持ち主である

ことを理解してください。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

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