幻想、ファンタジー。

 

今見聞きしているはずの世界を、

幻想と呼ぶことに抵抗のある人が

どれだけいるでしょうか。

 

しかし、現実を見る限り、

こう解釈する方が筋が通る気がします。

 

幻想という言葉に抵抗があるなら、

物語と言ってもいいかもしれません。

 

これは決して比喩ではありません。

 

東日本大震災という未曽有の天災は、

関東をも大きく揺らして、

各地で液状化現象をもたらしました。

 

地面は自分の日常に影響を及ぼすほどには

揺れることは、“まず、ないだろう”、

 

そんな漠としたものを

ある種の諦念と併せ持っているのか、

 

それとも単に、そこまで考えたら何もできない、

そう感じているのか、

 

私たちは今も、

いつ揺れ出すかわからない地面の上に

大枚を払って家を建てて暮らしています。

 

そうやって生きる方が精神衛生上都合がいいし、

幻想と、幻想が破られることを想定した

諦念を併せ持ないと、生きづらいともいえます。

 

天災はコントロールできないのだから

それをして幻想の話とするのはおかしい、

と考えられるかもしれません。

 

では、ここ数世紀の間に確立した、

近代国家、学校、資本主義社会などは、

どうでしょう。

 

例えば、資本主義。

なぜこんなものを作ったのかと言えば、

 

「資本主義は最悪のシステムだ、

しかしこれ以上のシステムは存在しない」

というチャーチルの言葉ではありませんが、

 

うまく機能しているかは別として、

 

自分と大切な人々とが、

「健康」で「長く」「幸せ」で「豊か」に

生きるため(のはず)です。

 

この中で私たちは悲喜こもごもの日々を送り、

ある人は幸せに見え、

ある人は不幸のどん底を憂えています。

 

幸せな人が成功している人かと言えば

決してそうとは限らず、

 

反対に、

不幸のどん底だという人が、

社会的にはそれなりにうまくいっている、

 

ということもあります。

 

これをして幻想と呼ぶことに違和感は、

少なくとも私にはありません。

 

幻想は、私たちが生きていくうえで、

欠かせない大切なものです。

 

とことんまで肯定する概念だと思います。

 

資本主義の話を出してしまったため、

「いやいや、それは幻想じゃなくて機能だよ」

という方がいれば、

 

それは物事をあまりに一側面のみから

語っているに過ぎないのではないでしょうか。

 

機能は保証を求めますが、

幻想は想いを叶える希望です。

 

機能は人が幸せになるお膳立てですが、

それを有効に活用するうえで

ある種の世界観に基づいた思い込みは欠かせません。

 

“家族”もまた、

幻想に合わせて形を変えてきました。

 

家族が幻想というのは

ピンとこないかもしれません。

 

ですが、

私たちは家族という形態をとらなくても

生物学的には生きていくことができます。

 

家族という仕組みは、私たちが求める生、

つまり「健康」で「幸せ」で「豊か」に生きること、

を得る上で欠かせない、

 

と感じていることに他ならないからこそ

存在しているのだと思います。

 

感じている、思っているわけで、

論理的な根拠だけなら、

他の仕組みだってありえるでしょう。

 

でも、これらは必要だし、あってほしい、

と感じているわけです。

 

だから、私たちが求める生に必要として

用意したこれらの仕組みが、

自分の存在を消すことを求めるとするならば、

 

これは明らかにおかしいことですよね。

 

思い描く構成がおかしいのか、

解釈がおかしいのかはともかく、

 

自分の幸せに寄与するために描いた幻想が

描いた人自身を消してしまうなら、

どこかに異常があることは間違いありません。

 

自分を無価値として、

そこにいてはいけない存在として扱うなら、

それは幻想が破綻しているのかもしれません。

 

だって、自分が幸せを望んだ世界で、

自分の存在を貶め、

場合によっては消してしまおうなんて、

 

明らかに矛盾しているじゃないですか。

 

この矛盾のからくりは、2つあります。

 

1つは、

物語の登場人物、なかんずく主人公の

解釈を履き違えていること。

 

もう1つは、

幸せのために描いた幻想を存続させること

自体が自己目的化してしまったこと。

 

その根っこに、

自らのかけがえのなさを見失い、

なかったことにしていることもあるでしょう。

 

良いことが起こるか、

悪いことが起こるかは

自分で決められるとは限りません。

 

しかし、自分が何をどう思い、どう受け止め、

どう行動するか、で、世界の反応は変わります。

 

全く同じ景色を見、同じ人と話し、

同じものを食べ、同じ情報を仕入れても、

人によって解釈もその後の行動も異なる、

 

そして、

これらは自分が自分をどう受け止めるかで、

無意識に決まっていきます。

 

これは、私たちが普段から思い描く世界の中に

生きていることに他ならないでは

ないでしょうか。

 

私たちはあくまで、

リアルな世界に生きている、と

主張される人もいるでしょう。

 

しかし、ではその、リアルとは何でしょうか。

 

唯一の景色や特定の人の発言、

均一化された料理の味に、

耳にする同じはずのメロディ、

 

そういったものが人によって

受け止め方が異なるとすれば、

 

それは一人一人が有している

感覚、世界観の違いによるものです。

 

幻想というと何だか、

 

気を失った夢の中で何がどうなっているか

わからない世界をさまようような、

漠としたイメージがあるかもしれません。

 

でも、最初に述べたように、

 

自分が主人公の物語的にとらえ、

そういった人の集まりのよって

その人の世界が構成されているとすれば、

 

幻想と呼ぶことがふさわしいのではないでしょうか。

 

カールロジャースの至言、

「現実とは幻想のことである。

人の心の中にあるものこそが現実である」は、

 

各個人にとっての“リアル”を

見事に表現していると思います。

 

世界とはこういうものだ、と“思い込んで”、

それに合わせて生き続けると、

必然世界もそのようの答えるようになります。

 

自分の思い描くことが幻想となって

表れた世界を我々は現実と呼んでいるのですね。

 

自分が思い描く幻想が

自分を取り巻く世界を作るのであれば、

 

まず自分を肯定する世界であることが、

自分の幸せの大前提になります。

 

それが、大切な人々の幸せにもつながる。

 

イタリアの名作映画

「ニューシネマパラダイス(Nuevo Cinema Paradisso)」で、

アルフレッドがトトに伝えた言葉を

 

“どうやって”実践したらいいのだ、と

半ば憤りながら見ていた時期がありました。

 

「いいか、お前のやることを愛せ。

子供の頃、映画を愛したように、

お前がやることを愛するんだ」

 

今自分を苦しめているかもしれない、

かつて自分を愛した感情を、世界を、臨場感を、

取り戻すことを、

 

あきらめることなく、試みてください。

 

あなたは、私は、そして私たちの大切な人々は

誰もが、かけがえのない存在です。

 

今回も読んでくれてありがとうございます。
また次回。

 

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