内藤克彦 本当に強かった日本 「城郭が堅固、攻略は不可能」スペイン貴族の国王へ報告 徳川家康の断固たる姿勢に…日本人がフィリピンに来ることを警戒

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2024.5.26

 

ロドリゴ・デ・ビベロは、王妃小姓などをしていたスペイン貴族で、スペイン領メキシコに渡り、軍司令官・地方長官などに就いていた。フィリピン総督交代時に後任赴任が間に合わず、急遽(きゅうきょ)、代理総督として1608年3月にマニラに派遣された。

 

09年4月、正規総督のマニラ着任と入れ替わり、メキシコ帰還する途中で台風に遭い、同年9月に日本に漂着した。10年8月、徳川家康が建造した日本製のガレオン船(帆船の一種)の提供を受け、メキシコに帰還する。

 

ビベロは死亡時に伯爵で、日本の地を踏んだスペイン人としては高い身分であった。1596年のサンフェリペ号事件のこともよく承知していた。

土佐に漂着したスペイン船「サンフェリペ号」の取り調べのため、豊臣秀吉から派遣された増田長盛は航海長を事情聴取した結果、「スペインは宣教師を送り込み、侵略の手先として広大な版図を手にした」という事実認識を秀吉に報告した。秀吉は、スペインに「侵略の下心あり」として、マニラ総督の派遣したフランシスコ会宣教師や、信徒26人を処刑した。

 

1608年、有馬晴信が、徳川家康の占城(せんじょう=現在のベトナム中部にあった海上貿易の要地)宛の国書を携えた使者を同乗させ派遣した朱印船がマカオ寄港中、取引をめぐって騒乱事件を起こした。これをマカオの長官が鎮圧し日本側に死傷者が出た。

 

この長官が総司令官として翌年、長崎に来航した折、家康は総司令官を召喚し弁明を命じた。総司令官は身の危険を感じ、出頭を拒否、出航を試みるが、家康の命により有馬は乗船を攻撃し、総司令官は火薬庫に火を放ち自沈した。

 

これは、ビベロ来日中の事件である。ビベロは10年5月、スペイン国王に次のような書簡を送っている。

「日本の諸都市は皆人口が多い。気候はスペインによく似て、小麦、大麦を豊かに生産する」「多くの金銀も産出する」「広大にして人口多く、清潔にして秩序正しく、欧州において比較できる国はない。家屋市街および城郭は美しい」

 

「住民がメキシコ人のように野蛮なら恐れるに足りないが、彼らは長銃を持ち、最も熟練した兵士のように巧妙にこれを用いる」「スペイン人と同様に勇敢であるのみならず、議論および理解の能力においても劣らない」「住民は多数で城郭が堅固であるため、攻略は不可能である」

 

「サンフェリペ号や最近のマカオ船事件は開戦の正当な理由となるが、武力侵入が真に困難であるとすれば、副音宣伝の道により彼らが喜んで陛下に仕えるようにする他に道はない」

 

「少数の日本人により、マニラ市が陥落の危機にひんしたことが3度ある」「(日本)皇帝の怒りなどでマニラ攻撃をしようとすれば、マニラへの航海は好天なら15日に過ぎず、5万人、10万人を派兵することが可能。脆弱(ぜいじゃく)な500人のスペイン人では抵抗は不可能」

スペイン貴族であるビベロは、家康の断固たる姿勢に対し、むしろ日本人がフィリピンに多数来ることを警戒していたようだ。

 

■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長、京都大学大学院経済学研究科特任教授などを経て、現在は東北大学特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。

 

大好調の意見

 ビベロは「武力侵入が真に困難であるとすれば、副(福?)音宣伝の道により彼らが喜んで陛下に仕えるようにする他に道はない」と国王に報告したとのことである。スペイン等の侵略を阻止できたのは誠に当時の治世者の家康のおかげである。暢気に世界平和などばかり唱えていると国家が消滅し、乗っ取とられる恐れがある。

 

得に、「福音=キリスト教を宣伝することで日本人が喜んでスペイン皇帝に使えるようにするほかない」との侵略者たちの考えにはよくよく注意が必要である。中南米はその結果てであると認識できれば恐ろしいことであった。家康に感謝したい。