至福の時、リヒテルのシューベルト

 

 

フィリップスとデッカの音源をまとめたリヒテル・ザ・マスター・シリーズの第5巻になり、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番ト長調『幻想』D.894、第9番ロ長調D.575及び第15番ハ長調『レリーク』D.840の3曲を2枚のCDに収めている。

リヒテルのシューベルトはピアニストと作曲家が対話を交わしているような親密な雰囲気に満ちている。

いずれもこのピアノの哲人ならではの思索的な演奏で、ゆっくりとしたテンポによって引き出されたさまざまなニュアンスが、ひとつの巨大な有機体を築きあげるさまはまさに感動的という他はない。

中でも『幻想』と『レリーク』はどちらも40分を超える大曲で、それぞれが長大な第1楽章を持っているが、リヒテルはこれらの作品への深い共感から、慈しむようなタッチで聴く人の心を完全にシューベルトの世界に引き込んでしまう。

その天上的な長さが私達には至福の時間となって持続し、通過して行く。

それはベートーヴェンを聴く時とは全く異なった静謐なひと時であり、シューベルトがベートーヴェンを神のように尊敬しながら、それとは別種の音楽を生み出していたことが興味深い。

またその魅力を直感的に悟って演奏を続けたリヒテルの才能と努力には敬服せざるを得ない。

『レリーク』は未完の作品で第3楽章とそれに続く終楽章が途中で中断されているが、リヒテルは楽譜が途切れたところでそのまま演奏を終了している。

総てがライヴから採られた良質なデジタル録音で、ライヴ特有の聴衆の雑音や拍手も入っているが煩わしくない程度のものだ。

CD裏面に1979年の録音と書かれてあるだけで録音場所等の詳細な記載が一切ない。

ライナー・ノーツは18ページで英、仏、独語によるリヒテルの簡単なキャリアとエピソードが掲載されている。

尚このセットには彼の演奏で多くの聴衆に感動を与えた第21番変ロ長調D.960が入っていないが、アルト・レーベルからリリースされている1972年にザルツブルクのアニフ城で行われたセッションが音質の良い廉価盤で手に入る。

 

 コメント

    • 1. 小島晶二 
    • 2023年07月23日 21:49
    • 5 リヒテルにとってシューベルトは特に重要なレパートリーだったと感じます。彼にしては数多くの録音が残されており,それらがほぼ全て独自の高いレベルに達していると思うからです。今となっては録音が硬質でやや不満な面も有りますが,ピアノソナタ13番,21番ライヴ,<さすらい人幻想曲>等は現今でも傑出した演奏だと評価出来ます。その中でもシューベルトの最高傑作と指摘する方が居るソナタ18番<幻想>も絶対外せない秀演で,リヒテルならではの深遠な世界を紡ぎ出します。私にとっては同様のスタイルで曲の真価を示すアラウ盤と抒情性に富んだルプーの演奏と共にベストスリーと考えています。
    • 2. classicalmusic 和田大貴 
    • 2023年07月24日 14:45
    • モーツァルトの権威でもあったイングリット・ヘブラーは、早くからシューベルトのピアノ・ソナタの録音も積極的に行っていました。2種類のモーツァルト・ピアノ・ソナタ全集と並ぶ価値の高いアルバムです。その特徴はそれぞれの曲の古典的な様式感をしっかりと押さえながら端正な弾き込みですっきりまとめているところにあります。シューベルト晩年のソナタでは、リヒテルの喜怒哀楽を遥かに超越した言い知れぬ諦観を感じさせる哲学的な深みが忘れられませんが、ヘブラーのそれは異なったポリシーによる、むしろロマン派的解釈の深入りを避けた、サロン風の洗練された手法が対照的な演奏です。しかしそこには仄かな哀愁が漂っていて、歌曲作曲家としての詩情の表出やダイナミクスの変化も豊かで、しばしば指摘される作品の冗長さも感じさせません。