再開 | 佐藤 大樹 Daiju SATO  

佐藤 大樹 Daiju SATO  

書き綴ろうかと思います。
J’écrire pour les jours.

また再開です。

前回からもう8カ月。
東日本大震災直後の記事。それから多くの事が起きた様で、多くの事を考えていた様でもありました。

震災直後に感じた自分の無力さは、今なお継続して私を支配しているように感じます。
しかし停滞している場合ではないのも事実で、前進をしなければ無力であり続けるならば前進を。
そんな気持ちで再開を。

再開にあたって前回まで多少なりとも震災に関しての記事を書いたので、震災のことについて。
震災直後から自分の生まれ育った土地をどうなってしまったか見に行きたいと思い続けていたが、状況や行動に移す勇気もなく丸半年を過ごし、やっと2011/09/11に10歳まで過ごした土地を訪れる事が出来た。

あの半年間は自分にとって何であったか。


私の住んでいた土地は内陸で、訪れた時は幸運にもご近所の方と十何年ぶりの再会をする事が出来た。半年も経っていたからもあるかも知れないが、外観から感じる被害は全く感じなかった。しかし、そこはインフラの被害が酷かったとご近所さんは話してくれた。また内陸に家を構えていても海側に職場を持つ人も少なくなく、被害にあった方もいれば同僚を亡くした方もいた。
半年が経ち多くの町が通常の形をとっているかのように見えたが、海辺に近付けば根こそぎ持って行かれた松の大木が数百メートルも離れた畑に横たわっていた。

佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-04




もともとこう言う風だったのかしらと思える風景も、実際は半年の間に解体されその跡地に青々しい雑草がお生い茂っていたものだったと後日知り、その変りようの想像を超えていた事にまた自らの無力さを知る。




佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-01




たどり着いた海岸は宮城県岩沼市の二の倉海岸あたり。
防風林としての松林だったのだろうか、根元から折れる松の木が海の塊が通過する威力を物語っていた。




佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-05




佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-06



海岸には瓦礫や倒木の集積所がいくつかあった。
瓦礫の山はすなわち生活の痕。 ただひと塊りになると、もうそれはよく想像しなければ何にも見えないとも思えた。




佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-07




佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-07




私はここへ来ると決めてから、とても強い願望があった。
それは、海と対峙すること。
眼前に海を置く。 普段であれば散歩のついでに出来る行為。
しかしこの時は足がすくんだ。


佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-00



もう既によく見る海の姿で何も起きてもいない状況。少し違うのは堤防が破壊されていて、大きな土嚢が積まれていたくらいだった状態。 ただ記憶は津波を引き起こした海という認識。 手巻きの二眼レフで夕暮れも間近であった事もあり大急ぎでブローニフィルム2本。 恥ずかしながらフィルムを巻き上げる手が少し震えていた。

私の小さい頃、夜中に起きてしまってトイレにむかう廊下で、背後に何かいるかもしれないと思ったら大急ぎで用を足し、布団に逃げ帰っていた様に、根拠も無い得体の知れない恐怖と対峙していた。




佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-10




佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-09




上の写真は宮城県岩沼市早股にある神明社。
この神社の周りにはこの時ほとんど何も無く、ただこういう土地であると言われたら納得してしまいそうなくらいだった。 恐らく、この神社が形もそのままに平然と建っていたからかもしれない。 
今でもインターネット上のマップや紹介する記事では2008~2009年あたり当時の周辺状況などを確認する事ができる。

訪れた時期は残暑もまだまだの9月。
花は誰が見なくとも咲くものなのだなと当たり前の事にさえ感慨深くなり、感傷的にもなっていた。


佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-08





震災時、内陸や津波の被害にあわれた人さえも、情報系統のインフラの壊滅的被害によりその災害の規模の把握は難しかったらしく、むしろ関東や東北よりまだ被害を被らなかった人々の方が毎日流れる情報に敏感に反応していた様である。

実際に大きな被害を受けた人と全く被害を受けなかった人、徐々に被害を知る人と最初から把握している人。復興や震災対策に影響力のある人と影響力のない人、力のある人と無力な人、関わりたい人と関わりたくない人。そしてそれぞれの中間に位置する人。 この全員に義務と権利があってそこでまた遂行する人と遂行しない人と中間な人が混在する中で何を考えるべきか。

「がんばろう日本」は本当に何を何の為にがんばるのか。
このスローガンは震災後に至る所で見る事が出来る。

下の写真、感傷に浸る私の前に広がる風景。
右に何だかマスコットらしいのが見える。
明らかにこっちを向いている。皆が道から瓦礫の山を眺める方向に対峙して。


佐藤大樹 Daiju SATO  -2011.09.11-11


もしかして瓦礫の山からから転げ落ちて偶然この方向に起立しちゃったのかな、そうだそうだ、この日は日曜だし作業員の人がいない間に落ちたに違いない、丸いからね、彼。

感傷に浸りたい私は“そぐわない”光景を一瞬否定した。
おかしなもので震災の被害を目の当たりにし、やっぱり大変だったんだと、かわいそうだとか悲しさと か絶望感を期待通りに集めていた。 このことは大変失礼であった。確かに被害に遭われた方々を思うと胸が痛む。しかし、だからと言って前知識を得てからの私の主観 の型にハメてはいけないのだ。 瓦礫の山のそばにたたずむよく分からないマスコット。見る人を勇気づけたいのか、一種のユーモアか、たまたま置かれたのか 当事者に聞かなければ目的が不明なものを通して、ただ人が存在するのを感じた。

ただ目の前にある事実を感情のままに装飾すれば、事実は異なるものになってしまう可能性もある。
最近の日々は進行形である問題も世間次第となる。話題に上らなければ片隅に追いやられ、世論に合わなければ排除され、しまいには世論さえも疑わしくなる。メディアの責任とする意見もあると思うが、そもそも常日頃あったはずの日本人として責任が今くっきりとした輪郭をつけてきたのかもしれない。

この頃、大いなる判断力 これが欲しくてたまらない。