この記事は、穂吉のブログの「2012-10-16 16:36:38」にUPした『日本の神話155. ~第四部 大和~ =第十二章 景行(けいこう)天皇=』という記事を再編成してUPしています。
最初のお話し 『日本の神話01』 前回のお話し 『日本の神話154』
この回も、大君、大帯日子淤斯呂和気命様の御世のお話しです。
故郷、倭の地に辿り着くことが叶わぬまま、倭建命様は、能褒野の地でお隠れになってしまわれました。
供の者は、この事を知らせに都に遣いを出しました。
都で留守を預かられていた皇子様の后や御子様方は、このあまりに突然の訃報に驚かれ、取る物も取りあえず急ぎ、能褒野へと向われたのです。
道中、きっと何かの間違いだと口々に話をしながら、かの地へとご到着されたのです。しかしそこで后と御子様方は、変わり果てた皇子様の御姿を見付けられたのでした。
御陵(ごりょう)(墓)を作り、倭建命様を手厚く葬りました。
しかし后も子供たちも、余りの突然のこの悲しき出来事をどうしても受け入れることが出来ずにおりました。
御陵周りには水田がありました。その中で泣き崩れながら、
『なづきの田の 稲幹(いながら)に
稲幹に 這ひ廻ほろふ 野老蔓(ところづら)』
『皇子様を祀る 御陵近くの田に育っている稲。その稲に蔓(つる)が纏わりつく様に、私の心を悲しみの蔓が巻きつく。苦しくて這いまわるほどだよ。』
そう泣きながら歌を詠まれる方もいらっしゃったのでした。
と、その時です。
御陵の中より、一羽の大きく美しき白鳥が現われました。
翼を大きく広げたかと思うと、空高く、海の方へと舞い上がったのでございます。それを見た誰もが、
『倭建命様が白鳥になられ、天にお帰りになられる。』
そうお思いになられたのです。
すると后も御子様たちも、誰からということも無く、自然とこの白鳥の後を追われ始めたのです。
草刈り後、まだ間もない笹の野の切り口の鋭い茎で足を切り、血を流されても、なお泣きながら、その美しき白鳥の行方を追われたのです。
『浅篠原(あさしのはら)
腰なづむ 空は行かず 足よ行くな』
『浅い丈の篠の野原でさえ、足腰の動きを取られてしまう。空を飛べず、走ることしか出来ないもどかしさ。けれども、どこまでも駆けて付いて参ります』
そう、どなたかがお歌いになられました。
また浜から海の中に入り、苦労しながらも、白鳥である皇子様を追って行かれる時に、
『海処(うみが)行けば 腰なづむ
大河原(おおがわら)の植草
海処はいさよふ』
『海の中を行けば、足腰が思う様に動かない。まるで大きな川に生える水草の様に、なかなか前に進めず、漂っているだけのように感じるよ。』
と、苦しい状況をお詠みになられる方もおりました。
また白鳥がそこより飛び立ち、今度は磯の岩場に降り立ったのです。
後を追われてきた后も御子様方も息を切らし、やっとの思いでそこに到着されたのです。するとまた、どなたかが、
『浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ』
『浜の千鳥よ、追いやすい浜へは行かず、ごつごつとした岩場へと降り立つのか』
そう詠われた時でございます。
この時、白鳥はここまで来た全ての人たちと、まるで別れを惜しむかのように、ゆっくりと皆の顔を順々に見渡したのでした。
そして一通り見渡されたその後、白鳥は美しい翼を大きく広げたかと思うと、再び西の海へと飛び去っっていったのです。
一同は、もうこの岩場より追いかけることはしませんでした。
この岩場から、その姿を見送られれたのです。
最後に白鳥は、河内国(かわちのくに)の志幾(しぎ)に降り立ちました。それをこの岩場より見届けた后や御子様たちは、倭建命様の御魂を弔い祀るために、この岩場近くの地に、新たな御陵を作られました。
この様な事よりこの御陵は後に、白鳥御陵(しらとりのみささぎ)と呼ばれるようになったのです。
白鳥になられた倭建命様は、大空に舞いあがり、遠い彼方へと飛び去って行かれたのでした。
- 追 記 -
「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」は、「しらとりのみはか」、「しらとりごりょう」、もしくは「白鳥古墳」とも呼ばれ、現在の愛知県名古屋市熱田区にその古墳はあります。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
おしまい。

