この記事は、穂吉のブログの「2012-08-09 16:44:16」にUPした『日本の神話87. ~第四部 大和~ =第一章 神武天皇=』という記事を再編成してUPしています。
最初のお話し 『日本の神話01』 前回のお話し 『日本の神話86』
この辺りに住まう国津神の橋根津日子のお蔭で、五瀬命(いつせのみこと)様と神倭伊波礼毘子命(かむやまといわれびこのみこと)様、お二人の日継の御子(ひつぎのみこ)たちは、無事に速吸門を通り抜けることが出来ました。
ここまでは日継の御子たちに抵抗する者もなく、順調に東へと向かっているように思えたのです。
ところが波速渡(なみはやのわたり)(大阪湾)を過ぎた、白肩津(しらかたのつ)(港)に船を着けた時のことです。この時、初めての試練がお二人に訪れたのです。
長い脛(すね)を持っているという意味の名を持つ、登美能那賀須泥毘子(とみのながすねひこ)が大軍を集めて、高千穂からの日継の御子たちを待ち構えていたのでした。
神倭伊波礼毘子命様の軍は、船に積んで来た沢山の盾を取り出すと、それらを手に手に上陸していきました。
これが後に、白肩津のあたりが『盾津(たてつ)』とも呼ばれる由来にございます。
激しい戦いが続く中、五瀬命様は、登美能那賀須泥毘子の放った矢に射抜かれて、致命的な大怪我を負ってしまったのでした。
『私は、日の御子(太陽神である天照大神様の子孫という意)でありながら、太陽の昇る方角に向かって刀を振り下ろしてしまった。その為に、賤しき者の放つ矢にうたれ、深手を負うことになってしまった。これから直ぐにこの場より離れ、我らの背に常に日を受け、天の神々のご加護の元に敵と戦おうぞ。』
それは五瀬命様の強き決意の御言葉でした。
それから日継の御子たちは、船で南に回り込み、追撃をかわしながら海沿いを進んでいったのでした。
- 追 記 -
『白肩津(しらかたのつ)』は、大阪府枚岡市日下あたりのことのようです。
現在では、『盾津(たてつ)』という地名が残っていますが、古事記にはその場所は『蓼津(たでつ)』という漢字で表示されています。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
おしまい。

